文字の墓場『監禁』
◆真島・桐生
真島の想定では、そろそろ心が折れて自分なしでは生きられなくなって縋り付いてくるような状態に持っていける筈だった。
しかし実際はどうだ。
部屋へ行けば「もしかして暇なのか?」という顔をされ、肌に触れれば「救いようがないな」という呆れた目を向けられる。こないだなんて、俺にもプライベートがあるのだから入る時にはノックしてくれと真剣に怒られたばかりだ。
おかしい。
明らかに監禁されている人間の取る態度ではない。いつでも逃げられるならば頷けるが、足首は鎖で繋いでいるし窓は全て嵌め殺しだ。唯一のドアも、二重の扉で頑丈に閉ざされている。
どう考えても桐生に逃げ場はないのだ。
それなのにこの男は、やれ米が柔らかすぎるだの娯楽が少ないだの灰皿がほしいだの、言いたい放題だ。
「兄さん知ってるか、かまぼこやかき氷の赤い色素はコチニールカイガラムシの体液らしいぞ」
「おぉ……そうか…」
そして知っても全く嬉しくない雑学を嬉々として披露してくる。
色々なことに臆せず挑戦する性分のため、新しいことを知るということは桐生にとって楽しいことなのだろう。真島がこういった無駄な知識を与えられる回数は、既に軽く50を超えていた。
「桐生ちゃん、そのコチ…なんとか虫のことなんかええから、」
「コチニールカイガラムシだ兄さん。肉の色を良く見せるためにも使われていたそうだぞ」
「そうか、そりゃ知らんかったのぉ…」
「そうだろう。俺もこれを知った時には驚いたんだ」
満足気に頷く桐生は大変可愛らしい。
頬が薄っすら色付き、小さい唇が綺麗な弧を描いている。
手にしている図鑑にはコチ……なんとか虫の写真があり、集合体恐怖症の気がある真島はなるべくそれを見ないように、そっと手を重ねて図鑑を閉じた。そのまま後ろに押し倒すように体重をかけるも、鍛え上げられた腹筋でしっかりと支えられてしまった。
それどころか、カイガラムシと言えばだな…と話が進んでいく。
「ラックカイガラムシというのは、チョコレートのコーティング剤にもなるらしい。他にも色々種類がいてな、昔は税金の代わりにしたり、排泄物を食べることもあったと書いてあった。糖分が多いそうだ」
再びカイガラムシとやらのページを開かれる。小さな虫が葉の裏にびっしりとくっついている写真をうっかり視界に入れてしまい、体温がザッと下がった。
何度も言うが、真島の想定ではもっと怯え、怒り、恐怖し、最終的には屈服する筈だったのだ。
今の桐生は伸び伸びと……神室町にいた頃よりも伸び伸び自由に生活しているように見えた。
実際文句は多いし態度はデカいし人遣いも荒い。
重たい二重扉の鍵を開けて入る。
広い室内にキングサイズのベッド、その上にシーツにくるまった塊があった。
時刻は14時で、広い窓からは燦々と光が降り注いでいる。無言でその塊へ近付き見下ろせば、シーツの隙間からこちらを睨み上げる目。
「昼間やぞ、起きんかい。少しは規則正しい生活したらどうや」
「……」
もぞりと動き顔を隠された。問答無用でシーツを引っぺがす。
外で暴れ回っていた頃よりも幾分か薄くなった身体は真島の服のサイズでも十分だったが、あえていつも着ていたようなYシャツを与えていた。今日は黒のシャツに、グレーのスラックス姿だ。靴下は履いておらず、その足首には武骨な鎖が嵌まっている。
ボタンを開けて寛いでいる胸元に手を差し込めば、昨夜自分が付けた鬱血痕や噛み痕がずらりと並んでいる。そのひとつひとつに口付け、終いに喉をでろりと舐めてから顔を見れば、桐生は顔を赤らめることもなく、まるで不可解なものを見るような目でこちらを見ていた。
その唇の端にも口付ければ、薄っすらと口が開かれる。
「ッ、」
誘われるままに舌を差し込めば、ガリッと思い切り噛まれて反射で顔を離した。
「……何遍言うたら分かるんやろなぁ」
片手で顎を掴み、無理矢理口を開かせて咥内を荒らす。
途端に抵抗してくる身体に乗り上げて動きを封じ、空いてる手で首を絞めていく。
引き攣った悲鳴のような声が出て、酸素を求める舌がピンと伸びるのを捕食するかのように舐めて噛んで啜る。足元でジャラジャラと激しく鳴る鎖の音を聞きながら、隙間なく唇を塞いで唾液を貪る。
真島は桐生に嫌われたいわけではなくて、むしろその逆だった。
長年の想いが募りすぎて、いつしか桐生の世界が自分だけであってほしいと願うようになっていた。だからこの部屋に連れてきた時も、信じられないという表情を浮かべる桐生の足に鎖を繋いだ時も、懺悔する敬虔な信徒のようにその足元に跪き、許しを乞うたのだ。
決して酷い事をしたいわけではないのだ。
衣服の下、太腿の内側にある夥しい数の鬱血痕も、うなじにあるいくつもの噛み痕も、両手首に残る痛々しい拘束の後も、首にくっきりと上書きされた自分の手の痕も。
全部全部、桐生に振り向いてほしいからだった。
早く桐生が自分のところまで堕ちてきてくれれば、こんな酷い事はしなくていいのだ。お願いだからいい子にしてくれと、頼むからこんなことさせてくれるなと言う度に、桐生は嘲るような笑みを浮かべる。まるでお前には一生手に入らないのだと言われているかのようで、それが耐え切れずに、愛しい男を一時の快楽に叩き落とすことによって心の均衡を保っていた。
首を絞める手を外そうとしていた力が段々と弱まり、飲み込めない唾液で噎せる音がした。顎を掴んでいた手を頬へ滑らせれば、熱い雫が次々と伝っている。されるがままになっている舌をもう一度啜り、リップ音を立てて手と唇を離してやる。
途端、顔を真っ赤にした桐生が何度も咳き込み、必死に酸素を取り込むためにはくはくと苦し気な呼吸を繰り返した。零れた唾液を指で拭ってやりながら見ていれば、生理的な涙で濡れた瞳がギロリと自分を睨みつける。
「っは…、昼間から、盛ってんじゃねぇよ、変態」
「その減らず口がいつまできけるか見物やな」
痛々しく残った首の痕を優しく撫でる。ピクリと反応するのを宥めるように何度もゆっくりと撫でてやれば、やがて落ち着いたのか桐生は深い息を吐いて力を抜いた。
「痕、消えへんなぁ」
「清々しいくらい他人事だな、感心するぜ」
「桐生ちゃんが俺のベロ噛むからやろ」
「勝手に部屋に入って来るからだ」
「忘れとるかもしらんけど、ここ俺ん家やからな」
「帰してくれてもいいんだが」
「ん~、そういう気分ちゃうから無理」
顔の横に手を付いて覆い被さり、何度も首に口付け労わるように舐める。流れるようにシャツのボタンに手を掛ければ、パシッと腕を掴まれた。
「俺もそういう気分じゃない」
まるで教師が出来の悪い生徒を諭すように、桐生が口を開く。
「俺は今、昨日アンタが散々好き勝手してくれたせいでどこもかしこもだるいんだ。それをどうにか紛らわせているところなのに、更に同じことをされたらどうなると思う?」
