背中 バスの車窓から見える空は青く冴えわたり、隙間から入ってくる風は柔らかく心地よい。そうだ、今日は快晴で過ごしやすい一日ですと、情報番組のアナウンサーが言っていたのを思い出した。しかし、バスから降りると、いつもの風景…集団とに重なっていく。顔に憂鬱だと書いて、背中には出勤したくないと書いてある一団、彼らはうつむき加減で足早に道を行く。そんな、彼らの行く末を、朝日は祝福しているかのように照らし導いている。明らかに反比例している風景、それが日常の始まりだ。
5か月前までは、自分も彼らと同じ集団の中で、同じ様相でノロノロと背中を丸めて歩いていた。しかし、今の私は会社に早く行きたいのだ。飛びだしそうな気持ちを抑えるよう背中を伸ばして、集団の間を縫うように目的地を目指して足を進める。そして、目の前に見なれた後ろ姿…尾形主任をみつける。よく着ている濃紺色のスーツには皺ひとつ見られない。丁寧に着こなしてる、やはり、できる営業マンは後ろ姿も決まっているんだと思うと嬉しくて胸が高鳴る。
尾形百之助主任、5か月前に私の所属している営業2課に異動してきた。入社した時から、その存在は知っていたが、課が違うため事務的なやり取りを返す程度の関係で、深くかかわったことはなかった。耳に心地よい低く掠れた声、深い黒を湛えた瞳、サイドは刈り上げた長めの髪を丁寧に後ろに撫でつけた髪型。そして、頬に伸びる縫合跡、本来なら敬遠されがちなのだが、顔全体に繊細さを加え、私は綺麗とさえ思った。そして、外見だけでなく、仕事もできる。部署内外における迅速丁寧な対応はもちろん、経営陣からの鋭い指摘にも即座に理路整然と返答・対応できる頭の回転の良さ。そして、どの案件でも必ず成果を出しており、昇進も早いだろうと言われている。実際、尾形主任が営業2に転属してからは、部署全体の効率もあがり、全体の成績アップにもつながっていった。すこし冷たそうな雰囲気もあるが、仕事で結果を出しているので、皆に一目置かれるようになるのも早かった。尾形主任と同じ部署で働くようになり、言葉を交わし近くで見るようになった私は…そう、恋に落ちたのだ。
尾形主任のおかげで、今の私は人生も仕事も楽しくて仕方がない。しかし、休日は会えないので、ちょっと寂しい。最初は無為に過ごしていたが、この時間を無駄にしてはいけないと奮起し、自分磨きを始めた。今まで施していたメイクをすべて変え、香水をつけるようにした。服も流行はおさえているが上品な雰囲気のものに変え…下着も変えてみた。もちろん、筋トレや読書などにも励み…気づけば、結構多忙な休日になっていた。平日は仕事に、休日は自分磨きにと、華やぎと彩りの毎日を生んでくれた尾形主任には感謝しかない。小説などによくある、人は恋をしたら変わるものを実践している毎日である。
でも…
このまま、尾形主任を遠目にひっそりと見ているだけでよいのでは?と思っている自分もいる。もし、告白して降られたら、間違いなくこの恋は終わり、元のなんの潤いもない生活に戻るだろうな…と思うと、なんだかもの悲しく暗い気持ちになってきた。今もそうだ、すぐにでも駆け寄って、声をかけたらよいのに迷っている。先程までの、高揚した気分は何処へ、好きな人の姿を見たらこの様である。
「お…おはようございます。尾形主任」
「ああ、おはよう」
エレベーターを待っている、尾形主任へ挨拶する。自然な笑顔だったかな、変な声じゃなかったかなと、朝一番の脳内会議が始まった。その間にもエレベーターのドアが開き、尾形主任に先を促されるように、二人でエレベーターに乗り込んだ。
尾形主任に挨拶はしたものの、次に何を話そうかなど、ひとつも考えていない。いや、話したいことは山ほどあるけど、面と向かうと出てこない。そのうち、手にも背中にと汗が浮かび、全身のぼせてきた。さらに、二人で乗り込んだエレベーター、そう、よく考えたらエレベーターという密室に男女2人きり…これは駄目だ、どうしょう。ひとり慌てふためいていると、隣から柔らかな輪郭を持った甘い息が聞こえた。
