見知らぬあなたと街角で 不死川はショーウインドーに映る自分の姿を、上から下までじっくりと見つめた。左右に身体を動かしてみるが、黒のタートルネックに同色のジャケット、チャコールのチノパンにおかしいところはない。最後に乱れた髪を整えれば、準備は万端。硝子の向こうで最新のファッションに身を包むマネキンに背を見せると、雑踏入り乱れる交差点へ眼差しを注ぐ。
待ち合わせ相手の姿は、まだ辺りにない。腕時計を確かめれば、十時を過ぎたところである。約束は三十分だったので、当然と言えば当然か。街中でぼうっと立っているのも落ち着かず、不死川は近くの店を適当にブラつくことにした。
美味そうなパン屋の店頭販売が少しだけ気になったが、それは後で一緒に食べながら歩いた方が楽しいだろう。フルーツパーラー、雑貨屋の店先を冷やかした後で、書店へとやって来た。
出入り口横の棚には、古地図が年代別に並んでいる。期間限定の企画なのだろうか? 以前、近くを通った時は気付かなかった。
東京、大阪、札幌。
知っている都市たちの昔の記憶。物珍しさもあり、自分がよく知る『東京』を手に取ってみる。大正十二年のものらしいそれは、知らない名称が地図上で飛び交い、通りの名前で辛うじて何処を示しているかが分かるような状態であった。歌舞伎座、三越と、今も同じ場所に存在している建物が目に留まると、一気に平面が立体になる。成程、これはあの辺りの地図だ。今との変化は凡そ半分くらいか? 百年と聞くと途方もない年月であるように感じるが、頭で考えるよりは身近なのかもしれない。
他の土地はどうなのだろう? 興味が増した不死川は、別の場所を見てみることにした。よし、次は札幌だ。東京を戻し、北の地が記された地図を取ろうとする。
「随分と年季の入ったものだな」
「どわああっ」
背後から突然かけられた声に、驚いて思わず叫んでしまった。振り返れば、一つに括った濡れ羽色の長い髪と、海を思わせる深い彩の瞳。桜色の唇を持った男がそこに立っている。少しだけダボついたブルーグレーのトレーナーに、サイズが二つくらい上に感じるブラックジーンズを履く姿は、借り物であるのが誰から見ても明らかである。どちらも、この男には大きい。怒鳴りつけてやろうとしていたのに。その恰好を見たら途端に頭が冷静になって、文句は引っ込んでしまった。
「…………」
「そういうの、好きなんですか」
「……や。そういう訳じゃ、ねえですけど」
「っふ」
小さく吹き出した男を睨みつければ、「失礼」と気持ちが微塵も伝わらない暢気な声が届いた。
「一人?」
「…………まァ」
「もっと愛想よくしろよ。話が続かない」
「テメェに言われたかねえっての‼ 普段あんだけ……」
背後からいきなり話し掛けられ、愛想よくなどできるものか! 頭にきた不死川は、言い返してやろうとした。しかし、その唇へ白さ際立つ人差し指が、優しく触れる。
「……初めまして、だろ」
「…………」
「向こうで美味しそうなパン屋を見つけたんだ。一人で食べるのは寂しいから……。よかったらどうですか」
「いいですよォ? 腹一杯になるまで奢ってくれるんなら」
「アンパンでは流石に味気ないだろ」
男は柔らかく笑い、不死川の腰に手を回す。そんな他愛ない振る舞いで、気持ちが上向く己の単純さよ。不死川も相手の細い腰を抱き寄せて、嫌味を込めてこめかみに頭突きをする。
「随分馴れ馴れしいんですねェ? 『初対面』なのに」
「……俺は手が早いんだ」
――ああ言えばこう言う。本っ当可愛くねえな‼
この男の好き勝手に転がされているのが腹立たしく、大きく舌打ちしたのに。隣では、気にした風でもなく穏やかに笑っている。
「こんな風にくっついていたら、恋人同士だと勘違いされてしまうな」
はにかみながらの表情に、胸がきゅう、と跳ねあがる。
ああ、クソ! 何も間違ってねえだろうがよ。その通りなんだからな!
