いただきます 嫌な仕事だった。仕事だから嫌でもやった。
朝から雨が降っていた。静かに腹の探り合いをしたミーティング、癖のある煙草の匂い。媚びへつらうような笑い声と、こちらを品定めする蛇のような瞳が、すべてが片付いた深夜になっても頭から離れなかった。
一人、悪人が消えた。それだけの夜だった。
言葉少なに手配したビジネスホテルにチェックインすると、斑はこはくを置いて近くのコンビニに足を運び、適当に食糧を買い込んだ。カップ麺を二つ、おにぎりを四つ、ガムを一包み、ミントタブレットを一つ、水と緑茶を一本ずつ。
部屋に戻ると、想像より大荷物で現れたのだろう斑にこはくは目を丸くしたが、黙って備え付けのケトルでお湯を沸かし始めた。
こはくが何か言う前に斑は顔を洗って、カップ麺に湯を注いでサイドテーブルに置いた。ベッドの脇に腰掛けてスマホに目を落としてしまえば、こはくももう話しかけてこようとはしなかった。
こはくは食べる前に小さな声で「いただきます」と言った。斑はそれを聞いて、はじめてこはくを見た。
夢から醒めたような心地で、顔を上げた。
誰かと一緒に食事をしているのだ、と思った。
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「お、やっとるやっとる」
「居酒屋を覗いたおじさんか、君は」
ところ変わって、星奏館の共有キッチンである。時間は深夜一時少し前。
こはくの楽しそうな声に対して、微妙に後ろめたそうな声音で苦笑したのは斑だ。
醤油味のシンプルなカップ麺を片手に、いざ最初のひとくちというところで訪問者があった。中途半端な体勢ではにかむと、斑は箸をおろした。
「悪いことしとる」
「ふふ……そこからお箸をもう一膳出すといい。共犯者にしてあげよう」
「おおきに」
鼻歌交じりに引き出しをあさるこはくを見て、斑も食器棚から小さめのどんぶりを取り出した。
一人ならキッチンで手早く済ませてしまおうと思っていたが、こはくがいるならとそれらを持ってリビングに足を向ける。ちょいちょいと手招きをすると、うきうきした様子でこはくもついてきた。
「なんか具、違わん?」
「ちょっとばかし乾燥野菜をな。割と美味しいぞお」
ぼそぼそ話しながら取り分けた半分をこはくのほうへ押しやる。どちらからともなく、小さな声で「いただきます」と呟いた。
「んん……ま。深夜に食べるカップラーメンて、なんでこんなに美味しいんやろ」
瞬時に、脳裏にいくつかの通説が浮かんだ。
「背徳感……が、スパイスになるとか……ストレスがどうとか……はふ、しっかし、うまいよなあ。あの夜も、」
滑りの良くなった口が途中まで言いかけた言葉を、熱いスープと共に喉の奥へ流し込んだ。
「なに? なんて?」
まだ、あの夜から一年も経っていないということが不思議だった。湯気の向こうに見える少年は、あの日どんな顔をしていただろうか。
「いや……君と食べると、うまいなあと思って」
誤魔化すつもりでそう言うと、こはくは少しはにかんで「恥ずかしいことぬかすな」とまたカップ麺に向き直った。それだけの会話が、ひどく尊くて得難いもののように思えて、斑はそっと気付かれないように小さくため息をついた。
穏やかな夜だった。