soap さっぶ、と言いながらゴミ捨て場から戻ってきて玄関のドアを開けると、片手に風呂洗いの洗剤を持ったリゾットが目の前に全裸で立ちはだかっていた。黙って後ろ手でドアを閉めてから、己の言葉を後追いするように、胸の前で交差させた手で二の腕をさすり、プロシュートはインパクトの強すぎる眼前の光景を数秒凝視し呟いた。
「メシ……」
「洗剤がねぇ」
怪訝な顔をしたリゾットが憮然と言う。
「持ってんだろ」
「中身が空だ」
振られるボトルを見て記憶が蘇る。そう言えばそうだった。最後にそれを使ったのは自分で、その時に使い切っていたのだった。
「詰替えの買い置きがあったはずだ」と言うリゾットは、玄関の脇の物置を探っていたようだった。扉が半端に空いている。
靴を脱いで上がり込みながら、「あったか?」とプロシュートは尋ね、薄暗いその中をひょいと覗き込んだ。
「無かった」
「じゃあねーんだろ」
「場所を変えたか?」
「オレが? 変えるかよ。そんなもん触りもしねぇし」
素知らぬ顔をするプロシュートをリゾットが不満げに振り返る。
「少しくらいは触れ。何でいつもオレが替えるんだ」
「オメーの方が向いてんだろ」
「こんなもんに向きも不向きもあるか。替えないなら、せめて使い切ったままにしておくな」
スポンジも無かったがどこかへやったのか?と聞かれ、それもこの間使った時に、そろそろ替え時かと思いゴミ箱に投入していたことを思い出した。
「捨てた」とこともなく告げると、「捨てたならその時に……」と小言が始まる。
「後先のことを考えて……」
「うっせーな。フルチンの奴に何言われても響かねぇよ」
「誰のせいだと思ってる」
プロシュートがゴミを捨てに出る少し前に、リゾットは早朝からのジョギングとトレーニングを終えて、シャワーを浴びるところだった。ついでに今日の自分のノルマの風呂洗いを済ませてしまおうと、服を脱ぎ洗剤を手にバスルームに入った時点で、その中身もスポンジも無いことに気が付いたのだろう。
「タオルくらい巻けよ」
「平気で素っ裸でうろつく奴がよく言えたな。大体……」
これ以上口やかましく言われてはたまらないと、プロシュートが裸体の脇を抜け、「これでいいだろ」と持って戻った食器用の洗剤と小ぶりのスポンジを手渡すと、リゾットはこれ見よがしな大きなため息をついた。
「テメーな。こんなことでいちいちハアハア言ってんじゃねーぞ。幸せが逃げるぜ?」
「誰のせいだと……」
「何でもかんでも人のせいにしてる奴は、それだけで幸福から遠ざかんだよ」
プロシュートのその場しのぎの説法に、リゾットはもはやはっきりとした反応を示さず、玄関先から踵を返した。一糸まとわぬ姿で、無駄に威風堂々と廊下を抜けバスルームに向かっていくその後ろ姿をプロシュートは眺めた。
太い首を支える広い肩。逞しい上腕二頭筋。発達した僧帽筋。鍛え上げられた腹斜筋のつくる窪みが覗く、くびれた腰回り。硬く引き締まった尻とその下に伸びる逞しく長い脚。前後に動く太い腿、そのつけ根の合間に見え隠れする影にふと目が行く。正面で見た時とはまた違う、妙な存在感がある。
見慣れはしたが、見飽きてはいない。今のところ。何だかんだ言って、あの身体のあらゆるかたさもやわらかさも味も香りも、隅々まで知り、今現在独占しているのが自分だと思うと、正直たまらないものがある。それだけで込み上げるものがある。
だからと言って、あまり見ているとそれだけ早く見飽きてしまう気もするが、見飽きないうちに見られなくなることもある。何でも、いつまでもあるもんじゃあない。すべてのものはいつかなくなるし、そのうちのいくらかは、自分がいるうちになくなる。足さない以上減っていくし、減っていなくても、ある日突然、前触れもなく。
