立つ鳥跡を濁さず「お前、……A、なのか」
顔も、声も、立ち方すらも、同じなのに全く違う。どうして。何があった。
「だとしたらどうする」
あいつじゃない。間違いなく、あいつじゃぁない。
「Xをどこへやった……!」
「さあな。大方、今までの俺のように脳の隅っこにでも追いやられているかもな。……アレがお人好しなばっかりに、な」
「お人好しって、どういうことだよ……なんでお前が出てきてる!」
「ここは俺が出るべきだ、とアレが勝手に場所を譲ったに過ぎん。今までの状況がイレギュラーすぎて俺も完全には把握出来ていないのが現状だ」
一番譲ってほしくない場面だったんだがな。Aがぼそりと付け加えた。
場所を譲った?どうして?Xが自ら?
事実とAの言い分で混乱している。考えがまとまらない。Xは?Xはどこだよ。出てこいよ、なぁ、……
35日目。記憶同期が完了する日。
27日目、記憶同期の開始よりは可能性が低いが、やはりこの日も対策しなかった場合、XがAに飲まれることがあった。
だから念のためルームランナーを用意しておいた。コービンにも話をつけておいた。
いつもは必死で走り出すルームランナーから平然とした顔で降りたのを見て、今までこの点で築き上げてきたもの全てが音を立てて崩れていくのを感じた。
効かない。今まで100%成功してきた方法が効かない。
足元がふらつく。目眩がする。呼吸が荒くなる。
「ダフネ!」
コービンが咄嗟に支えようとするが間に合わず、その場にへたり込んだ。
いつもとは違う朝。ミーティングの代わりにAから経緯を聞く。
今日はアンジェラさんが「おかえりなさい、A」と言ってくれるはずだから、Aさんが出るべきです。そう言って、表層――主導権の人格を、XがAに譲ったという。話の通りならあり得なくはない。むしろXがやりそうなことだ。
「日毎に何が起きるか、展開の進行は全て俺が台本を書いた。今回は多少イレギュラーが起こりはしたが、概ね台本通りに進んでいる。アレも俺の記憶を見たのだろう。余計なことを……」
台本という単語自体は何度か別のXから聞いた覚えがある。何日目にはアンジェラがこんな台詞を言う。27日目に記憶同期が始まるのも台本通り。さらにはセフィラとの対話の内容すらも。
XはAの記憶を読み取れる状態にあった。Aの台本を読んだXは、35日目、記憶同期が終わるタイミングでアンジェラが”A”を出迎えることを知っており、出迎えの台詞はAが聞き届けるべき、と単純なAへの善意でもって主導権を渡した、ということか。
理屈はともかく、何とかしてXを引き戻さないと。
Xは完全には消えていないかもしれない、今までのAのように人格はまだ脳内に残っていて、自律して思考できる状態なのかもしれない。まだ諦めちゃ駄目だ。何をもってしてもXを引き戻す。
……ルームランナーが駄目だったら、これ以上何が出来る?ネクサスを見せても駄目だった。「もう見た」とあっさり突き返された。てか見せてたのかよX。
「想定とは異なるが、これで記憶同期は問題なく完了するだろう。Xだった頃の人格がまだ僅かに残っているが、いずれ俺の記憶として統合される。人格が分かれるというイレギュラーがあったうえに、アレがずっと俺の身体を専有しているのをただ見ているしかなかったと思うとうんざりする。アレの出番は26日目までだ」
Xを、アレ呼ばわりするんじゃねぇよ。返せよ、返してくれよ……俺の……俺たちのXを……。
「返すも何もアレだって俺の一部に過ぎん。所詮は偽りの記憶で形成された半端な人格だ。決められた役割さえこなしたあとは速やかに退場すべきだ。台本を書き換えてまで出番を増やしても意味がない。出番の終わった役は居るだけ邪魔だ」
半端な人格……?馬鹿言うな、親友だってXだって、俺が見てきたどの点のXだって、ちゃんと自我を持ってた。自己を確立してた。一人のXという人間がいたんだ。あんたの勝手な台本とやらで人一人殺すも同然のことしやがって!
