整備士🏛とレーサー⛅️の青春譚 青い空、輝く太陽。その下で行われるカーレース。風を切るマシンのエンジン音、ヒートアップする実況、黄色い歓声……そして、サーキット内で舞い上がった風に乗り鼻の奥を擽るオイルのニオイ。ここが僕の居場所だった。
「カーヴェ!君、また専属契約自分から打ち切ったんだって?!」
「……耳に入るのが早いな」
幼馴染のティナリが怒鳴りながら僕の工場にやって来た。正直、今の僕にその話題は耳が痛いのだが彼は僕を心配して言ってきてくれているのだから邪険には出来ない。
「このままじゃ君、本当ーに!一文無しになっちゃうよ?!」
「……わかっているッ!でも、僕はこの仕事に誇りを持っているんだ!僕のポリシーに反する輩とは一緒にバディを組む事は出来ない!」
「そのポリシーのせいで今期、僕に何回ご飯奢って貰ったの?」
ティナリの鋭い眼光に睨まれて言葉を詰まらせる。フンッ!と彼に背を向けて作業を再開させる。僕はこの仕事が好きだ、誇りを持っている。やるなら満足のいくものにしたい。だから、そこは妥協したくないんだ。僕だって出会ってみたいさ、ポリシーが合致するバディに……。
「……あのっ!」
「!」
突如耳に入る聞き覚えのない声。振り向くと蜂蜜色の長い髪を三つ編みに流した可愛い少女が立っていた。髪と同じ蜂蜜色の瞳が強く僕を見詰めているのが印象的だった。
「整備士のカーヴェ……さん、は貴方ですよね?」
可愛い少女じゃなくて可愛い少年、の間違いだった。しかもこの子僕の事今、呼び捨てで呼ぼうとしただろ。
「……何か用かい?」
「貴方に俺の専属整備士になって欲しくて」
「!」
自分で言うのもなんだが整備士としての腕が良い。そりゃもう、一流さ!お陰で色んな人から声は掛けて貰ってきたが……僕のポリシーに合う人は中々いなかった。専属契約を急に打ち切るものだから今ではこの界隈じゃ、一部の人達からは厄介者扱いさ。まあ、僕より実力付けてから物言えって話だから大して気にはしてない。しかし、こんな子供からもオファーが来るなんてな……。僕に依頼してくるという事は実力はあるんだろうけど……少々複雑な心境だ。正直な所、またか……と思ってしまった。どうせこの子も僕とは合わないに決まっている。
「……まずは僕の試験に合格してからの話になるな。話はそれからって事で」
「試験?」
「あぁ。この工場にあるマシンで君の走りを見せて欲しい。どのマシンでも構わない」
試験とは言っても一方的なものだ。僕がこの少年のマシンに対する思いやその技術を見定めて契約をどうするか決める、という理不尽極まりないものだった。少々大人気ないとは思ったが今の僕はそれだけ専属、というものにうんざりしていたのだ。
「……わかった」
意を決したように彼はマシンを選びだした。ここにあるマシンは僕が手掛けたモノばかりだ。どれも丹精込めて整備している。その中で彼が選んだのは一番奥に配置していたマシンだった。
「うん、このマシンにする」
「!」
マシンに乗り込み、ハンドルを握った瞬間彼の眼差しが穏やかな色から勝負師のものへと変わった。レースを楽しみながらも勝負にも真剣に挑む、そんな眼差しをしている。彼がアクセルを踏んでからは勝負は一瞬だった。勝負に対する態度、マシンの選び方、走らせ方、そしてマシンはの思い……結果は僕の負けだった。
「負けたよ……」
マシンから降りてヘルメットを脱いだ彼に一言告げた。勝負をしていた訳でもないのに僕のこの一言に彼が戸惑うのも仕方ない。
