ユートピアはもうすぐそこ ずいぶん寂しいところまで来た。停滞しながらゆるやかに朽ちていくけれど人の熱が溶けている、僕が過ごしたことのない景色が目の前に広がっていた。
こういう建物より木々が多くて人の呼吸が遠くにあるようなぽつりとした場所が電車を使えば一日もかからずにつけるっていうのは知ってはいたが実感がなくて、隣に望海さんがいることも相まってちょっとした旅行みたいだと思ってしまった。僕はお父さんやお母さんと一緒に旅行をしたことがなかったから、嬉しくて、切なかった。望海さんと一緒にいれて嬉しい。望海さんが本当のお父さんだったらいいのに。いや、違う。僕は望海さんと本当の家族になるためにここまできたんだ。
僕の持ってるお金は全部おろして持ってきたけれど、少しでも節約したかったから一番安い切符を買って電車に乗った。改札は移気揚々で越えてしまおうかと思っていたけれど、駅には誰もいなくて改札すら存在しなかった。それでもやましいことがある僕らは一煌極致で姿を消して何も遮るもののない改札口を通る。望海さんがぼんやりしてるから、そのあたたかい手を取って、なるべくゆっくりと誰もいない道を歩いた。
「どうしましょうね? たぶん宿をとっても大丈夫だと思いますけど……」
数日は都心部で息を潜めながら公安の出方やニュースを気にしていたけれど、大事にしたくないのか、僕を刺激したくないのか、あるいは混乱を避けたいのだろう。僕らの顔写真やら名前やらが出回っている様子はない。
「とりあえず食事にしましょうか。望海さん、何か食べたいものはありますか?」
望海さんはなぜか「まねる、」と小さく僕を呼んだ。はい、と返事を返しても、それきり黙ってそっと視線を下げてしまう。
「……食欲がないみたいだから1人前も食べきれないかもしれませんね。パンかなにかを買ってきて外で食べましょう。ね?」
ゆっくりとオレンジに染まる空を見ながらそう言った。見晴らしのいいところで食べたらきっとおいしいですよ。そう笑いかけたけれど、望海さんは笑ってくれなかった。
望海さんは僕がその手を取った日から笑ってくれない。それでも望海さんはいま僕のそばにいる。長く閉じていた目を開いたあの日に感じた絶望は、もうここにはない。
***
あの日、目が覚めたとき、そこに待っていたのは望海さんのいない世界だった。この世界のどこかにはいるのに会えない。僕には会う権利がない。そういう淀んだ世界が僕の目の前に広がっていた。
目が覚めてしばらくは何事もなく、僕は看護師さんやよく病室にきてくれる雷斗くんを筆頭にした公安の人々と他愛のない会話をして日々を過ごした。僕の犯した罪や望海さんの話をすると、みんな黙ってつらそうな顔をするだけで、会話が進展することはない。
もう痛いところなんて体にはなくなったころ、話があると残さんがやってきた。心はずっと痛かったけど、血が滴り落ちていないから僕以外にはわからない。話すのは少し怖かったけど、僕だってこのままでいいとは思ってない。誰もが望んだかのように僕の事情聴取が始まった。
きっと怒られる。それは仕方のないことだ。それなのに、未だに僕は優しくされていた。意味の分からない僕はテレビで見る取り調べ室よりもずっとゆったりとした空間で残さんが話し出すのを聞いていた。彼は始めに、「ごめんな、」と言った。
残さんの言葉を飲み込むのには時間がかかった。なんでも僕は被害者で、それを他でもない望海さんが自白したと。
「無許可侵入で心を暴き弱みにつけ込んで過度な不安を煽り精神的に支配した。そのため事件当時の御田真練の精神状態は非常に不安定で強い心神喪失状態にあった」
そう望海さんが証言したと残さんは言った。だから僕は被害者で、保護観察はつくものの罪に問われることはないだろうと。
僕は当然反論した。僕は僕の意志で望海さんに従ったこと。僕にちゃんと判断力はあったこと。怪我をさせたり物を壊したりした実行犯は僕であること。そして、望海さんが僕を庇っているということ。
それを聞いた残さんは悲しそうに首を振って、諭すような、柔らかい声色で口にした。
「あいつの望みなんだ。わかってやってくれ」
望海さんの望みは僕が同じ罪を背負うことではない。叩きつけられた現実にガラガラと世界が崩れていく。世界が壊れて、真っ暗になって、暗闇でたったひとり。
「嘘だ」
泣くことも出来ずに僕は言う。残さんは少しだけ辛そうに見えた。
「嘘じゃない。……嘘じゃないことに、なったんだ」
残さんはほかにもなにか言っていたけど、なんだかよくわからない。それなのに、望海さんは嘘をついている。なんで? どうして? なんのために? 僕のために?
