春日一番は、趙天佑に贈った花をよく覚えていた。パンジー、バラ、盆栽、百合。いずれも異人町のあちこちにあるプランターで育てたもので、誰かに贈ることを前提に花を世話していたわけではなかったが、趙にだけは、選ぶときに何かしらの理由が要るような気がしていた。渡す瞬間は努めて自然を装うのに、受け取ったときの趙の表情や笑い方が、気になって仕方がなかった。
最初に渡したのはパンジーだった。咲きはじめたばかりの小ぶりな花をいくつか束ね、新聞紙にくるんで持っていった。趙は花を覗き込んでから、「綺麗な花じゃないの」と笑って受け取った。
バラは、鮮やかな赤だった。花弁は柔らかく、茎には鋭い棘があった。育てるのに手がかかったぶん、咲いたときの印象は強く、誰かに渡すならこれだと思った。「喜んでくれるといいんだが」と言いながら差し出すと、趙は目を丸くしてから笑い、「こういうの、もらったの初めてかも」とつぶやいた。
盆栽は、趙に贈るつもりで育てたものだった。以前、趣味のひとつだと聞いたことがあったから、それをきっかけに春日は苗を手に入れ、水やりや剪定の仕方を調べて、少しずつ形を整えていった。「お前、盆栽好きだったろ」と言って手渡すと、趙はしばらく黙って見つめたあと、「これは手入れのしがいがありそうだね」と笑った。照れ隠しのような口ぶりではあったが、その日から毎朝、水を霧吹きでかけているらしかった。
百合の花束は、ほとんど衝動的だった。長い茎に大ぶりな花をいくつも束ね、濡らした新聞紙に包んで持ち出した。「咲きすぎちまって」と言いながら押しつけるように手渡すと、趙は少し目を見開いて、「いいの?俺がもらっちゃって」と笑った。どこか嬉しそうでもあり、春日は少しだけ照れくさくなった。
花を渡すたび、なにか言葉を添えようとするのに、うまく言葉にならないことが多かった。何をどう伝えたいのか、自分でもはっきりしないまま、それでも手にした花を持っていかずにはいられなかった。趙が喜んでくれるのが嬉しかった。それだけだった、はずなのに。
ときどき、それ以上の何かを期待してしまいそうになる自分がいて、そんなときには花の香りばかりが妙に記憶に残った。
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花を渡すことに、特別な意味はない――そう思っていた。
実際、春日は普段から誰かに何かを贈るのが好きだった。古びた万年筆や、使い込まれた手帳、金庫の奥から見つけた弾丸。少し珍しいものや、自分には使い道がないものを、似合いそうな相手に手渡す。パンジーやバラの花束も、その延長にあった。
けれど、いつの頃からか、趙に渡すものだけは、選ぶまでに少し時間がかかるようになっていた。何を選ぶか、どう包むか、いつ渡すか。そういうことに理由をつけたくなる相手は、他にいなかった。口にする言葉は、いつも似たようなものだった。「喜んでくれるといいんだが」――照れ隠しのつもりだったが、言ったあと、何か余計なものまで差し出してしまったような気がすることもあった。
渡したあと、何度も思い返すのはたいてい趙の表情だった。目の動き、笑い方、声。
気づけば、部屋の隅に花瓶が置かれていた。趙がどこからか持ってきたものだ。自分が贈った花がそこにあるたびに、ちゃんと水は替えられているか、花が元気か、そればかり気になって仕方がなかった。
もはや、それは花そのものの話ではなかった。
それなのに、本人の前では平静を装うことに必死だった。特別扱いしていると思われたくなくて、いつも通りを繰り返す。笑われたらどうしよう、引かれたらどうしようと、理由のわからない不安が胸に残った。贈り物に意味などない、ただの習慣だと自分に言い聞かせながらも、それすら信じられなくなることが増えていた。
ある夜、眠れず布団の中にいた春日は、ふと考え込んでいた。
なぜ、こんなにも気になってしまうのか。
なぜ、趙が嬉しそうに笑うと、胸の奥が温かくなるのか。
自分に問いかけたとき、答えはあまりにも単純だった。
俺は、趙のことが、好きだ。
思い返せば、いくつも思い当たることがあった。だからこそ、なおさら恐ろしくなった。
好意だと知られたら。そういう目で見ていたと知られたら。きっと、気持ち悪がられる。
仲間だと思っていた相手から、急にそんな感情を向けられたら引かれて当然だ。気まずくなる。避けられる。目も合わせてもらえなくなる。あいまいな距離すら、失われる。
春日は息を潜めるように目を閉じた。