「えっと……余計しんどなる…?」
「そうだ。きっとこの気だるさは兄さんには一生分からないだろうが…いや、アンタ確か趣味の悪い玩具持ってたよな。俺が兄さんのケツに突っ込むのは無理だが、それを自分のケツに突っ込んで5時間ほど耐えてみりゃ分かると思うぜ」
「いや…遠慮しとこうかの……」
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『西田目線』
◆真島・桐生・西田
桐生の第一印象は、怖い人だった。
ちょうど真島との喧嘩の後で頬に血がついてたし、その名残で目が爛々としていたからだ。
それに口数が少なくて、とびきりいい声だった。
今まで見てきた映画では、とびきりいい声の男は大抵敵だった。
しかし桐生は実際、とても優しかった。いつも満天の夜に咲く花のような美しい匂いがしたし、真島の部下である自分たちのことを気に掛けてくれて、
「元気か?」「無茶なこと言われちゃいねぇか?」
と穏やかな口調で聞いてくれた。
当然、真島がそのすぐ横にいるわけだから返事は決まって
「もちろん元気です」「大丈夫です」
の選択肢しかなかったが、それでも嬉しい気遣いだった。
バッハの小フーガ・ト短調が鳴った時、西田は事務所にいた。
これは真島専用に設定した着メロで、地獄の底から響くような不穏な曲調は真島の無茶苦茶な要求とそれを受けた西田の心情にぴったりで、もう数年間この曲を使っていた。しかし大抵一小節が鳴り終わる前に取ってしまうから、西田はこの曲を最後まで聞いたことがなかった。
それは今日も同じで、不気味な音が鳴ってすぐに電話を取った。
「車回せ」
一言で切れた画面をしばらく眺め、そういえば桐生の叔父貴と埠頭の方へ行くと言っていたなと思い出した。有能な西田は車のキーを上着に突っ込み、事務所を飛び出した。
でかいゴミ箱にぐったりと寄りかかって座ってる二人の前で車を止める。
どちらも血だらけで、傷だらけだった。
その姿に西田は慌てて車から降りたが、すぐに関わりたくないと思った。
真島はクスリでもやっているかのようにヒヒヒヒと笑って……笑い過ぎて噎せていたし、普段寡黙な桐生もアハアハと笑いながらぜぇぜぇ息をしていた。腹部のシャツが赤く染まっている。
そしてごぼっと濁った咳をして、血を吐いた。
「桐生さん!?」
「ふ、はは、あはは、げほっ」
「ひひひ、ひ、はは」
「お二人ともどうしちまったんですか!と、とにかく病院!病院行きますよ!」
ひぃひぃあはあはと笑い転げる大柄の男二人をどうにか車に押し込んで、アクセルを全開にした。
病院に着くころには二人とも顔色が悪くなっていて、静かになっていた。まだ気狂いのように笑っていてくれた方が生存確認ができてマシだった。
真島は大人しく診察と治療を受けたが、桐生は違った。診察までは意識が朦朧としていて大人しかったが、いざ治療となった時に抵抗し始めたのだ。
先に治療が終わっていた真島は慣れた様子で桐生の腕を捻り上げ、「鎮静剤!」と怒鳴った。
「おい、俺は平気だ、注射も何もいらねぇ」
「そうやな、腹に弾がなけりゃそうやろうな」
「寝れば治る。離せ」
「はいはい。この後すぐ眠くなるから心配いらんで~」
「やめ、やめろ」
「よーしよし」
真島は桐生を抱え込んだまま赤子をあやすように揺らし、看護師が来るまでしっかりと捕まえていた。
「ちょっとチクっとしますね~」
「う゛ぅぅ……」
やって来た看護師も子供に語るような優しい声を出した。
桐生はぐるぐると喉の奥でうなっていたが、やがて静かになり、ストレッチャーに寝かされて治療室へ運ばれていった。
「あの……桐生さんは大丈夫なんでしょうか」
「病院嫌いはいつものことや。起きたらケロっとしとる」
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『一人寝、二人寝』
◆真島・桐生
※双方若干のモブ匂わせあり
きっかけは何だったか。
喧嘩の後の火照りだとか、切れて赤の滲む唇がやけに目を惹いたからだとか、季節外れのゲリラ豪雨に遭ったからだとか。
理由を並べればいくらでも思い付いたが、どれもしっくりこなかった。
疲れたようにただただ雨に濡れる桐生の腕を引いてホテルの一室に着くまで、真島の腕は一度も振り解かれなかったし、桐生も何も言わなかった。
血と泥と雨にぬれた桐生を風呂へと押し込み、スツールに腰掛けて煙草を吸った。
シャワーの音が響くような安価な場所ではないため、聞こえるのは自分の呼吸音だけで。半ば現実味のないままにひたすら煙を出し入れした。
そうしてサッパリしたという顔で出てきた桐生と入れ違いに風呂に入った。
自分が出て行ったら居なくなっていてほしいと願いながら出れば、桐生はさっきまで自分が腰掛けていたスツールに座り、ゆったりと煙草を吸っていた。
その姿を見て、押し殺していた何かが外れた。
真島は目が覚めた時、ひどく驚いた。
それは首や腕や足のいたるところに噛み痕を付けた桐生が眠っていたからではなく――いや勿論それもあったが、一番驚いたのは、自分が誰かと一晩眠ったということだった。
離婚をした時、自分はこの生涯を社会が望む形で過ごすことはないのだと確信した。
それから何人もの女と身体だけの関係を持ったが、真島が一夜を共に明かす相手は誰ひとりとしていなかった。
だから女たちも、自分だけを愛さない真島を許した。
必ず、お前が悪いのではない、自分は人がいると眠れない人間なのだと髪を梳きながら優しく語り掛け、女が眠りについた後に一人帰るのが常だった。
絶対に共に眠ることはないのだと分かっている女たちは、どうぞ私のことは気にせず行ってちょうだいと穏やかな声を出すが、真島は必ず女が眠るまで傍にいた。
そうして家に帰り、広い自宅の一番狭い…恐らく物置き部屋として作られた場所で、薄い布団を敷いて眠るのだった。
だから、ふと目が覚めて、ここが自分一人の暗く狭い部屋でないことに気付き、ひどく動揺した。
ぱっと上体を起こしたところで、桐生の手が自分の手をしっかりと握りしめていることにもう一度驚いた。
桐生の寝顔は普段よりもずっと幼く見え、それが下ろされた前髪と皺のない眉間のせいだと分かり、なんだか見てはいけないものを見たような気持ちになった。
起こさぬようにゆっくりと桐生の手を外そうとしたが、失敗した。
真島のもう片方の手が重なった暖かさに、酷く安心した顔をしたのを見てしまったからだった。
重ねた手はそのままに桐生の寝顔を見下ろす。
なんて警戒心が薄いのだろう。
最強と謳われ、真島とてその強さは身をもって知っている。
だと云うのに。
そっと、肉の付いていない顎の下へ手を伸ばして撫ぜる。
