ピーター・グライムズの画廊 狐と陽斗がアトリエから出てきても、目の前の男は顔を上げる事なくキャンバスに集中していた。陽斗が狐の耳元で怪訝そうに囁く。
「何や、あのおっさん。俺達が勝手にアトリエに出入りしても何も言わんなぁ」
「うん。普通だったら勝手に入るなって、怒ると思うんだけど…」
二人が首を傾げながら黙ってしまうと、静寂に守られた画廊の中で、男の筆を走らせる音だけが存在を主張するように響いた。
床に敷き詰められた赤い絨毯。それに映える白い壁。壁に掛けられた無数の絵画はどれも写実的に描かれてはいるものの、音を発する事も無ければ動き出す事も無い。ただ、時を止めた姿のまま額縁へと収まっている。生きたまま閉じ込められたような生々しさが、この画廊に一層の不気味さを添えていた。
奥に続く廊下へと目を向ける。そこにはやはり額縁が並んでおり、女の子が好みそうなドレスや食べ物が描かれていた。
静かな画廊の一番目立つ場所に、一際立派な額縁があった。飾られた額縁には金髪の美しい少女の肖像画が入れられており、ライトアップされているせいか、その青い目は僅かな光を湛え、水面のように揺らめいて見えた。柔らかな微笑みを浮かべた唇、肩にかかる豊かな金髪。この少女だけが生きる事を望まれたかのように、この画廊に君臨していた。
…そういえばここの画廊、人物画が少ないかも。
狐が赤い絨毯を踏み締め、男の後ろへと回り込む。巨大なキャンバスは先程見た時よりも筆が進んでおり、狐と陽斗がより詳細に描き込まれていた。
…この人、僕達を描いてどうするんだろう?
「お、さっきよりも出来上がってんなあ」
陽斗の明るい声に狐がうん、と頷く。そしてその全身を見て、はっと目を見張った。
「先生、さっきよりも体がハッキリしてるよ!」
「ほんまや!そういう稲荷田さんも、さっきよりはっきりしとるで!」
二人はお互いの体を見た後、それぞれ自分の体に視線を落とした。最初に来た時は足首の高さまでしかはっきりとしていなかった体が、今は膝の辺りまで輪郭と色彩を取り戻している。
「何コレ、僕達どうなってんの!?」
「わからへんけど、思ったよりマズい事になってへんか?!」
「ピーターパンにネバーランドに連れていかれちゃうのかな?僕、もう三十五なのに無理があるよ!」
「俺かて二十二やで!…ちゃうねん、そういう問題やないねん!」
二人があたふたとしていると、背後から鈴を転がすような可憐な声が聞こえた。
「こんにちは!お兄さん達、とっても賑やかなのね」
驚きながら振り返ると、そこにはいつの間に現れたのか、金髪の少女が立っていた。緩く波打つ髪をハーフアップにし、控え目にフリルの施されたワンピースを着た姿は、不思議の国のアリスを連想させた。
「な、なんや、嬢ちゃん。いつの間におってん?どっから来たん?」
驚きを隠せない陽斗が面白かったのか、少女はクスクスっと口元に手を当てて笑う。
「あそこよ」
少女の白く細い指が示す先には、ライトアップされた額縁があった。しかし、先程まで入れられていた少女の肖像画は綺麗に消え去っている。
「私ね、ずっとお友達が欲しかったの!パパにお願いして良かったわ。こんなに楽しいお兄さん達を描いてくれるなんて!」
少女の無邪気な笑顔の横で、狐と陽斗は自分達の運命を察した。