やさしいひと 通い慣れた廊下を進み、目的地に辿り着く。備え付けのインターフォンを押すと間を置かずに、ガチャリと扉が開いた。まるで待ち構えていたようなタイミングに清蔵タイゾウは少し驚く。
「こんばんは。よく俺が来たって分かったね」
「──こんばんは。まぁ、大体いつも同じ時間に来るから。飲み物を取るついでにね」
タイゾウを出迎えた少女、明導ヒカリは澄した顔でミネラルウォーターの入ったボトルをタイゾウに見せるとポニーテールを翻し、「毎日来なくていいのに」とそっけない態度でリビングへと戻っていく。
「こらこら、一応俺は君の保護責任者なんだから、そういうわけにもいかないだろ」
兄である明導アキナを救う為、未来からその身ひとつで来たという彼女を放って置くことなど出来ず、当面の間はタイゾウが面倒をみるという運びとなったのだ。日に一度は彼女の様子をうかがおうと夕食はこの部屋でとるようにと決めたものの友好関係の構築についてはご覧の有り様である。
その小さな背中に背負った運命を思えば仕方がないことなのだが、年頃の女の子の扱いは難しい、とタイゾウは苦笑を浮かべながら靴を脱いで部屋に上がった。
ここは清蔵グループの社宅マンションの一室。
現代社会において人ひとりを誰にも知られずに匿うことは難しい。なので自分の使える特権を最大限利用することに決めた。部下たちには親戚の子供を預かることになったと説明すると日頃の行いが良いので皆疑うことなく信じてくれたのだが、副社長であり親友でもある黒崎キョウマだけは訝しげな表情を見せた。何か言いたげにしていたが、スマンと小さく手を合わせると深い溜息と共に「問題ごとは起こすなよ」と釘を刺し、それ以上は何も触れず、彼女の入居手続きや日用品の手配までしてくれたのだから頭が下がる。頼れる副社長には改めて礼をしないとな、と頭の片隅で考えながらタイゾウも彼女のあとに続いた。
家具付きの物件なのでエアコンやテレビなど必要最低限のものは揃っているが本当に人が生活しているのかと疑問に思うほど生活感がない。自分好みのカーテンや生活雑貨を買い足しても構わないと伝えたが「必要ない」の一点張りで彼女が住み始めてからも殺風景なままのリビングに足を踏み入れローテーブルの隅に置かれた弁当を一瞥する。それはほんの少しだけ手をつけたまま、蓋が閉じられていた。
「──ここの仕出し、うちの女子社員からの評判も良いんだけど口に合わなかった?」
「別に、毎日決まった時間に届けてもらって助かってる。ただ今日は食欲が湧かないだけ、残りは明日食べるわ」
ソファに腰を下ろしたヒカリは水を飲むのも億劫そうにしながらペットボトルから唇を離す。初めて顔を合わせた時と比べれば幾分ましだが、依然として彼女の顔色は思わしくない。
「なぁ、やっぱり一度病院に行って診てもらったほうがいいんじゃないか」
「……いつものことだから平気よ。どうせ原因は分からないんだし行っても無駄。今更過去の病院で診てもらったところで何も変わらない」
タイゾウが諭すように話してもヒカリはふるふると首を横に振り「少し休めば大丈夫だから」ともうこの話はおしまいと言わんばかりに瞳を閉じてソファをベッド代わりにして横になる。
「そうは言っても栄養もろくに摂らないんじゃなぁ……」
ローテーブルを挟んで彼女の差し向かいに腰を下ろしたタイゾウは自分のハンバーグ弁当を箸でつつきながら何かいい策はないだろうかと考えを巡らせた。例えばそう、食欲がなくても好きなものだったら多少は食べられるんじゃないか、とふいに自分の好物を思い浮かべ、ちょうど自宅の冷蔵庫にはあれがあるじゃないかと思い至る。
そうと決まれば善は急げとタイゾウは残りの弁当を口いっぱいにかっ込み「ひょっと待っふぇろ!」とヒカリに言うなりそのまま部屋を飛び出した。
「はぁ? 何なの、いったい……」
部屋に一人残されたヒカリはソファから身を起こし、ただ呆然とタイゾウの後ろ姿を見送ることしか出来なかった。
◇◇
「はい、お待たせ。ちょうどストックしてたのが家にあってよかったよ」
「いや、別に待ってないけど。ストック?」