「いや、すまないこっちの話だ……君は合格だよ。男に二言は無い!僕は君の専属整備士になろう」
「!本当に!?」
僕の一言に彼は先程までの勝負を楽しんでいる野性味を帯びた瞳の色はなりを潜めている。今は年相応な表情で僕の一言を喜んでいる。
「やったぁ!!カーヴェ、かなり気難しい人って聞いてたから……」
蜂蜜色の瞳をキラキラと輝かせて喜んでいる姿は本来の彼なのだろう。素直でとても可愛い反応だった。……最初は生意気に見えたが可愛い所もあるじゃないか。最後の一言は聞き捨てならないが
「ぐっ……僕は気難しいんじゃない!ポリシーを持って仕事をしてるだけさ!……それより君はどうしてあのマシンを選んだんだい?」
そう、彼が乗ったマシンを選んだ理由を僕は知りたかった。あのマシンは工場の奥に居て、見た目も今流行りではなかった。今まで出会ってきた輩は皆、流行りや見た目ばかりを重視していた。僕はそれがどうしても受け入れられなくて契約を打ち切ってきた訳だけど。
「?あのマシンが一番手入れされていて、乗りやすそうだったから……かな?実際運転席に座ったらとても乗りやすかったよ!」
「!」
彼の言葉が僕の頑なになっていた心を解してくれいくようだった。あのマシンは僕が一番最初に一から手掛けたマシンだ。だから、年季は経っているし処女作だから見てくれもあまり良くない。けど、思い入れも愛情も一番にあるマシンだ。だから、彼があのマシンを選んで気に入ってくれた事が僕にとってとても嬉しかった。……やっと僕のポリシーを理解してくれるバディに巡り会えた気がする。
「あのマシンを気に入って貰えて嬉しいよ、僕もあのマシンが一番のお気に入りでね」
「だと思った!手入れがとっても行き渡ってて乗りやすかったもの!」
「ありがとう。改めて自己紹介させてくれ、僕はカーヴェ。これからバディとしてよろしく頼むよ」
彼への敬意とこれからの事を踏まえて手を差し出す。すると彼は嬉しそうに目を輝かせて両手で僕の手を取った。その手の温かさに僕の胸は小さく踊った。僕と契約出来て本当に嬉しそうにするんだな。可愛いじゃないか。
「俺は空!これからよろしくね!カーヴェ!……さん」
「カーヴェでいいよ」
お互い差し出した手を握り握手を交わす。ようやく見付けた運命のバディの空。彼がまさか今後、僕の運命の恋人になるなんてこの時はまだ思ってもいなかった。
◇◇◇
それは雑誌に目を通していた時に偶然見つけてしまった。
最近、自分は新たな専属契約をしたばかりだ。相手は自分と十は離れているであろう少年。最初こそは不審に思ってしまったがマシンに対する思いと接し方に惚れて専属契約を決めた。年下なのに本当にしっかりしている、そんな彼はどこか良い所のお坊ちゃんなんだと思っていたが……
「まさか、スターだったとはね……」
読んでいたページをそのまま机に置いて溜息。年端のいかない少年がいきなり自分と専属契約を結ぶなんておかしな話だと思った。記事を見ると『期待の新星!双極の綺羅星!』と見出しが書かれ、彼と彼によく似た少女が写っていた。双子の兄妹揃って天才レーサーだと専らの噂だったらしい。この事を知らなかったのをティナリにとても咎められた。
『君はマシン以外の事に興味持たな過ぎ!』
そう言われて渡されたのがこの雑誌だった。写真に写る兄妹はとても見目麗しく、上流階級の人間です!というオーラを出している。
(それに比べで僕は……しがない一般の整備士だ。なんなら業界の一部からは煙たがられているしな……)