そして、ようやく気づいた。自分がいちばん恐れていたのは、拒まれることでも、嫌われることでもない。
趙の隣にいられなくなることだった。
自覚したところで、それをどうすればいいのかはわからなかった。
うまく言葉にできないまま、胸の奥でじわじわと広がっていくこの気持ちが、日を追うごとに、自分の輪郭を少しずつ変えていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
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春日は、それまで通りに振る舞おうとした。
気づいてしまった感情はなかったことにする。これまで通り、仲間として、何も知らないふりをして接する。花を渡すときも、いつもと同じ調子で、「喜んでくれるといいんだが」と添える。ただそれだけのことだった。それで何も変わらないはずだった。
けれど、変わってしまったのは自分だった。
花を手渡すとき、趙にどう見られているかが気になるようになった。受け取ったときの笑顔が、どこか作りものに見えるときがあった。
“もしかして気づかれたかもしれない”という不安が、じっとりと背中に貼りついて離れなかった。
ある日、春日は、百合の束を新聞紙で包み、いつものように、何でもない調子で趙に差し出した。
自分の振る舞いが自然に見えているか、自分でも判断がつかなかったし、趙なら、こんなぎこちなさくらい、一瞬で見抜くだろうと思った。そして、そのぎこちなさの理由を探られてしまったら。
じわじわと湧く焦りを否定するようにして、無理に声を絞り出した。
「……俺たちってさ、仲間、だよな」
何の脈絡もなかった。
口をついて出たあと、自分でも驚くほどその言葉が浮いているのがわかった。けれど、もう引き返すこともできなかった。
趙は、一拍遅れて顔を上げた。
目を細め、笑うでもなく、驚くでもなく、ただ静かに春日を見つめた。
「……そうだよぉ」
それだけだった。
短い沈黙が挟まった。趙は何も聞き返さず、春日も言い足すことはなかった。
趙は何も変わらなかった。渡した花を受け取る仕草も、交わす言葉も、以前と変わらない。
春日は、胸の奥でひそかに安堵した。
気づかれていない。
けれど同時に、戸惑いと、どこか残念に思う感情が、どうしようもなく生まれていった。
このままでは苦しくなるとわかっていた。
それでも、けれど、仲間という居場所を手放すくらいなら、痛みを抱えるほうがずっとましだと思った。
花を選ぶたびに想いが滲む。
言葉にできない想いを、花に託している自分に気づかないふりをしていた。
ただ喜んでほしくて、笑ってほしくて、渡してしまう。
それだけだった。
それだけのはずだった。
けれどもう、春日は、心のどこかで、その“だけ”では済まないことを悟っていた。
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「……俺たちってさ、仲間、だよな」
その言葉を聞いたとき、趙はうまく反応できなかった。
あまりにも唐突すぎて、逆に意味がよくわからなかった。
けれど、数秒の静けさの中で、その一言の輪郭が心の奥でじわりと広がった。
春日は、こちらを見ずに新聞紙をいじっていた。手の動きがほんの少しだけ硬い。
その小さな違和感が、逆にすべてを物語っているように思えた。
「……そうだよぉ」
そう答えるまでに、いくつかの言葉が頭の中を通り過ぎた。
けれど、言葉にできたのはそれだけだった。
趙天佑は、春日一番に惹かれていた。
初めて画面越しに彼の姿を見たときから、理由もなく目を奪われていた。
最初はただの興味だと思い込んでいたが、そばにいる時間が積み重なるたびに、その人柄に惹かれている自分を、はっきりと認めざるを得なかった。
そして、そばにいることを、当然だと思いかけていた自分にふと気づいた。
だからこそ、春日の一言は、思いがけないほど胸に刺さった。
牽制された――そう思った。
自分の気持ちが伝わってしまったのかもしれない。先回りして、自分たちは仲間なんだと線を引いた。
それ以上踏み込まないように、と。
それ以上、望まないように、と。
自分が踏み込もうとしたせいで、春日が距離を取った。そう思うと、胸の奥に重いものが沈んだ。
けれど、その数日後。春日の態度を思い返していて、ふと違和感を覚えた。
避けられてはいない。
むしろ、変わらず花は贈られてくるし、言葉も交わされる。仲間としての関係は壊れていない。
あれは本当に牽制だったのか?
