鬼ごっこ 10月のとある日曜日。
鬼舞辻議員の事務所では、無惨からアルバイトまで全員集まって、毎年恒例の「体育の日」イベントが行われる。
「じゃーんけーんぽーん!」
童磨の掛け声と共に、全員が無惨とジャンケンする。
無惨に勝った者はその場に座り、負けた者は最後の1人になるまで、無惨とじゃんけんを繰り返す。そして最後まで負け続けた者が「鬼」となる。
そこから想像を絶するような盛大な鬼ごっこが始まるのだ。
「さーて、一回戦の鬼は、なんと!!」
「私だ……」
初戦から黒死牟。その場にいた全員が膝から崩れ落ちた。
ハンデをつける為、黒死牟は毎年、スーツと革靴でこの鬼ごっこに参加しているが、某ハンターのようにサングラスを掛け、無表情で走って追い掛けてくる姿が怖すぎて、獪岳は初めの年は「殺さないで下さい!」と泣きながら土下座したという伝説がある。
そんな、めちゃくちゃ強い黒死牟なのに、何故かじゃんけんは弱い。というか、いかなる場合でも無惨には勝てないようになっているので、愛の力とは恐ろしいと全員が思っていた。
そして、基本的に全員捕獲する黒死牟だが、当然のように、ひとりだけ捕まえられない相手がいる。
そう、それは派手なスウェット姿で準備運動をしている鬼舞辻無惨である。
勿論、この鬼ごっこは無礼講。その上、無惨を捕まえたら臨時ボーナスとして金一封が出る。ここぞとばかりに全員やる気を出すのだが、無惨は逃げ足がめちゃくちゃ速い。その上、敵に背中を見せて逃げることに抵抗感が全くない男なので、その辺りのメンタルの強さと、ずば抜けた身体能力の高さを生かして、黒死牟ですら捕まえることが出来ないのだ。
「一度くらい捕まる恐怖を味わってみたいものだ」
黒死牟を見てニヤニヤと笑って挑発する。じゃんけん同様、無惨に勝つという意識が黒死牟にないというのもあるが、無惨に恥をかかせるわけにはいかないと多少の忖度は働いている。それを表立って言うと無惨は拗ねるので、黒死牟は無言を貫き、無表情で準備運動をしていた。
「そうだな……黒死牟は金一封ではモチベーションは上がらんだろう」
確かに無惨の愛人、もとい、秘書をしているので金銭的には何不自由ない日々を送っている。
なので、無惨は数秒考えて、満面の笑みを浮かべる。
「私を捕まえたら、結婚式を挙げてやろう」
その瞬間、サングラスの中の黒死牟の目が輝いた。
「……マーメイドラインのドレスを着て下さいますか?」
「あぁ、何だって着てやるさ」
えっ!? 無惨様が着るの!? と皆が驚いて固まる。いや、着たら似合いそうだけどさ、二人ともタキシードじゃないの!? とダイバーシティが進んだ鬼舞辻議員事務所では、二人が結婚式を挙げることに何の違和感も持たない。
俄然やる気が出た黒死牟はスーツのジャケットを投げ捨て、ネクタイを緩めるとホォォォォ……と不穏な呼吸を吐き、バキバキと全身を一瞬でパンプアップさせる。
制限時間は15分。移動範囲はこの広場内。
あんなのに捕まったら殺される!