するすると喉へ下りてゆき、飛び出た骨を触る。
頸動脈に指をあてれば、生命の鼓動が流れ込んできた。
絶えず血潮を運ぶ身体はこんなにも懸命に生きようとしているが、真島がこのまま力を込めてしまえばこの男は死ぬのだ。
桐生は今、死の淵にいるのだ。
だと云うのになんだ。
男の瞼は開くこともないし、呼吸が乱れることもない。すぅすぅと穏やかな寝息だけが小さく聞こえてくる。
真島は、桐生の永遠になりたかった。
それが愛ではなく。
それが執着でもなく。
それが憎しみでもない。
……それは、怒りだった。
激しい怒りが常に真島の腹の底でぐつぐつと音を立てているのだ。
それは、自分が桐生の永遠になれないと分かっている怒りだった。
どうしても叶わないことに癇癪を起している子供のようなものなのだ。だからこそ、制御が出来ないのだ。
真島は男とのセックスは経験がなかったが、果たして桐生はどうだったのだろうか。
飢え続けてきた中で、やっとありつけた食事のように貪ったことは覚えている。
だからこそ、桐生の負担を考えて優しく真綿で包むようにした記憶は一切なかったが、果たして桐生は痛がっていただろうか。
いくら記憶を辿っても、自身を受け入れて甘い声を漏らしながら揺さぶられている姿しか思い出せないのだ。
どう都合よく考えても、昨日の自分がそこまで仕立て上げたとは思えなかった。
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『年下の会話についていけない桐生一馬』
◆桐生・ハンジュンギ・染谷
「そういえばお前ら、JUSTISって知ってるか。神室町で動いているチームなんだが」
「JUSTIS……?いえ、そんなカラーギャング上がりの下賤な集団なんて知りません。神室町は東城会のお膝元でしょう、管理が甘いのでは?」
「俺も六狂人なんてダッセェ名前でイキがってるゴロツキ共なんて知りませんよ。また何か首を突っ込んでるんで?四代目」
「お前ら……知ってるじゃねぇか……」
「まぁまぁ。それで、どうかされました?」
「あまりにも東城会が腑抜けているせいで桐生さんにご迷惑が掛かっているのでは?ねぇ、染谷さん?」
「ウチは小さないざこざに一々構ってやれるほど暇じゃあないんですよ。でもご老体に荒事はしんどいでしょう、よければお話聞きますよ」
「失礼な発言ですね、全くもって呆れます。桐生さん、こんな男の手なんか借りず、是非私を頼ってください。あなたの期待以上の働きをするとお約束しましょう」
「はっ、見え透いた媚売りほど不快なものはねぇや。俺だったら自己嫌悪で舌でも噛み切りますがね」
「おや、桐生さんへの心ない言葉に過敏に反応して、関東一円の方の頭かち割ったのはどこの誰でしたっけ」
「な、なんの話をしているんだ?お前ら……」
「いやすみませんね、ご老人は若者の会話の早さについていけないというのに、配慮が足りませんでした。それで?何かあったんですか、四代目?」
「…………いや、もういいんだ……」
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『涙が止まらない病気』
◆桐生・真島・秋山
見覚えのある顔が慌てたように路地裏を歩いていく。秋山だった。様子がおかしかったから少し視線をやっていれば、向こうも気付いたのかへらりと情けない笑顔で笑って挨拶してきた。涙が流れたまま。
「いやぁお恥ずかしい」
「珍しい顔やな」
「第一声それですかぁ、少しは心配してくれてもいいんですよ、まぁすぐ収まるでしょうけど」
「あ?なんの話や」
「あれ、知りません?コレ。突発的に流行ってる病気らしくって、勝手に涙が出ちゃうんですよ。3時間ほどで治るらしいんですけど、その間に短時間でも近くにいると人から人へ移るらしくって……って、あ、やべ」
「……」
「スミマセン!移すつもりがあった訳じゃないんです!俺は何も見てませんので、それじゃあ!」
頬が濡れた感触があり手首で拭えば、水がついていた。自分の唯一残った片目から、つぅ、と水が流れ続けている。
なるほど、自分は泣いているのか。
涙を流したのなんていつぶりだったか。
秋山の話によればすぐに収まるらしい。
とめどなく流れ出る水が鬱陶しいが、いちいち拭ってもきりがなさそうなため放っておくことにした。精神的には何も異常はない。悲しくもなければ痛みもなく、涙が出ているだけ。
この状態で大通りを歩くのも憚られるため、秋山が去った後の路地裏で壁に背を預け、腕を組んで目を瞑る。
「泣く病気、か」
人から人へ移るというのなら、あの男はきっと早々に誰かから移されているだろう。
ならばあの男も泣いているのだろうか。
長い付き合いだが、桐生が泣いたところは見たことがなかった。
いろんなものを背負い、大勢から頼られて、つらさをおくびにも出さずに立ち続ける男。
真島が知り合った頃の桐生は20歳を過ぎた辺りだったか。
桐生の周りにはいつも温かな家族の繋がりがあった。
血は繋がっていなくとも、絆があるのは第三者の真島からでもよく分かった。あの頃の桐生は人を愛することを躊躇わず、守るために寄り添うような男だった。
それから。
ひとつひとつ、桐生の手から温もりが消えていくのを、真島はただ見ていた。
あの少女だけが、かろうじて桐生を繋いでいた。
周りは絶望に浸かることをやめた桐生を見て安心していたが、ずっと桐生を見続けていた真島には、もう以前の桐生ではないことは分かっていた。誰かに愛されたいという欲を、桐生はぐしゃぐしゃに丸めて捨ててしまっていた。自分にはその資格がないとでも思っているのだろう。
だからやっとの思いで心から安らげる場所を作れても、簡単に自分を犠牲にして沖縄の養護施設から姿を消した。置いていかれた子供達がどんな思いなのか、想像することすら出来ずに。
何かあれば掛けろと渡していた私用の番号に少女から初めて着信が来た日。
泣きじゃくった彼女におじさんをたすけてと言われ、住まう地を探してふらふらとしていた桐生を目の届く神室町へ連れ戻したのだ。
徳島の空港にいた桐生の前に立ち、手に持っていた福岡行きのチケットを目の前で破り捨て「帰るで」と自分でも驚くほど低い声が出た。
突然現れた真島に驚くこともせず、細切れになって足元に散らばらチケットに怒ることもせず、桐生はただ黙って目を伏せた。全てを諦めているかのようなその姿は腸が煮えくり返るほど腹立たしく、どうしようもなく悲しかった。
一言も話すことなく神室町へと着いた時、やっと桐生が声を出した。
「兄さん、行くところがない」
その声は記憶のままの芯がありよく通る声で、真島を見る目も、何の揺らぎもない透き通った目だった。