*
「……『メシ』っていうのは何だ」
洗面所を使っていると、その水音でプロシュートの存在に気づいたのか、細く開いたドアの向こうから声が届く。
「メシ?」
「さっき言ってただろう」
「ん? ああ……」
家に入った時に自分がほとんど反射的に口にした言葉を思い出す。
「アレかと思って」
「アレ?」
「あんだろ、メシにするかフロにするか、それとも……ってヤツ」
バスルームの中で、小動物の鳴き声みたいな音が反響している。力のほどが伺い知れる、浴槽とスポンジが立てる高い摩擦音。
「朝っぱらから運動してテンション上がってるオメーが、アレを全力でふっかけてきたのかと」
リゾットは「おまえの中のオレは、随分至れり尽くせりのひょうきん者なんだな」と若干皮肉めいた声を響かせた。
「おう。理想と現実はちげーな」
世知辛ぇよな、と皮肉を返すプロシュートに、「それでおまえはメシでいいのか」とリゾットが尋ねる。
「その三択ならそれしかねぇだろ」
「変更するなら今のうちだぞ」
「しねーよ。何時だと思ってんだ」
つーかひょうきん者って。今日びあんま言わねぇだろ。久々聞いたわ、と口の端だけを笑みの形に歪ませフッと息を零しながら、プロシュートは水を止め、洗面所を離れた。
ん? じゃあ結局メシも作ってくれるってことなのか?
しばらくしてキッチンに立った時に、ふとさっきのやり取りのことを思い出した。至れり尽くせりじゃねぇか、なら後の洗い物くらいは引き受けてやろう、とその時に備えて、今のうちに新しいスポンジを出しておくことにする。
何となくこの辺りにありそうだと思ったキッチン周りの棚を片っ端から開けたが見当たらない。何かの買い物のついでに買ってきたのは自分だったような気がするが、どこに保管していたかはいまいち記憶がない。
玄関脇の物置をごそごそと探る。暗くて見えづらい。中に設えられた棚に当てずっぽうで手を伸ばし、パッケージされたものを手当たり次第引き出していたら、液体の入った詰め替え用の袋容器が現れた。
あるじゃねぇか、ちゃんと探せよ、と呆れて手に取ったパックは、ボディソープだった。ん? そう言えば、ボディソープも昨夜自分が最後に使った時に……と思った時にはすでに遅く、ガチャリとバスルームのドアが開く音が聞こえた。
「オメーはほんとオレがいねえとダメだな」
開いたドアの隙間から覗く湯気と物言いたげな顔を前に、プロシュートは言った。
「そういうものの見方もあるのか?」
バスルームの低い天井のすぐ下から落とされるため息を浴びる。
「柔軟に考えるクセをつけとくと、これ以上貴重な幸せ逃さなくて済むぞ」とほとんど仰ぐ角度で首を傾けて、ドアの隙間に向けて手にしたパックを押し付けるように差し出すと、中からリゾットが言った。
「やってくれ」
「はぁ? 甘えてんなよ……オラ、ボトル貸せ」自分の落ち度は棚に上げてつっけんどんに言い手を伸ばすと、袖口が水浸しの手でぎゅっと掴まれた。
「オイ! 濡れたじゃ……」
「中でな」
「ハァ~!?」
「その方が効率的だろう? 零しても汚れてもいい」
しれっと言ったかと思うと、更に大きく開いたドアの隙間から伸びた手が、掴んだ手首ごとプロシュートをドアの側まで力強く引き寄せる。
「自分で蒔いた種だぞ」
「オレさっき『メシ』選ばなかったか?」
「別に聞いてはねぇけどな」
「だから何時だと思ってんだって。わりーがオレはこんな朝っぱらから……」と見上げた先に、短いアッシュグレーの髪から滴る水を弾く、ぴっしりと張られた鞣し革のような肌がある。盛り上がった大胸筋、割れた腹の両脇の扇情的な窪みが、今度は間近でくっきりと見える。そして、その下の――