僕のためってなんだろう。僕の望みはたったひとつなのに、なんで望海さんはあんな嘘を吐いたんだろう。その理由は?
瞬間、パチリと脳内でピースがハマった音がした。世界が再構築されていく感覚に、目の奥がちかちかとして心臓がどくどくと鳴る。僕はそのとき、確かに理解した。
「……僕は望海さんの望みを叶えたい」
「……そうか」
残さんの大きな手が僕の頭をなでる。嬉しい、けど、この人じゃない。
「……これからは望海さんの気持ちを無駄にしないように生きていきます」
望海さんの願いはちゃんと僕に届いたから、だから安心してね、望海さん。
ようやく僕は心から笑えたんだと思う。残さんは穏やかに微笑んで、これからの話をしてくれた。
***
結局勝つのは能力者で、それも能力が強いほうが勝つ。望海さんには酷な現実だけど、その証明が僕だった。
僕は望海さんのために集めた能力を正しく望海さんのために使っているだけだ。それなのに悲しそうな顔をする望海さんにパンを差し出して問いかける。
「望海さんはハムとたまご、どっちがいいですか?」
差し出したサンドイッチは盗んできたものだ。買ってきてもよかったんだけどお金を節約したかったし、まだ少しだけ顔を晒すのが怖かったから一皇極致で姿を消して盗んできた。なんだか悪いことをするたびにどこかに戻れなくなっていって、このまま望海さんとどこまででも行ける気がしてくるから不思議で、妙に癖になる。これは良くない高揚感だと気がついていたけど、望海さんが叱ってくれるまでは、きっと続けてしまうんだってわかってた。
「望海さん、お腹すいてるでしょ?」
望海さんは柔らかく首を振った。なにかを諦めたような表情とは裏腹に、彼の意志は無許可侵入を拒むほどに強い。それでも僕はちゃんとわかってる。
望海さんは事情聴取で僕が罪に問われないように証言してくれた。僕を自由にしようとしたってことだ。それって、きっと、僕に助けに来てほしかったってことなんだよね? 大丈夫だよ望海さん。言わなくたってちゃんとわかる。僕が公安に保護されて、周りの信頼を得て、自由に動けるようになって、そうして望海さんを助けだして一緒に逃げること。それが望海さんの望んだことなんだ。
「ねぇ望海さん。僕、あなたの考えどおりにうまく動いたよ」
右手にハムサンド、左手にたまごサンドを持って僕は笑う。笑えば少し楽しくなって、ちょっとはお腹が減るかもしれない。僕はもう丸一日以上食事をとっていない望海さんに食事をしてほしかった。
「望海さん、今日は水しか飲んでないじゃない。少しは食べないと、」
「真練」
「はい。なんですか?」
優しい人が優しい声で僕を呼ぶ。それだけで僕は充分なのに、望海さんは何かが足りないのか、陸に上げられた魚のように息をした。
「どうして、あんなことをしたんだ……?」
「あんなことって……どんなことですか?」
わからない。望海さんはどうしてこんなに苦しそうなんだろう。僕は望海さんの望み通りに動いたはずだ。公安の信用を得て、自由に動けるようになって、それで、
「っていうか……どれのことですか?」
なんだか、たくさんのことをした気がする。何をしたかなんて覚えてないけれど、そのほとんどを許してくれる人は望海さん以外にいないという確信だけがある。だから望海さんはいま僕の隣りにいて、僕の居場所はもう望海さんの隣しかない。
「キミは……人を傷つけた」
「……そうなんですか?」
よく覚えてないけど、望海さんが言うならそうなんだろう。真っ先に思い出したのは蒼波くんだった。彼を入院させたのは僕だから、そのことを言っているのかもしれない。ずいぶん昔のことを持ち出すものだから、僕は少し拗ねてしまう。
「殺人未遂」
