潔は凛に甘すぎる「なんでこんなことしなくちゃならねぇんだよ!」
近くで着替えていた馬狼が、服を床に叩きつけながらそう言った。激しく同意。口には出さないけれど、心の中で頷く。馬狼は自分が地面に捨てた服を数秒見つめたあと拾い上げ、丹念に埃を落としてから袖を通していた。
ブルーロックの運営資金調達という名目で、ろくに説明もされぬまま駆り出される様々な企画。インタビュー、特技や趣味を紹介する動画など内容は様々だ。今日はコスプレ衣装を着て撮影されてこいと命令され、この場に集められている。
「各自着替えが終わったら、隣のスタジオに移動してください」
スタッフに促され、支度の整ったメンバーはゾロゾロと移動を開始した。
「クソ、なんだこれ」
俺はと言うと、背中のファスナーを一番上まで上げることが出来ず困り果てていた。服がピッタリすぎて、腕の可動域が極端に狭いのだ。無理をして背中に腕を回そうとするものなら、肩あたりの縫い目が不穏な呻き声を上げて、服をバラバラにするぞと脅してくる。助けを求めようにもこの部屋にはもう俺一人しかいない。こんな背中丸出しのまま部屋を出て、人目に晒されるのもなんとも情けないことだ。諦めて椅子に座っていると、扉が開いて潔が戻ってきた。
「凛、お前何休憩してるんだよ。みんな待ってるぞ」
扉から半身を覗かせてこちらに声をかけてくる。こいつならいいか。
「潔、こっち来い」
「はあ?命令するなよ。さっさとしろ、お前来ないと撮影始まらないんだから」
「潔」
「だーかーらー」
「いさぎ」
「~~もう!なに!どうしたの?」
ドカドカ足音を鳴らしてこちらにやってくる潔。
「うしろ、これ」
「ああ、ファスナー閉められなくて困ってたの?なんだよ、助けて欲しいなら素直にそう言えよ」
潔の手を借りて、簡単に解決した。ついでとばかりに、潔は俺の周りを一周しておかしなところがないかチェックする。ゴミでもついていたのか、頭をパスパスと触られた。
「うん、大丈夫だな。ほら、行くぞ」
立ち上がってついて行こうとしたら、今度はブーツの紐が解けていることに気がついた。
「潔」
屈んで紐の片方をつまみ、潔に見せる。ちょっと待っていろ、今直すから。
「いさぎ」
振り返った潔は、顔を赤くして閉じたまま口をモグモグしていた。なんだその顔。
「もおおおおお」
素早く俺の足元にしゃがみ込むと、手際よく結んでくれた。けれどそこまで頼んでない。潔を呼んだのは、待って欲しかったからだ。
「出来たよ。ほら、行くぞ」
潔に手を差し出され、無意識にその手を掴んでしまった。何やらニコニコと幸せそうな顔をしている潔。
その時俺の頭に雷が落ち、ある仮説が浮かび上がってきた。潔、俺にめちゃくちゃ甘いのではないか、と。
その後、潔は俺のお願いをほぼなんでも叶えてくれた。たとえば食堂で空のコップを傾けて「いさぎ」と言う。すると数分後にはコップの中は並々と水で満たされている。サッカーボールを集め終わった後のボールかごを少し揺らしながら「いさぎ」と呟く。しばらく待てばボールかごは視界から消えて、きちんと倉庫に運ばれている、と言う具合だ。
そしてそれに伴い、俺は気がついてしまった。どうやら潔は、俺のことが相当好きなようだ。
「凛ちゃんはお兄ちゃんと一緒にサッカーできるのが嬉しくてはしゃいでるんでちゅかー?まともにボール蹴ることもできないんでちゅかー?」
士道がいつものように俺に突っかかってきた。けれど理由はわかっている。さっき兄貴が俺に話かけたのが気に入らなかったんだ。ただの罵倒だったのに。どうしてあんな性格破綻クソ野郎のことが好きなのか理解に苦しむ。子供の時は優しくて大好きだったけれど、いま向こうに見えるあの糸師冴の、どの部分に惹かれると言うのか。聞きたくもないが気になるところではある。
「うるさいあっちに行け。お前の大好きな下まつげはあっちで球蹴りしてるだろ」
少しだけ首を捻り、斜め後ろを確認する。想像通り、少し離れた場所に潔は立っていた。士道が手を出したらすぐに止めに入つもりでそこに居るのだろう。けれど一撃受ける前に、なんとか士道に泡を吹かせてやりたい。
