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投資の仕事でつながりのある、都内の三ツ星レストランの契約している農家から、その苺が自宅に今朝ほど届いたのは本当に偶然の幸運だった。
獅子神は、届けにきた忙しそうな顔の配達員を笑わせてしまうほどに、おおいにその荷物の箱を歓迎して受け取った。
先日、あまりの美味しさに思わずシェフを呼び出した時と同じ、よく熟れて色づいた赤い実と、緑の葉の濃い色彩。
普段は野菜しか入れていないパントリー側の冷蔵庫をこっそりと開き、用意したガラスのボウルにそれらをひとつひとつ箱から丁寧に取り出してみる。
一気に広がる爽やかで、甘いかおり。
獅子神は、カウンターの向こうを窺い見る。
あちらでは、賑やかな明るい声の真経津と物静かな村雨が二人で麻雀のゲームをしているところで、叶が二人の間でそれをジャッジする係をしていた。
交互に牌を出し、お互いの当たり牌を回避し合うそのゲームはもうおそらく八試合目。
この、少し前に知り合った上級ギャンブラーたちはごくたまに、こうして唐突にこの家にあるおもちゃを見つけて遊び出すことがある。それは当然、金や身体を賭けるギャンブルとしてではなく、コンビニへジュースやアイスを買いに行くなどのちょっとしたペナルティを押し付け合うのを愉しむゲームとして。
「それだ、リーチ三暗刻。断么、ドラ三」
ぱらりと牌が姿をあらわし、村雨が、ボーナスとなるドラ牌をめくろうと指を伸ばす。
「あーっうそやだ!お願い、乗らないで!」
と頭に手をやる真経津の悲鳴の前で、無情にもそれはカチンと指先で裏返り「残念だな真経津。ドラ六枚で倍満だ」と村雨は深々と背にもたれた。
満足そうに、照明に反射する眼鏡を整える。
「…………」
彼を、喜ばせたい。
その一心で、獅子神は先日、車で片道三時間半かけて二つ県境を超え、その苺農家の夫婦に頭を下げに行った。
レストランで出された、あの苺を食べてほしい人がいる。
どうしても、心から喜んでいる顔が見たい。
温情深い夫婦だった。
およそ、そのほのぼのとした田園風景には似つかわしくない外国産高級車が道路脇に到着したのを、最初こそ口を開けて見ていた二人だったし、中から出てきた異国の王子様のような金髪の青年を見た時はなおも困惑して二、三歩後ずさったくらいだった。しかし、それでも夫婦は屋敷の縁側まで迎え入れ、あたたかい茶を淹れてくれた。
獅子神は、ネクタイこそしていたが金の話はしなかった。つまり取り引き交渉というより、ただの哀訴。一人の男の唐突な、お願いごと。
「その……、大袈裟じゃなく人生をかけてオレを信じてくれた奴なんです。松田シェフの店で最後にデザートで食べた時、そいつを笑顔にできるのは絶対にこの苺しかないって思って……」
この通りです、少し譲ってください、と目をかたく閉じて頭を深く下げる。獅子神も緊張していたのだ。どうしたら了承してもらえるかと、一日中あれやこれや考えた末にやっぱり電話口で頼みこむより直接会いに行こうと思い立った、なかば衝動的な行動だった。
自分でも説明のつかない無礼千万な無茶苦茶さではあったが、それがかえって夫婦の心の奥に届いたらしい。
「この時期は、特にそういうのは断ってるんだけんど……」
妻をひとつ後ろに置いた夫は、腕を組んで座布団の上で胡座をして言う。
「でも、アンタが東京からはるばるここまで来た上に、そこまでして大切な人にうちの苺を食べてほしいって言うんなら……、なあ母ちゃん」
後ろの母ちゃんと呼ばれた妻は、黙っておだやかに頷く。
