7/28 天つ空に祝福を無配カヴェ空「えっと、この問題は…… 」
「ここの問は前ページの数式を用いるんだ」
茹だるような気温の中、生命力を掛けた蝉の鳴き声が辺り一面に響き渡り、暑さを余計に増長させている。梅雨も終わった今はまさに夏真っ最中。
学生である空は学校が夏休みに突入し、ほぼ毎日のようにカーヴェの工場に入り浸っていた。
空が入り浸る理由の殆どはマシンの相談だったが、学生も本業である空にとってカーヴェという人生の先輩は助け舟のようにありがたい存在だった。
「そうなると……答えはこう、かな? 」
「うん、正解だ。やれば出来るじゃないか! 」
「えへへ。カーヴェの教え方が上手いからだよ」
空は体育の成績はずば抜けて良いのだが、その他の教科は人並だった。
特に数学は苦手な科目であった為、工学部出身のカーヴェにこうして課題を見て貰っていた。
「空は変に頭が固いからな。もう少し単純に考えればいいんだ」
「だって応用って単語見ると色々考えちゃうんだもん……」
頬を膨らませて少しだけむくれた表情をする空に「まあ、そこが君の良い所だけどな」とカーヴェは優しく空の頭を撫でた。
カーヴェの撫でる手付きが心地良かったのか空は気持ち良さそうに目を細める。寧ろもっと撫でて欲しい、と思ったのか空はカーヴェの大きな手に自分のおでこを無意識に擦り寄せた。
その仕草がまるで猫のようで見る人のハートをキュンっとさせる。
無論、空の頭を撫でている当事者のカーヴェはトキメキまくりで「ぐぅ……っ」と唸りながら胸を手で押さえ付けていた。
「……ナニ、アレ」
「……さあ? 」
二人の世界を展開し続けているカーヴェと空から机一つ分離れた所で蛍とティナリが呆れた視線を向ける。その声には抑揚がまるで無い。
勉強会が始まってからというもの、カーヴェと空はずっとこの雰囲気なのだ。
行き場のない気持ちを表すように蛍はここに来る途中で購入した旬の果物を使用したフラペチーノを下品な音を立てて飲み干す。
口の中に広がる濃厚な生クリームと果物のマリアージュはとても美味しいのだが、今の蛍には胸焼けを起こしそうだった。
工場にはカーヴェと空の他にも蛍とティナリも居たのだが二人は完全に蚊帳の外のようだった。
「しかも、まだ付き合ってないんだよ。アレで……」
「はぁっ?! 嘘でしょ?! 」
ティナリから告げられた真実に蛍は感情をあらわにして机を叩く。怒りというよりはその怒りを通り越して呆れた、の感情が強い。
蛍が空からバレンタインデーのお返しを貰った、と喜んでいた時から季節は冬から夏に衣替えしているというのに二人の関係は一ミリも進んでいなかった事実にただただ呆れるしかなかった。
空はいつも蛍にカーヴェと何があったか楽しい報告しかして来なかったからてっきり二人は付き合っているのだと思っていた。
(流石に二人とも奥手過ぎるでしょ!? )
傍から見ればイチャイチャバカップルにしか見えないというのに。これで恋人として付き合っていないとは……。
そう考えると蛍の心にむくむく、と芽生えてくるお節介心。
「じれったいなーっ! 私、ちょっとヤラシイ雰囲気にしてくるっ! 」
「ちょっ、ちょっと! 蛍、ストップ! 落ち着いてよく考えてみなよ。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえってよく言われるでしょ? 」
「邪魔じゃないもん……恋のキューピットだもん……」
流石は双子と言うべきか、ぷくっと頬を膨らませて屁理屈を言う蛍はさっきの空と全く同じ言動だ。
蛍からしてみれば四ヶ月もカーヴェと進展のない状態が続いている空の事を考えれば不憫でならないのだろう。
「まぁまぁ。蛍が思っている以上に二人は大丈夫だと僕は思うけどな」
「……。」
確かに蛍の視点から見ても今の空とカーヴェはどこからどう見ても恋人同士に見える。
想いを告げる事も大事だが、それ以上に本人達がその関係に納得していればいいのではないか、と蛍も思い始めた。
そう思うと蛍は自分がここまで悩んでいるのが馬鹿らしく思えてきた。
「……あーあっ! 悩んでるの馬鹿らしくなってきちゃった! それに、何だかとーっっても濃いブラックコーヒー飲みたい気分! 」
「それじゃあ、苦労人で功労者の蛍にはティナリお兄さんがご馳走してあげようかな。僕も丁度飲みたかったし。甘さも一切無い目が覚める位飛びきりにが〜いやつ」
