雌獅子は愛を抱く『このお電話はお繋ぎする事が出来ませ――』
　何度か聞いたメッセージを最後まで聞かずに通話を打ち切る。
「……はぁ」
　深々溜息を吐いて、これ以上は無駄だとスマートフォンをサイドテーブルの上に置いた。そのすぐ近くにはこの家には不釣り合いな、ファンシーなキャラクターが表紙を飾る手帳が一冊。
　おめでたですねと全くめでたくない事を病院で宣告されたのは、獅子神が恋人「だった」村雨に別れを告げられて二週間後の事だった。
　その時の獅子神は生まれて初めての恋が終わった痛みから食欲不振が続き、けれど幾ら何でもこんなには続かないだろうと訝しんで病院を受診してみれば、内科から産科に回されて容赦のない宣告だ。
　何とか顔を強張らせないように笑顔を作ったつもりだが上手く行っていただろうか、と獅子神は明後日の方向の心配をする。
　一応、別れたとはいえ子供の父親である村雨に報告と今後の話し合いを――と思って連絡を試みたが結果は全滅だ。メッセージアプリ、電話、いずれも繋がらない。ブロックされているで間違いは無いだろう。正直、何かトラブルがあって別れたわけではない――少なくとも獅子神はそう認識している、別れる三日前には仲良くデートしていたのだし――のに此処までするか？　と嘆きたい気分だ。
　実際の所としては、まだ取れる手段はある。
　獅子神は村雨の勤務先の病院を知っているし、連絡先を共有しているギャンブラー仲間経由で連絡を取る事も出来るだろう。
　――ただ。
　メンバーから村雨の名が消えたメッセージアプリ、虚しく同じメッセージを繰り返すスマートフォンを前に、獅子神は「もういいか」と諦めた。諦めてしまった。
　元々の性格や成育歴の所為もあるのだろう、獅子神は諦めと切替が早い。
　どんなに深く愛し合ったとしても、人の想いに永遠などは無い。誰が言ったか、恋の消費期限はたったの三年なのだという。
　そのたったの三年にも満たなかった恋は獅子神が思っていたよりずっと早い別れを迎えたが、それ自体は仕方が無い事だ。無い事なのだ、きっと。
　なので獅子神は村雨の事を一旦頭の中から追いやることにした。
　薄情な眼鏡の事などもう知らない。知った事じゃない。
　今一番に考える事は、この腹の中に宿った子をどうするかだ。
　一番楽なのは無かった事にする事だろう。生まれる前に天に還すといえば聞こえはいいが現実的には獅子神の意志で子の命を奪うという事だ。週数からしてまだ身体への負担も少なく済む。
　けれど、少しだけ迷って獅子神はその選択肢を遠ざけた。
　一人でまともに子を育てられるとは思っていない。
　獅子神は所謂普通の家庭というものからは縁遠く育った。だから「普通」が良く分からない。映画や小説、テレビ、或いは周囲の話を小耳に挟んで何となく知っているつもりになっているだけだ。
　そんな人間が一人で子供を育てるのはきっと無理がある。
　けれど獅子神は金銭的には非常に恵まれていた。賭博口座には十億を超える額が眠り、カラス銀行以外の銀行口座にも、投資用を除いても数億の残高がある。
　だから仮に獅子神がどうしようもなく子育てに適性が無かったとしても、金で解決が図れるのだ。ベビーシッター、家政婦、そういった人間を新たに雇い入れればいい。
　子供に取ってそれが本当に幸福に繋がるどうかは分からないが、何も買ってもらえないというネグレクトを受けた経験がある獅子神にとって「金を掛ける」という事は愛情を示す手段の一つだと認識されている。
　よって、獅子神は腹を括って覚悟を決めた。
　使える物は何でも使う。
　一人でも何不自由無く子を育てて見せる、と。

　獅子神にとってずっと「一番」は自分自身だった。
　それが短い期間、村雨になった。
　そして今この瞬間から、この腹の子になる。
　それは獅子神が臆病な女狐から誇り高く、我が子を護る雌獅子へと変貌を遂げた瞬間でもあったのだった。