数分後、荷物を抱えて戻ってきたタイゾウはすっかり片付けられたローテーブルの上にそれらを並べたかと思えばその一つを手に取り意気揚々と語りだす。
「牧場で採れた新鮮な牛乳と卵たっぷりで栄養満点! 大人も子供もみんな大好き。俺としてはスイーツ界の王様と言っても過言じゃないと思うんだよね。そして何より君はこのお見舞いに持って行ったプリンを大層気に入っていた!」
「そんなこと言われても私は『ここの私』と違って貴方との面識は無いから見舞われたことなんて一度も無いんだけど……」
ヒカリはタイゾウの勢いに気圧されつつも呆れた様子で反論の言葉を口にする。
「まぁ、細かいことは置いといて一口だけでも食べてみなよ。絶対美味いからさ」
屈託のない笑顔で、ずいっと差し出された瓶入りのプリンとスプーンを渋々受け取ったヒカリは期待の眼差しを向けるタイゾウの視線に辟易としながらプリンの蓋に指をかけた。
「そんなに見られてると食べづらい」
「おっと失礼、じゃあ俺も一つ頂こうかな。……ん〜〜! この卵の濃厚さと口当たりのなめらかさが堪らないんだよなぁ!」
なめらか系ならここが一番、と一人で盛り上がっているとヒカリもようやく手にしたプリンを一匙すくって口へと運ぶ。
「……………美味しい」
険しい顔や仏頂面しか見せていなかった彼女の表情が自然と年相応に綻んだのが嬉しくて「だろう!」とタイゾウは満面の笑みを浮かべた。
「ドヤ顔うざ……、──これ、お兄ちゃんも食べたのかな」
彼女が小さく吐き捨てたグサリと来る言葉は兄を想ういじらしさに免じて聴き流す。
「ええと、そうだな。君が独り占めしていなければ食べたと思うよ」
「私、そこまで食い意地はってない。──と思う……」
むっとした表情で反論しつつも彼女の視線が自信無さげに彷徨った。病室で見た少女の食べっぷりと微笑ましさ思い出し、思わずフフッと吹き出すとヒカリは不可解そうに眉を寄せる。
「何、今笑うところあった?」
「あぁ、いや別に。ヒカリちゃんにはまた差し入れを持っていくよ。もちろんアキナくんの分も含めてね」
「本当! あ、いや、別にそこまでしなくていいから……」
タイゾウの言葉を聞いてぱっと華やいだヒカリの顔がまた思い詰めたように陰りを見せる。そんな顔をさせたいわけではないんだけどな。出来ればこの兄妹には笑顔でいて欲しいのにとタイゾウの胸がちくりと痛む。
「──そうか? あ、こっちの苺のやつもオススメだよ」
いるかい? と話題をそらして苺ソースがたっぷり乗った牛乳プリンを明るい調子で差し出した。
「いる」
「どうぞ」
「……ありがと」
ほぼ一方通行なやり取りで完結していた彼女との夕食の時間。今食べているのはスイーツだけれど、ほんの少しだけ距離が縮まった気がした。自分の分のチョコプリンを確保して「お茶でも淹れるよ」とタイゾウが立ち上がるとヒカリはスプーンを置いて「ねぇ」とタイゾウに呼びかける。
「私には返せるものなんて無いのに。貴方がそうやって人に優しいのってノブレス・オブリージュってやつ?」
「……別にそんな大層な志しを持ってるわけじゃないよ。ただ目の前で困ってる人がいたら手を差し伸べたくなるだけさ」
タイゾウはつとめて明るい声で答えた。
「──ふぅん、お人好しで損な性格。でも、よく似た人を知ってる……」
傍にいてくれるだけでよかったのに……。とヒカリは此処にはいない兄へと聞き取れないほど小さな声で呟いた。当然タイゾウの耳には届かない。
「うん? 今何か言ったか?」
「ううん、別に。プリンご馳走さま。──これは忠告だけど、貴方はもっと自分のことを大切にした方がいいと思う」
おやすみなさい。と言って寝室へと消える彼女の背中を見送りながら「それは君も同じだろ」とタイゾウはぽつりと呟く。
「それに返す必要なんてないさ」
これは君たち兄妹を危険な目に合わせてしまったことに対する自分本位な贖罪なのだから。
タイゾウはベランダに出て夜風に当たりながら空を見上げる。こっちは都会で見る夜空よりも随分と星が多い。願わくば運命に抗う二人に幸せが訪れますようにと祈らずにはいられなかった。