「記憶同期で人格が溶けやすいよう、わざと半端な人格にした。余白に詰め込む記憶だって作ろうと思えば作れた。だがアレの役割は上層セフィラたちを第三者視点で見て、その感想を俺に伝えることだ。たったそれだけのために人一人ぶんのまともな記憶を用意するのは費用対効果が良くない。ただそれだけのこと」
「それに、作ったものを処分するのは製作者としての責任だろう」
何かが切れた。自分でも何を叫んだかわからない。只々喚きながら殴りかかろうとして、アンジェラに割り込まれる。コービンとグレゴリーにも取り押さえられた。放せよ、殴らせろよ、こいつは、こいつだけは……
「これ以上は駄目です、ダフネ!下手なことをしたらあなたも」
俺はどうなったっていいんだよ!!
「ダフネさん、管理人Xにとって一番どうにかなってほしくないのはあなたなんですよ!」
知った事か、もう戻らないなら同じだろうが!!
「……いつぞやのように、あまり手荒な真似はしたくありません。どうか、ここは退いていただけませんか」
そういや、前も殴りかかろうとしたことがあったような気がする。その時は今みたいに止める奴もいなかったし、アンジェラに首根っこ折られたんだっけか。
アンジェラの少々意外な対応と併せて昔を思い出し、少しだけ冷静になった。振り上げた拳を力なく下ろす。
もう……駄目なのか。もう、無理だってのか。何でだよ、A……!
「そういう筋書きだからだ」
もう使うつもりはなかった。使いたくなかった。
だが引き出しの奥に忍ばせてある。いざという時に備えて。
――まさに、今みたいな時のために備えて――
みんなには話していない。全てを打ち明けたときも、意図的に伏せてきた。
だから……バレることはない、はず。
点を捨てるということ。数々の点を捨ててきたこと。
コービンはもしかしたら察して止めに来るかもしれない。あいつの勘の良さは何なんだよ。俺のストーカーかよ。頼むから、気づかないでくれ。1日だけでいい。
「前にも似たようなことしていたんですか、あなたは……」
コービンが呆れたように呟く。
結局どうにもならないしこれ以上粘っても無駄だということで、すごすごと引き上げざるを得なかった。
今はコービンの部屋であーだこーだくっちゃべってる。業務は1日休止だそうだ。Aの奴も記憶同期の仕上げがあるんだろう。だいぶ長いことXを表に出してきたからな。何らかの影響が残っているのかもしれない。
影響が残っていたとして、それでもなおあれだけ色々試してもXは引き戻せなかった。
やはり、無理なんだろう。
「あん時ゃ親友が首括って、生きる意味も生きてきた意味も何もかも失って、完全に自棄起こしてたからな。あの期間はかなり頻繁に点を飛んだなぁ、好き勝手やりすぎて」
やべ。迂闊に喋るもんじゃないな。今の俺だって実質自棄起こしてるようなもんだ。あの時と違うのは、明確な意思があることくらいだが。
「はぁ。一度返り討ちにあって、またやるとは。見ましたか?アンジェラさんの顔。珍しく目を開いて、少し悲しげにも見えましたよ」
へぇ。まるっきり余裕なかったが、あの秘書さんもXにゃ思うところがあったのかね。
「ぼうりょくはんたい、だよ、ダフネん!」
「こっちだってアーニャのぐるぴょんを何回食らってきたと思ってんだよ。結構効くんだぞアレ」
「そういやウェルチアースの用意した適温熱湯風呂に縛られながら浸かって、ぐるぴょん食らいながら熱々おでん食わされてたっすねパイセン」
「あれをログンさんが死んだ蝶の葬儀に抑圧作業と称して行っていたというのは、なんというか」
「アラとログン、雪の女王の決闘のときにアラが立候補していたけれど、いつの間にか随分と親しくなっていたのね」
「あの組み合わせは意外だったっすよねぇ。ログンすっげぇ動くし。そういや前にアラが死んだ蝶の葬儀で作業を試して、自殺パニック起こしたじゃないっすか。あのとき白武器係がログンだったんすけど、アラの所に行こうとしたら死んだ蝶の葬儀に邪魔されたらしくって。すんでのところでパニックから復帰できたけどかなり危ないところだったらしいっすよ。あれ以来、しばらくログンが死んだ蝶の葬儀担当してる間は抑圧作業でああなってた、ってジョシュアが言ってたっすねぇ」