「そんくらい用意しとる。ええから来い」
そう言って、彼をこの街に繋いだのだった。
◇
桐生の家に上がり、何ら変わりのない顔を見て、真島は肩が強張った。
桐生は、泣いていない。
「兄さん、何かあったのか」
「今日外出とらんやろな」
「?ああ、1日家にいたが……おい、何かあったのか」
こんなタイミングで涙が出てきた。
視線を鋭くして聞いてくるのを手で制し、説明する。
「すぐ収まる流行り病らしいわ、涙が勝手に出る以外どこもなんともあらへん」
桐生の瞳は揺らぎすらしない。
「……コレ、近くにおると移るらしいで。少しでも、や。俺は金貸しとちょいと話しただけでこのザマや。それやのに、なんで桐生ちゃんは移らんの」
「……」
「泣けへんのか、もう」
「……」
「桐生ちゃん、これは生理現象や。誰もがこうなる。俺がこうなっとるのが何よりの証拠やろ。せやから、なんにもおかしいことない、仕方のないことや。今は俺しかおらんし、桐生ちゃんは俺に移されて泣くだけや。な、今だけ仕方のないことやから――
――泣いてええよ」
「っ……ふ、」
ひぐ、と喉が引き攣るように動いた。
奥歯を噛み締めているのが分かる。
(でもね、本当に泣きたい人には移らないんだって。いじわるな症状よね――)
ここへ来る道すがら、そんな言葉を聞いた。
(泣けない人にはね、泣いていいよって言ってあげないと駄目らしいのよ。そうするとやっと泣けるようになるらしくって――)
眉根がぎゅっと寄る。
乾ききっていた瞳が急速に水分を湛え、ゆらゆらと揺れ始める。
これでも泣けないのか、泣かないつもりか。
桐生の変わりようを見ればトリガーを引いたのは明らかだったのに、不意打ちとはいえ真島でさえ簡単に涙を流したというのに。
これだけお膳立てされても泣けないのか。
それでもギリギリなのだろう、堪えるために睨み付けるようにこちらを見る桐生の頬に手を伸ばし、流れていない涙を拭うように指を滑らせる。
憐れで強い、悲しい男。
両手で整った輪郭に沿わせるように包み込み、親指の腹で何度もゆっくりと頬をなぞる。
大人しくされるがままの桐生の姿に、いつも冗談に聞こえるように言っていた言葉が、決して冗談ではない声音で転がり出る。
「桐生ちゃん、好きやで」
ぽろり。
限界まで溜まっていた涙が、粒となって落ちた。
そこからは、止まらなかった。
ぼろぼろと溢れ続ける涙の合間に、ひぐ、と下手くそな息継ぎが聞こえる。
頭を抱き込んで、上手く泣けない桐生のためにゆっくりと背中を擦ってやる。震える手が背中に回され、縋り付くように掻き抱かれる。
制御できないのだろう。咳き込み、噎せて、荒い呼吸を繰り返しながら、桐生は泣き続けた。
溺れるような、泣き方だった。
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『取材』
◆桐生・視点主・U
東城会本部の近くにタクシーを止めてもらう。
まさか正面で止める勇気もなく数メートル手前で降りれば、同じ考えだったのだろう、Uが立っていた。
全身黒のピシッとしたスーツだ。私も勿論黒のスーツ姿。
お互い顔を見合わせた後、それじゃあ…とぎこちなく正門へと歩みを進める。会話は全くなく、一歩進むごとに胃に石を積まれているような、ずっしりとした重圧が襲ってきた。
見上げるほど大きな門へ着けば、待っていたかのように重厚な木の扉が内側へ開いた。思わず一歩下がってしまったが、すぐに中から組員の方が顔を出し、人好きのする笑顔で挨拶をされる。
「わざわざお越しいただきありがとうございます。本日はどうぞ、よろしくお願いいたします」
しどろもどろでこちらも挨拶を返せば、まだ青年と言っていい年頃の組員は優しく笑った。案内役の青年の柔らかい物腰と綺麗な敬語はこちらの緊張の隙間にするりと入り込み、自然と強張っていた肩がふっと楽になった。
本部の敷地はとても広く、建物へ入るまでに何人もの組員の方と会ったが、誰も彼も丁寧で落ち着いていた。極道=怖いというイメージがあったが、その印象はこの時点で完全に払拭されてしまった。
建物内部はサッパリとした気品があり、任侠映画で見るようなゴテゴテとした飾りは一切ない。ただ、ひとつひとつの物が高価なのだろう。ひっそりと置かれている花瓶ですら、不思議なオーラがあるように感じた。
いくつかの扉をくぐり、濃いカラメル色の重厚な扉の前で止まる。
「失礼します」
私たちの緊張をほぐすためか、他愛ない日常話をしながら案内してくれた彼が、一変して固い声を出す。
それまで歴史ある屋敷の見学ツアーに来ているかのような、緊張が一周回ったふわふわとした意識だったが、彼の鋭い声音で一気に現実へ引き戻された。
彼らは、これが本来の姿なのだ。
「入れ」
中から声がして、彼が扉を開く。
「〇〇社編集部U様K様2名、お連れいたしました」
開かれた扉の先に、大きな窓を背にして座る桐生一馬がいた。
ぁ、と思わず小さく声が漏れる。
何に驚いたのか、私もよく分からなかったが、今思い返せば圧倒されたのだろう。
シャドーストライプ柄の濃いグレーのスーツは彼の身体にぴったりで、きゅっと締まった腰がオーダーメイドの仕立てによって強調されていた。東城会の代紋が襟に輝いている。
長いコンパスであっという間に客用のソファまで移動した彼は、自ら私たちを席へと促してくれた。
正門での緊張感以上のものを感じ、すっかり油の切れた部品のようになってしまった私たちに、案内してくれた青年がそっと冷えたお茶を差し出してくれた。
桐生さんはその様子を静かに見て、私たちがガクガクとお礼を言うのを聞き、クスリと笑った。
入室してから一度も表情を変えなかった彼が、口元に手をやって小さく笑ったのだ。甘く垂れた目元が緩み、重々しい雰囲気が霧散する。
「そう緊張なさらないでください」
低く、滴るような甘さのある声だった。隣でUが息を吞む音がした。
これは――これは、想像以上だ。
彼に同じ道を歩まないかと囁かれてハッキリと断れる人間などいるのだろうか。
私はきっと夢見心地で頷いてしまうだろう。
思わず案内役の青年を見れば、私の言いたい事が分かっているかのように小さく頷いてくれた。こんなにも人を惹き付ける人間がトップなのだ。本部へ足を踏み入れた瞬間から感じていた統率と、洗練された空気。
これは組織の一人一人が、桐生一馬への誇りを持っているからこそ生み出されていたものなのだと、身をもって実感した。
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『不眠症/桐生』
◆桐生・錦山
「いや~ヤバかったな!」
錦山が振り返って、弾んだ声で言う。
簡単なシノギの帰りだった。