それに、あの言葉を口にしたときの春日の表情が、どうしても頭から離れなかった。
なにかに怯えているような顔だった。自分を拒絶しようとしているのではなく、自分から離されることを怖がっているような、そんな表情だった。
見間違いだったのかもしれない。
けれど、春日の声がわずかに掠れていたことや、ふと視線を逸らしたときの間や、言葉のあとにできた不自然な沈黙が、妙に印象に残っていた。
思い返すと、花を差し出すときの春日は、どこかそわそわしている。言葉を選んでいるようで、でも何も言えずに押しつけるように手渡してくる。
何かが伝わってしまうことを、恐れているような、でも伝えたい気持ちもあるような。
そんな、曖昧で苦しい手つきだった。
それはつまり。
もしかして、春日くんのほうが、俺のことを……?
そう思った瞬間、自分の中の空気が変わった。
押さえ込んでいた何かが静かに動き出すのを感じた。
これまでは、自分の好意が春日に伝わってしまったかもしれないと思って怯えていた。
けれど、もしかすると――伝わっていたのは、春日の方からかもしれない。
あの日の、仲間、という一言も、そう考えれば意味が違ってくる。
気づかれたことを、誤魔化そうとして出た言葉。
予防線ではなく、苦し紛れの逃げ道。
ああ、これは――
これはたぶん、気づいてないふりをしてきたのは、自分のほうだったのかもしれない。
だったら、もう一度ちゃんと向き合わなくちゃならない。春日が自分の気持ちを認めて、受け止められるようになるまで。
待つのは嫌いじゃない。手をかけて、ゆっくり育っていくものの方が、性に合っている。
春日の花は、いつも真っ直ぐだった。
何色であっても、どんな大きさでも、手渡されるときにだけにじむ想いがある。
その想いが向けられる先が、自分であるなら。
それを、曖昧なまま終わらせたくはなかった。
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しばらくして、春日は仕事に追われるようになった。
やるべきことが一気に押し寄せて、打ち合わせと移動と資料の確認だけで一日が終わっていく。家に戻れば寝るだけ。朝になればまた早く出ていく。何日もそんな日々が続いていた。
最後に趙に渡したのは百合だった。
大ぶりな白い花束を、新聞紙に包んで押しつけるように差し出しただけ。
それからというもの、花を選ぶ余裕もなければ、渡す機会もなかった。
言葉を交わす機会も減っていた。
それでも、顔を合わせない日々が続くうちに、少しだけほっとしている自分に気づいた。
あのまっすぐな優しさに、今の自分は耐えきれない気がしていた。
変わらずこちらを見てくるだろう視線に触れるのが怖かった。
部屋に戻ると、花瓶に百合が挿してあった。
花びらの端が少し乾いていたが、水は新しく、茎はきれいに整えられていた。
誰に言われるでもなく、自然に世話をするその手間の積み重ねが、静かに胸に染みた。
何も変わっていないように見えるのに、どこかが変わってしまった気がした。
以前なら、もっと気軽に声をかけていた。
タイミングを測ったり、様子を窺ったりなんてしなかった。
けれど今は、趙の表情に余計な意味を探してしまう。
声の調子ひとつに、機嫌を測ろうとしてしまう。
そんな自分が、いちばん面倒だった。
それでも、趙は変わらなかった。
「おかえり」と変わらぬ声で迎えてくれる。
特別でも、重くもない、いつもの調子。
だからこそ、苦しかった。
何も言わず、何も責めず、ただそこにいてくれる。
そのやさしさが、自分の不甲斐なさをまざまざと照らす。
疲れていた。
何がどうというわけでもないが、何もかもが空回りしているような気がしていた。
言葉を減らせば関係が壊れるわけじゃない。
そう思っていたのに、なにかが擦り減っていく感覚は、日に日に強くなっていた。
布団に入っても、眠気はすぐにはこなかった。
