「わっ…!」
角を曲がろうとした瞬間、なにかにぶつかってしまいつい目を閉じた。すぐ側でなにかが倒れるような音がして目を開ければ、そこには床に尻もちをついて俯く東雲がいた。
どうしてここに…。帰ったんじゃなかったのか?
「東雲!?す、すまない…!大丈夫か…?」
直ぐに屈んで東雲の様子を見た。特に返事はなかったので、一先ず散らばってしまった東雲の鞄の中身を拾ってまとめる。荷物をまとめて差し出してみるが、東雲は相変わらず俯いたまま動かない。様子が変だし、何故か制服が少し乱れている。
「東雲…?」
「……」
また返事がない。この距離で聞こえていないなんてことは無いだろう。
そして、耳をすましてみれば小さく聞こえてくる喘鳴。もしかして…
「…少し触れるぞ。」
そっと額に手を伸ばして触れてみれば、伝わってくる尋常ではない高さの体温。
直ぐに緊急事態だと分かって、荷物を鞄に入れ込んで自分の鞄と一緒に東雲の鞄を肩にかけ、背中と膝裏に手を回した。
「保健室に行こう。」
「ま…っ、」
「?」
直ぐに抱き上げようとしたが、弱く服を引かれる感覚に静止する。よく見ればもう片方の手は自身のシャツを強く握り微かに震え、口は固く結ばれている。
東雲が何を我慢しているのかは直ぐにわかった。
「吐きそうか?」
「…っ」
僅かに縦に振られた首に、より心配になる。
動かしても大丈夫かと聞けば、今度は弱く首は横に振られた。
吐いた方が楽になるのは間違いないが、殆どの生徒は帰っているとは言え、流石で廊下で嘔吐するのは東雲も嫌だろう。
仕方なく東雲の吐き気が収まるのを待った。
しばらくして手の力が緩められるのを確認して了承を得て東雲を抱いて立ち上がる。
「……っ…ごめ、ん…」
「謝ることは何も無い。俺こそ、一日気づいてやれなくてすまなかった…。辛いだろう、こちらに体を預けていいから。」
「……」
少し間を置いて、遠慮がちに体を預けられるのを確認し、なるべく揺らさないように保健室へと歩き出した。
*
保健室には誰もいなかった。それもそうだ、もうとっくに下校時刻だし、先生も席を外しているのだろう。
勝手に使うのは忍びないが、東雲を休ませないといけない。ベッドにそっと下ろしてやれば、まだ息苦しそうに荒い息を吐いている。肌の紅潮も汗も酷いな。相当の熱があるだろう。
「東雲、一先ず先生を呼んでくるから、少し待っててくれ。それと、誰か御家族は家にいるか?」
「…はっ、…はぁ…ぅ、ん…」
「わかった。それじゃあ、先生を呼んで体温を測って応急処置をしてもらったら、親御さんに連絡をしよう。」
「……っ、ケホッ、…っは…ごめ…ん…」
「謝らないでくれ。何も悪いことなんてしてないだろう?それじゃあ、先生を呼んでくるから。」
体温計などの場所が分かればよかったのだが、さすがに把握していない。探して時間をかけるより、先生を呼んだ方か確実に早い。東雲はかなり辛そうだ、急がないと…。
「!…東雲?」
背を向けた瞬間、腕を引かれた。思わず足を止めて振り返れば、東雲が体を起こしてこちらを引き止めていた。とても、必死そうな顔で。
「大丈夫だ、すぐに戻ってくる。」
「…っ、」
今度は口を固く結んで、今にも泣きそうな顔をしだした。
どこかおかしい様子に、視線を合わせてこちらの腕を掴む手を解いて握ってやる。
「…どうかしたのか?」
「っ…、………い…」
ガラッー
「!」
突然の少し乱暴に思える扉の音に反射的に振り返った。先生が戻ってきたかと思ったが、それは直ぐに違うとわかった。
「失礼しまーす!東雲彰人くんいますかー?」
どうやら男子生徒のようだ。東雲を探しに来たのか?
