~第一話~
「オッケーです!一旦チェック入りまーす!」
ある日の某スタジオ内、シャッター音が鳴り止みスタッフたちが忙しなく動いていた。そして、その中心にいるのは、反物を扱う大手企業青柳グループの兄弟会社として独立し、若くして社長を務める青柳冬弥だ。
「うん、問題ない。これで行こう。」
「分かりました。では、本日の撮影は以上となります!皆さん、お疲れさまでした!」
スタッフが声をかければ、スタジオ内の全員からそれぞれ挨拶が返ってくる。そして、そのまま速やかに撤収作業が開始された。
「社長、お疲れ様です。少しお話したいことがございます。この後、少々お時間よろしいでしょうか?」
「お疲れ様。あぁ、問題ない。」
そう言って声をかけてきたのは、冬弥の秘書を務める女性だった。
「ありがとうございます。では、後ほどお部屋にお伺いさせていただきますね。」
「分かった。」
*
「はぁー…」
数十分後、冬弥は社長室で椅子に腰かけて天を仰いだ。
兄弟会社の社長に就任して一年。まだ慣れないことばかりで、日々気疲れは絶えない。それはもちろん、最初に比べれば多少なりは上手くやれるようになったとは思う。でもやっぱり、まだまだ未熟なところばかりだ。
まさか、大学を卒業してすぐに独立することになるなんて…。兄たちは一から起業したというが、本当にすごいと思う。俺には真似ができないな…。
親会社があってこそというのは大きいが、ありがたくもしっかりとした売り上げもあり安定している。
「…しかし、油断はできないな…。」
―コンコンコンッ
「社長、只今よろしいでしょうか?」
「あぁ。入ってくれ。」
扉の向こうからの問いかけに返事をすれば、入ってきたのは秘書だ。
「お疲れのところ失礼いたします。先ほどお伝えしたお話なのですが…。」
「何かトラブルか?」
秘書の顔色が暗くなったのを感じ、恐らくいい話ではないだろうと察する。極力大きすぎないトラブルだといいのだが…
「…はい。実は、先日ショーの依頼をしたモデルの方なのですが、どうやら不祥事を起こしたようで…。今朝、所属事務所の方から連絡がありました。」
「……ふぅー…」
思わず両手を組んで項垂れる。よりにもよって大事なショーのモデル…。頭が痛い…。
俺の会社は反物を取り扱う会社だが、少し特殊な売り込み方をしている。自社自身で自社の反物で衣服を作り、それをモデルに着てもらい反物と撮影をして売り出している。
反物一つでももちろんその魅力を伝えることはできるが、衣服という形にすることでより魅力が伝わりやすいのではと考えた。結果、そのやり方が功を奏した。
そして、ショーというのが世界中の有名企業が年に一度集まるショーのことだ。
このショーで結果を出せば、国内だけでなく海外の企業と繋がりを持つことができるかもしれない。そのため、参加する様々な企業はこのショーへの気の入れようは凄まじい。
「…そうか、分かった。報せてくれてありがとう。」
「いえ、それが私の仕事でございますので。…その、代わりの者はいかがいたしましょうか…。」
「そうだな…。その方をそのまま使うことはできないからな…。…新しい人を探さないと…」
しかし、ショーまで二か月を切っている。それに、この時期は有力な人たちは皆、様々な企業に引っ張りだこだ。そのため、今から新しく良いモデルを探そうとするのは至難の業だ。
「俺の方でも探してみる。すまないが、君の方でも探してもらえないだろうか…。難しいとは思うが…。」
「かしこまりました。全力を尽くします。」
「よろしく頼む。そうだ、確かこの後の予定は何もなかったはずだな。」
「はい。本日はこの後にご予定は入っておりません。早急に対応すべき事案も特にございません。」
「そうか、分かった。なら、少し出てくる。」
「お出かけですか?お車を手配いたしましょうか。」
「いや、大丈夫だ。ありがとう。」
「かしこまりました。ということは、いつものお店でしょうか?」
「あぁ。」
「かしこまりました。どうか道中はお気をつけて。」
「あぁ。君も、今日はもう上がってくれて大丈夫だ。ゆっくり休んでくれ。」
「お気遣いありがとうございます。では、少々手を付けておきたいものがございますので、そちらが終わり次第お言葉に甘えさせていただきます。」
「あぁ。今日もありがとう。」
軽く礼をして部屋を出て行く秘書を見送り、俺も出かけるべく腰を上げた。
*
外に出ると、もう既に日が傾き始めていた。