「なくもねぇか……」
「話が早くて何よりだ」
時間帯を理由に無下にするにはやっぱりあまりにももったいない肉体に、プロシュートはめずらしくあっさりと降参を示すように両手を上げた。
ひと時色を変えることなどお構いなしに、上体を屈めたリゾットが濡れ手でスウェットの裾の両端をしっかりと掴む。その満足げな顔に、しかしやはり幾分かの悔しさが込み上げ、
「けどツメがあめーっつーか、学習能力ねぇよな、おまえも。入る前に確認しとけよ。さっきの今で、こういう可能性くらい予想できんだろ」と一矢報いると、
「予想してたとしたらどうだ?」胸の上まで一気にたくし上げられる。
「……こっちがまんまとおびき寄せられたって?」
両腕を上に伸ばしたまま少し前傾すると同時に、裏返ったスウェットで完全に視界が塞がれる。
「初めから、オレがおまえに満たしてもらいたかったのは、ボトルの中身じゃなかったってことだ」
「ハッ、しょうもね……」頭を包みこむ厚い布地の中で鼻で笑う。
「おまえのせいで逃がした分は、おまえが補充してくれるんだろう?」
「見た目わかりづれぇけど、ほんとにテンション上がってんだなオメー」
スウェットの襟ぐりから頭が抜けた。腕からも抜き取られ、覆うものが無くなった目の前に、燃え立つような赤い瞳が待ち構えている。
「オレの幸せを減らすのも足すのもおまえだけだからな」
「さっぶ!」
二重の意味で軽く身震いし、プロシュートは脱衣カゴにこんもりと山を作る服の上に、手早くズボンと下着を積み重ねた。
足を上げバスルームの床を踏むと、廊下の向こうでゴトゴトとなにやら派手な音がした。
「……何の音だ」
「あー、多分あれだ。物置。色々引き出したからな、崩れたんだろ」
「……次から次と仕事を増やす奴だな」
「あれもやってくれんのか? 朝から何かと精が出るな」
我関せずで言ってドアを閉めると、不意打ちでシャワーが顔面にかけられ、文句を言う間もなくきつく目を閉じると唇が塞がれた。
つい今しがたまで小うるさい文句や、何食わぬ顔の与太を飛ばしていた同じ口とは思えないほど、差し迫った本気のキスを受ける。湯に入るまでもなく、冷えた身体がたちまち熱を持つ。これだからこいつは油断ならないと、これまでにも数限りなく思ったことをまた思いながら、舌の絡み合う濡れた音と漏れる声を、シャワーの音に紛らわせて狭いバスルームに響かせる。
夢中になるうちに、片手に掴んだ詰め替え用のボディーソープが床に落ち、足の甲の上に倒れた。その刺激で、すっかり頭から抜け落ちていたその存在とともに、リゾットがさっき吐いた薄ら寒い台詞がよみがえり、プロシュートはふと思った。
空っぽだ、と気付いたその時に、自分がどこにもいなければ?
こいつは空のいれものを持て余して立ち尽くすのか? さっきみたいに? あの瞬間には衝撃の余り引っ込んだ笑いが今やっと込み上げてくるかと思ったが、その想像は思いのほかプロシュートの胸を詰まらせた。足元に寝転がったパック容器を、踏まないよう足先で角に追いやり、中身のぎゅうぎゅうに詰まった身体に触れる。すべてのものはいつかなくなるし、そのうちのいくらかは、自分がいるうちになくなる。そのうちのいくらがあるうちに、自分はいなくなる。あるいはある日突然、前触れもなく。ならばせめて自分がいるうちは、面倒でも呼ばれれば、請われれば足してやる。請われずとも足してやる。その作業の向き不向きで言うと、とりあえず、ことこいつに関してだけは、多分そこそこ向いているので。