雌獅子は愛を抱く② 平日、獅子神の昼時は忙しい。
株の売買立会、前場と後場の間の一時間で自分達と従業員の食事を作り、済ませなければならない。従業員にはその間別の仕事も頼みたいので、昼休みはその株式取引が無い一時間と後場の最初の一時間とで交代制で取らせている。今日は園田が後場に昼休みを取る番で、先程からベビースプーンと離乳食を両手に格闘していた。もう一人と出産後に雇い入れたベビーシッターは一足先に別室で休憩している。
『続いてのニュースです。市中銀行第三位のカラス銀行が経営破綻し――』
そんな慌ただしい昼の時間、ふと聞こえて来たニュースに少なからぬ驚きを持って獅子神は顔を上げた。
テレビの画面には横一直線に並べた机にはずらりと行員が並び深々と頭を下げている。数秒の後上げられた顔には、見覚えのあるものが幾つか混ざっていた。
「経営破綻……?」
ベビースプーンを握っていた園田もその内容が気になったのだろう、顔を上げて呆然と呟く。
「何やらかしたんだあの銀行」
獅子神がカラス銀行と縁を切って既に二年が経過していた。
産むと決めた子が腹に居たのだ。死ぬ可能性がある1ヘッドや1/2ライフなど論外、4リンクでも安全を考えれば参加するのは愚の骨頂。
なので獅子神は電光石火で事を進めた。
担当行員の梅野に賭場にはもう顔を出さない事、ギャンブラー登録と賭博口座の抹消を頼んだ次の瞬間には全額を別銀行に移動した。元々投資用の資金として多額の引き出しをしていた時期もあり、移動手続きは驚くほどあっさり済んだ。
流石に話を聞きにやって来た梅野に、黙って母子手帳を見せれば一瞬目を見張った彼は静かに頷いた。
ジャンケット権には決して安くないキャリアを払っている筈だ、1/2ライフ昇格後短期間での離脱に申し訳なくも思ったが、梅野は穏やかにおめでとうございます、お子様とお幸せに、と言って去って行った。担当行員がアイツで良かった、と今でも思う。宇佐美に詰められてなければ良いが。
『続いてのニュースです――』
ニュースの話題が切り替わり、我に返った獅子神は慌ててフライパンの火を消した。大丈夫、焦げてはいない。半熟の筈の目玉焼きが固焼きになっただけだ。
「……経営破綻ねぇ」
仕事柄金融関係には耳敏い方だが、取り立てて最近カラス銀行に何かがあった、とは聞いていない。
と言う事はやはり、表には出ない賭場の関係だろうか。今や無関係の獅子神には分からない。
あのギャンブラー仲間達は今でもカラス銀行に所属していたのだろうか。そうだとすれば、彼等に何か不都合が生じていなければ良い。
獅子神から特に何かをギャンブラー仲間に伝えた訳では無いが、自然と連絡が途切れ疎遠になった。
逃げるように賭場を去った獅子神を詰まらない奴だと思ったかもしれない。数少ない友人だと思っていたから、寂しい気持ちがほんの少しも無かったと言えば嘘だ。
まぁギャンブルで繋がった縁だ。離れれば途切れるのは仕方が無い。
幸い生まれて来る子を迎える為の準備で忙しく、感傷に浸る暇は殆ど無かった。
ボイルしたウィンナーと目玉焼きを皿に載せ、ザルの中のベビーリーフを隅に置いて園田に声を掛けた。朝食のようなメニューで悪いが今日は本当に忙しいのだ。
「園田、メシ食っちまってくれ。代わる」
「はい、分かりました。お嬢は鶏肉だけ食べてくれましたよ」
園田が振り向くとその陰になっていたベビーチェアが見える。
汚れた口元とよだれ掛けに奮戦が見て取れて思わず獅子神は笑った。紅い目で獅子神を捕えた幼子は、母を求めて手を伸ばす。
「まん、ま、まんま」
「はいはい、今行くよお姫様」
皿を園田に渡し、代わりにベビースプーンを受け取る。
誰かさんに似たのやら、一歳三か月になった愛娘にはやや偏食の傾向がある。
肉類や甘い物への食い付きは大変良いがそれ以外には興味が薄いようだ。裏ごしして作ったポテトポタージュの量は殆ど減っていなかった。
何かしら食べてくれればそれでいいのだ。神経質になってアレもコレもと食べさせようとしては食事自体を嫌がるようになってしまうかもしれない。
「お芋さんは食べないのか?」
「やっ」
「嫌かぁ。じゃあ母さんが食べちゃうぞ」
言いながらポテトポタージュをほんの少し載せたスプーンを自分の口に運ぶふりをすれば、目を少し丸くした娘はやっやっ、と繰り返してスプーンを取り戻そうと手を伸ばして来た。
お望みの通りに小さな口元に戻してやれば、むにゅむにゅと唇を動かしながら飲んでいる。
一人で面倒を見ていたらとても呑気に構えていられないだろうが、園田達を始めとした他の大人の手が借りられる今それほど焦る事は無い。世に聞くワンオペとやらは一体どれ程大変な事やら……。
せっせと口元に運び続ければ、それまでの食い渋りは何だったのかと思う程良く食べ始める。娘にはよくある事で、ベビーシッターや園田達は、ママに食べさせて欲しいんですねぇと笑っていた。
用意した内の七割ほどを食べた辺りで口を開かなくなり、もう満腹かとスプーンを置く。汚れた手や口元を拭い、よだれ掛けとエプロンを外して抱き上げればご機嫌だ。
後場が始まるまであと二十分、休憩中のベビーシッターが戻って来るまであと十分。
今日も自分の昼食は十秒チャージでいいかと決め、ほんの僅かでも長く娘と触れ合うべく抱き上げたまま玄関へ向かう。今日は天気も良いからきっと気持ち良い風が吹いているだろう。
「あぅま、くっく」
「そう、くっく。偉いな」
掌に乗る程小さな靴を指差してくっく、くっく、と繰り返す娘の前髪を撫でる。
今の所健やかに育ってくれている、と思う。願わくばこのまま育って欲しい。
地面に下して追いかけっこをする程の時間は無いから、自分だけ靴を履こうと獅子神が屈んだ瞬間チャイムが鳴った。
「おっと、」
ナイスタイミング、と呟き躊躇いなくドアノブへ手を伸ばす。一体どの通販の商品が来たんだろうかとそんな呑気な事を考えながら。
「はい、……」
「……、」
ドアを押し開けて、瞬間言葉が出ない。それは向こうも同じ事で、睫毛に縁どられた目をそれ以上は無理だろうという位に見開いている。
「ま、」
真経津、と呟いた声は音にならない。
そして獅子神の視線は背後へ向かう。
頭一つ飛びぬけて大きい叶、白く長い髪の天堂、それから。
天堂の肩越しに、黒いツンツンの――……。
「な、」
そんな小さな呟きの主が誰か、きちんと拾えてしまう。まだ覚えている。
そこまで認識して、獅子神ははぁぁ、と溜息を吐いた。今日の相場は荒れているからしっかり見ていたかったのに、これはもう午後は仕事にならないだろう。
外に行けるものとばかり思っていた愛娘は、父親譲りの紅い目で不思議そうにじっと獅子神を見つめていた。