今から行く店は、行きつけの店であり得意先だ。何故俺自身が行くかというと、その店はいわゆる万屋で、あまり世に知られていない。しかし、扱っているものの品質は確かで、俺はよく染料の元となる花などを購入させてもらっている。プライベートでも使わせてもらっていて、珍しい本やコーヒー豆なども買わせてもらっている。
しかし、店は路地の奥まったところにあり、なかなか普通に街中を歩いているだけじゃ見つけられない。人の口から広めることも禁止されているから尚のことだ。
俺はある日古本屋にいた時に、偶々そこの店主と会い、意気投合して店を教えてもらった。
いつもの路地で道を曲がる。普通ならこんな暗い路地入ろうとは思わないだろう。しかし、店はこの路地の奥にあるのだ。
慣れた足取りで奥に進んでいき、少しの明かりで照らされた看板が置かれた建物の扉を開いた。
「カイトさん、こんばんは。」
店に入るなり、店主の名前を呼んだ。すると、店の奥からカイトさんが顔を覗かせた。
「いらっしゃい、冬弥くん。」
「もしかして、タイミングが悪かったですか?」
「ううん、大丈夫だよ!棚に埃がたまっちゃってたから、少し掃除をしてたんだ。」
そう言ってカイトさんははたきを片手に出てくると、いつも通り勘定場の中に戻って腰を下ろした。
「こちら、頼まれていたものです。気に入っていただけるといいのですが。」
「わぁ、ありがとう!」
頼まれていたのは羽織だ。うちの反物で一着仕立ててほしいと頼まれていた。
「うん、やっぱり冬弥くんのところの生地は一級品だね!」
「ありがとうございます。カイトさんからいただいた染料があってこそです。」
「そんなことないよ。仕上がりもとっても綺麗だし、柄も精巧で素晴らしいよ。」
「ありがとうございます。」
「それで、今日は本の受け取りだったかな?」
「はい。先日はご連絡ありがとうございました。」
「うん。でもごめんね、入荷に思ったより時間がかかっちゃって…。今持ってくるね。」
そう言ってカイトさんは、店の奥へと入っていった。
「いえ、この作家さんの本は今となっては入手がとても難しいので。こうして手にすることできるのが嬉しいです。」
それならよかったとカイトさんは本を手に戻ってくると、こちらに本を差し出した。
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。こちら、お代です。」
「お代はいらないよ。羽織のお礼。」
「え、ですが…」
「いいよいいよ。冬弥くんには、いつもお世話になってるからね。」
「…ありがとうございます。」
「で、冬弥くん。なにか悩み事かい?」
「え、」
カイトさんにそう問われ、思わず驚いた。まだ何も言っていないのに…
「…顔に出てましたか?」
「いや、ただの勘だよ。」
「凄いですね…。それが実は、以前お話したショーに出てもらう予定だったモデルの方が、急遽出られなくなってしまって…。新しい人を探しているところなんです。」
「なるほど…。それは大変だね…。」
「はい…。探そうにも、本番まで時間もあまりなく、この時期は、名のあるモデルさんはどの方も引っ張りだこで…。」
「そうだよね…、皆同じだもんね…。うーん…、人材かぁ…。さすがの僕も人は扱ってないなぁ…」
「そうですよね…。」
「ごめんね、力になれなくて…」
「いえ、カイトさんが謝ることではないので。お気になさらず。」
だがしかし、今一番解決すべきことは何も進展がない。まぁ、今日発覚したことではあるから当然だとは思うが…。
「こちらで何とかしてみます。」
「そうかい?もし何か手伝えそうなことがあったら、遠慮なく…」
「戻りました」
「!」
突然聞こえてきた別の声に、店の入り口の方を振り向いた。そして、そこにいた青年に目を奪われた。鮮やかな夕焼け色の髪は身に纏った黒の着物によく映える。幼さを残しながらも整った顔立ち、瞳はわずかに伏せられ、どこか儚さを感じさせる。…綺麗だ…。
「…」
「ぁ…」
こちらに歩いてきた青年は、俺の方を横目に一瞥すると、手に持っていた袋をカイトさんに差し出した。
「おかえり、彰人くん。遅かったけど、道中何かあった?」
「…いつもの猫がいたので」
「そっか。うん、ものも全部そろってるね。ありがと、彰人くん。」
「はい」
「あ、そうだ。二人とも会うのは初めてだよね。冬弥くん、この子は僕が面倒を見てる東雲彰人くん。彰人くん、この人は常連さんの青柳冬弥くん。反物を扱ってる会社の社長さんなんだよ。」
「あ…、初めまして。青柳冬弥…です。」
「…」
言葉の返しはなかったが、東雲さんは小さく会釈を返してくれた。人見知りなのだろうか…?
