きみは聖杯にも似た「オベロン!」
部屋の扉が開いたかと思えば、目の前に勢いよく誰かが飛び込んできた。それは俺の名を叫びながら目の前で倒れ込み、ベッドの端に座っていた身体に伸し掛る。
「きみねぇ、いくら自分の部屋だからって……」
「お願いオベロン! 私とイチャイチャして!」
そう聞いて、咄嗟にいくつかの可能性を想定した。
まず、頭上にいる立香に何か異変が起きた可能性。頭のネジが相当数抜けているのか、マスターとしてそぐわない言動を見せている。
次、押し倒されている俺の認識が間違っている可能性。もしかしたら本来の立香がこうした言動をする人物であり、これまでは俺の方が勝手に美化していたのかもしれない。
最後に、お互いが何か幻覚のようなものを見せられている可能性。夢だのレムレムだのが横行しているこのカルデアだ、否定はしきれないのが正直なところである。
「で、その心は?」
「だから、イチャイチャ……」
「……きみは三月ウサギか」
言葉尻を捉えるのなら、発情した兎と大差ないようなものに思える。しかしどうやら本音のようなので、実質三月のウサギである。
そして恐らく、三つの可能性はそのどれでもない。もう少し言い方というものがあるだろうし、何か意図があるはずで。
「それで、俺は何をしたらいいわけ? サーヴァントとしてマスターの命令なら聞いてやるけど、まさかセックスでもしろって? 第一きみは今、シミュレーターで周回をしている最中じゃ……」
「なんていうか、このまだとダメなんだよね。あ、もしかして、汚染された聖杯ってこんな感じなのかな?」
「待て待て。あながち嘘ではないあたり、タチが悪すぎるだろ……」
二人の声が、無機質な部屋に響いている。汚染された聖杯とはよく言ったもので、目の前の姿をじっと観察すれば、切羽詰まった様子が見て取れる。
いつもの周回の最中だなんて、とんでもない。
そんな余裕のない立香にベッドの上で押し倒されて、それで。
「とりあえず、重いからどいてくれない?」
「うわ、自然な流れで重いって言った……」
ぽたりと胸元に水滴が滴る。呼吸が荒く、頬が紅潮している。
……まるで、ここまで全力疾走して来たかのように見えてしまう。
「それで? 俺は別に暇じゃないんだ、用がないなら帰ってくれない?」
「いやここ、私の部屋だし。違う、そうじゃなくて……ううん、私の部屋なのは違いないけど……」
恐らく、頭の中もあまり回っていない。その上で「イチャイチャして欲しい」だの「汚染された聖杯」だの、嘘ではないものの理解が追いつかない。
再び、ぽたりと水滴が落ちてくる。
見上げれば少しは呼吸が落ち着いたらしく、ようやく互いの目があった。
じっと見詰めてくる、琥珀の瞳。こちらもじっと見詰め返せば、狼狽えた瞳は視線を逸らす。
「なんていうか、その……浄化? しないといけないから!」
「……は? 浄化?」
「そう! お願い! 今すぐ!」
そう主張する割に、自分から何かをするような気配はなかった。そのくらいは気が動転しているらしく、妖精眼などなくても言葉の先にある感情が透け視えてくる。
「……ほんと、面倒だな。次から他を当たれよ?」
薄汚れた魔術礼装の上から腰に手を回せば、反射的に身体が倒れ込んできた。単なるシミュレーターでの戦闘なら有り得ないような状態が気になってしまい、抱き締めた事で見えなくなった琥珀色に思いを馳せる。
「あー、これでいい?」
「……うん。でも何ていうか、その」
「満足した? 終わりにしていい?」
「全然足りないよ。だからその、もう少し……」
耳元で聞こえる声は不満に満ちていた。大きく上下していた胸が落ち着き、ぴたりと重なって、二つの鼓動が同じ速度になっていくのを感じる。
「……もっと」
もっと、回した腕になお一層力を込めれば、身体から苛立ちが抜けていく様子で。
すう、と大きく息を吸う。
はあ、とゆっくり息を吐く。
そうして暫し、ぴりりとした無言に包まれていた。それは少しずつゆっくりと、甘ったるく溶けていく。
「……ニヤニヤしすぎだろ」
「してないし。適当な事言わないで」
ここにきてようやく、強がりが見え隠れした。腰に回す腕に改めて力を込めれば、触れ合った身体がじわりと熱を持つ。
「うん……何ていうか、ありがとう」
「それで? 汚染された聖杯は浄化されたのか?」
「うん……もう少し、もう少しだけ」
耳元で、大きくひとつ深呼吸。重なる鼓動が徐々に速度を上げ、軽く弾むようになって。
「うん、大丈夫そう! ありがとうオベロン」
「なんだ、気持ちわっる……」
「酷いなぁ、嘘はついていないでしょ?」
重かったものが消えていく、弾んだ鼓動が離れていく。起き上がった立香は清々しい笑みを零して、甘く溶け切っていた空気を一閃した。
「あーはいはい。まあ、さっさと終わらせてきたら?」
「そうだね。すっかり浄化された事だし、サクッと片付けてくる」
どうやら本気でそう思っているらしく、頭上に見えていた身体はまるでウサギのように軽く跳ねて消えた。
「それじゃあ、行ってきます!」
そう言って、部屋を駆け出し消えていく。ドアが閉じる前に一瞬見えた背中は眩しくて、思わず目を逸らした。
「はは、浄化されただって? よく言うよ……」
呪われた虫には廃棄場の穢れがお似合いで、こうやって必要あらば受け止めているのだった。
そうすれば、きみは何度でも輝ける。