*
不死川には、交際中の相手がいる。それが、いきなり親し気に振る舞っている『見知らぬ男』だ。そもそも、コイツとは『はじめて』ではない。二人の馴れ初めは、もう五年以上前に遡る。ならば、どうしてこんな意味不明なやり取りをしているのかと問われても、答えに窮してしまう。俺だって未だに理解が追い付かないのだ。この、常人の考えを簡単に超える発想をする男のことは。
『次の土曜日、デートをしないか。…………初めての振りで』
繁忙期に体調不良者が何人も重なり、尋常でない忙しさだった。ふらりと遊びに来た恋人にも優しくできず、作ってくれた夕食を食べ、碌に会話もせぬままベッドへ転がる。眠りの切れ端を掴もうとしたら体を揺さぶられ、そう提案されたのだ。少しの間を置いた後で続いた言葉に、予定を調べようとスマートフォンへ伸ばした腕が、ピタリと止まる。
デートは分かる。近頃放っておいてばかりだったからだ。その後が理解不能である。しかし、疲れた頭は碌に機能しない。何と答えるべきかと考えあぐねていたら、男――冨岡――は、「予定は?」と言って返事を促した。
「ちょ、ちょっと待てェ。……平気だァ、土日は久々の休み」
「そうか! なら、これを着てくれ。目印だ」
「め、めじるしって……」
冨岡は紙袋の中から洋服を一式取り出す。ジャケットにタートルネック、そしてチノパン。展開が読めずに戸惑っていたら、淡く微笑んだ男が不死川の隣へ腰を落とした。
ギシ……。
ベッドが軋み、青の瞳が上下に揺れる。厚い睫毛を少しだけ伏せ、桜色がゆっくりと距離を奪っていく。
ちゅう。
重なった唇が不死川を甘く吸い、そして離れた。鼻と鼻が触れ合ったままで、冨岡が口を動かす。先程、不死川の心を虜にした、柔らかな場所を。
「○○の交差点の近く。そこで待ち合わせる」
「……は?」
「場所は、はっきりと指定しない。初めて会うのだから。だから、お前の服を貸してくれ。俺が着る」
「全身、俺の服のテメェを探せってか?」
「……言い出したのは俺だからな。適当にブラついてくれたらいい。絶対見つけるから」
「…………」
本気なのか? この男は。言われたことを反芻してみるが、やはり思考が追い付かない。
漸く職場の環境も安定し始め、休みも取れるようになってきた。本当は家で寝てゆっくりしたいところだったが、……まあいいか。面倒になった不死川は「いいぜ」と答え、背中をベッドに預けて目を閉じた。
*
「アンパンだ」
「見りゃあ分かるっつうの」
「ここの、美味しいんだよな。食べながら歩こう」
「おう、サンキュ」
冨岡からアンパンを受け取ると、不死川は一口齧りついた。ふっくらとしたパンに隠れていたこし餡は、風味豊かで甘さもくどくない。久々の味に表情が緩んでいたら、冷たい指が頬に触れる。その先には、目を細めて笑う男の姿が。
「いい顔だ」
「冷てえのな」
手を捉えて握り込むと、指全体が氷のようだった。掴んだままジャケットのポケットへ突っ込めば、冨岡の頬は寒さではないだろう理由で真っ赤になる。
「っあ」
「……こうでもしねえと、あったまらねえだろ」
「お、まえも」
「ああ?」
「手が早い……」
「……テメェほどじゃねえわ」
不死川は顔が熱くなるのを自覚しながら、歩を進める度に流れていく、景色の中へ視線を彷徨わせた。
休日の街は人で溢れ返っている。皆、周りの人間に大して興味はないのか、それとも自分たちの目的で頭が一杯なのか。身を寄せて歩く二人に好奇の視線が注ぐことはなく、風景を形作るピースの役割を担っていた。時に味気なく感じてしまう、都会における人とのつながり。この街しか知らない自分にとっては、いまいちピンとこないけれども。今日に限っては、素晴らしいじゃないかと声を上げたくなってしまう。俯いている男はそんな街の姿も知らずに、スニーカーの先を見つめたままだ。此方にまで落ち着かないくすぐったさが伝わってきて、不死川は誤魔化すように、集中してアンパンを食べた。
「…………」
「おい、口説けよ」
「……え?」
「初対面だろォ? そこから始めなきゃ、何も変わらねえ」
「え、と……」
食べ終わったのに気付いた冨岡は、言い淀んだ後で慌てて自分も残りを平らげた。その姿に、先程までの余裕がある様は微塵もない。それが無性におかしくなって、不死川は吹き出した。
「リスみてェ」
大きく膨らんだ頬を揶揄ってやれば、冨岡は眉を吊り上げて此方を見る。
「い、いつも通りはやめろよ」
「ああ? 別にいいじゃねえか。それで楽しめば」
「だめだ。……今日はお前をナンパするんだ」
