雌獅子は愛を抱く③「久しぶり! 可愛い赤ちゃんだね獅子神さん、ところで誰の子?」
暫くの硬直の後、気を取り直したように真経津が言った。その言葉にさも何を分かり切った事を、とでも言うかのように獅子神は片眉を跳ね上げて見せる。
「オレの子だけど?」
「いやそういう事じゃなくて」
頭を掻きながら珍しく言葉を選んでいる様子の叶に、重ねて応える。
「オレの、子だけど?」
寧ろ他の何だというとばかりに圧を籠めれば、その程度で怯むようなタマでは無い筈の真経津と叶は声を揃えた。
「「アッハイ」」
「――村雨君、村雨君大丈夫か、しっかりしろ」
静かな後方では天堂が村雨の肩を揺さ振っている。
大きな眼鏡の向こうの目は閉ざされ、元々血色が良くない顔は今は完全に血の気が無い。睡眠不足だろうか、今すぐ自宅に帰って寝ていろと獅子神は思う。
「ユミピコ、礼二君どしたの」
「気絶したようだ。しっかりしろ、誰か医者を、いや医者は此処に……駄目だな……」
諦めたように首を横に振った天堂が獅子神を見た。
「獅子神君、突然押しかけてすまないが、少し村雨君を横にさせて貰う事は出来るだろうか」
「……」
今直ぐ帰ってくんねぇかな、というのが獅子神の隠さぬ本音だ。しかし気を失った人間を放り出すのも人としてどうかという話でもある。
「ソファーでいいよな」
「十分だ」
結局全員を家に招き入れ、リビングに通す事にせざるを得なかった。
*
知らない人間を怖がっているのか、獅子神の腕の中の娘は母の胸に強く顔を押し付ける。
どうどう、怖くな……くはないが、取り敢えず娘には流石に無害の筈だ。有害だったらどんな手段を取ってでも獅子神が排除する。
天堂と、それから逆側から村雨に肩を貸していた叶が聊か乱暴に村雨をソファーに放り出した。衝撃で飛んで行った眼鏡を真経津が拾いに行き、胸の上で手を組ませてそこに置く。
洗い物をしていた園田がドヤドヤとやってきた一団に目を剥いた。此処二年彼等の来訪は無く、今後も無いだろうと思っていたからだ。獅子神とて同じである。
「園田!」
「は、はい」
「頼む」
「分かりました、お嬢、あっちに行きましょうね~」
「ぅやっ!」
無害であったとしても子供の教育に良い人間では無い。
獅子神は園田達に託すべく娘を渡そうとするが、娘は嫌がってしがみ付いてきた。
「ほら、いい子だから園田の方に……」
「やぁー! あー!!」
引き剥がそうとすると悲痛な声で泣き叫び始める。
泣く子には勝てない、激しい拒絶に聊か肩を落とした園田には悪い事をした、と目線で詫びた。代わりに客人への茶の支度を頼む。とぼとぼとキッチンに向かう背中が哀愁を帯びていた。
この家に出入りする人間の中で母たる獅子神の次に娘が懐いているのは園田なのだ。
園田に娘を預けるのは諦めて抱き直す。母が諦めた事を理解したのか、けたたましいサイレンのような泣き声はかなりトーンダウンした。
「分かった分かった、オレがいいんだな」
背中をトントンと叩き、涙で濡れた目元と頬を替えたばかりのよだれ掛けで拭う。
娘の様子を伺った後、思い出したように顔を上げた。別に忘れていた訳では無いが、招かれざる訪問客の優先順位は娘より大分低い。
「赤ちゃんって声大きいんだね」
子供時代があったのかも分からない雰囲気の真経津が、驚いたように目を丸くしながら感心している。確かに小さな身体からは想像もつかない声量だ。
そしてその声量で、寝てて良い大人が目を覚ましている。
「顔色悪っ」
最初に玄関で見た時よりも更に青白くなっているような気がした。寝ていればいいものを、病人を治す医者の筈がまるで自身が病人だ。医者の不養生とはよく言ったものである。
「獅子神」
酷く掠れた、彼らしくない声で名を呼んだ相手に獅子神はにっこりと、それはもう美しく聖母のように微笑んで見せた。
「その子供は、」
「可愛いだろ? オレの娘だ」
――安心しろ、お前には何の関係も無いし関係も持たせない。
最早死人のような顔色の村雨に、言外の言葉は容易に正しく伝わったらしい。
ひゅっ、と息を呑んだ音は、獅子神の耳に微かに聞こえた。
*
茶の一杯と冷凍していたブルーベリーマフィンを温め直した物だけを食べさせ、獅子神は嘗ての友人達を早々に追い出した。仕事は諦めるにしても娘は昼寝の時間だ。そう言えば案外あっさりと彼等は引いた。いや若干一名、後ろ髪を引かれていそうな――獅子神は勿論引いていない――輩もいたが、無事天堂に引き摺られていった。
一時泣き止みつつあった娘は、改めて招かれざる訪問客達を見るなり再び火が付いたように泣きだしていた。特に村雨を見た瞬間が顕著だ。
余りにも娘が泣き叫ぶものだから、思わず獅子神は真顔で告げた。
『村雨、お前出禁な。子供が怖がってんだよ』
『敬君、敬君、流石にそれだけは……』
『勘弁してあげて獅子神さん!』
『神は恩情を与えるべきと言っている』
そのまま一生涯出禁で構わなかったが、結局言い募られて獅子神は諦めた。いや別に来なくて良い、心底来なくて良いのだ。
今の獅子神は、村雨を求めていない。
何時か娘が大きくなって父親はどんな人、と尋ねられた時に嘘を吐くつもりはないが、父親として娘の成長に関わらせるつもりは毛頭なかった。どうせおモテになる高収入のお医者さまだ、その内放っておいてもどこぞの女と所帯を持つだろう。
その時獅子神や娘の存在が変な影響を与える様な事があってはいけない。
すっかり仕事をする気分では無くなってしまった獅子神は、娘を寝かし付けようと寝室に向かう事にした。相変わらず食べるだけ食べて片付けるという概念は無いギャンブラー共が使った食器は園田が洗っている。
「わりぃ、寝て来るわ。遅れた分ずらして休めよ」
「はい。……あの人達、また来ますかね……?」
「さぁ……」
そもそも今日何故突然来たのかも良く分かっていないのだ。
もう来るなよ、と獅子神は土台無理な祈りを生まれて初めての真剣さで捧げたのだった。