にしても、近くで見ると綺麗だと改めて思う。まつ毛も多くて長いし、程よい薄さの唇は綺麗な形をしている。耳元で揺れる花と金の耳飾りは、その美しさをより引き立てる
「あ、そうだ彰人くん。さっきお客さんからカスタード饅をもらったんだけど、食べるかい?」
「…」
「大丈夫だよ。さっき僕も食べたけど、何ともなかったし、何も変なものは入ってないよ。」
「…じゃあもらいます。」
東雲さんは、カイトさんからカスタード饅を受け取ると、店内の窓の傍の席に座った。
「中で食べないのかい?」
「変な客もいないですし、外見てたいので。」
淡々とそう返すと、青年はカスタードまんを食べ始めた。
「珍しい…。あ、ごめんね、ちょっとそっけない感じで…」
「いえ。…綺麗な方ですね。」
「そうだね。たしかに綺麗だ。でも、歳は冬弥金くんと同じだよ。」
「そうなんですか?てっきり少し上かと…」
「あはは、歳にしてはちょっと雰囲気が大人びてるっていうか、大人しいもんね。」
確かに、最初は年上かと思ってしまう程落ち着いている。幼さを残した顔立ちの中にある美麗さも相まって。
それにしても、ここにはもう何度か来ているが今まで会ったことはなかったな。こんな綺麗な人、一度見たら忘れないだろうから忘れているわけではないと思う。
「彰人くんは、少し事情があってね…。ご家族は一人お姉さんがいるんだけど。たまに店の手伝いをしてもらいながら、ここに居候してるんだ。」
「ずっとここに居ましたか?」
「うん、いたよ。今まで会ったことがなかったのは、いつもは基本的に店の奥…家の方にいるからだね。今日会えたのは運がよかったよ。」
「そうなんですか…」
…彼にモデルをお願いできないだろうか…。ふとそう思った。容姿に文句はないし、今回求めている人材にも雰囲気はマッチしている。それに、彼に着てほしいデザインもいくつか思い浮かんでしまった。
きっと似合うだろう。尚且つ、反物もよく映えるはずだ。より鮮麗にその魅力を伝えることができるかもしれない。それに何より、美しいであろうその姿を見てみたい。
「あの、少し彼と話をしたいんですが…。」
「彰人くんが嫌がらなければ構わないけど…。もしかして、彰人くんをモデルにしたいと思っているのかい?」
「はい、可能であれば。」
「僕は構わないよ。いい社会勉強になるだろうし、彼自身の問題についても、もしかしたら解決するきっかけがつかめる可能性はなくはないしね。」
「問題?」
「まぁでも、彰人くん次第かな。」
「そうですよね…。ありがとうございます。早速話してみます。」
「うん、行ってらっしゃい。あ、そうだ。彼に直接綺麗だって言葉は使わないようにね。」
「?どうしてですか?」
「うーん…、その理由は僕の口からじゃ勝手に話せないかなぁ…。まぁ、綺麗って言われるのが好きじゃないんだよ、彰人くんは。」
「そう…なんですか。分かりました、気を付けます。」
カイトさんに会釈をし、少しの緊張を感じながら東雲さんの方へと向かう。
にしても、綺麗と言われるのが嫌だなんて珍しい人もいる者だ。世間一般的に言えばそれは褒め言葉だ。たいていの人が言われて嬉しい言葉の一つだろう。何か理由があるようだが、その理由を簡単には教えてくれないだろうな…。
一先ず、少しでも距離を縮めたいな。
「あの、」
近くまで来て声をかければ、オリーブ色の瞳がこちらの姿を捉えた。その目には、明らかに警戒心が見える。
「少し、お話をしませんか?」
「…。社長さんがオレなんかと話すことなんてないだろ。」
「いえ、そんなことは…。ただ少し、お話をさせていただきたいなと…」
「……」
眼力が凄いな…。凄く睨まれている。緩やかなカーブを描いて目尻が垂れていて穏やかな目つきなはずなのに、ものすごい鋭さを感じる。
「何か用事があるならさっさと言えよ。あと、その気持ち悪い敬語やめろ。あんた、ちょっと年上か同じくらいだろ。つーか、社長のくせに何であんたの方がかしこまるんだよ。」
「あぁ、えっと…分かった。単刀直入に言おう、良ければうちのモデルをやってくれないかと思って…。」
「は?なんでモデルなんかいるんだよ。あんたの会社、反物を扱ってんだろ。」
「俺の会社の売り出し方なんだ。うちは、反物がメインではあるが、自社のもので自分たちで衣服も作っている。それをモデルの方に着てもらって、反物と一緒に撮影をする。それを宣伝に使っているんだ。」
「変なやり方だな。」
「そうだな、業界内じゃ少し特殊かもしれない。でも、そうやって形となった完成品を一緒にみせることで、その反物がどのようにそれらを引き立てるのかをより明確に魅せられる。視覚的にも目を引くし、素材の魅力も伝えやすい。」
「あっそ。」
明らかに興味なさげだな…。しかし、思いの外会話をしてくれている気がする。てっきり、完璧に無視されるかもしれないと思っていたが…。
愛想のない感じに見えるが、本当は優しい人なんだろうか?