必死な様が愛おしく、気を緩めると笑いそうになってしまう。しかし、ここは我慢しなくてはならない。堪え切れずに声を出してしまったら、馬鹿にしていると勘違いされてしまうだろう。それは本意ではないのだ。
不死川は手の平に爪を立てて気を逸らし、繋がる手を自分の方へ引いて肩と肩をぶつける。すると、冨岡は焦ったように言葉を紡いだ。
「う、ううん……。趣、味は……?」
「ふっ……。テメェを太らせること」
「しなずがわっ」
「…………りょうり?」
「成程。俺は……食べることだ」
「ぶはっ」
駄目だ、つい揶揄いたくなってしまう。緩んだ気持ちを引き締めようとしたが、続いた冨岡の言葉で限界だった。爆発した笑いは中々収まらずに、肩が繰り返し上下に揺れる。不機嫌そうに待っている男へ「失礼」と返し、深呼吸した。ところが、また笑いが零れ出す。
「くっくっく……」
「台無しだ」
「へっ……。いいじゃねえか、相性ピッタリみたいだぜ、俺たち」
「もういい! どこか行こう。それで仕切り直す」
「飯、食うか? テメェが行きてェって言ってた店、この近くだぜ」
「みせ?」
「ほら、ハンバーガーの」
「え! そうなのかっ」
「知ってて、この街にしたんじゃねえの?」
「……いや、思い付きだった」
冨岡は少しばつが悪そうに答える。ひょっとしてノープランだったのか? 普通は思いつかないようなことを言い出したから、てっきり一日のスケジュールは計画済みだと思っていた。とはいえ、詰めが甘いのもこの男らしい。
「なら、行こうぜ。食いながら親交を深めるってのはどうだ?」
「……賛成だ!」
冨岡は顔を明るい表情で彩る。それに、不死川も柔らかく笑みを返すとポケットの手を外に出し、行く手を遮る人込みを縫うようにして進んだ。
時刻は十一時を過ぎている。
次の目的地が決まったのなら、向かうとしよう。あそこは人気店。あまり遅くなると席が埋まってしまう。
最寄りから、一駅移動せねばならぬ場所のハンバーガーショップへ、二人は徒歩で移動した。ゆっくりでも三十分あれば着く距離であるし、久々の休日だ。その時間を利用して話がしたいと思った。つい、いつも調子で声を掛けてしまうから、冨岡は面白くなさそうにしていたが。そんな顔が見られるのだって、この思い付きで始まった他人の振りのお蔭と言えるだろう。
「あ! 本当にあった」
「だから言っただろうが。信じてなかったのかよ?」
「そういう訳ではないが……。あまりにも出来過ぎていたから」
「……二人の出会いに乾杯でもしとくか?」
「ソフトドリンクで?」
「ハンバーガーでだっていいぜ?」
肩を竦めておどければ、冨岡が堪らず吹き出した。和やかな空気と共に、二人は自動ドアを潜っていく。
店内はほとんど埋まっていたが、窓に面したカウンター席には空きがあった。二人は入り口から離れた場所に荷物を置き、レジへと並ぶ。
「何にすんだ?」
「決まっている、欲張りセットだ」
「ぶはっ。……違ェだろ、ギガスーパーじゃねえか」
「同じだろ、うまそうなのが全部入っている」
一年前に出店した海外発のハンバーガーショップは、値段も張るが具もパンも大きく、男であっても押し潰して嵩を少なくしないと、口に入らないサイズだ。テレビでCⅯもやっていたし、朝や昼の番組でも紹介されてから、冨岡は以前より食べてみたいと繰り返し訴えていた。
現在は日本上陸一周年を記念し、人気メニューに入っていた具材をまとめたハンバーガーを、期間限定で販売している。
「不死川はどうするんだ」
「じゃあ……。テメェが二番目に食べたいヤツ」
「どうして?」
「またすぐ来られるか分かんねえだろ? おら、さっさと選びやがれ」
膝の裏に軽く脛を当てれば、「危ないぞ」と抗議をしながらも、真剣な表情でレジ上のメニューを見つめる。数分考えた後で、冨岡は海老のフリッターがたっぷりと入り、レタスとトマト、オーロラソースが掛かったバーガーを指差した。
「え、ええと。メガシュリンプ」
「おっし、了解ィ」
二人は、それぞれ好みのセットを買って席へと戻った。眼前にあるハンバーガーを、冨岡は子供のように目を輝かせて見つめ、頬は興奮故か淡く色付いている。この様子では、俺を口説くことは忘れていそうだな。
「おい。緩みすぎだろォ」
「いひゃい。だって、食べたかったんだ」