「だからそれはどっちのジョシュアですか」
雑談に興じて、警戒心が薄れてるな。もう少しだけ。もう少しだけ時間を稼げ。
最低でも業務終了の時刻まで。出来ればこの集会が解散になるまで。
「どうするんです?ルームランナーも特撮も効かないとなると。ダフネ、他に試したことは?覚えている限りで」
仕方のないことだが、話題はAのことに戻る。元々Aをどうするか相談するために集まったからな。
「俺だって知りたいさ。なんせ記憶はどんどんすり減る。東京フレンドパークが効く、ってことだけしか覚えてないんだよ。効かなかった方法まで覚える余裕はなかったな」
覚えるべき情報が多すぎる。理屈だのなんだのはどうでもいいい。ただ出来ればいい。本当にそれだけで動いてきた。
何故フレンドパークが効くのかは正直俺だって知りたい。覚えておくかはともかく。
「……記憶貯蔵庫の更新までには、何とかしたいですが……」
おそらく記憶貯蔵庫が更新されたら、管理人XがAに統合された――飲まれた、という事実が上書きされる。
実際はそこまで待たずとも、もう……無理だろう。
Xが自分の意志でAに主導権を譲った。つまりXは表に出るつもりがないということになった。だから何をしても”Xの意思”が優先されて、Xを引き戻せない。そんなところだろうか。
「いい時間ですね。アーニャをあまり夜更かしさせるのも良くないですし、ひとまず今日のところはここまでに。……明日もやっぱり僕の部屋使うんですか?」
「そりゃー、すっきりしていて居心地がいいっつーか。一番集まりやすいのコービンパイセンの部屋でしょ、絶対」
「アーニャもコービンくんのお部屋がいいな!」
「私の部屋は、ちょっとアーニャさんには見せられそうにないものがいくつかありますし……」
「うちは食料の保存用に結構改装してあるから、みんなで座れるような場所となるとだいぶ狭くなるわね」
「俺の部屋使うくらいならコービンの部屋の方が万倍マシだろ」
「ですよね。わかってました。予想はついてました。あまり散らかさないでくれればそれでいいです。はぁ。ほらアーニャ、一人で戻れますか?」
「もう!コービンくん子どもあつかいしない……ふあぁ……ちゃんと帰れるもん!」
「本当ですか?じゃぁ僕はアーニャを信頼していますからね。帰ったらゆっくり休むんですよ」
「オカンっすねぇ、コービンパイセン」
「ですねぇ。ふふ」
解散の流れ。……覚悟決めるか。
パウシーが去り際、ちらと視線を寄越してきた。流石にパウシーには読まれてるな。多分バレバレな空気出してたに違いない。それでも何も言わなかったということはパウシーなりの気遣い、か。何を言っても止められないだろうことがわかっているから、何も言わなかった。言って空気を乱す必要もあるまい。ただそれだけなのだろう。
「ダフネ」
来た。心配だろうアーニャを一人で帰してまで残ったのは間違いなくこのためだ。とっとと退散すべきだった。
こっちはパウシーみたいに融通が利かない。下手したら部屋まで乗り込んできかねない。
「……何だよ」
平静を装うが、多分装いきれていない。声が震えているのが自分でもわかる。
「……」
向こうから声をかけておいて、しばし無言になる。どう次の言葉を継げばいいか図りかねている様子。
こいつも、内心ではわかっているんだ。言っても聞かないってことは。
「……みんなを、悲しませないでください」
「配慮はする」
返答になっていない返事を返す。
真っ先に俺を疑ってきたコービン。逆行時計を回す際、思わず零れた本音を見逃さなかったコービン。
疑ってはいるが、何の説明もなしに頼み込んで、何も言わずにXを引き戻すのに付き合ってくれたコービン。
本当に、すまない。
部屋を出る。堪えきれないものが一筋、頬を伝った。
できる限り誰にも見られないように部屋へ戻った。別段見られても何かあるというわけではない。