「それで、今回頼みたいのが、年に一度行われる大切なショーでのモデルなんだ。もちろん、普段の宣伝でも継続的に頼めるのであればとてもありがたいが…。」
「オレにメリットがない。」
「もちろん、給料は支払う。それから、必要であれば衣食住もこちらで用意する。」
「そんなのどうでもいいっての…。そもそも、あんたを信用できない。会って初日だぞ。」
「む…、それもそう…だな…」
「つーか、なんでオレなんだよ。もっと他にいるだろ、それこそプロとか、その辺でオレより向いてそうな奴らがいるだろ。」
「そんなことはない。貴方には一目で惹かれたんだ。目にした瞬間、〝綺麗〟だと思っ…て…」
しまった、と思った時にはもう時すでに遅しだった。その言葉をしっかりと聞き取った彼は、表情を険しくしてより強くこちらを睨んだ。
「やっぱり同じだ…」
「え、!…」
嫌悪と怒気を孕んだ声で唸り、目の前の彼は立ち上がりこちらの胸に指を刺した。
「どいつもこいつもそうやって耳障りのいい言葉を吐きやがる…っ。初めは優しいふりをするんだ。…こっちを手中に収めるためにな…!」
「ちがっ、何を言って…」
「アンタみたいな奴が一番嫌いだ!私利私欲しか考えてない、人のことをモノみたいにしか思ってない奴が…!」
「俺はそんなつもりじゃ…っ!」
何とか誤解を解こうとするが、東雲さんはオレの肩を押しのけて行ってしまう。
「彰人くん、どこに行くんだい?」
「…ちょっと散歩に行くだけです。」
「あっ…」
バタンッと強めに絞められた扉は大きな音を鳴らした。その音と共に、東雲さんは出て行ってしまった。
「夕飯までには帰ってくるんだよー…って、聞こえてないか…」
「…すみません、注意していただいていたのについ口を滑らせてしまって…。」
「あーもしかして、綺麗って言っちゃった…?」
「はい…」
「あらら、そっか…。まぁでも、あまり気にしないで。悪意があった訳じゃないんだしね。」
「ですが、相手の気分を害してしまったことには変わりありません…。あの、また会える機会はあるでしょうか…?できれば、謝罪をさせてもらいたいんです。」
「…そっか。なら、明後日彰人くんにお昼から店番を頼んでいるから、ここに来れば会えるよ。」
「分かりました。では、また改めて明後日窺わせてもらいます。」
「うん。僕は用事で席を外してると思うけど、ゆっくりしていってね。まぁ、彰人くんはああ見えていい子だから、仲良くしてあげてね。冬弥くんみたいな素直で良い子は、彰人くんにとっていい影響になるだろうしね。」
「そんなことは…。現に、早速嫌われてしまいましたし…」
あんな風に明確な嫌悪を向けられたのは初めてだ。思いの外、ショックなものだな…。
でも、どうして〝綺麗〟という言葉をあれほど嫌っているんだろうか…。あの怒り方は、ただ嫌いというだけではない気がするが…
「うーん、大丈夫じゃないかな。」
「え?」