「近いうち、いくらか送らせてもらうよ。なんせ、シェフの松田さんにはずっとお世話になってるし…」
なあ?、ともう一度後ろを見る。
妻は「お父さんが、そう言うのなら」と大人しく、しかしきっぱり言ってこちらに微笑んだ。
獅子神の顔に、安堵と晴れやかな笑顔が広がる。
「ありがとうございます」
農夫、さらにその向こうの実権を持つ妻に深く頭を下げる。
二人は、顔を見合わせてほぐれたように笑った。
「こいのつぼみ」
獅子神は、その品種の名前と一緒に「この苺は、私たちが作りました」と、あの夫婦が太陽の光の中でピースサインをしている画像の写真を眺めて、今夜もう一度礼の葉書でも書かなきゃなあ、とすこし微笑む。
さてと。
葉を取り、冬の寒さを吸って甘さを冷たく凝縮させたその実たちを並べて見下ろす。
スポンジケーキの上の、ホイップクリームに乗せてしまうか。もしくは、自家製練乳を添えてそのまま出してしまうか。束の間、思案していると。
「正直が一番だ」
その声に、目を丸くして顔を上げた。
振り向くと、いつの間にかコンパクトを持った天堂が、シンク横のスツールに座って鏡を見ながら口紅を塗っている。
「迷いは人生を豊かにするが、いくつもの道の中で神の用意する道はひとつ。愛だ。善い行いばかりをして生きれば、世界の誰もが幸せになれる。それが道理で真実だ。愛を信じ、愛だけを選択して生きればよい」
するすると、唇の色が真っ赤に上書きされていく。
「………」
獅子神は、きょとんとしてしまう。もしかして、自分に向かって話しているのだろうか。
「だというのに、簡単にそうはならないのが人間だ。不安だから。人は神を見ず、自分を見ている。その身体を、外から見た自分の心を。自分だけが、神から愛されていないのではないかと疑いながら。疑心暗鬼は恐ろしい。愛を忘れ、親切な隣人を魔女だと言って殺し、戦争さえ起きる。……私はそうなる前に、しっかりと私の仕事を済まさなければならない」
憂いげに、コンパクトをぱたりとおさめる。
「素直が一番だ。きっと、喜びがそこにも訪れる」
にっこりと微笑み、「失礼」、と並べていた苺をひとつ取ってから、その男は白い髪をすらりと揺らしてふいと向こうへと行ってしまった。
「………」
唖然としてそれを見送る獅子神だったが、はっとして「あっおい待て!天堂、それ!……」と追おうとした。
すると、向こう側で麻雀牌を見下ろし真剣な顔をしていた真経津がはっと顔を上げ「あっ、いいにおい。なにそれ、どうしたの」と、天堂が齧り付いているそれを見て目を輝かせる。
もぐもぐとする天堂がキッチンをすうと指差すと、席を立った真経津と叶がわらわらとそこへ一目散に向かい、わあ!やったー美味しそうないちご!とやおら無邪気な声を上げた。
獅子神は頭痛がした。苺を見て、こんなに喜ぶ大人がいるものだろうか。
「食べていい?いいよね、あっ分かったこの練乳つけるんだ」
「晨くん見て!ケーキもある!前にオレらで作ったのと同じ。一旦ぜんぶ乗せよ乗せよ」
これにはさすがの獅子神も、「だーっ!!」、と声を上げそれを制止して叫んだ。
「待て!勝手なことすんな!オレがちゃんと全員分取り分ける!だから……」
向こうを見ると、村雨が振り向いた肩越しにこちらを見ている。こちらに、強い感情の信号を送っている。
それはもちろんゲームを中断させた事に対する咎めの視線ではなく、あきらかに「私の分は、間違いなく確保しているのだろうな?」といったところの視線だった。
つん、とまた前を向くその後頭部。
………
ほら……。こいつ、こういう時だけははっきり読ませてくる…!!