頬を抓んで揶揄っても、機嫌が下がる様子はない。冨岡が頼んだギガスーパーは、ベーコンにチェダーチーズ、ビーフパテが二枚入っている上に、ハッシュドポテトと厚切りトマト、ミートソースも入っている。相当ボリュームがあるだけに流石の俺も尻込みしてしまうが、冨岡は手で押し込んで潰すと、嬉々とした表情で大きく口を開け頬張った。ハンバーガーには三日月の歯形が残る。冨岡は頬を上下に動かして、アイスティーで喉の奥へ流し込んだ。
「うまい、とても」
「そうかよ」
「駄目だ、止まらない」
冨岡は幸せそうにそう言うと、二口、三口とハンバーガーを小さくしていく。蕩けた表情に誘われるまま、不死川も自分が頼んだ品へ齧りついた。中に入っているフリッターは、海老の肉感が確りと残っていて、オーロラソースとの相性も抜群だ。パンもふっくらとして柔らかく、冨岡の気持ちが少し分かってしまった。後を引く美味しさである。不死川は半分食べたところでやめると、冨岡の前へそれを差し出す。
「ほれ」
「……え?」
「交換しようぜ、半分」
「だ、だが。俺はそれ以上に食べてしまった……」
「つまんねえこと気にすんなよ、食えって」
「……いただきます」
不死川は、冨岡の残り三分の一ほどになったハンバーガーを受け取ると、口へと迎え入れる。なるほど、これも美味い。当たりだったな。思い付きで誘ったに過ぎなかったが、今日一緒に来られてよかった。
名残惜しい最後の一口を、不死川は体内へ送る。冨岡も食べ終わったようで、大きく腕を頭上にあげて伸びをした。
「はあ、……苦しい。紅茶入るかな」
「すげえボリュームあったな。流石、本場の味をアピールしてるだけあるわ」
「食べられて満足だ。不死川、ありがとう」
「……なあ」
「うん?」
「今日、よく本屋にいるの分かったな」
少し疑問だったのだ。待ち合わせていた交差点は、左右に道が伸びている。待ち合わせより多少時間があったのは事実だが、この男はそこまで早く約束の場所に現れない。二人が会ったのは十時半より前だった。コイツの性格を考えるなら、着いてすぐに不死川がいた方向へ進まなければ、時間が合わないのだ。
アイスティーに口をつけていた冨岡は、少し間を置いた後で「ああ……」と小さく頷く。店内の暖房で汗を掻いたカップをトレイに戻すと、悪戯っぽく笑って顔を覗き込んできた。
「勘だ」
「はあ……?」
「なんとなく、不死川はそっちに行っている気がした」
「マジかよ」
「反対側は食べ物屋が多い。何かいい店がないかチェックしている可能性もあったが……」
「違うってか?」
「それだったら、二人で探すと思った。……お前なら」
「…………」
完敗だ。普段気ままに振る舞っている姿ばかりが目につくが、案外見ているのだな。俺のことを。
「じゃあ、今日はどうしてこんな『他人ごっこ』なんて思いついたァ?」
「…………言わなくちゃダメか」
「分かりゃあ、すっきりするっつう話だなァ。俺が」
「お前、最近忙しそうだった」
「おう。夢の中でも仕事してたぜ」
「だから。息抜きに何かいつもと違うことをすれば……、いい気分転換になるかと」
徐々に小さくなる声。冨岡は言葉を切ると少し俯き、残りのアイスティーを空にする。照れているのだろうか? 飲み終わっても、此方を向く気配はない。
耳が赤くなっているのに気が付いて、優しくそれを引っ張ってやる。恋人はそれを鬱陶し気に振り払うと、唇を尖らせて話を続けた。
「……今日は。お前に好いところを見せて、完璧な一日になるはずだったのにな」
「見せてたんじゃねえ? 本屋であった時のテメェは格好良かったぜ?」
「ほ、本当かっ⁉」
「おう。……まあ、すぐ化けの皮剥がれてたけどなァ」
「それだ」
「……は?」
てっきり、怒り出すと思っていた挑発。ところが、冨岡は不死川を指差した後で腕を組み、繰り返し頷く。俺の洋服はやはり少し大きいようで、袖は手の甲を半分近く隠していた。
「不死川を、キュンとさせられるはずだったのに」
「……なんだよ?」
「結局、全部持ってかれてしまった。これでは五十点も取れていない」
「はああ? どういう意味だァ」
「別に分からなくていいっ。また作戦を練り直そう」
冨岡は頬を真っ赤にして返事をすると、ブツブツと聞き取れない声量で何やら呟いている。
――キュンはしてたぜ――
けれど、それをこんな大勢がいる場で口にするのは、少し照れ臭い。
「宅飲みでもしねえ?」
そんな言葉で自宅に誘い、人知れず頑張っていた男へ素直になってみるか? いやいや。暫く黙っていて、次に何を仕掛けてくるのか待っているのも悪くない。
さて、一体どちらを選ぶとしようか――?
真剣に考えている冨岡に気持ちは緩み、不死川は小さく笑いを零す。
案じてくれた心へ感謝を込めつつ、柔い頬を優しく抓んだ。