「東雲、誰かが探しに…、!!」
振り返れば、東雲は何かに怯えた顔をしていた。俺の手の中にある手は、固く握られ少し震えている気がする。
「東雲…?一体どうし…」
「あ!なんだいるじゃーん!って、あれ?生徒会長もいんの?」
こちらに発せられた声に振り向けば、男子生徒が3人と女子生徒が一人、そこにたっていた。
「あー!青柳くんじゃーん!ラッキー!」
「…東雲に何か用ですか?」
何となく、この生徒たちは駄目だと思い東雲を隠すように前に立つ。
「いやだな〜、生徒会長ってばそんな怖い顔しないでよー!」
「いやさぁ、俺ら東雲と放課後に遊ぶ約束してたんだよー。で、校門で待ってたんだけど、全然来ないから探しに来たって訳。」
「…そうですか。ですがすみません、生憎東雲は体調が悪いんです。なので、またの機会にしてやってくれませんか?」
「えー!うっそー!東雲体調悪いのー?!」
「そりゃ大変だなー!」
…わざとらしい。
恐らく、この生徒達は東雲の体調が悪いことを知っていたんだろう。だから、ここに来た。
俺の知る限りでは、東雲がこの生徒達と仲が良さそうにしているのは見かけたことがないし、男子生徒の一人は3年生だ。
東雲とぶつかった時、東雲鞄は開いていた。だから中身が床に散らばった。それに、制服も乱れていたし、帰ると言ってからしばらく経っていたのに校内にいた。それに加えて、今の東雲の怯えた様子。
ただの推測に過ぎないが、恐らく東雲は何らかの理由があってこの生徒たちから逃げてきたのかもしれない。
「じゃあ、友達の俺らが送ってやらないとなー。」
「いえ、それには及びません。」
「は?」
「俺が東雲を家まで送り届けますので。」
「ぇ…」
「いやいや、生徒会長忙しいっしょ。」
「いえ、ちょうど今日の仕事は終わって俺も帰るところだったんです。それに、親御さんにももうそう伝えてありますので。」
「いやでもよ…」
「お気遣いなく。先輩方のお手を煩わせることはありません。どうぞ、お構いなく。」
「〜っ、チッ…。おい行こうぜ。」
「えー!帰るのー!?もうちょっと青柳くんと話したいのにー!じゃ、またね!青柳くん♡」
生徒たちは3年生の生徒に続いて保健室を後にした。完全に足音が聞こえなくなったのを確認して後ろを振り返り、また東雲と視線を合わせる。
「…ぁ、おや…ぎ…」
「大丈夫だ。俺も中々嘘をつくのが上手いだろう?」
「!…ふ、…なんだよ、それ…」
良かった、さっきの怯えた様子はもうないみたいだ。あの生徒達とどういった関係なのか、どうしてあんなに怯えていたのか、聞きたいことは沢山ある。が、今は東雲の体調が優先だ。
「ッゲホ、ゲホッ…!」
「!大丈夫か…?少し熱が上がったか?早く帰った方がいいな…。先生には書き置きをしておこう。東雲、立てるか?」
「え…?」
荷物をまとめて手を差し出せば、東雲はきょとんと驚いた顔をした。俺は何かしてしまっただろうか?
「どうした?」
「え、いや…」
「あ、そうか。先に親御さんに連絡だな。」
「いや違うくて…、っ…ケホッ。本当に…っ、家まで…」
「もちろんだ。それに、嘘はちゃんと最後までつかないとな。」
「!……ぁ、ありがと…」
*
東雲に道を聞きながら東雲の家に付き、とても1人で立てそうになさそうだったのでインターホンを押せば、東雲のお母さんが出てきてくれた。
電話で事情は話していたからか、とても心配そうな顔でこちらまでやってくるとお母様は何度も俺にお礼を言った。
お母様に東雲を任せ、2人の姿を見送る。
「東雲。」
「?」
「明日、もし休むようだったらお見舞いに来てもいいか?」
「……あぁ。」
「ありがとう。それじゃあ、また明日。お大事に。お母様、彰人くんをよろしくお願いします。」
「えぇ、本当にありがとうね。えっと…」
「青柳冬弥です。」
「冬弥くんね。それじゃあ、帰りは気をつけてね。」
「はい、ありがとうございます。」
扉が閉まるのを見送り、踵を返して帰路に着いた。
明日、容態が良くなっていたら今日のことについて少し聞いてみよう。話してくれるかは微妙だが、何か良くない予感がする。少し強引にでも聞き出した方が良さそうだな。
*
翌日、放課後。