「彰人くんは君のことを嫌いだって言ったのかもしれないけど、それはあくまでそういう人が嫌いってだけで、冬弥くん自身のことを嫌いになった訳じゃないと思うよ。」
「そういう人…というのは…」
「まぁ、いろいろね。、ま、とにかくまた話はきっとできると思うよ。」
「…そうだといいんですけど…」
「あ、そうだ!もし心配なら、仲直りするためにいいこと教えてあげよっか!」
「!ぜひ…!」
*
冬弥が店でカイトと話し始めたころ、彰人は不機嫌なまま街中を歩いていた。
「……」
なんなんだあいつ…。いきなり話しかけてきたと思ったら、訳の分からないことを言い出しやがって。しかも、あいつらと同じ言葉をオレに投げかけた。
あいつの目は、別に悪い奴な感じはしなかった。でも、過去にも同じ奴はいた。そういう奴は、結局はオレのことを利用したいだけで、こっちのご機嫌取りをするように綺麗だなんて言葉を吐く。どうせあいつも同じだ。関わらない方がいい。
『――』
「ッ―!?」
一瞬、あの視線を感じて悪寒がした。直ぐに振り返り、その正体を探すが人込みにまぎれたのか自分の気のせいだったのか、それは見つからない。
「…っ」
気持ち悪い。気のせいにしろ何にしろ、早くこの場から離れたい。自分を落ち着かせるように胸元を握り込み、足早に人込みを縫っていった。
*
「これで少しは機嫌を直してもらえるといいんだが…」
二日後。冬弥は彰人ともう一度話をすべく、手土産を手にカイトの店へと向かっていた。
カイトさんに、東雲さんは甘いものが好きだと聞いた。もので機嫌を取るのはいかがなものかともおもうが、これは俺からの謝罪の気持ちでもある。
…チーズケーキ、気に入ってもらえるだろうか…。ここのものは美味しいと有名だとこの手のことに詳しい友人に聞いたし、味は問題ないだろうが…。
昨日は、彼に早急に用件を言うように言われたのもあってすぐに本題に入ったが…。今日は世間話から始めて、まずは少しでも距離を縮める所から始めようか。何の話がいいだろうか。天気…は、ありきたりだし長く続かない。じゃあ、スイーツの話はどうだろうか。それなら彼も興味があるかもしれない。…いやしかし、俺がそう言った話に疎いな…。こんなことなら、事前にもっと調べておくべきだった…。
「にゃあ~」
「ん?」
ふと、どこからか猫の鳴き声が聞こえてきて足を止めた。
「にゃあん、にゃぁ…」
その猫は立て続けに鳴いている。何やら、少し心配そうな声にも聞こえる気がする。一体どこから…。耳を澄まし、その鳴き声の在処を探る。辿り着いたのは、一つの薄暗い路地裏だった。
恐る恐る中に入ってみると、人が一人蹲っていた。さっきから鳴いていた猫は、その人の傍に心配そうに寄り添っていた。そして、その人はつい最近見たばかりだった。
「東雲さん…!?」
蹲っているのが東雲さんだと分かり、すぐに傍に駆け寄った。
東雲さんは、自分の胸元を強く握り込んで苦しそうにしている。
「ハッ、ハッ…ヒュッ、ッ゙…!」
「大丈夫か…!?」
過呼吸か…!かなり苦しそうだ…、早く何とかしてやらないと…!
