夜のまじない『夜に爪を切ると親の死に目に会えない』と聞いたことがある。聞かされた、というのが正しいか。
もっともこの言い伝えは『灯りの乏しい時代は夜が暗かったから爪を切ると怪我をしやすいかった』から、それをしないようにと言い聞かせるための作られた俗信だろう。昔の人は『してはいけないこと』をジンクスに絡めて禁じていた。夜に口笛を吹かないように、だとか、そういう類だ。
だからその言葉がなんのために生まれたのかの意味さえ理解していれば、こんなジンクスはくだらないとさえ思っている。もともと怪異や幽霊なんかは──軽んじているわけではないが、さほど自分には縁のない話だ。目の前で、今まさに爪を切ろうとしている僕を見つめている狐のような男は時折あやかしのように見えるが、彼だってしょせんは、人だ。
現代は夜だろうと手元は明るくて、こんな時間でも爪を切るのに支障はない。しばらく切るタイミングがなかった爪を切る理由が目の前の男を傷つけないためだというのは我ながら笑ってしまうのだが、青年に成りたての10代が恋人に触れたいという欲求はジンクスごときでは止められない。それをわかっていて、わりとジンクスの類を大切にするタイプの男は目を細めてこちらを見ているのだろう。
雨彦さんは僕を見ていた、ように思う。何度か意識をそちらにやれば視線は絡んではいたのだが、僕が数回パチリと爪を切り落としたあたりから、どうにも視線が交わらない。雨彦さんは確かにこちらを向いているのに、それでも僕を見ていないみたいだ。
畳に爪が跳ねた。あーあ、と思いゴミになったからだの一部に手を伸ばす。そこにふと、声が落ちた。
「北村」
恋人らしからぬ、甘さのない声だった。僕が爪を切るのを雑誌を読みながら眺めていたはずの雨彦さんに視線は向けずに意識を割けば、彼がこちらに近寄る気配がした。
「どうしたのー?」
手が触れるほどの距離まで近づいた雨彦さんの膝が視界に入った。もしかしたら、雨彦さんも早く僕に触れたいと思ってくれているのだろうか。だとしたら、それを口にせずそっと距離を詰めてくるこの人はとんでもなくかわいらしい。
ふいに目の前に座り込んだ雨彦さんが僕を勢いよく抱きしめた──いや、抱き寄せた。
「え、雨彦さ……」
瞬間、シャン、というハサミで何かを切り落とすような音が聞こえた。文字通りの意味で後ろ髪を引かれるような感覚があって、僕は雨彦さんの腕の中から少し振り向いて後ろを見る。すると、僕がいたはずの場所には、ざっくりと切られた髪の毛がはらはらと散っていた。
「僕の……髪……?」
「ああ、今日は機嫌が……いや、日が悪かったようだな」
ぞわ、と背筋が凍った。爪を切ってはいけないってジンクスは教訓のために作られたはず。でも、なぜ『親の死に目に会えない』などと言われているんだろう。親の死に目に、親に会えなくなる意味というのは。
少し呼吸がもつれた。雨彦さんは僕をあやすように背中をさすって言う。
「……夜に爪を切るのはよくないって話だ」
この人のおかげで首の皮が繋がったってことなんだろうか。「そうなんだねー……」と返せば、雨彦さんは「爪は明日切ればいい」と口にする。
「……じゃあ、今日はもう寝ましょうかー」
「いいのか? 別に爪くらい伸びてても」
「僕は紳士ですからー」
それに、今日はそれどころじゃないかもー。素直に伝えれば雨彦さんは笑って僕を抱きしめなおす。
怪異への対処を教訓に紛れ込ますケースもあるのか。はたまた都合の良いジンクスに怪異が潜り込んだのか。いや、そもそも髪が突然バッサリと自然に切れただけ……とは流石に思えないけれど。
ぼやぼやと考える僕の熱が雨彦さんに移ってまどろみになる。このまま眠ってしまえたらいいと、思考を止めて目を閉じた。