僕だけの、曇り空だった。
空一面を塗りつぶしたような灰色ではなく、さまざまな陰鬱さを幾重にも重ねたようなそんな色の空を、求めていた。
なにか見えないものに引き裂かれそうな心で、いっそ早く誰かにそうして欲しくて、そんな空を渡るように歩く。
雨は、まだ降っていない。
春の生ぬるい風は、ずっとずっと忘れていたのに会えばひどく懐かしくなる古い友達みたいだ。
きっとまた、すぐに思い出せなくなる。
誰が何と言おうが、僕は苦しかった。
泣く事は、自分への慰めで、彼への甘えだと思えるほどに。
僕の武器だった努力は……いつからか、そのずっと目の前にあった背中の前に回って、ここに来るのにどんなに努力したかを笑って話す瞬間の想像は。
すべて、ガラクタとなって色を失い地に落ちた。
それくらい、ほかになにも無かったんだ、僕には。
人生に、愛されていない。
神様は、いない。
だって
どこにでもいるような僕みたいな人間の側にも、こんなにも悲しみは落ちている。
「伊月」
背中の、すぐ後ろから声がした。
咎めるような、安堵したような、そんな音。
でも、遠い。だから、呼びかけに答えられない。
今の僕には、自分が誰とも向き合えない事くらいしか分からない。
だけどその誰かの手が、僕の手を取ってぎゅうっときつくつないだ。
………
ぐらり、と世界が地面から天に回る。
急速に流れる雲と雲の中に、黒い点。
ああ、カラスだ。
一羽、大きなカラスが降りてきて、僕たちをその闇のような羽で撫でるように通り過ぎた。
「伊月おい、オレだ」
その触れた自分とは異質な高さの体温に、視線を下ろす。
「ガッちゃん」
僕が名前を知っていて、僕の名前を知っている人。
その人は、今日の空のような目をしていた。
僕の孤独な心が、まるでそこにあってうつしてしまったような?
「どこ行ってたんだよ。お袋さん、心配してたぞ。もうすぐ入学式なのに、今日も帰ってこないって……」
その真剣な声が、一度空気を飲み込む。
「お前のあのお袋からオレに電話がくるなんて、絶対無いと思ってた。このままだと、警察に連絡されんぞ。一回帰ってやれよ」
ごめん。
きっとすごく、探してくれたんだ。
なんだか、疲れた頬をしているね。
そんな風にここまで来て見つけてくれるほど前の僕は、君に優しくできてた?
でも、許してほしい。
もう今の僕の世界は、家族からも、ガッちゃんの世界からも切り離されている。
何もかも、誰も僕に関係が無い。
「お前は何も悪くねえだろ。だから、そんなに思い詰めんなよ」
ガッちゃんの目が、悲しそうにゆがむ。
「お前が、そんなに苦しんでもアイツは喜ばねえよ……だから……」
「………」
その手に力がこもるのを見る。
ガッちゃんの頭上の雲のすぐ奥には、きっと明るくて青いきれいな空がある。
だけど、今だけ
僕たちにだけ、雨が降ってくれたらいいのに。
そうしたら、ここにある世界の罪も優しさも何もかも包み込んで……
ふたりで、雨宿りして
ガッちゃんのその泣いてるみたいな寂しそうな顔に、僕の手で触れて
「───大丈夫、ちゃんと帰るよ」
今、持てるすべての力を使って笑いながら、ゆっくりと手を解いて離す。
ガッちゃんは、痛くて痛くてもうこれ以上僕に触れられないって顔をしてた。
優しいな。
ありがとう。
でも、誰かの傘はもらえないみたい。
かあかあと、逆さまのカラスが何かを内緒話するみたいに話している。
その日、雨は降らなかった。
神様は、泣いてはくれない。
たった、ひとつぶの、涙さえ。