かんおけのなかにいる 早乙女に手を引かれ、狐は墓地の最奥にある薔薇の生垣の前に立った。無数の触手をゆらめかせる、黒い不定形の生き物を目の当たりにしたせいか、頭がジリジリと重い。それは早乙女も同じらしく、ランタンの炎に照らされた端正な顔はいつのも快活さを欠いている。それでも早乙女は警察としての義務感からか、生まれ持っての正義感からなのか、必死に生垣をランタンで照らし、二人が生き残る術を探していた。
「駄目だな、無傷で通り抜けられそうにない」
ため息混じりに早乙女が言う。革手袋を外し、薔薇の鋭い棘に指先で触れると白い指先にぽつんと赤い血の珠が浮かんだ。途端に僅かなうめき声を上げ、早乙女が頭を抑えた。
「早乙女さん!」
ようやく我に返った狐が早乙女に駆け寄る。大丈夫だとでも言うかのように、早乙女は右手を軽く上げた。
「この薔薇の棘に触らない方が良い。頭痛が酷くなる」
額にうっすらと汗を浮かべ、ふうっと大きく息を吐くと、早乙女はもう一度ランタンで生垣を照らした。狐も早乙女に習い生垣を見るが、花も棘も隙間なくびっしりと生えている。抜け道は無い。
ふっと、風に乗ってか細い声が狐の耳に届いた。
テケリ・リ、テケリ・リ。
じゅくじゅくという粘液を捏ね回すような音が幾つも聞こえる。それは凄まじい速さで二人を目掛けて集まってきていた。背筋が冷たくなる。
狐はすぐに早乙女の肩に手を置き、耳元で低く囁いた。
「囲まれてる。時間が無い」
「…やむを得んな」
忌々しそうに早乙女が呟き、ロングコートを脱いだ。それを頭から被り、狐に手招きをする。
「ほら、行くぞ。これを頭から被っていれば少しはマシだろ」
「あ、え、僕も入って良いの?」
「当たり前だろ。ほら、早く行くぞ」
狐はしばらくあんぐりと口を開け、そのうちに顔を真っ赤にしてきゅぅっと肩をすぼめ、小さくなった。
「あ、うん、はい…」
早乙女の隣にコソコソと滑り込むと、狐は気恥ずかしさから更に肩を小さく丸める。
「そう、そうやって姿勢を低くしてくれよ」
頭から早乙女のコートを被り、呼吸を合わせて二人で生垣の中へと突っ込んだ。薔薇とは思えない程の硬い棘が二人を刺す。剥き出しの肌に赤い筋が幾つも走る。そこからぷっくりと赤い血の珠ができ、肌を滑っていった。
棘に刺される痛みとは別に、酷い頭痛がした。脳を掻きむしられるような目眩と吐き気に、足が止まりそうになる。それを察してか、励ますように早乙女が狐の腕を力強く掴んだ。その感触に勇気づけられ、狐は再び足を進める。生垣を抜けると、二人はぐったりと膝に手を付いた。
「…大丈夫か?」
「…あんまり大丈夫じゃないけど、大丈夫」
狐の妙な返事に、早乙女が思わず苦笑いをした。
「…あんたって人は」
ふふっと狐も思わず笑い返す。そして、自然と二人の視線は前方に止められた車に向けられた。
「警察としてはあまり気が進まないが、アレに乗って行くか」
「うん」
「俺が運転するから、あんたは助手席に座ってくれ」
「はーい」
狐が言われるがままに助手席のドアを開けると、遠くから聞き覚えのあるか細い声が聞こえた。
テケリ・リ、テケリ・リ。
墓場で聞いた声だ。
一足先に運転席に乗り込んでいる早乙女は気が付いてはいない。素早く助手席に滑り込み、シートベルトを締めながら狐は低く短く口にした。
「追われてる」
少し目を見開いた後、早乙女は小さく頷きエンジンをかける。アクセルが踏み込まれ車体が前進するのを感じながら、二人はルームミラーで後方を確認した。
ゆらりとルームミラーに映ったのは、山よりも大きな生き物だった。黒い体表にぬらぬらとした重油を思わせる虹色を浮かべ、無数の触手を揺らめかせている。表面に浮かんだ無数の目と目線があった。
テケリ・リ!テケリ・リ!!
か細い声が何重にも重なる。ぐちゃぐちゃと汚泥を思わせる音が凄まじい速さで車を追いかけてきた。
テケリ・リ!テケリ・リ!!
ブンっと風を切る音がする。狐の耳が素早くその音を拾った。
「左に避けて!」
早乙女が勢いよくハンドルを切る。バシンっ!と音がしてすぐ横のアスファルトにヒビが入った。
慌ててルームミラーを見るが相手が大きすぎて全身が確認出来ない。化け物の触手がどこから飛んでくるか見当もつかなかった。
…動きが読めない、音を拾うしかないのか。
早乙女さん、と狐はいつものふざけた様子を引っ込め、真剣に早乙女の名前を呼んだ。
「僕が音であいつの攻撃を読みます。早乙女さんは僕の指示に従って運転をしてください」
早乙女はちらりと視線だけを狐にやると、迷わず答えた。
「わかった、頼んだぞ」
アクセルが一層強く踏み込まれる。狐は祈るように両手を組み、口元に当て目を細めた。
…守られているばかりじゃ駄目。この人は僕が守るって決めたんだから。
緊張の糸が張り詰める。
狐が狩りの体勢に入った。
「おまけのエンディング」
警視庁で事情聴取を受けた後、狐は約束通り早乙女と食堂で朝食を採った。食後のコーヒーに狐は強張った面持ちで口を付ける。
「警視庁で朝ご飯を食べるって緊張するね…」
「今じゃさすがに慣れたが、俺も最初は緊張していたな」
「なーんか、逮捕されちゃったみたい…」
「何もしてなきゃされないさ」
うーん、と曖昧な返事をする狐に、早乙女は僅かに両眉を上げた。
「あんた、これから名古屋へ帰るのか?」
「そうだなぁ、今から帰っても遅刻確定だし、仕事は暇だし、急いで帰ってもなぁって思ってるんです」
有給貯まってるし、と狐がぼやくと、早乙女はその目の前に黒革のキーケースをぶら下げた。目を丸くする狐に早乙女が笑う。
「あんたさえ良ければ、少し仮眠を取った後でドライブに行かないか?」
「ドライブ?」
「ああ、さっき休暇申請をしてきた。俺のドライブコースで良ければ行ってみないか?」
早乙女からの提案に狐の目が更に丸くなり、上気した頬は見る見るうちに赤くなった。
「い、良いの…?」
「ああ、もちろんだ」
狐は感極まったかのように立ち上がり、がしっと早乙女の手を両手で掴んだ。
「嬉しい!結婚しよう!早乙女さん!!」
「だから、そういう言葉は慎重に使えって言ってるだろ!」