何故、彼が自分と専属契約を結んでくれたのか真意は分からないけれど自分が他人と比べで誇れる所はマシンに掛ける情熱と人より少しだけ手先が器用な事位だ。
(まずい……考えれば考える程僕が彼と見合っていなさすぎて惨めになってくる……もう、考えるのはよそう……)
「えいっ!」
「ひえぇぇッ!!!!!」
いきなり首元をキンキンに冷えた手で掴まれ、情けない程の悲鳴をあげてしまった。そのお陰なのか落ち込みかけていた気持ちが吹っ飛んだ。
「〜〜ッ!何をするだ!空!」
空、と呼んだこの少年こそ天才レーサーであり自分の専属の契約者だ。肌は雪のように白く太陽色の長い髪を緩やかに三つ編みで流している。緩く結び過ぎているのか所々猫の毛のように跳ねていた。傍から見れば女の子のような容姿で男子用のブレザーの制服を着ていなければ容易に間違ってしまうだろう。
「あっ、やっぱり冷たかった?」
「当たり前だろうッ?!まったく!」
自分に仕掛けた悪戯が成功したのが嬉しいのか、えへへ!と髪色と同じ色の瞳を輝かせている。最初こそは大人びた印象を受けたが今は年相応の少年にしか見えない。
「そんなに怒らないで。ほら、今日寒かったでしょ?だから、ハイこれ差し入れ!」
差し出されたカップを受け取るとまだ暖かく、香ばしくも甘い香りが漂ってきた。
「ホットチョコレート?」
「そ!うちの近所にあるカフェのやつなんだけど本当に美味しいからカーヴェにも飲んで欲しくて!」
にぱッ!と心からの笑顔を見る限り今度は悪戯は無しのようだ。悪戯は勘弁だがこの笑顔を向けられるのは悪い気はしない。自分は一人っ子だけど、弟がいたらこんな感じなのだろうか?と思いながら「ありがとう」と礼を言った。不意に空の口端に食べ残しが目に入り指で軽く拭ってやった。
「はは!美味しいのはホットチョコレートだけかい?存外、君も子供っぽい所があって安心したよ」
「っ!あっ、わっ……!えと、クレープも美味しいんだよ!だからつい……」
そう言って顔を真っ赤にし口をもごつかせる空は今日一番可愛い反応だった。だけど、彼はスターだ。専属契約者である自分それに釣り合う存在にならなければ申し訳が立たない。「よしっ!」と気合いを入れ、ホットチョコレートを飲みながらマシンに向き合い集中力を高めるのだった。だから、気が付かなった。
「カーヴェに触られちゃったっ!でも、良かった……ちゃんと渡せた」
空が顔を真っ赤にさせたまま意味深な事を呟いていた事に。
【おまけ】チョコを渡したい空君と相談に乗る蛍ちゃん
「えっ!カーヴェさんにチョコを渡したい?!」
「うん……っ!」
唐突な兄の提案に驚きを隠せず声が大きくなってしまった。恋愛に奥手の奥手な兄がバレンタインデーにチョコを渡したいなんて……それ程までにカーヴェさんの事が好きなのね。妹として兄の恋路は応援するしかない!と、どんなレースの時よりもヤル気が漲ってきてる気がする!
「そうだね……もうバレンタインデーまで日がないし、初めて渡す物が手作りは少し重いかもしれないから……」
「うんうん……っ!」
律儀に正座をして頷きながらメモを取る兄。頷く度にアホ毛が揺れるてるのが何だか可愛い。自分の話に一言も漏らすまいと真剣に耳を傾けている兄の顔は完全に恋する人のものだ。兄にこれだけ想われてるカーヴェさんが少しだけ羨ましい。
「さり気な〜く渡せる感じのホットチョコレートとかどうかな?ほら、近所のカフェの!」
「いいかも!」
「自然体が大事よ!お兄ちゃん!」
こうして兄の初めてのバレンタインデーを成功させるべく作戦会議は夜が深まるまで行われたのだった。頑張ってね!お兄ちゃん!
