雌獅子は愛を抱く⑦ 目が覚める。
僅かに開いたカーテンの隙間から差し込む夕日に目を焼かれ、紅い空間の中で目を開いた。寝かしつけるだけのつもりが、幼子の体温に釣られて随分長く寝ていたらしい。
昼前の時点で来ていた客人達の事をちらりと思い出したが、流石に帰っているだろう。そもそも招いてもいない。勝手に来て勝手に帰っていく輩だ。
「……礼那」
娘はすやすやと眠っている。握り締めている小さな手の細い指を一本ずつ辿りながら反応を窺うが、何の反応もない。
これはきっと、今夜はもう眠ってくれないだろう。仕方が無い。夜中に元気になるであろう娘に一晩中付き合う覚悟を固めつつ、まだ夢の中にいる彼女を抱き上げて部屋を出た。今夜は寝ないにしても夕飯は食べさせなければ。
今日は何にしようか。冷蔵庫にはささみと鶏ひき肉があったのは覚えている。豆腐もあるから、ひき肉と合わせて柔らかいハンバーグにでもすれば食いつきもよくなるだろう。
今日はカレンダー上休日なので従業員は不在だ。住み込みの園田達は今日は実家に帰ると言っていた。明日の夕方まで戻って来ない。
普段は娘の離乳食と大人用の献立は違うものにしているが、今日はもう面倒だ。大人は自分一人だし、同じもので良い。
他に面倒を見てくれる大人が居ない今は料理中眠っていてくれた方が助かるので起こさないよう注意を払いつつ、無意識の内に低い鼻歌で子守唄を歌いながら一階のキッチンへ向かう。
すっかり静かになっている消灯された薄暗いリビングに、そういえばどうせ片付けなんて頭は無い奴等の事だ、散らかしたままになっているだろうと視線を向けて――一瞬呼吸が止まった。
次いで認識してぶわりと背中に汗が滲む。心臓に悪い。
「お前、何でこんな暗いトコにいるんだよ」
薄暗い中、黒衣の男が紅い目を此方に向けてじっとしていた。色合いと暗さの所為で、まるで空間に溶け込んでいるかのようだ。
驚かされた事に多少の苛立ちを覚えながらスイッチを入れる。パッと付いた明かりの中、微動だにせずソファーから動かない男、村雨に向かって眉間に皺を寄せた。
今日は此処で解散したのか、それとも真経津なり誰かなりの家に移動したのか知らないが、他の奴等と一緒に帰ればいいものを。
今は眠っているから良いが、娘が目覚めればまた村雨に怯えて泣き出すだろう。可哀そうだし、落ち着かせるのも一苦労だ。勘弁して欲しい。
「……」
村雨は言葉を探す様に目を伏せた。珍しい事だ。少なくとも傍に居た間、獅子神はそんな、迷うような村雨を見た記憶が無い。
ややあって、目線を上げた村雨は鞄の中から包みを取り出し獅子神に差し出す。
「これを渡そうと思った」
「あん?」
星柄のファンシーな包み紙、赤いリボン。一見して子供向けであると分かる包装に、獅子神の視線は自然と厳しくなる。差し出された袋と暫く睨み合ってから渋々受け取った。――軽い。
夢の中の娘の代わって片手でリボンを解き、中を覗き込む。中にあったのは娘の頭と同じくらいの大きさのぬいぐるみだ。
「何だ? ヤマアラシか?」
「ハリネズミだ」
ツンツンとシルエットに何故か眼鏡を掛けた、そこはかとなく目の前の男に似た雰囲気のぬいぐるみに何となくザワザワと不穏な心地を味わいながら、つぶらな黒い瞳と見つめ合う。
「……」
「これを、その子に」
「……まぁ貰っとくけどよ」
本心を言えば村雨から与えられた物を娘の傍に置きたくないのだが、娘へのプレゼントだ。勝手に断るのも違うだろう。
抱いたままだった娘をリビングのベビーベッドに寝かせ、ぬいぐるみを娘の隣にそっと置く。丁度そのタイミングで寝返りを打った娘は頬に触れたぬいぐるみを触り、抱き締めた。……複雑だ。