取り上げた苺を狙って手を伸ばしてくる二人に揉みくちゃになりながら獅子神は、やっぱりこいつらにはさっさとそのままもう出しちまうのが一番か……と心の中で落胆してため息をつく。
かくして、ゲームは一旦終了となった。
「えっ、わーなにこれ、瑞々しくてすごく美味しい!なんか、トクベツってかんじだね、この苺……」
真経津が一口食べるなり驚きに頬を押さえて、歓声にも近い声を出す。そう、そうなのだ。甘いものに目がなく、舌の肥えているであろうこの男もときめかせる魔性の味わいなのだ。
「市場にはほとんど出回って無くて、農家の人に頼んで直接送ってもらったんだよ……」
獅子神は、自分もひとつ練乳に沈めてから口にする。
「へえー、でも良かったの?そんな貴重なのボクたちが食べちゃって」
真経津はそんな申し訳なさそうな顔をしながら、ぱくぱくとそれを口の中に入れる。
「これは、まあ……お前たちがタイミング良くウチに来たら、出そうと思ってたやつだから……」
ちらり、と苺を食べつつさりげなく視界の隅に村雨を入れてドキドキとしながら反応を伺う。
「………」
行儀良く、前を見て座っているその男の前の皿の中には、もうすでに何も無かった。
(……く………っ……)
愛しさでうずくまりたい獅子神は、くらくらする頭でガタンと立ち上がり「先生、ほら、オレの……!食えよ。ひとつ食っちまったけど」と自分の分を皿ごとすべて差し出す。
「いただこう」
待っていたとばかりに、言葉尻に食い込ませるように即答する村雨。
「あーっ、ずるい!礼二くんだけ!?なんで?なんで〜?」
「贔屓だ!神様に言いつけてやる。神父さま!獅子神さんが、村雨さんだけを何だか特別視しています!」
「神はもう腹がいっぱいだ。獅子神、この騒々しい羊どもにさっさと何とか言ってやれ」
案の定の冷やかしまじりの抗議に、獅子神がなにか言い訳を考えて反発しようとすると、村雨が「黙れ」とテーブルを叩かんばかりの勢いで立ち上がる。
「言っておくが、私は先ほどのゲームで今のところあなたたちに三たび完勝している。しかも、二位とは一万点以上の点差をつけて」と、いつになく強い口調で言葉をねじ入れた。
怯んだ真経津たちは、ぐうの音も出ない。
「ここが賭場という戦場であれば、あなたたちは今頃そんな無駄口をたたく元気さえもなかっただろう。その大きなペナルティをこの、獅子神の分の苺という対価で払わせてやろうと言うのだ。この男に感謝することだな」
そんな事を言って、手に持っていたフォークを光らせる。そして、それをメスよろしく苺の腹へ突き刺すのかと思えば、それは隣の皿にカチリと置き、ひとつ一際真っ赤なそれを指でつまみあげた。
一瞬、おかしな静寂がこの部屋を通り過ぎた。
村雨は、目の前にある自分の練乳ではなく隣の獅子神の食べかけの練乳の方にべったりとそれを塗りつけ、ぱくりと丸く開けた己の口の中に放り込んだのだ。見せつけるように、わざと。
「………」
全員の注目の中、何度か咀嚼したのちぺろりと唇の端を舐める村雨。
真経津と、叶は一時閉口した。天堂は、ただ静かに微笑んでいる。
しばらくの神妙な空気。
すると、まるで今思い出したかのように、
「帰ろっか、叶さん天堂さん」と真経津が言うのをきっかけに「うん、ごちそうさまー……」と友人たちは次々揃って起立する。
その唐突さ加減に獅子神は、「えっ」と目を丸くした。
「……あ?、ああそっかもうそんな時間……か?。珍しいな、三人一緒に帰んのか」
うん、と皆それぞれ上着を羽織る。途中、お互いのものを真顔で間違えて着てみたりしたのは、この男たち何かふざけているのだろうか。
「村雨さーん、お邪魔しました」
一様にクスクスと何かいやらしいものを見る目で、口を押さえて言う。
「……」
は?、何言ってんだ。お邪魔したのはうちだろ……
首をひねりながら玄関まで見送りに行くと、今から晨くんち行っていい?いいよー天堂さんもおいでよ、という会話をして「またね〜」と歌うみたいに挨拶する真経津を筆頭に、三人は手を振ってドアをぱったんと閉めた。
「?」
………今から真経津んちに行く?一体どんな気変わりだよ……
マジで変な奴ら。相変わらず。
怪訝な気持ちでダイニングに戻る。
テレビの電源が切れたみたいに、静かになった部屋。
村雨は、すでに二つ目の皿も空にして、何食わぬ顔で散らかった目の前の麻雀牌をかちゃかちゃと整頓させている。獅子神は、少し平静を装って「お前は、大丈夫なのかよ。明日の仕事とか」と、横に来てその作業をさりげなく手伝う。