◇◇◇
バニラと砂糖の甘い香り。淡いピンクや黄色、女の子が喜ぶであろうパステルカラーのハート型やお星様を象ったバルーンアートで彩られた店内。その一角で頭一つ分飛び抜けている高身長。ましてや店の雰囲気とは似つかわしくない成人男性である自分は異端のように目立っている事だろう。
「うーん……」
騒然とする店内で眉間に皺を寄せて声を漏らす。幸い、この声を聞かれる事はなかったが今、自分は本気で頭を悩ませていた。理由は店内の装飾でも施されている『ホワイトデー』の文字。今、自分はバレンタインデーのお返しを選びに来ていた。
脳裏に過ぎる先月のティナリとのやり取り。空からホットチョコレートを差し入れて貰った日の夜、ティナリとは飲む約束をしていた。話しの流れで空からホットチョコレート貰った事を言うとティナリは顔を綻ばせて言った。
『 じゃあ、来月はキチンとお返ししないとね』
『来月? 』
何かあったか?と言うように目を瞬くとティナリに本気で信じらんないっ!と顔をしかめてテーブルを叩き怒鳴った。
『君……っ、本当に……っ! 自分への好意に鈍すぎッ! 今日はバレンタインデーって言ったら流石に分かるよね?! 』
『えっ、バレンタインデーって……! そもそも空は男の子だぞっ! 』
『最近は性別とか関係ないんだよッ! いい? 来月、ちゃんと空にお返ししなよね?! 』
そう言うとティナリは伝票を手に酒場を出ていってしまった。そして今日、彼に言われた通り自分は製菓店にいる。ケーキにクッキー、マカロン……色とりどりの焼き菓子はどれも美味しそうで目移りしてしまう。その反面この一ヶ月、頭の中で空の事ばかり考えていた。
(空が僕の事を好き……? 確かに女の子と見間違う位に空は可愛い見た目をしてるし……いやいや! 僕はノーマルだぞ! )
陳列棚の前で百面相をしている自分は傍から見ればただの変質者だろう。けれど、空の事を考えだすと思考が纏まらない。自分に向けられている空の笑顔は好意的なもの……そう考えると不思議と嫌な気持ちにはならなかった。寧ろ、空が自分に微笑んでくれる度に胸の辺りがポカポカとあたたかくなるのだ。春の陽だまりのようにあたたかで優しい空、そんな彼の事を考えていると惹かれるようにとある菓子を手に取り、会計に向かっていた。
「空、これ……先月のお返し、なんだけど……」
「え? 」
きたる三月十四日。工場に訪れて来た空にお返しの菓子を手渡した。空が自分に好意を寄せている、と思うと変に意識してしまい緊張で上手く言葉が出てこなかった。これで空が自分の事を何とも思っていなかったら恥ずかしさで死ぬしかない。
空はというと、元々大きい蜂蜜色の瞳を丸くして本当に驚いているようだった。空に手渡したのは然程大きくはない瓶。瓶の中身は彼のイメージカラーを思わせる黄色や金色の金平糖がキラキラと輝いていた。
「あ、あれ……? もしかして違ったかい? その……先月バレンタインデーでくれただろ……? ホットチョコレート」
自分の言葉に意識が戻ってきたのかハッと空が顔を上げて、金平糖の瓶をぎゅぅっ、と抱き締めた。
「ち、違わないっ! 違わないよ?! あの時カーヴェにあげたの、バレンタインデーのチョコだった! ただ……お返し貰えると思ってなかったから、驚いちゃって」
「そ、そうか! よかった……っ」
正真正銘バレンタインデーチョコだったという認識とお返しを受け取って貰えた安堵感で何となく気の抜けた返事になってしまったが結果オーライといったところか。
「……カーヴェ、ありがとうっ! この金平糖、大事にするねっ」
自分を見上げる空。頬を桜色に染め本当に嬉しそうに顔を綻ばせて、幸せを噛み締めているようだった。渡したお菓子を大切に抱き締める️️️️️️そんな空の姿にガチャンっ、と硬く閉ざされていた自分の心の錠が落ちる音を聞いた気がし、胸の鼓動が大きく高鳴る。
「い、いや……賞味期限があるから早めに食べてくれ」