ただ、後ろめたかった。これから死ぬ奴の最後の姿を見られたくなかった。
洋服箪笥を漁る。奥の奥から出てきたのは、箪笥に似つかわしくない拳銃が一丁。10日目を過ぎた辺りだったか、死んだオフィサーから拝借しておいたもの。念のため一週間おきに手入れをしてある。肝心なときに、仕損じないために。
箪笥を閉める。部屋の状態は綺麗なままにしておきたい。
出来ればこの点は汚したくなかった。何とかして、Xを引き戻したかった。無理なら無理で、出来る範囲で後処理の必要が少なくなるようにしよう。
立つ鳥跡を濁さず、って諺があったか。俺の死体が残る時点で、きっと全ては無駄になる。点を飛んだら俺の死体も綺麗さっぱり消え去ってくれたら良かったのにな。ついでに、俺に関する記録・記憶もまるごと。俺なんか最初から居なかった。それでいいじゃないか。何できっちり死体も何も残るんだ。何で俺の意識や記憶だけが別の点へ飛んじまうんだ。
何でだよ。何で、……
部屋には元々大して物を置いていない。
この点に飛んできたときもそうだが、もっとずっと前から。
部屋の中身に金を使うことに意味を見いだせなかった。何日も経たず死ぬかもしれない。そんな状況で個人的なものに金を使うことは無意味だと悟った。
俺じゃなければ、死と隣合わせだからこそ1日を大切に生きたい、そう考えて自分の好きなもので飾り付けたりするのかもしれない。
俺は死んだらそこで終わりじゃない。また別の点で生きないといけない。意識と記憶は残っても、それ以外の全てが無かったことになる。あくまで俺の視点では、だが。死んで点を飛ぶたびにいちいち物を揃えていたらキリがない。
親友と出逢って、趣味という概念を得たあとは残業代を注ぎ込んで特撮のDVD-BOXを買いもした。親友が首を括ってしばらくは特撮からも距離を置いた。見るたびに、あいつの……親友の、だらりと垂れた手足が、絶望と後悔に塗れた顔が、どうしてもよぎってしまうから。あのときは相当精神的に追い詰められていたと思う。
ある程度落ち着いてからは、俺の特に好きな、厳選したタイトルを数本置くことにした。親友のために生きる、そう決めてから。あいつも、俺も好きなタイトル――ネクサスは絶対に確保した。他には気まぐれで数本。点によって変える。
いつかのXが勧めてくれた本も置いてある。あのXの点も結構楽しかったな。たまに読み返す。あの点のことを思い出す。あのXのことを思い出す。まだ、思い出せる。
部屋に置いてある数少ない趣味の品々は、俺にとっての記憶の楔のようなものなのかもしれない。
たまに無性に紅茶を飲みたくなるときがある。十中八九あの紅茶AIのせいだろう。淹れ方だの茶葉の種類だのはもう覚えてるというよりは身体……じゃないな。無意識部分に刷り込まれてる。
だから、一応茶器一式を用意してはある。使わないまま飛ぶことのほうが多い。ただ、なんとなく置いておきたくなる。本当に何となく。まぁ、そういうのもたまにはいいだろう。もうお別れだけどな。
生憎茶葉は切らしていた。元々飲みたくなってから買いに行っていたから、今切らしているのは当たり前っちゃぁ当たり前。
茶葉があれば最後に一服でもしようかと思ったが、諦めた。今買い出しに行ったら誰に見られたかわかったもんじゃない。たかだか茶葉のためにそんなリスクを冒すこともない。
出来れば、部屋を血で汚したくないな。
血の染みは落ちにくいんだっけか。壁や床を血で汚したままこの点を捨てるのはどことなく忍びない。
点を捨てるときにここまで色々考えたのはこの点が初めてかもしれない。
捨てたくない。だがこの点にもうXは居ない。もしかするとAの脳内にまだ居るのかもしれないが、俺の手が届かない場所という意味では何も違いはない。いっそ消えてしまっていてくれ。俺が点を捨てることを知らないままでいてくれ。
Xに消えてほしいなんて思いたくなかった。
消えないでくれ。またこっそりと俺だけに弱音吐いてくれ。ゲロ吐いたら片付けてやるから。久々に一緒にネクサス見て語らいたい。一緒に休暇で外に出たい。森林浴に連れて行きたい。