ビクッ、と望海さんの肩がはねた。可哀想で、痛々しくて、抱きしめてあげたい。それなのに僕の両手は望海さんをおなかいっぱいにするための食べ物でいっぱいだった。だから言葉で包むように、精一杯の甘い声で話しかける。
「望海さん、残さんのこと殺そうとしたって、聞きましたよ?」
お友達じゃないんですか? そう聞いたら望海さんは一度だけ、逃れるように首を振った。
拳銃を向けたって聞きました。望海さんは人を殺そうとしたって。力があれば望海さんはそれを使うんだ。望海さんがそう思うのなら、それら力があれば使えばいいってこと。だから僕と望海さんはおそろいだ。違いなんて、神様の匙加減ひとつ。
「失敗したか、成功したかの違いじゃないんですか?」
そういうのを結果論って言うんだっけ。違った気もするけどまあいいや。そんなことより、なんとか望海さんにご飯を食べてもらわないと。
「望海さん、もしかしておにぎりのほうがいいですか?」
寂れた小売店にはおにぎりも並んでいたのを思い出す。柔らかいと思ってサンドイッチを選んだけれど、望海さんはお米の気分なのかも。
うめ、おかか、ツナマヨ、こんぶ。どれがいいですかって聞く前に望海さんは僕の手首を掴んだ。思ったより強い力だったから、たまごサンドが地面にべしゃりと落ちる。世界中で僕らしか気がついていない損失に、びっしりと蟻が群がる様を想像した。
「望海さん、」
「どうして……!」
「望海さん?」
どうしてって、なんのことだろう。パンがだめならお米がいいかなって思っただけなのに。お店には入りたくないみたいだし、ラーメンが食べたいのかな?
「ラーメンでもいいですよ。水も火も、いくらだって出せるんです」
逃亡生活で一番便利な能力は一煌極致と移気揚々だったけれど、蒼波くんの強化水激と紅炎くんの豪炎熱傑は別の意味で役に立った。水があれば渇くことはないし、火があれば凍えない。合わせ技でラーメンだって作れちゃう。
「違う……」
「ラーメンも嫌ですか? でも、ほかになにかあったかなぁ……」
サンドイッチとおにぎりとカップ麺はあった気がするけど他に何があったかは自信がない。もう一度見てきます。そう言えば僕の手を握る力が少し弱くなった。
「どうして、あんなことを」
まただ。望海さんの曖昧な言葉は心当たりが多すぎて僕にはよくわからない。全部望海さんのためにやったことだから、答えはひとつなんだけど。
「望海さんにね、幸せになってほしいから。僕の理由はそれだけです。……ねぇ、望海さんはなんで、そんなに悲しそうなんですか?」
あなたはどれのことを言っているんだろう。あなたを悲しませているものはなんだろう。お金を払わないでパンを手に入れたことかな。あんまり無理をしないでって言われたのに能力をたくさん使ったことかな。それとも、僕が毎月の手紙を送るのを一年前からやめたことかな。でも毎月の手紙は許してほしい。あんまり僕が望海さんへの未練を見せていたら、ここまで計画はうまくいかなかったと思うから。
「望海さん、僕は、」
「……なんで公安を裏切ったんだ」
「え?」
「あそこは君の居場所になるはずだったのに……なぁ、あんなに幸せそうにしてたじゃないか!」
もう一度、僕の手首を締め上げる力が強くなる。望海さんは何を当たり前のことを言っているんだろう。
「はい、とっても楽しかったです。みんなすっごくいい人で……特に雷斗くんは保護観察のときによく一緒にいたから、保護観察が解けてもよく一緒にいました」
そうだ、公安に協力していた楽しい日々を望海さんは聞いてくれるだろうか。たくさん手紙に書いたけど、直接聞いてほしいな。公安の協力者みんなで集まってプール掃除に立候補して水をかけあって遊んだこと。公安の大人たちに見てもらってテスト勉強をしたこと。卒業式で透さんが僕よりも喜んでくれたこと。卒業して正式に公安に所属してから、みんなで夜の学園に集まって星を見たこと。話したいことはいくらでもあった。