「あっ、そうだよね! 嬉しくてつい……」
えへへ、と花が咲いたように微笑む空につられて自分もつい笑みが零れてしまう。空は今日、顔を出しに来ただけだから、と言い足早に帰ってしまった。少し寂しく思いながらも空を見送り、取り残された自分は気が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「参ったな……本気で惚れてしまったみたいだ……」
恋に落ちる音が聞こえてしまっては最早、自分の気持ちを認めるしかない。自分があの陽だまりのような少年を好きになってしまった事を。
頬が火を吹きそうな位火照っている。心臓の音は未だに高鳴り続けたまま。ずっと機械ばかりを相手にしてきた二十五年間。生まれて初めて、本気で人を好きになってしまいました。
「はぁ〜……大変だぞ、これは……」
初めての恋心は既に溢れ出しそうで、これから先の事を考えると独りで呟かずにはいられなかった。
そして、空を思わせるからという理由だけで彼に渡した金平糖の意味を後々知る事になり、ちょっとした騒動になるのをこの時の自分は知る由もなかった。
【おまけ:その後の蛍ちゃんと空君】
「ほたるー!! 」
自分を呼ぶ愛しい兄の声。駆け足で階段を登ってくる音ですら愛おしい。
「ほたるー! 聞いてよ、蛍!! 」
「んも〜! なぁに♡ お兄ちゃんったらそんなに慌てて♡ 」
ノックも無しに私の部屋に入るのが許されてるのはこの世でお兄ちゃん位だ。他の人なんて門前払いよ。頬を紅くして息を切らしているお兄ちゃんはどこか色っぽくてキュンっとしちゃう。
「カーヴェから……バレンタインデーのお返し……貰っちゃった……っ! 」
「本当にっ?! 」
お兄ちゃんから話を聞いていた限り、お兄ちゃんの片思いそうな気がしてたけど、まさかの脈アリ? な事実に私も驚きを隠せなかった。
「良かったじゃない、お兄ちゃん! 」
「うん……っ! 」
そう頷くお兄ちゃんは本当に嬉しそうに笑う。お兄ちゃんのこういう素直な所が人を惹きつけている事を私がよく知っている。本当に可愛くて愛おしい私のお兄ちゃん。この世界の誰よりも幸せになって欲しい。
「それで何を貰ったの? 」
「これだよ」
そう言って見せてくれたのはお兄ちゃん色を思わせる形色ともに美しい金平糖が詰まった瓶……。って金平糖?! お兄ちゃんもだけどカーヴェさん、ホワイトデーに金平糖をお返しする意味わかってるの?
「綺麗だし折角、カーヴェから貰った物だから食べるの勿体ない……」
「いや、賞味期限あるからちゃんと食べてね? お兄ちゃん」
お兄ちゃんはちょっと天然な所があるからホワイトデーに金平糖を貰う意味、絶対分かってないと思うし……カーヴェさんも話しを聞く限り、なんか天然そうだし……。これは、私がこの目で確かめるっきゃないわね! 幸せ心地に浸ってるお兄ちゃんを横目に近々、カーヴェさんのお宅訪問をしよう、と心に決めた。
◇◇◇
「えっと、この問題は…… 」
「ここの問は前ページの数式を用いるんだ」
茹だるような気温の中、生命力を掛けた蝉の鳴き声が辺り一面に響き渡り、暑さを余計に増長させている。梅雨も終わった今はまさに夏真っ最中。
学生である空は学校が夏休みに突入し、ほぼ毎日のようにカーヴェの工場に入り浸っていた。
空が入り浸る理由の殆どはマシンの相談だったが、学生も本業である空にとってカーヴェという人生の先輩は助け舟のようにありがたい存在だった。
「そうなると……答えはこう、かな? 」
「うん、正解だ。やれば出来るじゃないか! 」
「えへへ。カーヴェの教え方が上手いからだよ」
空は体育の成績はずば抜けて良いのだが、その他の教科は人並だった。
特に数学は苦手な科目であった為、工学部出身のカーヴェにこうして課題を見て貰っていた。
「空は変に頭が固いからな。もう少し単純に考えればいいんだ」