連れて行きたかった。
「あ……ぅ、あぁ、っ……うぁぁぁ……」
溢れ出したものが止まらない。防音性がそこそこ高い部屋ではあるが、あまり大きな声は出せない。
だが抑えきれない。ベッドに突っ伏し、枕で無理やり声を殺す。
「うぁ、ああぁぁあぁ……!……あぁぁ、あ、……ごめん、ごめんな……」
これだけは曲げられない。俺自身が決めたこと。
Xと一緒に外に出る。
俺が勝手に決めた親友との、勝手に交わしたつもりの約束。
この点のXも、最初はあいつの身代わりに過ぎなかった。
いつからか少しずつ、あいつとは違う、この点のX個人が見えてきた。
この点のXに惹かれた。一緒に居ることが楽しかった。二人でXの秘密を共有した。
初めて――俺の境遇を打ち明けたX。
「ごめん、ごめん、ごめん……っ……エックス……!」
そのXを、身勝手な理由で捨てる。
Xだけじゃない。大切な友人たち。コービン・アーニャ・グレゴリー・カイルノ・パウシー。
かけがえのない、ってこういう感じなんだな。失う前に気づけて……良かった。
「ごめん、みんな……ごめん……」
捨てたくない。
この点を捨てたくない。
この点には大切なものがありすぎる。
でも、いちばん大切なものがなくなったから。
まとめて捨てるしかない。
涙でぐしょぐしょになった枕を見る。こいつで多少は弾の勢いが弱まるだろうか。
血と脳漿を撒き散らさずに済むだろうか。
――やはり、気にかかる。
部屋を出て足早で向かっていたつもりが、いつの間にか走り出していた。
あの馬鹿は、やりかねない。
弾が入っていることをあらためて確認する。
嫌な予感が募る。予感を通り越して、半ば確信にも近い。
壁にもたれかかる。貫通した場合のことを考えて、後頭部と壁で枕を挟む。
ようやくたどり着く。息が上がっているが、気にしている暇はない。
安全装置を外す。銃口を咥える。未練と執着が一旦収まった涙を溢れさせる。
あの馬鹿のことだ、見られないようにきっちりロックはしてあ……開いた?
引き金に両の親指をかける。手が震える。涙と涎とできっとみっともない顔だろう。
そっと扉を開ける。あの馬鹿、目先の目的だけに集中しすぎて部屋のロックを忘れたな。
親指に力を込める。――みんな、すまない。
何かに導かれるかのように、正面のドアを勢いよく開いた。
コービン!?
しまった、ロック――
突然開いたドアの方を向いてしまい、後頭部と壁に挟んでいた枕が落ちる。
「ダフネ!!」
親指に込めた力は、咄嗟には止まらなかった。
コービンと目が合う。目を逸らそうとする。間に合わない。
感情が爆発した。
涙まみれの顔でこちらを向いたダフネの後頭部から、ぱっと赤いものが飛んだ。
あの馬鹿はやりかねない。半ば確信のもとここへ来た。
あの馬鹿は。
ゆっくりとダフネの身体が倒れゆく。もたれかかる対象が壁からベッドに変わった。
ダフネの身体から力が抜けていく。両手で拳銃を握ったまま。
まるでその様子が、譲れない決意の象徴のように見えて、
「……馬鹿野郎……」
否定したかった。否定できる言葉が出てこなかった。
膝ががくがくと笑っている。今にも崩折れそうな足に力を込めて、一歩、また一歩。近づいていく。
壁には赤い飛沫。後頭部と口からたらたらと漏れる液体でベッドが赤く染まっていく。
あなたは最期まで行儀が悪いんですね。
膝をつき、見開いたままの目を閉じさせる。立ち上がろうとしたが、足が言うことを聞かない。
握ったままの拳銃を引き剥がそうかどうか迷って、そのままにした。
決意の象徴を無理に取り上げることもない。
僕たちには、あなたを止める権利なんてない。
僅かな歯ぎしり。
わかっていても己の無力さを痛感する。
手に触れる。驚くほどに冷たかった。
何度も彼が死ぬ場面を見てきた。その死に方も様々。
何度も見てきたはずなのに、
何故、今になって涙が止まらないのか。
馬鹿野郎。
馬鹿野郎……!
殺風景な部屋。捨てられた世界に、慟哭が響き渡る。