「それともなにか、相手にしてもらえなくて不貞腐れてるのか?お願いして混ぜてもらえよゴミ虫野郎」
「二度と口聞けねぇように今度こそ再起不能にしてやる」
士道の一歩踏み出した足に自分の片足を引っ掛け、体を反転させて士道を転ばせる。上半身で押さえつけたまま潔を視界に捉える。目が合った瞬間びくりと震える潔の肩。視線をしっかりと合わせ、あとは口を動かすだけ。
「……いさぎ」
「~~士道!お前凛にちょっかいかけるなよ!せっかく今日は何もトラブルなく終わりそうだったのに」
潔がすぐさま小走りで寄ってきた。俺は士道を見下ろし、ハッと笑った。このあと潔の説教タイムが始まるはずだ。そして監視しているであろう絵心によって仕置き室行き、兄貴にも呆れられればいい。
「なんで年下いじめるんだよ!ずっと見てたんだからな、お前が言いがかりつけてるの!」
「ウッざ、もう本当ウザい」
「おい何遊んでるんだ。まだギリギリ時間あるからもう1ゲームやるぞ。グズグズしてんな」
「冴ちゃーん!このカップルがいじめてくるの!!怒って!!」
「は?カップル?カップルってなんだ、俺は認めねぇぞ、凛」
「かかかかカップルじゃないし!凛は俺のこと好きじゃないってちゃんと知ってるし!」
「潔きめぇ」
「助けてあげようとしたのにこの仕打ち!」
「おい潔、後で俺の部屋来いよ」
「俺も行っていい冴ちゃん!いいよね!!冴ちゃんといっぱいお話したいなーーー!!」
「行かないから!絶対行かないからな!!」
潔がちゃんと助けに入ってきたこと、兄貴が絡んできてくれたこと、士道をやり込めることが出来たことに満足しながら、目の前の騒動を眺める。かまわれていると言う安心感からなのか、なんとも穏やかな心地になる。当事者であるにもかかわらず一歩引いた所でニヤニヤしていたら、「何笑てんねんこれお前のせいやろ」と背中を押されてどつき合いに巻き込まれた。結局俺を含む4人とも罰を受けた。
その後も潔は面白いように俺の思う通りに動いてくれた。惚れた弱みというやつなのだろう。気づけば俺の近くにいて、どんな些細な望みも叶えてくれた。俺は愚かなことに、人の心を弄んだことに対するツケの大きさなんて、考えてもいなかったのだ。
あの日、あの部屋に入るまでは。
人気のない部屋に連れ込まれ、あれよあれよという間に押し倒された。俺の体幹を持ってしてこんな簡単に押し倒されてしまうなんて情けない。油断していたのだ。俺を誘ったそいつが潔だったから。こいつが俺に危害を加えるはずなどないと思い込んでいたから。
「おい!どういうつもりだ!」
足を払われ地面に倒れ込む寸前、背中に回された腕が忌々しい。そのおかげで怪我をしなかったわけだけれど。
「約束したじゃん」
潔の手が俺の前髪をかきあげた。涼しくなるデコ。コンクリ打ちっぱなしの床が俺の体温を奪っていく。風邪をひいたらどうしてくれるんだ。
「今日の試合で3点決めたら、チューさせてくれるって」
「……聞いてねぇ」
嘘だ。本当はちゃんと聞こえていたし、確かに頷いたんだと思う。
「違うだろ?出来るわけないと思っていたんだ」
頬や首筋を無遠慮に撫でるこいつの湿った手のひらが心地悪い。息が上がる。頭がぼーっとする。自分で自分の体の制御が効かなくなっている状況に、潔の挙動に怯えている自分に、恐怖が溜まっていく。
「覚えてねぇ。試合中で、頭煮えてるあの状況でそんな」
全部聞いていた。けれど。
「出来るわけないと思ってたんだろ?」
顎を掴まれ顔の角度を固定された。ゆっくり近づく潔の目。鼻。口。
「俺を見くびっていた、お前の負けだよ」
潔の口が弧を描く。わずかに覗く、綺麗に並んだ白い歯。
「い、いさぎ」
潔の右手を掴み制止を訴える。
「いさぎ」
潔の力が抜ける。よかった。いつもの潔だ。
「わるかっ」
目を塞がれる。真っ暗だ。
「……」
「かわいいなぁ凛は」
「……」
「大丈夫、俺がいるよ。いつでも。そばに」
潔はいつも俺を助けてくれる。けれども、潔が俺に加害する場合、俺の味方はどこにもいないのだと、その時初めて気がついた。