望海さんは嘘を吐いてまで僕を自由にしてくれた。だから僕は楽しく日々を過ごしながら、あなたの望み通りにあなたを助け出す算段を整えることができたんだ。
「保護観察が終わって公安に協力することになって……大変なこともあったけど、それ以上に楽しかったんです。みんな大好きで、とっても大切な友達です」
保護されてから今日までの日々は楽しかった。望海さんのためだったから、ひとつの罪悪感もなく僕は振る舞えた。みんなと仲良くなるごとに、目的にひとつ近づける。それだけじゃない。僕は本当にみんなが大好きだった。僕の力を必要としてくれて、僕自身を見て笑ってくれる。友達ごっこなんかじゃない。僕たちは本当の友達だった。
「なら……なんで……」
望海さんは俯いてしまう。その頭を撫でてあげたかったけど、片手はハムサンドが塞いでしまってる。
邪魔だなぁ。僕は望海さんを満たすはずだったハムサンドを地面に捨てて、言う。
「だって、望海さんがそう望んだから」
「……違う」
「違わない。じゃなきゃ望海さんが嘘を吐くはずがないんです」
あの日、絶望のなかでちゃんと受け取った、望海さんからのメッセージ。
「嘘の証言をして僕が自由に動けるようにしてくれましたよね? それって助けに来てほしかったってことですよね? 僕がこうして迎えにくるのを待ってたってことですよね? ……僕、ちゃんとできました。だから、」
褒めてください。それはたくさんある僕の望みのひとつだった。
「幸せだったんじゃ……ないのか……?」
幸せだった。それだけじゃない。僕は大切な友達から、大切なことを教えてもらったんだ。
「……僕は友達のおかげで変われたんです」
稲光の輝きすら飲み込むほどの、心をつんざくような彼の声。
「雷斗くんに言われて気がついたんです。僕は望海さんに自分の価値を委ねてちゃダメだった」
「真練、それなら、」
「価値も居場所も探すんじゃなくて、作るものなんだって。僕はもう自分の価値を間違えません。僕は望海さんの居場所になりたい……ううん、なります。……だから安心してください」
ずっといっしょです。ああ、やっと言えた。
呆けたように僕を見ていた望海さんの瞳に朝露のように涙が溜まっていく。僕はこの人が泣きそうになるのを初めて見た。その涙が嬉し涙だったのがとても誇らしかった。僕がもらった優しさを少しでも返せたのなら、これ以上に嬉しいことはない。
「望海さん、泣いたらご飯の味がわからなくなっちゃいますよ?」
「なんで……なんてことを……」
「え? ああ、ごめんなさい。でもまた盗ってきますから……」
地面にはたまごサンドとハムサンドが転がっている。食べ物を粗末にしてしまってごめんなさい。でも、こうしたかったから。僕は空いた手で望海さんの頭を撫でる。僕の手首を掴んでいた望海さんの手が、力なくだらりと垂れ下がった。
「違うんだ」
違う? 食べ物を粗末にしたことじゃないのかな? なんだろう。でも、なんだか何もかもが今更な気がしてる。
「あー……。盗ってきたらダメなら、ちゃんと買ってきます。望海さんは何が食べたいですか?」
「違う!」
ぽた、と一粒の涙が落ちた。望みが叶ったはずなのに、嬉し涙のはずなのに、どうしてこの人は辛そうなんだろう。
「えっと……望海さん?」
「……もう庇いきれない。俺には君を守れない」
絞り出すような声は、ほとんど独り言だった。僕が目の前にいるのに、どうして。
「……望海さん。もう僕のために嘘を吐かなくていいんです」
頬を伝った涙のあとを拭う。さっき手首を掴んできた指先の冷たさが思い出せなくなるくらいあたたかくて胸が満ちていく。
「真練、俺は……」