これで満足かと村雨に問おうと顔を上げて、一瞬だけ息が止まった。
村雨は見た事が無い程穏やかな表情を浮かべ、紅い、娘と同じ色の目を細めてまるで愛おしいものを見る様に眠る娘を見つめている。
心が、酷くざらついた。
*
小さな手に握られるぬいぐるみ一つ。
取るに足らない筈のそんなものに、酷く心乱されている。
――村雨から贈られたハリネズミのぬいぐるみは、無事娘のお気に入りになった。
今も機嫌良く積み木で一人遊びをする娘の背後に、ツンツンとした独特のシルエットのそれが転がっている。
……別に、良いけれど。
寝る時も遊ぶ時も一緒だ。余程気に入ったのだろう。
或いは父に買い与えられた物だと無意識に気付いているのだろうか。――そんな馬鹿な。村雨はわざわざ自分が贈った物だとアピールする事は無かったし、娘も誰から贈られた物かなど知らない――というか理解もしていないだろう。
興味を示さないでくれれば、或いは飽きてくれれば、などという母の身勝手な願いなど娘には勿論通用しない。見失うと泣きながら探す有様だ。
「ほら、お嬢お気に入りのネズミさんはこっちですよ」
「ねじゅ!」
今日もまた、従業員が持って来たおやつに気を取られて一瞬ハリネズミの姿を見失った娘がキョロキョロとし始め、察した従業員が背後を示して居場所を教えてやっている。
「お嬢様は本当にそれがお気に入りですねぇ」
「四六時中持ち歩いてますもんね」
「……」
ベビーシッターと従業員の会話を聞き流しながら、少しだけ強い力で蛇口のハンドルを下げる。
「少し出る。買い物行って来るわ」
傍で皿を片付けていた園田に伝えて、獅子神は最後の皿を水切り籠に放り込んだ。
「え、オレ行きますよ?」
「いやいい、外の空気吸いてぇし」
園田が殆ど反射的に娘の方を見る。今のところご機嫌だ。
「分かりました、お嬢はオレ達が」
「頼んだ」
短く伝えて、足音に気を遣いながら玄関に向かう。
壁に掛けてある愛車の一台の鍵を取って外に出た。昔から乗っているポルシェはチャイルドシートを着けていない為、娘との外出には使わない。
そういえば一人の外出は久しぶりだと思い出しながらエンジンを掛ける。低いエンジン音を懐かしく思いつつ、走り出した。
買い物とは言ったものの、取り急ぎ何か必要な物がある訳ではない。単なる弁解で、……まあ娘の菓子でも買って帰れば良いだろう。
住宅街を抜け、ターミナル駅の方へ車を走らせる。
平日の日中だ。ビジネス街に近い駅なので周囲はスーツ姿の男女が殆ど、たまに学生らしきカジュアルな恰好の若い人間などがちらほら混ざっている。
本当なら折角のエンジン性能を存分に引き出してやりたい所だが、この人通りでは直ぐにサイレンが聞こえてくるだろう。首都高にでも乗ればよかったかと思いついたのは駅前まで来た後だ。
はぁ、と溜息を吐いて緩く首を振り――視界に否応無く入ってきた物に暫し瞠目する。
娘に村雨が近寄る事を良く思えなかったのは、こうなる事が分かっていたからだ。
目の前の石畳を、駅から離れて行く方向へ歩く村雨と、その隣にいる知らない女の距離は随分近い。あの村雨がその距離感を許すなら当然親しい関係だろう。村雨のパーソナルスペースは相当広い。
その背中にアクセル全開で突っ込んでやろうか――なんて。
「……下らねぇな」
小さく独り言ちて獅子神はフロントガラス越しの光景に目を細める。
村雨は三十を超えたばかりの医者で独身で、よもや隠し子がいるなんて知らなければ極めて好条件の結婚相手だ。「こうなる」事は時間の問題だった。
今で良かった。
獅子神が絆される前で、娘が懐く前で。
短く溜息を吐き、獅子神は大きくハンドルを切った。