「だって応用って単語見ると色々考えちゃうんだもん……」
頬を膨らませて少しだけむくれた表情をする空に「まあ、そこが君の良い所だけどな」とカーヴェは優しく空の頭を撫でた。
カーヴェの撫でる手付きが心地良かったのか空は気持ち良さそうに目を細める。寧ろもっと撫でて欲しい、と思ったのか空はカーヴェの大きな手に自分のおでこを無意識に擦り寄せた。
その仕草がまるで猫のようで見る人のハートをキュンっとさせる。
無論、空の頭を撫でている当事者のカーヴェはトキメキまくりで「ぐぅ……っ」と唸りながら胸を手で押さえ付けていた。
「……ナニ、アレ」
「……さあ? 」
二人の世界を展開し続けているカーヴェと空から机一つ分離れた所で蛍とティナリが呆れた視線を向ける。その声には抑揚がまるで無い。
勉強会が始まってからというもの、カーヴェと空はずっとこの雰囲気なのだ。
行き場のない気持ちを表すように蛍はここに来る途中で購入した旬の果物を使用したフラペチーノを下品な音を立てて飲み干す。
口の中に広がる濃厚な生クリームと果物のマリアージュはとても美味しいのだが、今の蛍には胸焼けを起こしそうだった。
工場にはカーヴェと空の他にも蛍とティナリも居たのだが二人は完全に蚊帳の外のようだった。
「しかも、まだ付き合ってないんだよ。アレで……」
「はぁっ?! 嘘でしょ?! 」
ティナリから告げられた真実に蛍は感情をあらわにして机を叩く。怒りというよりはその怒りを通り越して呆れた、の感情が強い。
蛍が空からバレンタインデーのお返しを貰った、と喜んでいた時から季節は冬から夏に衣替えしているというのに二人の関係は一ミリも進んでいなかった事実にただただ呆れるしかなかった。
空はいつも蛍にカーヴェと何があったか楽しい報告しかして来なかったからてっきり二人は付き合っているのだと思っていた。
(流石に二人とも奥手過ぎるでしょ!? )
傍から見ればイチャイチャバカップルにしか見えないというのに。これで恋人として付き合っていないとは……。
そう考えると蛍の心にむくむく、と芽生えてくるお節介心。
「じれったいなーっ! 私、ちょっとヤラシイ雰囲気にしてくるっ! 」
「ちょっ、ちょっと! 蛍、ストップ! 落ち着いてよく考えてみなよ。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んじまえってよく言われるでしょ? 」
「邪魔じゃないもん……恋のキューピットだもん……」
流石は双子と言うべきか、ぷくっと頬を膨らませて屁理屈を言う蛍はさっきの空と全く同じ言動だ。
蛍からしてみれば四ヶ月もカーヴェと進展のない状態が続いている空の事を考えれば不憫でならないのだろう。
「まぁまぁ。蛍が思っている以上に二人は大丈夫だと僕は思うけどな」
「……。」
確かに蛍の視点から見ても今の空とカーヴェはどこからどう見ても恋人同士に見える。
想いを告げる事も大事だが、それ以上に本人達がその関係に納得していればいいのではないか、と蛍も思い始めた。
そう思うと蛍は自分がここまで悩んでいるのが馬鹿らしく思えてきた。
「……あーあっ! 悩んでるの馬鹿らしくなってきちゃった! それに、何だかとーっっても濃いブラックコーヒー飲みたい気分! 」
「それじゃあ、苦労人で功労者の蛍にはティナリお兄さんがご馳走してあげようかな。僕も丁度飲みたかったし。甘さも一切無い目が覚める位飛びきりにが〜いやつ」
「やった! じゃ、早く買いに行こ! お兄ちゃん! 私達ちょっと出てくるから! 」
「えっ?! 蛍どこ行くの……」
空が言い終わらないうちに蛍とティナリは足早に工場から出て行ってしまった。
「まぁ、ティナリが一緒なら彼女も大丈夫だろう」
取り残された空とカーヴェはあまりの早急な展開に呆気にとられるしかなかったがカーヴェの言葉に直ぐ勉強を再開させた。
二人は課題を黙々と終わらせていき、気が付けば太陽は西に傾き茜色の天に染まっていた。