「東雲さん、俺の声が聞こえるか?」
「ッ…、ハ、…ッんで…あんた、が…ッ」
よかった…、こちらの声は聞こえているみたいだ。意識もあるみたいだな。
「少し触れるぞ。」
「ッさ、…わ、んなッ…ヒュッ、カヒュッ…っ」
弱弱しくも手を払われてしまった。嫌がることをしたくないのはもちろんだが、今はそんなことを言ってられない。明らかに一人で呼吸を整えられていないのだから。
「…今は大人しく言うことを聞いてくれ。苦しいだろう…。ただ助けたいんだ。」
「ッ…、」
まだこちらを信用していないのだろう。せめてもの抵抗と言わんばかりに、苦しさのせいで膜の張った目でこちらを睨みつけてきた。しかし、それ以上抵抗する様子はなく、背中に手をまわしても振り払われなかった。
ゆっくりと擦ってやり、努めて優しく声をかける。
「辛かったらこちらに寄りかかってもいい。ゆっくりだ、ゆっくり大きく息を吐くんだ。」
「ッ…、ハッ…ハッ、…スゥー…ッハァー…」
「そうだ、上手だぞ。そのままゆっくり続けて。」
時折詰まってしまうことはあったが、しばらくすると呼吸も段々落ち着いてきた。
「はぁ、はぁ…」
「良かった。落ち着いたみたいだな。どこか辛いところは…」
他は大丈夫か確認しようとすると、東雲さんはこちらに見向きもせず猫を抱き上げた。
「…大丈夫か?」
「にゃ!」
「…よかった…」
猫の安否を確認すると、東雲さんは優しい笑みを浮かべて猫を撫でた。
こんな優しい表情もするんだな…この人は…
「……助かった」
「え?」
「…息」
「?…あぁ、気にしないでくれ。回復したようでよかった。」
こちらを向いてはくれていないし、ぶっきらぼうではあるものの、こちらに感謝の意を伝えてくれたみたいだ。
「こんなところで倒れてるなんて、何かあったのか?」
「………こいつを蹴り飛ばそうとしてるやつがいたから、助けただけだ。」
「こいつ…?その猫のことか?」
「あぁ」
「そうか」
たぶん、他にも理由はあるんだろうな。猫を助けただけで、過呼吸を起こすほどのことにはならないだろうし。だが、深くは詮索できないな…。
「……」
「……」
「………あんた、コーヒー好きか?」
「え?あ、あぁ。」
「この後予定は?」
びっくりした。少し気まずい沈黙が続いてしまって、どうしようかと思っていたから…。一昨日のこともまだ謝れていないし…。
「…礼、する」
「え、いや…そんな。苦しそうにしているのなら助けて当然だ。それに、俺は先日、東雲さんの気分を害してしまったし…」
「それとこれとは別だ。いいから、店まで行くぞ」
「あ…」
「にゃーお」
唖然としているこちらのことなんてお構いなしに東雲さんは歩きだしてしまう。腕の中からひょっこりと顔を覗かせた猫は呑気に鳴いた。
もしかして、意外と律儀な人なのか…?元々店に行こうとはしていたが、まさかこんな形で行くことになるとは……
*
「ん。」
「ありがとう。」
店に着けば、行ってた通りコーヒーを入れて出した。
…不覚だった。まさか、あんなところをこの男に見つかるなんて…。
買い出しに街にでて、ミケが襲われてるところに遭遇して助けられたまではよかった。でもまさか、男たちがこっちに気を向けるなんて…
「猫の怪我、大したことなさそうでよかったな。」
「え、あぁ…。」
「みゃぁお」
ミケがこちらに体をすり寄せる様子に男は笑顔を浮かべ、カップを口元に傾けた。
「このコーヒー、とても美味しいな。東雲さんが淹れたのか?」
「カイトさんの真似をしてるだけだ。」
「同じ淹れ方でも、人によって違いが出るんだ。カイトさんが淹れたものをもらったこともあるが、それとはまた違った美味しさだ。」
「…」
「そうだ。東雲さんは、怪我はないか?」
「は?」
「助けた時に、どこか殴られたり…」
「ねぇよ…」
なんだよこいつ、人の心配ばかり。オレがあんたに何かしたわけでもねぇのに。それどころか、冷たい態度ばかり取ってるって言うのに。
「そうか、良かった。」
「…」
「みゃー」
「ぁ…」
少しの沈黙の中でミケが鳴いたかと思えば、男の方に近づいて行って体をすり寄せた。…こいつ、めったに人に懐かないのに…。
「ふふ、とても可愛らしいな。そういえば、この猫の名前は何と言うんだ?」
「……ミケ」
「三毛猫だからか?」
「何だよ、文句あんのかよ。」
「いや、彼女にピッタリな可愛らしい名前だ。」
そう言って男はミケを優しい眼差しで見つめ、撫でた。ミケもまた、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らして体をすり寄せ、しまいには膝の上に寝転んでしまった。
