桜並木「おお、絶景、絶景」
無惨は嬉しそうに桜吹雪の下を歩く。蕾のうちに周辺の集落に雑魚鬼を放ち、盛大に食い殺すように命じた。次々と人が姿を消すので「神隠しに遭った」「桜に攫われた」と村人は恐れた。そして人々は夜、出歩かなくなった。鬼狩りに勘繰られる前に無惨によって鬼は消された為、誰の邪魔も入らず、ひっそりと静まり返った川沿いにずらりと咲く、満開の桜並木を独り占めできたのだ。
今宵は満月。暗闇の中、月明かりを浴びて白く輝く桜を見て、無惨は上機嫌だ。
夜桜見物が好きなど、やはり風流なお人だと、数歩後ろを歩いていた黒死牟は桜より無惨を見ている時間の方が長かった。
月や桜ばかり眺め、ずっと上を向いていたが、ふと足元に置かれた地蔵を見ると、折った桜の枝が供えてある。
「花折りか」
その枝を拾い上げ、花が咲いた先端部分だけを千切り取り、その花を黒死牟の髪に挿した。
「これは……」
「神に祈りを捧げる時に、こうして桜の枝を折って捧げる風習があるのだ。命乞いのつもりだったのだろう」
黒死牟の髪を飾る花弁は桜並木の花弁よりも明らかに赤い。まるで死人の血を吸ったかのようだ。
「桜という名は元々、神の御座(みくら)から来ている。その為か呪い(まじない)によく使われた。弔いのつもりか墓地や処刑場にもよく植えられるからな。桜の木の下には人骨が埋まっているらしいぞ」
根本に立っていた黒死牟は思わず桜の木から離れた。人を食う鬼のくせに随分と面白い反応をすると嘲笑う。
「与太話だ、真に受けるな」
冷ややかに言い放った無惨は再び月を見上げる。立ち止まった二人に雪のような花弁が降り注ぐ。
「人は愚かだ」
てのひらに舞い降りた桜の花を握り潰し、無惨は大きな溜息を吐く。
「願ったところで何も変わらぬのに、こうして神や仏に縋ろうとする。」
誰が教えたわけでもないのに、神羅万象、八百万の神に手を合わせ、厚かましく己が願いを頼む。
「神は……私に何も与えては……くれませんでした……」
生まれてから今日までの日々を振り返っても、神も仏もない日々であった。だが、自分には神に等しい存在が現れたのだ。
黒死牟の胸の内を読み、無惨は「帰る」と小さく呟いて、振り返らずに歩き出した。黒死牟は無惨が戯れに挿した桜の枝を手に取る。
桜にしては花弁がやけに赤い。まるで紅梅のように赤い花弁を見て、黒死牟は六つの目を不快そうに細める。すると折った枝の根本から、どろりと樹液が流れ出る。どす赤黒い液体はまるで腐った血のようだった。
そして、その粘液は黒死牟の指先を溶かす。枝から生えた根は太く頑丈になり体を縛り、皮膚を破って侵入した細い根は血管を巡り、体から血を吸い上げる。全身に根が巻き付き、細かった枝が太い幹へと変わり、黒死牟は桜の木に飲み込まれてしまう。
「無惨様……!」
暗闇の中の無惨は桜の花弁に包まれ、白い世界へ攫われようとしている。根の絡み付いた腕を無惨に向けて必死に伸ばすと、冷たい手に捕まれ、桜の幹から引き摺り出される。
「何を見た」
己の体を見るが、桜の枝や根はどこにもない。髪に飾られた桜だけである。
「……何も……」
黒死牟は無言で無惨の後に続く。
人の命を蹂躙する自分たちへの神罰のつもりだろうか。だが、救う慈悲もない相手の罰を受ける筋合いはない。黒死牟は桜の花の向こうに見える満月を眺めながら、小さな溜息を吐いた。