いつも通り問題なく終わるだろうと思っていた仕事は、想定外の横槍が入ったために大乱闘になり、訳も分からぬまま数十人の男たちとやり合う羽目になった。
「マジでいってーな」
「お前タコ殴りにされてたもんな」
「あ、テメー見てたんなら助けろよ!」
「俺もそん時タコ殴りにされてたんだよ」
「ふはっ、あーイテェ、笑わせんな」
錦山は鼻血が止まらなかったし、桐生の頭は角材で殴られたせいで血がだらだらと流れ続けていた。2人とも全身青あざだらけで、鋭い切り傷が肩や腕を裂いていた。
それでもこんなにも気分がいいのは、大立ち回りでのアドレナリンと、背中を預けあった時の高揚感のせいだろう。
半分以上倒した辺りで応援を呼ぶ声が聞こえ、アイコンタクトをしてせーので逃げてきたのだ。
埠頭のコンテナの隙間を駆け抜けて、雑居ビルの薄暗い路地裏に身を隠したところで、ダイ・ハードみてぇとひとしきり笑い合った。
「なぁ桐生、俺さ、」
ず、と鼻血を啜ろうとして失敗した錦山が服の袖で乱暴に拭う。
オイ血はなかなか落ちねぇぞ、と言えばだったらお前の服貸せよと言われる。さっさと血ィ止めろ、お前もだよ、と言い合いながら事務所までの道をだらだらと歩く。
「俺、お前となら何だって出来る気がすんだ」
少し恥ずかし気に言った男は、心底嬉しそうに、楽しそうに笑う。お前もそう思うだろ、と聞いてきているのが言葉にしなくても伝わった。
「…あぁ、俺もそう思うよ」
兄弟。
目を開ける。
見慣れた天井で、こめかみに涙が流れていた。
「桐生ちゃん、お前最近眠れてないんとちゃうか」
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『蒼天堀修学旅行』
◆桐生・尾田・立華
昼の日差しを浴びる神室町を背に、立華は機嫌よく一枚の書類を差し出してきた。
それは、蒼天堀の物件名が箇条書きされたものだった。
立華不動産は従業員が増え、神室町だけでなく古巣の蒼天堀にも事業の手を広げようとなったのだ。
コネクションにより候補はあるが、実際に建物を見ないことには良し悪しの判別がつかないため、いくつか目を付けている物件を視察してきてほしい、という内容だ。
チンピラを踏み潰し、ヤクザを煽っては叩きのめし、血と金を垂れ流して交渉を進めていく普段の仕事に比べれば、子供のお使いのような内容。
明日からお願いしますと往復の新幹線チケットを渡され、日付を見ると帰りは一週間後だ。
ただの物件視察に一週間。
渡された資料を手に、これはほぼ休暇では…?という顔をした尾田に、立華は「いつも頑張ってもらっているので、たまには時間にゆとりのあるスケジュールを組んでみました」とにっこり微笑んだ。
いつもは立華の言葉の裏を完璧に読み取れる尾田だったが、今回ばかりは何もわからず「はぁ、左様で…」とぼんやりと呟く。
「…これ、チケット2組ありますが」
「もう1枚は桐生さんの分です」
「はぁ、俺と桐生で…」
「桐生さんは蒼天堀に行ったことがないそうなので」
この程度の視察、2日もあれば十分だ。
なぜ自分に嚙みついてくる桐生と行かせるのか。
休暇ならば立華が取った方が有意義なのではないか。
色々と言いたいことはあったが、社会科見学ですねと続けられた言葉に尾田はまた、「左様で…」と返すしかなかった。
◇
「ハンカチと財布は持ちましたか?」
「…持った」
「時計は付けていますか?」
「ああ」
「名刺は持ちましたね?」
「ある」
小さい子供に確認するように聞く立華に、桐生はめんどくさそうな顔を隠しもせずに短く返事をしている。ガキじゃねぇんだからと言おうものなら、これまでの数々の失態を端から端までつらつらと並べ立てられるのが目に見えるからだろう。
さっさと答えて早く解放されたい、と顔に書いてある。
立華は桐生の態度を一切無視して、にこにこと笑顔のままだ。
「では桐生さん、私とした3つの約束、覚えていますね?」
「…ああ」
「言えますか?」
「……ふらふらしない、喧嘩を買わない」
「あと1つは?」
「……」
「桐生さん?」
「……尾田の言う事をちゃんと聞く」
「よくできました」
覚えててえらいですね、と頭を撫でる手を振り払ってうるせぇと吠えるが、実行出来たらもっと偉いですねと言われてぐう、と黙る。コロコロと転がされる様に思わず笑うと、すぐさま尾田!と噛み付く声が飛んできた。
この生意気盛りな20歳は、いくら言っても敬称を付けるということを忘れるらしい。まぁ自分達しかいない事務所で今更かしこまって「立華さん、尾田さん」なんて言われても鳥肌モノだから、基本的に立華も尾田も容認しているが。
「はいはい、桐生くんも社会人なんだからこんくらい守れるよね」
「…当たり前だ」
「桐生さん、これは大事な約束ですからね。売られた喧嘩を気軽に買ったりしないように」
「わかってる」
「それならいいんです」
新幹線であっという間に着いた蒼天堀は、尾田にとっては馴染みの深い場所だが、桐生にとっては全くの見知らぬ土地だった。つい先ほど駅弁を平らげた後だというのに、早くも「腹が減った」とのたまう桐生を連れて街を歩く。
神室町とはまた違った空気の賑やかで活気のある街並み。
飲食店が立ち並ぶ通りでは、大きな看板の店以外にも屋台が軒を連ねている。小さな店は入れ替わりが激しく、尾田の記憶にない店が多かった。
「なに食いたいの」
「んー…」
桐生という男は単純な頭の作りをしているため、何かを選ばせると大抵すぐに決める。外回りでほぼ毎日昼食を共にしているが、店やメニューで迷っているところを見たことがない。しかし今日は見慣れない街の派手な色彩に目をとられて、中々決められそうになかった。
「特にないならアレでいいだろ」
「ん、」
斜め前で数人が列を作っているたこ焼きの屋台を指させば、こくりと頷く。先にベンチに腰掛け、さてどこから回るかな…とぼんやり煙草をくゆらせていると、たこ焼きを受け取った桐生も隣に腰を下ろした。
舟形の皿を膝に乗せ、いただきますと小さく呟いてからたこ焼きを頬張る。あつ、と言いながらもポンポンと皿から消えていく様子をなんとなく眺めていると、横からずい、と楊枝に刺さったたこ焼きが迫ってきた。
「……ん?」
「見てたから、欲しいのかと思って」
「いや、よく食うなって。いらねぇよ俺は」
差し出されたたこ焼きはそのまま桐生の口に消えていった。
普段気に入らなければすぐに舌打ちするし態度も悪い桐生だが、時折こうやって甘さを見せることが増えてきた。
立華の「野生動物が慣れてきたようなものでしょう」という言葉は的確だと思った。こういう態度の桐生といると、尾田はなんだか気が抜けてしまう。
「アラやだ兄ちゃんアンタ、ええ男やないの!」
「っだ、は、え??」
バシン!と背中を強く叩かれて振り返った桐生の目がまん丸になる。