「……」
『彰人くんも、本当は分かってるんじゃない?冬弥くんが悪い人じゃないって。』
この青柳冬弥という男が来た日の夜、カイトさんは藪から棒にオレにそう言った。
*
「は?」
夜、飯を食べてると突然投げられた質問。思わず箸からじゃがいもが滑り落ち、皿へと逆戻りした。そんなこちらに構わず、カイトさんは肉じゃがを一口食べてまた話し出す。
「彰人くんは、人の視線とか目の表情に敏感だから、本当は分かってるんじゃないかな。」
「…だから、あいつが嫌な奴だって分かんるんすよ。」
「それは嘘だよね?いつもなら、誰が相手でも口すら聞かないでしょ。」
「……」
「図星かな?」
その言葉に睨むと、カイトさんはいじわるだったねと謝った。
「少しでも冬弥くんは大丈夫だって思ったから、話したんじゃない?」
「…別に、ただの気まぐれです。」
「僕は、いい機会になるんじゃないかなって思うよ。」
「何がですか。」
「彰人くんは、昔のことが原因で人を信用することが難しいし、避けがちだ。いざって時に助けられるのは、僕か絵名ちゃんたちくらい。」
「…」
「でも、僕はずっと傍にいられるわけじゃない。絵名ちゃんたちも決して近くに住んでいるわけではないし、直ぐに向かえるか分からない。それに、彰人くん自身も彼女たちを危険な目に合わせることは不本意だろう?」
「…助けてもらわなくても、自分で何とかできます…。」
「その場から逃げられても、その後自分で何とか出来たことなんてなかったんじゃない?」
「…それは…、…っ」
「…厳しい言い方をしたね。ごめんよ。」
「いえ、事実…なので…」
カイトさんはこちらの様子に申し訳なく思ったのか、苦笑を溢した。
「頼れる人は多いに越したことないと思うんだ。それに、何か変われるきっかけになるかもしれないと思ってる。」
「変わる…」
「冬弥くんは本当にいい子だよ。きっと、彰人くんのことを支えてくれる。それに、今後のことを考えれば、彰人くんには過去のことを乗り越えてもらいたいって思ってるんだ。もちろん、それは簡単なことじゃないし、彰人くんが辛い思いをするのは間違いないと思う。」
「……」
「それでも、これからも背負いながら生きていくのには、君の過去はあまりにも辛いものだろうから…。僕たちとは違う形で寄り添ってくれるような人がいてくれたらきっと、今よりもずっと辛さはなくなると思うんだ。」
「…」
カイトさんの言ってることは分かる。言うとおりだ。もう何年もたってるのに、オレはずっと過去に縛られて怯えて…。このままじゃだめだってことくらいオレだって分かってる。カイトさん達に迷惑だってずっとかけていられない。…でも…
「…考えておきます…。」
「うん。でも、無理にという訳じゃないからね。ここには、これからもいて大丈夫だから。ここも、君の家なんだから。」
「はい、ありがとうございます。」
*
時は戻り現在。
「……」
「そうだった。この間のお詫びと行ってはなんだだが、これよかったらもらってくれ。」
「?…!!これ…!」
記憶を辿っていると、男が何か箱をこちらに差し出した。不思議に思いながら箱を見ると、それは知っている店の名前が書かれていた。こうしてめったに近くでお目にかかることのできないその店名に、思わず身を乗り出した。
「カイトさんに、東雲さんは甘いものが好きだと聞いてな。俺はそう言ったものにあまり詳しくないから、友人におすすめのお店を紹介してもらったんだ。その中でも人気だというチーズケーキを買ってきた。」
「どうやって…!」
この店は個人経営の店で、色んな場所に展開し始めてはいるものの、まだまだ少ない。ここのケーキはどれも美味しいと有名で、中でも一日数量限定のチーズケーキは一番人気で、なかなか手に入らない。ずっと気になってはいたものの、オレもまだ食べたことがない。はやくから並ばないと買えないのに…。
「気に入ってもらえるといいんだが…、…」
「~!」
「…ふふっ」
「ハッ!あ…、これはちが…っ!」
前から聞こえてきた笑い声にハッとする。しまった…、つい取り乱してしまった…。いや、別に心を許したとそういんじゃねぇし…。ずっと気になってたものが目の前にあったからで…
「食器を借りてもいいだろうか?」
「…別に…いい、けど…」
*
「~!」
数分後、自分の前に置かれたチーズケーキにゴクリと生唾を飲んだ。