失神しそうになる者まで現れたが、鳴女は容赦なくピストルを構える。
開始の合図を鳴らすと同時に、黒死牟は全速力で無惨を追い掛ける。
自分ひとりを狙いに来ると解っている無惨は、敢えて人の多いところを目指して逃げる。
ぶつかる! と獪岳が立ち止まって狼狽えていると、無惨はニヤリと笑った。
「悪いな」
軽やかに逃げる無惨は獪岳の首根っこを掴み、思い切り黒死牟に向けて投げ飛ばす。皆、うっかり忘れているが、無惨も黒死牟に負けず劣らずのゴリラである。獪岳を片手で投げ飛ばす姿を見た瞬間、全員が死を覚悟した。
「いぃぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
叫び声と共に飛んできた獪岳をそのまま黒死牟は受け止め、更に投げ飛ばした。
ゴフッと呻き声をあげ、獪岳は泣きながら地面に蹲る。
それからも無惨は地面に倒れる者を容赦なく踏みつけにし、身軽な者を掴んでは投げを繰り返し黒死牟から逃げるが、黒死牟も本気である。
「黒死牟殿、ごめんね」
笑いながらスイッチを押す童磨。轟音と共に巨大扇風機が動き出す。普通の人間なら吹き飛ばされるような威力の風を黒死牟に吹き付けるが、向かい風も何のその。長い髪を靡かせて黒死牟は風の中を走り抜けていく。
「黒死牟、覚悟!」
久し振りに猗窩座の格好をした狛治が黒死牟に勝負を挑むが、当然のように瞬殺であった。
そんな黒死牟の姿を見て「ブラボー!」と楽しそうに声をあげて無惨は逃げる。逃げ足が速く、単純に足の速さでは無惨に追い付けない為、常に全速力で追いかけていたので息が上がってしまい、呼吸を整える為に日陰になる木の下で立ち止まった。
吹き出すように流れる汗をタオルで拭い、周囲を見渡す。
残り1分。今年も自分の負けか……と悔しく思うと、頭上の枝がピシッと軋む音がした。
「黒死牟」
その声と同時に上を向くと、無惨は高い枝の上から何度か他の枝に飛び移りながら、黒死牟の所に飛び降りてきた。
咄嗟に無惨を抱き止めるが、そんなに高い位置から飛び降りたわけではないので黒死牟の負担にはならず、まるでどこかのプリンセスが舞い降りたかのように、黒死牟の腕に抱かれている。
何が起こったか解らず目を丸くする黒死牟だが、そこで鳴女の笛の音が鳴り響く。
「壱様、おめでとうございます」
わぁぁぁぁ! と歓声があがり、黒死牟は無惨を抱えたまま、ばら蒔かれた紙吹雪に包まれる。
「はぁ……折角、木の上に隠れていたのに、枝が折れるとは思わなかった」
無惨はお姫様抱っこされた状態で悔しそうに舌打ちする。
「遂に無惨様が捕まったぞー!!」
「黒死牟様! ばんざーい!!」
と無惨により満身創痍にされた事務所スタッフたちは大喜びしている。
しかし、見上げても枝が折れた気配はなく、無惨は名を呼んで、ちゃんと黒死牟が抱き止められるように降りてきた。
「……素直じゃないですね」
黒死牟は溜息を吐くが、「何のことだ?」とシラを切り、妖しい笑顔を見せる。
「何と無く、お前になら捕まってみても良いかな、とは思った」
「光栄です……」
黒死牟は真っ赤になり、手が震えて無惨を落としそうになるが、ぺしっと額を叩かれた。
「しっかり持て! 疲れた。もう歩けん。このまま帰れ」
「畏まりました」
疲れで震える手足を酷使し、黒死牟は無惨を抱えたまま歩いて帰った。
「来年、私が鬼をするぞ」
翌日、無惨はそんなことを言いだした。
今年、黒死牟から逃げる為に周囲を巻き添えにする姿は鬼以上におっかなかったが、黒死牟に追いかけられるよりマシだろうと全員甘く見ていた。なので、更にとんでもないことを言い出した。
「私に捕まった者は冬のボーナス無しだ」
「それは良いですね」
阿鼻叫喚の中、黒死牟は頷きながら笑うが、無惨は黒死牟を見て真顔で言った。
「お前を捕まえたら問答無用でその場で犯すから覚悟しておけよ」
「ええええー!?」
事務所のスタッフ全員が一年かけて本気でトレーニングに励んだのは言うまでもない。
だが、何の呪いか、翌年の日曜日は全て雨になり、その年の鬼ごっこ大会は中止となった。