「この前、提出してくれた商品開発説明書の件だが、先方が喜んでいた。伝えたいことがまとまって、とてもわかり易い文章だと…」
「あ、よかったです。ありがとうございます」
「俺も、すきだ」
「えっ」
「あ、いや、文章が、だ、すまん」
いつもなら、悪くない、の一言で済ます人からの『好き』という意外な言葉に反応して、後ろへ倒れそうになった。突然の意図しない出来事に返す言葉も思いつかず、本当に好きな人を前にすると余裕がなくなる。
「ん、匂い?」
尾形主任が、鼻を鳴らす。よくする、しぐさの一つで、私のお気にいりでもある。
「え、あ、これ私のです」
「いい匂いだから、つい…、いや、急にすまん」
「あ、いえ…、尾形主任は匂いを気にされるのだなあと…」
「…まあ、気にするというか、夢主さんのだから」
今度は、言葉さえ失った。しかし、自分が初めて付けた香水に気づいてくれた、自分磨きの成果だと、心の中でガッツポーズをつくる。そして、これは、チャンス到来ではと思って…しまった。でも、いや、まてよ、なぜ今、匂いの話なのか、これは冷やかされたのか…いや、尾形主任に限って、そんなことはないはず、きっと。胸はバクバクで頭の中はフル回転、このままエレベーターに乗り続けていたい、いや、続いてほしくない…等々、静かなエレベーターの中で、顔を火照らせながらひとり悶々と脳内会議を続けていた。そんな私を置き去りに、エレベーターは目的地に止まり、ドアが静かに開いた。机の間を忙しそうに移動する人々を見て、先ほどの高揚していた気持ちは沈静化していった。好きな人といると時間が経つのは早いなあ、と改めて思い、さあ、仕事だと気合を入れる。
「今日も一日、よろしく頼む」
「はい」
尾形主任は軽く口角を上げており、いつもより柔らかい雰囲気であった。そして、掌で髪をかき上げながら、自分の机に向かっていった。
ああ、やっぱり、好きだな。よし、自分の『好き』を未熟にしないためにも、今以上に自分を磨いて、デートに誘うんだ…そして、絶対に告白する。
「それまで、尾形主任、待っていて下さいね」
誰にも聞こえないような小声で、尾形主任の背中に宣言して、自分の机に向かった。
前からずっと、好きだった。彼女の仕事に向かう姿勢が正確かつ丁寧であり、見た目も柔らかな雰囲気に好感を持ったのが始まりだった。気づかれないように彼女を観察しつつ、少しでも彼女と関係を持とうと、あれこれやとやっていたが、もとより部署が違うこともあり、彼女からの反応はいまひとつだった。そんなことを繰り返して、いつからだろう、彼女のことを気になるから『好き』に変わっていた。今では、愛しいと思うようになっている。仕事は、どこでも確実に完璧にこなすことができる、俺にとってはどうってことはない。そう、今回の異動理由は、彼女の近くにいたいからだ。まあ、異動願い届けに本音を書くこともできず、仕事関係のことを実しやかに記載して提出した。周りを唸らせるほどの実績と実力がある分、承認は早いだろうと考えていたのだが、意外に時間がかかった。
それはともかく、ここ最近の彼女は、みるみる綺麗になっていく。見た目もそうだが、雰囲気が変わっている。元からの柔らかい雰囲気に、女性らしさ…色気も入って、そそられるような魅力を出すようになっている。誰か好きな男でもできたか、それとも彼氏ができたのか…彼女のことを考え始めると、必ずこの考えに至る。そして、ああ、誰かのものになる前に、自分のものにしなければ、早く…と強い焦燥感に駆られる。なら、どうやって…奪うかと、次から次と頭の中から手段が湧いてくる、もちろん乱暴なことも含めて。だが、彼女を前にすると何もできない、返す言葉すらうまくいかない…今朝のあり様、情けない限りだ。そう、好きな人を前にすると、余裕がなくなる。
「ああ、うまくいかんもんだな」
前髪をかき上げながらフンと鼻をならす。しかし、急いては事を仕損じる。ゆっくり、じっくりと詰めてゆく、『好き』だから、怖がらせないように…なんせ、このご面相だから。
「待ってろよ、必ず手に入れる。それまで…だれにも捕まるんじゃねえぞ」
男の深い瞳が見つめていることを、夢主は知らなかった。