「やった! じゃ、早く買いに行こ! お兄ちゃん! 私達ちょっと出てくるから! 」
「えっ?! 蛍どこ行くの……」
空が言い終わらないうちに蛍とティナリは足早に工場から出て行ってしまった。
「まぁ、ティナリが一緒なら彼女も大丈夫だろう」
取り残された空とカーヴェはあまりの早急な展開に呆気にとられるしかなかったがカーヴェの言葉に直ぐ勉強を再開させた。
二人は課題を黙々と終わらせていき、気が付けば太陽は西に傾き茜色の天に染まっていた。
「わ! もう、こんな時間になってたんだね」
「気が付けばあっという間だったな」
二人は机の上に散乱していた筆記用具や辞書を整理しながら鞄の中へ片付けていく。
「カーヴェの教え方が上手くて課題、とっても捗っちゃった! 」
「君の力になれたのなら何よりだ」
「うん! ありがとう、カーヴェ」
空が心からのお礼を述べるとカーヴェの瞳が蜃気楼と様に揺らめくのが見えた。
窓から射し込む陽射しで工場内が茜色に広がる中、壁も服もカーヴェの綺麗な髪も辺り一面に茜色一色だ。
「空」
名前を呼ばれて空が視線を向けると真剣な面持ちなカーヴェが距離を縮めてくる。
それはほんの数秒の出来事で、気が付けば抱き締められてしまうのでは? と思う位に二人の間に距離は無くなっていた。
(カーヴェの瞳ってとても綺麗な夕焼け色なんだぁ)
なんて呑気に空が思っているとカーヴェの唇が重ねられた。
驚きで見開いた空の視界いっぱいに広がるカーヴェの綺麗な顔。ここで空はようやく自分がカーヴェに口付けられているのだと認識した。
(あっ……俺カーヴェにキス、されてるんだ)
いきなりの出来事で驚きはしたものの、空は内心とても嬉しさを感じ目を閉じる。
空の片思いだと思っていたけれどドキドキ、と期待と緊張で胸が高鳴ってしまう。
「……。」
「……。」
唇が離れ、二人の間に無言の空気が流れる。
照れくさい気持ちが先立ち、お互いの顔を見る事が出来ない。
空はニヤけそうになる頬を慌てて押さえ付ける。頬は火が出そうな程熱く、火傷してしまいそうだった。
内側から叩きつけてくる高鳴る心臓は未だに力強く、しばらく落ち着くのは無理そうだ。
「……いきなり口付けてしまってすまない。君があまりにも可愛らしくて抑えが効かなかった……ダメな大人だな、僕は……」
先に口を開いたのはカーヴェで衝動的にしてしまった己の行動を省みているようだ。
しかし、その表情は空と同じように頬が緩んで赤みが差している。
空に口付けを拒まれなかった事が少なからず嬉しいようだった。
「ううん。俺、嬉しい」
カーヴェからの口付けと気持ちを噛み締めながら空がはにかむ様に笑みを浮かべた。
この言葉にカーヴェの表情が花が咲いたように綻び嬉しさのあまり、空の両手を握り締める。
「順序が逆になってしまったし気持ちを伝えるのが遅くなってすまない。空、僕は君の事が好きだ。10歳以上離れてしまっておじさんの部類かもしれないけれど、僕と付き合ってくれないだろうか? 」
「俺も……っ! カーヴェの事が好きっ! 俺をカーヴェの恋人にしてください」
「君の様に可愛い人が僕の恋人なんて身に余る光栄さっ」
感極まったカーヴェが一回り以上小さい空の身体を抱き締めた。
カーヴェの服からほのかに香るオーデコロンの匂いに空は抱き締めてくれる腕の大きさ背中の広さに大人の魅力を身体いっぱいに感じる。
心臓はさっきから破裂しそうな程、高鳴ってるのにこれ以上刺激があったら本当に爆発してしまいそうだ。
「空……もう一度、君とキスがしたい。ダメ、だろうか? 」
「っ! 」
カーヴェの夕焼け色の瞳が伺うように空を見詰めてくる。
その表情が可愛らしくおねだりをしてくる仔犬のようなイメージを彷彿させ、あまりの可愛さに空は息を呑んだ。
「……うん、いいよ」
大人の人でもこんなに可愛く見えるんだ、と新たな発見に胸をときめかせながら空は目を瞑った。
その様子にカーヴェの安堵したような空気を肌で感じ、次の瞬間には優しく唇に口付けられた。
茜色に染まった工場の中。カーヴェの人柄を表すような優しい口付けに幸せを感じながら、この日からカーヴェと空の交際は始まった。
その夜、家に帰宅した空はカーヴェと付き合う事になった経緯を蛍に報告すると色々な情緒が爆発した蛍が泣きながらその胸の内を大声で主張した。
「告白されて赤くなるお兄ちゃんの可愛いお顔、写真に撮りたかったよぉッッ!! 」