東雲は案の定欠席だった。当然だ、あんなに高熱を出していたんだ。無理もない。
今日一日、昨日の生徒たちを気にかけてはいたが、特に変わった様子はなく俺に東雲のことを聞いてくることもなかった。
まぁ、そう簡単にボロを出すものでもないだろう。
例え俺があの生徒たちに何かを聞いたとしても、真実を聞き出せるとは思えない。被害者であろう東雲の方が、真実を話してくれる可能性は高い。
「…素直に話してくれるといいんだが……。」
見舞いの品を片手に、東雲の家のインターホンを押す。すれば、昨日と同様にお母様が出迎えて下さった。
お母様は笑顔で俺を家に招くと、すぐに東雲の部屋を教えてくれた。お礼とささやかな手土産を渡し、東雲の部屋へと向かった。
コンコンコンッ
「東雲、俺だ。入ってもいいか?」
部屋の前に立ち、扉をノックして尋ねてみるが返事は無い。眠っているのだろうか。
起こさないようにそっと扉を開ける。部屋は常夜灯だけに照らされ少し薄暗いが、部屋の奥のベッドに膨らみがあるのは確認出来た。
また音を立てないようにゆっくりと傍まで行き、そっと覗き込む。
「良かった…。」
眠る東雲は規則正しい寝息をたて、容態は昨日よりも随分と良さそうだ。恐らく、熱もだいぶ引いたことだろう。
「起こしてしまうのも申し訳ないか…」
徐に頬に手を伸ばす。伝わってくる体温はまだ少し高いが、確かに昨日よりは低い。
「……」
東雲の寝顔は、思ったよりも幼いんだな。そう言えば、眼鏡をかけていない東雲を見るのは初めてかもしれない。
いつもより顔がハッキリと見えて、どこか新鮮だ。普段ではあまり気が付かないかもしれないが、やはり東雲は愛らしい顔つきをしている。垂れ下がった目や、少し長いまつ毛。綺麗な瞳は今は閉じられて閉まっているが。薄く開かれた唇は、なんとも魅惑的でつい引き寄せられる。
「……」
どんな感触だろうか。東雲の唇は、どんな感触なんだろうか。キスをしたら、東雲はどんな反応をするだろうか。
今なら、キスをしてもバレないだろうか。
そんなことをぼんやりと考えていれば、無意識に指先が唇へと伸びていく。しかし、触れる直前でハッとして手を引く。
何を考えているんだ、俺は。病人相手にこんなこと…。それに、東雲は俺の事を好きかどうかなんて分からないのに。
良くない。東雲も眠っているし、またなにか余計なことをしてしまう前にお暇しよう。
見舞いの品は、お母様に預けておけばいいだろう。
「………ん…、…?」
「あ、」
部屋を去ろうと足を一歩引いたところで、東雲が薄らと瞼を開けた。
オリーブ色の瞳は少しぼんやりとした後、俺の方を見た。
「ぁお…やぎ…?」
「すまない、起こしてしまっただろうか…。」
「…いや…」
「あっ…、」
緩慢な動きで体を起こそうとする東雲の背中をそっと支えてやる。
東雲は枕のそばにあったリモコンを取り、部屋の明かりを付けた。
「…わるい…。」
「気にするな。」
「…本当に来るなんて…」
「当然だ。体調は良くなったか?」
「あぁ…、昨日よりはだいぶ。」
「それなら良かった。これ、プリンとゼリー、それからスポーツドリンク。食べられそうであれば良かったら食べてくれ。」
「プリン…?」
「あぁ、プリンは栄養価も高いし熱の時にはピッタリだ。それに、東雲は甘いものが好きだろう?」
「…なんで知って…」
「購買で甘い菓子パンをよく買っているだろう?それで。」
「…よく見てんな」
「そんなことは無い。プリン、今食べるか?」
「……ん」
少し控えめの返事に笑顔を返す。なんだか幼い子供みたいだ。
プリンの封を開け、付けてもらったプラスチックのスプーンで掬い、東雲の前へと差し出す。すると、東雲は驚いた顔でスプーンの上のプリンと俺を見た。
「……ぇ」
「どうした?」
「え、いや…、じ、自分で…食べれる…」
「遠慮しないでくれ、まだ治りきって居ないだろう?弱っている時くらい、甘えても怒られない。」
「いや、ほんとに…っ、いい…っから…」
「あ…、すまない…。嫌…だっただろうか…。」
「えっ…!あっ…、いや…違うくて…嫌とかじゃ…っ……、っ…」
東雲は焦ったように口をはくはくとさせた。しまった…、東雲を助けるどころか困らせてしまった…。俺には、こういったことは向いていないのかもしれない。