「もういいんです、望海さん。……嘘を吐くとしたら、今度は僕の番だ。もしも捕まっちゃったら僕が望海さんを逃してあげる。おんなじ嘘をつきます。僕が望海さんを能力で脅して、誘拐したって」
だから安心してください。そう言って頬にそっと触れる。このぬくもりのためなら、僕はなんだってできる。
「守ります。絶対に」
僕の言葉を聞いて、望海さんは一度だけ嗚咽に似た呼吸をした。苦しそうな呼吸で、悪夢にうなされるように言葉を紡ぐ。
「真練、俺は、」
「はい」
「俺は、こんなつもりじゃ、」
「ふふ。嘘はもう吐かなくてもいいんですよ」
あなたが嘘を吐いた理由ならちゃんとわかってます。あなたは僕に助けに来てほしかっただけ。だから、もう嘘を吐く理由なんてないんです。
「俺は……っ!」
瞬間、からだが痛くなるほど抱きしめられた。僕の体温と望海さんの体温が滲んで溶ける。ああ、夢みたいだ。ずっとしてほしかった抱擁に目頭がじんと熱くなる。
「……えへへ。望海さん、僕ね、ずっとこうしてほしかったんです」
「……俺のせいだ」
そう呟いて望海さんは僕の頭を強い力で撫でてくれる。なんだかトントン拍子に望みが叶って怖いくらいだ。ずっと抱きしめてほしかった。ずっと頭を撫でてほしかった。ずっと、一緒にいてほしかった。
きっと、これから、全部が叶うんだ。嬉しくて、僕まで泣きそうになってしまう。
「……ごめん。真練、ごめん……」
それなのに望海さんは変なことを言う。謝ることなんて、なんにもないのに。
「変な望海さん。ねぇ、なんで謝るんですか?」
「……君の手放し方を間違えた」
望海さんはさっきからおかしい。望海さんが僕を手放したことなんて、一回もない。
「そのせいで……君に……雷斗くんを……」
「雷斗くん? そうだ、雷斗くんとのお話もたくさんあるんですよ。雷斗くんは僕の一番の友達だから」
聞いてほしいな。雷斗くんとの楽しかった日々を思い出そうとして──その記憶にノイズが混じるような感覚に一瞬だけ目眩がした。能力による攻撃を受けているのかと思ったけれど、僕が何かをコピーしていない以上これは攻撃なんかじゃない。
「雷斗くんが……あれ? 雷斗くん、そう、雷斗くんを会わせたくて……え? でも雷斗くんは望海さんに見て、あのときに一緒に、あれ?」
あの場所に雷斗くんもいたはずだ。だから雷斗くんだって無事では済まないんだ。でも人を傷つけるつもりなんてない、それなのに全部を壊して、でもそれは望海さんを助けるためで……あれ? おかしい。だって雷斗くんは大好きで大切な、たったひとりの、僕の、
「……雷斗くんは一番の友達、です」
「……知っているよ」
それはもう、ほとんど聞こえないほど小さな声だった。
「俺は君に……親友を殺させたんだ……」
キィン、と耳鳴りがした。なんだか頭がズキズキ痛む。
「……え?」
最後に聞いた雷斗くんの声が思い出せない。日々を分け合った、親友の声が。
「だって、それは雷斗くんが邪魔したから……え? 殺し……あ、殺した。けど、雷斗くんは友達で……友達だから一緒にいて……あれ? でも僕は友達を殺すんですか?」
雷斗くんは大切なことを教えてくれた、僕の大切な友達。雷斗くんがすべてを賭けて教えてくれたから、僕は自分の足で立って、今度こそ、自分の意志で望海さんを助けるって決められたんだ。
「だって雷斗くんが言ったんですよ? 価値は自分が決めるんだって。だから僕は居場所になるんです。望海さんの居場所っていう、価値を自分に決めたんです」
あの日、雷斗くんの言葉で僕はようやく生まれることができたんだ。ようやく、生きる意味を、凍っていた心の底から拾い上げることができたんだ。