「わ! もう、こんな時間になってたんだね」
「気が付けばあっという間だったな」
二人は机の上に散乱していた筆記用具や辞書を整理しながら鞄の中へ片付けていく。
「カーヴェの教え方が上手くて課題、とっても捗っちゃった! 」
「君の力になれたのなら何よりだ」
「うん! ありがとう、カーヴェ」
空が心からのお礼を述べるとカーヴェの瞳が蜃気楼と様に揺らめくのが見えた。
窓から射し込む陽射しで工場内が茜色に広がる中、壁も服もカーヴェの綺麗な髪も辺り一面に茜色一色だ。
「空」
名前を呼ばれて空が視線を向けると真剣な面持ちなカーヴェが距離を縮めてくる。
それはほんの数秒の出来事で、気が付けば抱き締められてしまうのでは? と思う位に二人の間に距離は無くなっていた。
(カーヴェの瞳ってとても綺麗な夕焼け色なんだぁ)
なんて呑気に空が思っているとカーヴェの唇が重ねられた。
驚きで見開いた空の視界いっぱいに広がるカーヴェの綺麗な顔。ここで空はようやく自分がカーヴェに口付けられているのだと認識した。
(あっ……俺カーヴェにキス、されてるんだ)
いきなりの出来事で驚きはしたものの、空は内心とても嬉しさを感じ目を閉じる。
空の片思いだと思っていたけれどドキドキ、と期待と緊張で胸が高鳴ってしまう。
「……。」
「……。」
唇が離れ、二人の間に無言の空気が流れる。
照れくさい気持ちが先立ち、お互いの顔を見る事が出来ない。
空はニヤけそうになる頬を慌てて押さえ付ける。頬は火が出そうな程熱く、火傷してしまいそうだった。
内側から叩きつけてくる高鳴る心臓は未だに力強く、しばらく落ち着くのは無理そうだ。
「……いきなり口付けてしまってすまない。君があまりにも可愛らしくて抑えが効かなかった……ダメな大人だな、僕は……」
先に口を開いたのはカーヴェで衝動的にしてしまった己の行動を省みているようだ。
しかし、その表情は空と同じように頬が緩んで赤みが差している。
空に口付けを拒まれなかった事が少なからず嬉しいようだった。
「ううん。俺、嬉しい」
カーヴェからの口付けと気持ちを噛み締めながら空がはにかむ様に笑みを浮かべた。
この言葉にカーヴェの表情が花が咲いたように綻び嬉しさのあまり、空の両手を握り締める。
「順序が逆になってしまったし気持ちを伝えるのが遅くなってすまない。空、僕は君の事が好きだ。10歳以上離れてしまっておじさんの部類かもしれないけれど、僕と付き合ってくれないだろうか? 」
「俺も……っ! カーヴェの事が好きっ! 俺をカーヴェの恋人にしてください」
「君の様に可愛い人が僕の恋人なんて身に余る光栄さっ」
感極まったカーヴェが一回り以上小さい空の身体を抱き締めた。
カーヴェの服からほのかに香るオーデコロンの匂いに空は抱き締めてくれる腕の大きさ背中の広さに大人の魅力を身体いっぱいに感じる。
心臓はさっきから破裂しそうな程、高鳴ってるのにこれ以上刺激があったら本当に爆発してしまいそうだ。
「空……もう一度、君とキスがしたい。ダメ、だろうか? 」
「っ! 」
カーヴェの夕焼け色の瞳が伺うように空を見詰めてくる。
その表情が可愛らしくおねだりをしてくる仔犬のようなイメージを彷彿させ、あまりの可愛さに空は息を呑んだ。
「……うん、いいよ」
大人の人でもこんなに可愛く見えるんだ、と新たな発見に胸をときめかせながら空は目を瞑った。
その様子にカーヴェの安堵したような空気を肌で感じ、次の瞬間には優しく唇に口付けられた。
茜色に染まった工場の中。カーヴェの人柄を表すような優しい口付けに幸せを感じながら、この日からカーヴェと空の交際は始まった。
その夜、家に帰宅した空はカーヴェと付き合う事になった経緯を蛍に報告すると色々な情緒が爆発した蛍が泣きながらその胸の内を大声で主張した。
「告白されて赤くなるお兄ちゃんの可愛いお顔、写真に撮りたかったよぉッッ!! 」