村雨の指は手際良く取り分けた風牌を拾いながら「明日は通常業務だが、朝から少し会議がある」と答えた。
「じゃあ、朝早えーんじゃねえのかよ。ここはいいから、ゆっくりしとけよ」
「……これは、こうして私たちの世話を焼いてくれるあなたに、毎回伝えなければならない言葉なのは、もちろん承知しているが」
みるみるうちに整列した牌がきれいにケースに収まり、ぱちんと蓋をされ元の状態に戻る。
「あの苺は、あなたが今日、私に対して特別に用意してくれたものだと理解している。とても美味かった。こんな素晴らしいもてなしをうけて感謝している」
「……あー、いや……」
真剣な声に、獅子神はあまり自分が照れているのを顔に出さないようにして、その目線から逃げる。
すると、「獅子神」、と離れる意識を引き止めるように名前を呼ばれた。
「私には、こんな言い方しかできないのだが……」
二人きり。
村雨がダイニングから立ち上がり、ゆっくりと歩いてすとんとソファーに座る。いつもの身を沈めるような緩慢さはなく、真剣に向かい合い話す姿勢だ。
「あなたが、私に要求しているものは何だ?」
「………」
獅子神は、目を丸くした。
なるほど。
見返りを要求されていると思っているらしい。だがそれは、けして間違いではない。だって、自分はもちろん対価を求めた。相手のためとはいえ、そこに戻ってくるはずの自分のためだけの喜びを。その思考は、こうして欲求として形を成して、村雨の前で確かに差し出した手として存在しているに違いない。
困らせてしまっただろうか。獅子神は、その質問の答えを少し考えて選んでしまう。
返事を待つ村雨の顔は、真剣だ。
(───いや別に。
あれは、何だかんだ言ってもオレの目標に協力してくれるオメーへの、ほんのちょっとした礼のつもりだから気にすんなよ)
なんて、照れ隠しに言えば、一先ずこの場は「まあ、そうだな」とかいう向こうの納得の返事で落ち着くのかもしれない。そんな、いつもの空気を揺さぶらない言葉は、はっきりせずとも村雨を安堵させるはずだ。
それなら、それでいいのかも。
しかし。
「正直が一番だ」
さっきの、天堂の言葉が耳に残っていた。
あの男の言っている言葉の羅列の意味は、あまりに分からない。だが、その声には、確かに励ましがあった。まだ、会って間もないというのに、そこにはそんな小さな事は関係ないのだと思えるあの男からの親愛の気持ちがあった。
あいつら……。もしかして、オレに気を使って……?
あの、世界で一番命懸けで人生を輝かせて遊んでいるこころ優しい三人が、道すがら人々に振り返られながらこの部屋を冷やかして華やかに笑い合っているのが見えた気がした。
獅子神は、自分の心の中で少しウロウロと迷い、それから村雨の隣へと座る。そして、この先が崖の上から落ちるようなおそろしい結末にならないよう祈る気持ちで「……お前が、苺が好きなのは知ってるから……」と蚊の鳴くような声で言った。
村雨が、目を上げてこちらを見たのが分かった。
「ただ……、喜んで欲しかったんだよ」
あまりに裸の、正直な気持ちだった。
自分で言っていて、さらにまた顔が熱くなる。
「…………」
いっそう、しんとしてしまったリビング。
きっと、困惑させてしまったに違いない。
自分の心臓の音だけが激しく聞こえて、苦しいし居た堪れない。それなら、ここからもう消えるつもりでテーブルの上の皿でも片付けてしまおうかと、顔を上げると。
それならば……と、村雨の小さな声が聞こえた。
「感謝する、ではなく、ありがとうというべきだな、私は」
ふと、目が合う。
少しだけ、その赤い瞳の奥があつい体温を持って揺らめいた気がした。それを見せてくれた気がした。
「ありがとう、獅子神。嬉しい。あの苺と、あなたの気持ちが」
その口元から、思わずといった笑顔がひとつこぼれ落ちる。
それを見た獅子神は、わ、笑った……、オレに。と内心肩を跳ね上げたいほど驚く。
「……ど……どういたしまして……」
もう一度、今度は歓喜の羞恥で顔を伏せる。
嬉しさに満たされた気持ちに、固くなっていた部屋の空気がじんわりとゆるみ、それからお互いの視線と視線がゆっくり柔らかく触れ合った。
不思議だ。
さっきまでは、近くに座っていると感じていた自分たちのほんのひとつ分の間が、今ではもうこんなに遠く切なく感じる。
すると、今度は、隣で獅子神のその思いを察した村雨の方から、手の平を差し出される。
「……」
それに気付いた獅子神が、少し躊躇しながらも自分の大きな手をできるだけ優しく乗せた。
そっと、指を絡ませる。
初めて大きく近づいた二人の間に、ふわりと甘いにおい。