静かな夜が、あたたかくもあり、ひどく遠くもあった。
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久しぶりの休みだった。小鳥の声が、外から小さく聞こえていた。窓の向こうで風が動いている。けれど室内はしんと静かで、畳の上にはやわらかな光が広がっていた。布団の中は心地よい温もりが残っていて、目は覚めているのに、しばらく動く気になれなかった。
すぐ近くで、布をたたむ音がしていた。乾いた布が折り重なっていく静かな気配。その整ったリズムが心地よくて、何も考えずにただ、天井を見上げていた。
やがて、春日は静かに布団から上体を起こした。足を出してあぐらをかき、ぼさついた髪を手でかき上げる。その小さな動きに、すぐそばの気配がふっと止まった。
趙が、こちらに視線を向けているのがわかった。
「……起きた?」
顔を上げる間もなく、気配が近づいてくる。
気づけばすぐ目の前に、趙の顔があった。
そして、頬にそっと手が触れた。
ひんやりとした手だった。親指が目の下をなぞっていく。やわらかい動作だった。
「クマ、あるね」
変わらない声だった。ただ、それだけの言葉なのに、身体の奥がじんわりと反応していた。目を伏せても、動揺は誤魔化せなかった。隠してきた気持ちが、たったこれだけのことで溢れてしまいそうになる。
自分ではどうにもできないまま、ふいに手が動いていた。趙の手を、そっと掴んでいた。この手がどこかへ行ってしまうのが怖かった。掴んでいなければ、消えてしまいそうな気がした。
そのとき、趙がわずかに目を細めて、言った。
「……それ、無意識?」
からかうでも、責めるでもない。優しい声だった。
その声に、春日は一気に熱が上がったような気がした。はっとして手を離す。言葉が喉で詰まる。
「あ、俺……」
なにか言おうとする前に、額にまで熱が回ってくるのを感じる。
「悪い、変なことした、な……」
まともに目が合わせられなかった。ごまかそうとしても、口の中の言葉がうまく形を取らなかった。
けれど、趙は微笑みを浮かべたまま、ほんの少しだけ首を傾けた。その目が、明らかにこちらを捉えていた。
「ほんとは、春日くんがちゃんと覚悟できるまで待つつもりだったんだよ」
その声は静かに、けれどまっすぐに胸の奥に沈んだ。柔らかい響きだったのに、不思議と逃げ場がなかった。
趙は春日の手をそのまま両手で包み直した。冷たさの残る手のひらが、じわじわと肌に沁みてくる。春日はそれに抗うこともできず、ただ晒されていた。
「ずるいよね、ごめん……でも、今しかないと思って」
趙の声は静かだった。押しつけるような力もないのに、まっすぐ心の奥に降ってきた。趙はそっと力を込める。手を離すつもりなど、最初からなかった。
春日は、かすかに顔を上げた。すぐそこにある視線に捕まって、目も逸らせなかった。心臓がうるさく脈を打ち、息も詰まりそうだった。
趙は微笑んだ。やさしく、そして、どうしようもないほど真剣だった。
「俺、春日くんが好きだよ」
その言葉に、春日は一瞬、何を言われたのかわからなかった。何度も脳内で言葉を繰り返した。それでもすぐには飲み込めなかった。
好き?趙が?誰を?……俺?
胸の奥がぐしゃぐしゃにかき乱される。そんなはずない、という反射的な拒絶と、信じたい気持ちがないまぜになって、何も言えなかった。
それでも、答えだけは、どうしようもなく口をついて出た。
「……俺、も……」
かすれた声だった。意味を考えるよりも先に、震えた指先が趙の手を握り返していた。胸の奥に張りつめていたものが、そっとほどけていく。
どこかで諦めるように隠してきた想いが、ようやく趙に届いた気がした。今まで花に託してきたもの、本当は言葉にできなかったもの。それらが、いま、この手を通して確かに伝わったのだと、胸が熱くなった。春日は、趙の手を離さないように、静かに指先に力を込めた。