尾田もちらりと斜め後ろを見ると、紫のパーマに真っ青なアイシャドウ、真っ赤な口紅のオバチャンが、頬をピンクに染めていた。
そして少し目線を下げると、虎と目が合った。
桐生は生まれてこの方こんな人種を見たことがなかったし、こんな洋服も見たことがなかったのだろう。
今視界に映るもの、何もかもがハジメテなのだ。
「兄ちゃんどっから来たん?この辺の人ちゃうやろ」
「え、あの、」
「アラ~~~見れば見るほど兄ちゃんシュッとしてるなぁ。男前やな~!東京から来たん?まだ来てすぐかいな?」
「えっと、さっき、」
「さっき着いたばっかなん?それなのにここのたこ焼きに目付けるなんて、兄ちゃんよう分かってる、偉い!ここのがいっちゃん美味しい!ええ男はええモンが分かるんやなぁ、流石やわ」
「あの、」
「さっきアタシの服じぃーっと見よったやろ。これな、なんぼやったと思う?あっこの角のな、ちっさい服屋でたまったま見つけてアタシも気に入って気付いたら買うてたわ。値段聞いたら驚くで~!」
「お、おだ、」
桐生はオバチャンの口を挟ませない怒涛のマシンガントークに眉をへにゃりとさせて、すぐ隣にいる尾田に助けを求めた。
ぼーっと眺めていた尾田はまさか呼ばれると思っておらず、目をぱちぱちさせた後に、はぁ、と気の抜けた声を出した。
「おだ、助けてくれ」
「尾田さん、だろうが」
「おだ、」
言っても聞かないこのアホの怖いものが、まさか大阪のオバチャンだったなんて。
こりゃ早速いい土産話が出来たな、と思いながら使い物にならない桐生の口に最後のたこ焼きを放り込んでやる。
「失礼、コイツは俺の部下でしてね」
これからすぐに仕事なもんでとへらりと笑うと、それなら飴ちゃんあげるわ!持ってき!と透明なビニールに包まれたピンクの飴をぐいぐいと押し付けてきた。
ドーモ、と受け取ると桐生にも色とりどりの飴をあげている。
「こっちのお兄ちゃんはいっぱい食べそうやからね、サービス」
「ど、どうも…」
「ほなまたね、お兄ちゃんたち」
また?と困惑気味に呟く桐生に行くぞと声を掛け、既にやや疲れている頭を軽く振って足を進めた。
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『警察の雑談』
◆伊達・新米刑事
「桐生が四代目になってから、街の治安は目に見えて良くなった。今までは隙間を見つけちゃ潜り込んで悪さをしていた他勢力の一切が排除されている。それに神室町を独占した東城会のシノギによって民間人が割りを食っているかというと、そうでもねぇ。ひと昔前に比べりゃよっぽどお優しいもんさ」
「しかし東城会は以前に比べて確実に力を増しています。だとすると、違法薬物や人身売買などに手を……」
「あの桐生に限ってそんな事は容認しとらんだろ」
「伊達さんは桐生一馬と親しいというのは分かっています。申し上げづらいですが、そう思いたいだけでは?」
「いや、そんな人情で言ってる訳じゃねぇよ。もし東城会がヤクや違法取引に手ぇ出してるなら付随する事件の発生率も上がってなきゃおかしい。すべてを揉み消せるほどの力は、流石の東城会にもないからな」
「それは……そうですが」
「ま、ヤクザとズブズブだと見られてもおかしくねぇ俺だ。気になるならトコトン調べてみるのも刑事の仕事だぜ」
「伊達さん…」
「ただしやるなら慎重にな。相手は関東最大の極道組織だ。舐めてかかると、痛い目じゃ済まねぇぞ」
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『花吐き病』
◆桐生
けほっ ひらり。
色とりどりの花弁が舞い落ちる
けほっけほっ、
ひらりひらりひらり。
花弁が次々と落ちる。
様々な色のそれはあっという間に手の平をいっぱいにした。
ひらりと舞い降りた花弁は手に落ちる瞬間スゥっと透明になり、薄いガラスへと変化した。色とりどりの繊細なガラスたちを色つきのビニール袋へ入れ、固く口を縛ってゴミ箱へ捨てる。
けほっ ひらり。
捨てられたことを悲しむように吐き出されたのはガラスの花弁ではなく、一輪の生花だった。小さな青い物忘草が、咄嗟に受け皿として出した手のひらの上でこちらを見上げてくる。
「……チッ」
ぐしゃりと握り潰された小さな花は、あっけなくゴミ箱へと放られた。
「嘔吐中枢花被性疾患の特異型ですね」
黒い眼鏡の縁を触りながらカルテにドイツ語で何かを書き込んでいた医師が、こちらに向き直ってそう言った。
「通称『花吐き病』と呼ばれている病気ですが、桐生さんの場合は生花だった花弁が薄氷(うすらい)のガラスのように変化していますよね。実はこういったケースは極めて稀でして、かなりの心的負荷が掛かっている状態で引き起こされると言われています。通常の症例と違い嘔吐抑制薬が効きづらいため、まずはこの花弁の変化を失くすところからの治療となります」
「……はぁ、」
「花弁の変化を失くすには、桐生さんの抱えている心的負荷を軽減させるしかありません。ご自身と向き合うことになりますので、この治療には専用のカウンセラーを付けます。……いいですか、焦ってはいけません。ゆっくりでいいんです。そして決してご自身だけで抱え込まないようにしてください」
「はぁ…、」
「それでは早速カウンセリングの日程を決めましょうか。そうですね……来週の月曜日は如何でしょう?」
「はぁ、いや……その前にひとつ、」
「ええ、なんでしょう」
「これは燃えるゴミでいいのか?」
桐生の足元。
大量に散らばっている色とりどりの花弁のガラスたちを指差して、けほっと咳込んだ桐生の口からまたひとつ、涼しい音を立てて花弁が床に転がった。
昨夜、ベッドに入ってから何度か咳込んだ。
今朝も微睡みながらコンコンと咳をした後、眠気に抗って目を開ければ、枕の周辺にキラキラと輝く花弁が大量に落ちていた。
そして実際に自分の口から花弁が転がり出た瞬間、自ら足を運んだことなど一度もなかった病院へと駆け込んだのだった。
担当医は優面の歳若い男だったが、この分野の名医らしい。桐生が「ゴミ」と言い放った瞬間穏やかな態度は一転、「これはあなたの心ですよ!なんてことを言うんですか!」と一喝し、いかに桐生が自分自身を疎かにしているか、それによってどれだけ心がすり減ってしまっているのかを懇々と言い聞かせてきた。
そんな深い意味を込めて言ったつもりはなかった桐生はその勢いに圧され、ぼろぼろ花弁を吐きながら身を小さくして聞くしかなかった。
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『傷付く龍と、傍観者と』
◆真島・桐生
時折、桐生が必要以上に傷付く戦い方をする時があることに気が付いた。