そう気を落としていると、東雲は戸惑いつつも小さく口を開いてスプーンの上のプリンを口に含んだ。
「し、東雲…!無理しなくても…」
「…べつに…、嫌とかじゃ…ないって…」
「そう…なのか…?良かった…。じゃあ、」
「え?」
プリンを全て食べ終え、空になった容器を近くの机へと置く。
東雲は戸惑いつつも、最後までプリンを食べてくれた。良かった、食欲は問題なさそうだ。
「……熱上がった気がする…」
「何か言ったか?」
「…なんでもない…。」
それだけ言うと東雲は頭の半分まで布団を被ってしまった。
「……なぁ、なんでここまでするんだよ…。」
「え?」
「…なんでお前は…、ここまでオレに構うんだよ…」
「…。」
どこか独り言のようにも聞こえるそれは、きっと俺に掛けられた言葉だろう。
ベッドに座り直し、手をそっと添えて言う。
「東雲が心配なんだ。ただそれだけだ。」
好き、とは敢えて言わなかった。今の状況では、東雲にその言葉がどう取られるのか分からない。それに、この気持ちはもっとちゃんと伝えたい。
「……変なやつ…」
「そうか?……なぁ、東雲。聞きたいことがあるんだ。」
「…なに」
「…昨日の生徒たちとは、どういう関係なんだ?」
ビクッと東雲の肩が跳ねた。恐らく、聞かれたくないことなんだろう。だが、こちらも引き下がる気は毛頭ない。
「…別に、なんでもない」
「そんなことは無いはずだ。彼らはお前のことを知っているようだったし、探していたようだった。」
「……っなんでもないないって…」
「それにあの時、お前は酷く脅えているようだった。」
「…やめてくれ…っ」
「一体なぜ脅えていたんだ?」
「本当にっ…なんでもないから…ッ」
「昨日のお前は、身だしなみも乱れていた。鞄も閉めずに。俺が思うに、俺と会ったあの時、お前は彼らから逃げてきたとこだったんじゃないか?」
「…ちがうッ…」
「東雲、お前は…」
「だからなんでもないってッ……!」
「あいつらに虐められているんじゃないのか?」
「ッ…!違うッ…!!」
東雲は大きな声と共に、飛び起きれば俺を見た。悲痛な顔で。
「……、そんな顔で言っても説得力が無いぞ。」
「〜っ、…っ頼むから…、何も聞かないでくれ…っ…」
「駄目だ。今聞き出さなければ、明日からお前は俺を避けようとするだろう。」
「っ…、」
「東雲、教えてくれ。俺は、お前を助けたい…。」
「ッ…!…本当に…っ、なんでも…ない…から…っ。頼むから…っ」
「どうしてだ…、どうして話してくれないんだ…。俺じゃ頼りないか?」
「…ちが…ぅ…、青柳だから…っ話せない…ッ…」
どうやら、本当に話してくれそうにないようだ。だが、このままはいそうですかと帰る訳にもいかない。なら、少し強引にでも聞き出す。
「…っ今日はもう帰っ…ッ!?」
布団を剥ぎ、東雲の体へ馬乗りになって抑え込めば、服へと手を伸ばした。
当然、東雲は驚きを隠さず抵抗した。
「あ、青柳ッ…!?何してッ…!!や、やめッ…!」
「そこまで話さないというのなら、こちらにも考えがある。」
「いっ、いやだッ…!青柳ッ…っ!!」
それは必ず痕跡が残るはずだ。その痕跡は、簡単には消えない。
「……」
「ぅ…っ、くッ……」
東雲の服を捲れば、予想通り痕跡がそこにあった。
東雲の体には、いくつもの痣があった。
「はっ…ゔ…、ッ…」
「……」
視線を上げた。東雲は泣いていた。
そっと服を戻し、東雲の上から退いてベッドの横に立つ。
東雲は顔を隠して泣き続けた。
「……乱暴をしてすまなかった。…東雲、一体いつか…ら…。……。今日は、もう失礼する。……お大事に。」
部屋を出て、お母様に挨拶をして東雲の家を後にした。
「……」
東雲の鳴き声が、家が見えなくなるまで聞こえていた気がする。
今になって、あんな乱暴な方法を使ってしまったことを後悔する。頭に血が上ってしまっていたのかも知れない。いや、こんなのただの言い訳に過ぎないか。
助けたい、心配だと言っておきながら、その好きな人を泣かせてしまっては、俺も彼らと何も変わりない。
好きな人の涙は、想像以上に見ていて苦しいものだった。
「…嫌われてしまっただろうな…。」