一度でいいから食べてみたいとずっと思っていたチーズケーキが目の前に…。いつもなら、他人から出されたものを何の警戒もせず口にすることはない。でも、チーズケーキに罪は無いわけで…
「遠慮なく食べてくれ。」
「……」
どうしようかと一度悩み目の前の男を見た。相変わらず笑顔をこちらに向けている。このままこのチーズケーキを頬張るのは自分の中の何かが許せないが、ずっと食べたいと思っていたものの前では欲望に勝てるわけもなく…。そっとフォークで取り、パクリと一口ケーキを口に運んだ。
「…!!」
「美味しいか?」
口の中に広がる想像をはるかに超えた美味しさに、男の質問につい首を縦に振ってしまう。
「そうか、気に入ってもらえたようでよかった。」
あまりの美味しさに手が止まらない。これなら、いくらでも食べられそうな気がする。
そして、あっという間に皿の上からチーズケーキがなくなってしまった。カチャリとフォークを置くと、それを待っていたかのように男もカップを置いて話し出した。
「本当に甘いものが好きなんだな。」
「…わるいかよ」
「いや、そんなことは決してない。東雲さんのケーキを食べている姿は、見ていてとても気持ちのいいものだった。お詫びの品とはいえ、ここまで喜んでもらえると嬉しいな。」
「……あっそ」
「ん?すまない、少しいいか。」
「え?」
そう聞こえたかと思うと、真っ直ぐにこちらに手が伸びてきていた。反射的に体が強張って、ぎゅっと目を瞑る。でも、特に何かされる訳でもなく、すぐにまた声が聞こえてゆっくりと目を開いた。
「すまない、驚かせてさせてしまったか…。口元にさっきのケーキが少しついていたから。」
「……」
びっくりした。それは本当だ。現に動機がひどいのが証拠だ。でも…、今みたいなことを誰かにされたら、いつもなら手を払ってでも触られることを避けてたはずだ。なのに何で…。まさか、この男相手に気を許してるのか?こいつが他の奴らとは違うっていう証拠もないのに…?オレは、無意識のうちにこいつなら大丈夫だって、そう思ってるのか…?
「少し長居してしまったな。俺はそろそろお暇しよう。」
「え…」
「ん?どうかしたのか?」
「あ…、いや。てっきり、またモデルのことで話をしに来たのかと…」
「今日は、先日のことを謝罪しに来ただけだ。それに、あまりしつこく誘うのもよくないし、無理強いをするつもりはないからな。大丈夫だ。他の人を探すこともできるから。それじゃあ、また会えたら嬉しい。お邪魔した。」
そういって一礼すると、男はあっさり帰ろうとし始めた。予想外だ…。てっきり、私利私欲のために、しつこく勧誘してくるものだと思っていたのに…。こいつは本当に、ほかのやつらとは違うのか…?
―何か変われるきっかけになるかもしれないと思ってる。
「…」
不思議とこの男といる時間は、別にいやだと感じることはない。それこそが、この青柳冬弥が他の奴らと何かが違う証拠だろう。オレだって、いつまでもこのままでいいなんて思ってない。いつまでもカイトさんに世話になって、周りに迷惑をかけ続けて…。だったら、少しでも何かが買われるかもしれないというなら…、一歩でも前に進めるかもしれないというのなら、オレは…
「それじゃあ…」
「なぁ。」
「ん?」
「…そのモデルの話、受けてもいい。」
「え、いいのか?まさか無理に…」
「なんだよ、いらないのか?」
「いや、是非お願いたい!」
「ん。」
「ありがとう、東雲さん!」
「…別に」
こんなにも純粋な笑顔を向けてくる奴は初めてだ。相変わらず、この男からは他の奴らみたいな嫌な私利私欲は感じない。こんな奴初めてだ…。一緒にいていやな気持にならないのも久しぶりな気がする。
こいつとなら…、こいつなら信頼してもいいのかもしれないなんて、らしくないことを思う。
「やるからにはちゃんとやるから。」
「あぁ、よろしく頼む。そうだ。カイトさんにも話をしないとな。」
「そうだな。まぁ、あの人帰ってくるのは明日の昼間とかになるから、明日でいいだろ。」
「そうか、分かった。では、忙しなくてすまないが、俺は帰ってさっそく各手続きを済ませようと思う。それじゃあ、東雲さん…」
「彰人でいい」
「え?」
「…呼び方、彰人でいいって言ってんだよ。…オレも、冬弥って呼ぶ…。」
「!…あぁ、わかった。それじゃあまた明日、彰人。」
「…おう。」
なんだかこっぱずかしくて冬弥の方を向かずに返事を返した。扉の閉まる音が聞こえて店に一人になったのが分かり、少し大きめのため息を吐いて後ろに倒れ込んで天を仰いで腕で顔を覆った。
「…ほんと、らしくねぇよな…」