それを見つけたのは偶然だった。
ガツンと頭を殴られた気がした。
手負いの獣のようにも、泣いている子供のようにも見えた。
雑に貼られた絆創膏やガーゼは、治療のためというより、傷が見えないよう”塞ぐ“という意図しか感じられなかった。
この暗く寒い部屋の中で、ずっとこうして蹲っていたのか。
ある程度時間が経てば回復するのだろうか。無理矢理にでもするのだろう。そうして、この悲しい静寂をおくびにも出さずに街へと戻るのだろう。
ひどく腹立たしかった。
桐生一馬という男のことを、知った気でいた。この自分に厳しく他人に甘い男のことを、分かった気でいたのだ。
ひどく腹立たしく、燃えるような羞恥が身を焼いた。
――この傷付いた男をどうにかしなければならない。
これから先、自分に与えられた使命だと思った。当然真島は無神論者だったが、この時ばかりは桐生の元へ導いてくれた神へ祈りを捧げたい気分だった。
「桐生チャン」
そろりと呼び掛けると、音のなかった部屋に思いの外、自分の震えた声が響いた。
「桐生ちゃん」
意識して、まるっこい声で呼ぶ。
聞こえてはいるだろうが、身動ぎひとつしない。
「近く行ってもええか」
重い沈黙を無理矢理に肯定と受け取り、一歩踏み出す。コツ、と固い靴底の音が鳴るのが煩わしく、その場で靴を脱いだ。
音のしなくなった歩みでするすると桐生の傍に行き、目線を合わせるように膝をつく。
入口からは分からなかったが、閉じられていると思っていた桐生の目は開いていた。
いつもの眉間の皺がない顔は知っている桐生よりも幼い。普段感じることはなかったが、自分より4つも年下なのだと改めて思い知った。
真島にとって桐生の表情は分かりやすく、あぁ怒ってるなとか嬉しそうやなとか、些細な変化でも手に取るように分かっていた。
それが、今はどうだ。
透き通るような黒は、何も映していない。
感情の色を一切乗せることなく、ゆっくりと瞬きをしているだけだ。
真島がじっと見つめてもそれは変わらず、ともすれば真島が目の前にいることすら分かっていないのではないかと思うほど、微塵も揺れ動くことがない。
胸が詰まって仕方がなかった。
もう、痛む心もないというのに。
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『国際ボランティア・デー』
◆真島・桐生・大吾
□真島建設 工事現場/事務所
プレハブ小屋の扉を開けた大吾は、殺風景な部屋にぽつんと置かれた二脚のパイプ椅子を見て、その前面に置かれたホワイトボードを見て、静かに中に入った。
――どうせ碌なことじゃない。
そんなことは分かり切っていたが、大吾は真島の姿を探すことも、彼の組員を探して状況を尋ねることもせず、無言で簡素な椅子に座った。
前者の理由はストレスで、後者の理由は疲労だった。
腕を組み目を閉じてすぐに、このプレハブ小屋は建築確認申請を取っているのか?という疑問が沸き起こり、あぁここは工事現場だから必要ないのか、と解決した。次に、なんで自分は書類仕事をせずに工事現場にいるんだ?と思い、疲労で細かい事はおぼろげだったが、真島のせいでここに来たのだと思い出した。
大吾に降りかかる問題の約四割は、たった一人の男によって起こされるのが常だった。
「――ぁ?」
ガチャ、という軽い音と共に気の抜けた声がした。
片目を開けると、グレーのスーツを纏った男がぽかんとこちらを見ていた。その姿に、ゆっくりと両目を開く。急いで開くと頭痛の種が芽を出しそうだったからだ。
「…お疲れ様です、桐生さん」
「あ、あぁ……なんなんだ、これは。何が目的なんだ?」
部屋をぐるりと見渡した桐生は、返事もそこそこに困惑した声で言った。それは奇しくも、真島を前にした時に大吾が発する言葉とまったく同じだった。
大吾はその問いの答えを持っていなかったから、ハハ…と同意を示す乾いた声を上げて、「今度はどうしたんですかね、俺にはサッパリ……自分が正常なことしか分かりません」と言った。そして一転、柔らかい声で「桐生さんがお元気そうで何よりです」と続けた。
桐生と会うのは久々だった。
真島の惚気話のお陰で風邪ひとつ引かずに過ごしているのは知っていたが、ピンと伸ばされた背筋に変わってないなと笑みが零れる。
大吾は昔から、彼の綺麗な立ち姿が好きだった。その背中を見ると自分も頑張ろうと思えるからだ。
桐生はずっと、大吾の憧れなのだ。
「あっ叔父貴……会長も、お疲れ様です!」
「お疲れ様です!」
「お疲れ様です会長!桐生の叔父貴!」
そんな大吾の淡い感傷は、現場仕込みの馬鹿デカい挨拶に掻き消された。
続々と入って来た真島組の男たちは頭を下げながら、プレハブ小屋の人口密度をあっという間に上げていった。そして「お隣失礼します!」とニッカポッカを揺らしながら地べたに胡坐をかいた。どうやら組員たちの居場所は床らしい。
大吾はそれに対して頼むから静かにしろと手を振り、隈の浮かぶ目を桐生に向けた。
「それで、桐生さんはどうしてこんな場所に?」
「兄さんに無理矢理連れて来られたんだ」
「なるほど」
今年に入って初めて真島関連の出来事で納得できる答えを手に入れた。
大吾はそれに満足し、目を閉じた。
組員たちの挨拶で頭痛の種が一斉に花開き、頭の中で盛大にシンバルを鳴らし始めたからだ。その音から少しでも遠ざかるために、大吾はそっと意識を手放した。
桐生は変わらず扉の横に立っていたが、組員から「どうぞ、叔父貴」と唯一残っている椅子を勧められ、何ひとつ分からないまま腰掛けた。
大吾は腕を組んでガクリと首を落としている。
糸が切れたように眠ってしまったのだ。
目の下には色濃い隈が浮かんでいて、相当疲れているのだな…と思った。大吾は自分を正常だと評していたが、目の前で人が2、3人死んでも気付かなさそうな目をしていたから、きっと少し寝たほうがいい。
桐生は周りの組員たちにこの状況を尋ねたかったが、隣で眠る大吾のために今は黙ることにした。
それからしばらく。
思い思いの場所に座る組員たちの低く抑えた話し声が、遠いさざ波のように思えた頃。
うつらうつらしていた桐生は、一切の遠慮なく開けられた扉と今日一番の男たちの挨拶の声に、びくっと顔を上げた。
「おぉ、ちゃんと待っとったな」
組員たちにおざなりに頷いた真島はスーツ姿に着替えており、まっすぐ桐生を見て口角を上げた。
彼の黒いネクタイは先週の夜、桐生の両手を縛ったものだ。その時のことを思い出させるように革手袋を嵌めた手が、軽く結び目を緩める。
暗い部屋で見た光景と、まったく同じ動きだった。
桐生はカッと上がりかけた体温を誤魔化すように咳払いし、「これは一体なんの集まりだ」と聞いた。