「雷斗くんには感謝してるんです。雷斗くんならわかってくれるはずです。わかってくれるはずだったんです、なのに、雷斗くんは……雷斗くんが? なんで? だって僕ら友達なんですよ?」
なんでだろう。呼吸があがる。大切なことを忘れている気がする。なんだか三文小説みたいで滑稽だ。
「えっと……雷斗くん……だって雷斗くんはもう能力がないから……そう、能力がないんです。だから簡単に行動不能にできるはずで……でも、そうだ……雷斗くんが邪魔をして……でも簡単に止められた。なのにひどいことを言うんです。さっきみたく手を掴まれて、だから、」
雷斗くんが何を言ったかなんて思い出せないけれど、死んでしまうくらい悲しかったという感情だけは覚えている。そもそも、僕はどうやって望海さんを助けたのかすらよく覚えていないんだ。たくさん壊した気はするけど、傷つけないようにはしたはずだ。それなのに、どうして思い出せないんだろう。
望海さんのために僕だけができた、とても誇らしいことのはずなのに。
「……なにか言ってたから……やめてって言ってるのに雷斗くんが……あれ? 雷斗くんって死んじゃったんですか?」
「真練……それだけは忘れちゃダメだ」
ふと、写真みたいに切り取られた光景が脳裏にぼやりと浮かんだ。思い出せない声の代わりに、僕の悲鳴みたいな慟哭が響く。
『やめてよ! ……うるさいうるさいうるさい!』
ねぇ雷斗くん、君はなんて言ってたの?
『黙ってよ! ……一刀両断絶っ!』
あー、そっか。光景が動き出す。雷斗くんの首から大量に弾ける鮮血の赤が視界を埋めていく。
別に殺そうとなんて思っていなかった。ただ喋らないでほしかっただけ。やめてと言っているのに言葉を吐き出す、その喉を切り裂いただけ。
おかしいな。雷斗くん、友達、無能力者、殺人未遂、思い出せない雷斗くんの言葉、警備が甘かった理由、遅れてきた作真くんたち、望海さんの瞳、もう放っておいてという僕の悲鳴、見せしめのような破壊、すぐに脱出しなかった理由、思い出したように痛む傷、えっと、つまり?
「……成功しただけ、なんじゃないですか?」
頭が痛くてどうしようもない。全部を望海さんで満たして、ただ幸せになりたかった。
同じように抱きしめ返して、望海さんがしてくれたように僕も彼の頭を撫でる。髪の毛がさらさらとしていて気持ちが良かった。
「……望海さんの髪、さらさらですね。見るたびにさらさらだなぁって思ってたけど、触るのは初めてです」
僕らはこれからきっとうまくやれる。望海さんが嘘を吐いて僕を導いたように、今度は僕が能力を使って望海さんを守る。どこかに落ち着けたら一番いいけど、望海さんとなら旅だって楽しいに決まってる。
「ようやく望みが叶いますね」
「俺は……こんなことをさせたかったわけじゃない……」
「望海さんの作りたかった世界には出来なかったけど、望海さんが僕に『助けて』って言っているのはちゃんとわかったから、」
「真練、俺は……っ」
「僕、うまくやりました。あなたの望み通りに、ちゃんと」
望海さんの顔が見たかったけれど、望海さんに強く抱きしめられているからそれは叶わない。でも、このぬくもりだけが真実だから僕はこの先も頑張れる。つらいことはたくさんあるけど、僕らはきっと幸せになれる。
「……ごめん、真練、ごめん……」
望海さんの吐息は途絶えることのない嗚咽になった。よっぽど嬉しかったのか、それとも緊張が解けたのか。ぽんぽんって、優しく背中を叩く。
「ごめん……」
「いいんですよ、これくらい」
望海さんはずっと泣いている。涙を止める能力なんて僕は手に入れることができないから、望海さんが泣きやむまで抱きしめてあげようと思う。そうして、ずっと一緒にいようと思う。
「望海さんは意外と泣き虫なんですね」
しあわせになりましょうね。
僕は笑う。望海さんはずっと泣いていた。