真島はその反応に機嫌良さげに目を細め、組員たちの挨拶でプレハブ小屋が揺れてもピクリともしなかった大吾を見てから、桐生に視線を戻した。
「今日は何の日やと思う?」
「知らねぇな」
桐生は定期的にこの切り口で会話が始まるな…と思った。そしてそういう時は大抵、碌なことが起こらないな、とも。
真島はホワイトボードの前に立ち、水性ペンを一定のリズムで手に当てながら言った。
「今日はな、世界ボランティア・デーや」
「へぇ…」
「今日お前らを集めたんは全員に関係があることやからや。……あ、桐生ちゃんには俺の働く姿を見てほしかったから来てもろたんやけど♡」
桐生はとりあえず、自分が呼ばれた理由が判明して曖昧に頷いた。
真島はホワイトボードにキュッキュッと家らしきものと、南京錠のような絵を描きながら続けた。
「ここらで最近空き巣が増えとるのは知っとるな。みかじめ詐欺やって文句言われてまう前に手ぇ打ちたいとこやけど、最近は御上が俺らにご執心なせいで思うように身動きが取れん。まったく有難い話や。熱烈なラブコールのお陰でシマの治安維持もままならんなんて、ほんま涙が出るわ」
思っていたよりずっと真面目な切り口に、桐生は軽く顎を引いた。
かつて堂島組にいた頃には、自分のシマの犯罪率なんて気にしたこともなかった。ただ悪さをするチンピラを躾けることしか頭になかった。しかし組長ともなると、もっと広く気を配る必用があるのだろう。
真島はコンコンと曲げた指でホワイトボードを叩いた。
「空き巣の手口はこうや。鍵を雑に壊して土足で踏み荒らし、ちょっとでも金目になりそうなモンは掻っ攫う。お粗末なやり方やろ。被害者の方々がどう思う?金品を取られた上に家の掃除、さらになんとまぁ、鍵の付け替えまでせなアカン。せめて犯罪者に安定した開錠スキルと靴を脱ぐ礼儀さえあれば、カタギの方々も盗品の被害届を記載するだけで済む話になるっちゅうのに……それに耄碌した婆さんなら、運が良ければ、取られたことに気付かんまま墓に入れるやろ。人間誰しも死ぬ前に犯罪の被害者にはなりとぉないわな。そんな憐れな地域の皆さんのために、俺らが出来ることが何か。ここまできたら、もう分かるな?」
桐生は雲行きの怪しさを感じ、顎に力を入れた。
真島は教師のように頷いて、言った。
「そうや。開錠技術の講習や」
「そうはならねぇだろ」
思わず、間髪入れずに言葉が出た。
プロの詐欺師は真実と嘘を混ぜて話すというが、真島は真実と混沌を混ぜて話す。そのせいで、たとえ意識を集中させて聞いたところで、どこから話が捻じれたのかわからなくなるのだ。だから真島の話を聞くときは注意しなければならない。桐生は長年の付き合いでそれを学んでいた。
真島はしかし、もっともらしい顔を崩さずに優しい声で言った。
「ええか桐生ちゃん。一見突拍子もないように聞こえるのは分かる。でもな、サツってのはケチな悪事を取り締まるよりも代紋に拳銃ぶっ放すことに快感を覚える、異常性癖の仲良し射撃クラブや。そんな奴らが防犯パトロールなんてやると思うか?空き巣は増える一方で、被害も増える一方。この半年でどれだけの鍵が交換されたと思う?ほんまは俺らもコソ泥の首根っこ押さえて指切り落としてやりたいけどな、そうはいかんやろ?だからな、ええか、これは俺らにできる精一杯のボランティアで……」
「――え?今なんて?」
ボランティアという単語に撃たれたように飛び起きた大吾が、見事に青ざめた顔で言った。
「あ…あんたが率先してボランティアを……?そんなこと、まったく、これっぽっちも信じられない。今度は何を企んでいるんだ……?」
一度も指示を聞いたことのない犬が急に人語を喋り出して、さらにそれがすべて自分の悪口だった時の飼い主のような、悪夢がすべて現実になった人間の顔だった。
桐生はその様子に大吾の普段の苦労を垣間見て、慰めになるかは分からなかったが「兄さんの言ってるボランティアってのは、空き巣に民家の開錠講習をするって話だ」と教えてやった。真島のやることが善意のボランティアではなくただの犯罪助長行為だと分かった方が、きっとショックが少ないと判断したからだ。
大吾は「え?」と聞き返してからしばらく考え込み、やがて「あぁ…」と深い諦念の吐息を漏らして、再び目を閉じた。
どちらにせよ、理解の範疇を超えたのだろう。
桐生もまったく、同じ気持ちだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『エージェントとゴロ美』
◆真島・桐生
「断る」
「そこをなんとか!」
頭を下げる極道の男達を前に、黒スーツとサングラス姿の男はウンザリと空を見上げた。
「頼んます叔父貴!」
「俺はお前らの叔父貴じゃねぇ」
「桐生の叔父貴ぃ…」
「桐生でもねぇ」
かれこれ20分、蒼天堀の道端でこの問答を繰り返していた。
「本当に困ってるんです!」
「奇遇だな、俺もだ」
親父の命令なんです…と泣く組員の姿は憐れだが、気安く頷く訳にはいかない。狂気が服を着たような男の被害を受けるのは他でもない自分だからだ。
「ここにおったぁ!♡」
ほらみろ。黒スーツの男は寸での所で悲鳴を噛み殺した。
「もぉウチめっちゃ探したんやで?あ!なにそのグラサン、カワイ♡」
横を見れば……正確には少し見上げれば、金髪ポニテの女装男がニコニコとこちらを見下ろしていた。目が合った瞬間バチッとウインクされたが、眼帯のせいでただ単に目を瞑ったようにしか見えなかった。
「今日は仕事オフ?ウチと過ごそ♡久々のデートめっちゃ楽しみ♡」
「離してくれ…」
「えーお店行く?もぉホンマ積極的♡はぁい1名様ご案内♡」
「離してくれ……」
ガッチリ腕を固められ、「すんません叔父貴…!」という声を背にキャバクラへ引きずり込まれた。
ぎゅ♡と腕をキメられたまま「ウチの名前覚えとる?」と20回ほど聞かれたところで黒スーツの男は折れた。そろそろ右腕の感覚がなかったからだ。
「……ゴロ美、だろ」
「…!!」
本当に小さな声でそう言えば、ゴロ美は一瞬息を飲み、ささやくような声で「きりゅーちゃん」と呟いた。
俯いてしまったゴロ美の男らしい肩が震えているのを見て、黒スーツの男……桐生は少し罪悪感を覚えた。情緒と様子はおかしいが、これでも散々世話になった兄貴分だ。自分の訃報は彼にとって、良くない出来事だったのだろう。
「兄さん…」
思わず伸ばした手は、凶器のようなつけ爪の手に掴まれた。
「やぁっと呼んだなぁ……?」
地の底から響くような声だった。
桐生は即座に自分の失態に舌打ちし、ソファから腰を上げようとしたが、
「逃がさへんで」
普段より数段低い声と強い力で縫い止められた。
「おう、座れや」
ギラギラした目が、凶悪な角度で上がった口角が、獲物を逃さない猛獣のように見えた。