クラッシュ・アクション作戦「大好き、むっちゃ好き」
「に、兄さん、少し離れてくれ…」
「一生俺だけにして」
「兄さん…人の目が……」
「ちょっと顔赤くなっとるよ。恥ずかしいんか?ほんまに可愛い……一人にさすの心配やし俺の家に住も?な?」
「可愛…?おれはとっくに成人男性だ……」
桐生は顔を赤くして、小さな汗をいっぱいかいて、目をぐるぐるさせていた。
どうにかこの場から逃れようと努力している最中だった。
しかし片手は真島にガッチリと指を絡め取られていて。もう片手はぐいぐいと迫ってくる真島の肩を押していたのだが、その手首もしっかり掴まれていてあまり意味をなしてない。
すり…と手首の内側を親指で撫でられるたびに背中がぞわぞわして、思考が纏まらない。
「一緒に住むとか以前に、その、」
「うん?なに?兄さんに全部聞かして。どんな内容であれ、俺はお前の声だけを聞いてたい…」
聞いたことのない甘ったるい声に桐生はヒィ…と首を竦め身を引こうとしたが、アッサリ失敗した。真島の片足が桐生の脚に絡まっていて、身を引くことを許してもらえなかったからだ。
真島はそれに「座り直しただけやもんな」とにこにこ笑って、きゅぅっと隻眼を三日月にした。
シリアルキラーみたいな笑顔だった。
「はひ……」
普通に怖かった。
真島は反社のど真ん中を地で行く男だ。
普段から近寄りたくない部類には入るのだが、今は普段と違った怖さがあった。
「今まで本気で人を好きになったことなかったって、桐生ちゃんに会うて気付いたんや。俺はお前のためになら地獄も作り出せると思う…」
そして普通に物騒でもあった。
それでも真島の声には目一杯の愛情が篭っていたから、いくら鈍い鈍いと言われる桐生でも「あ、俺が本命なんだ…」と理解してしまい、ウッカリ泣きそうになった。
もちろん嬉し泣きではない。
「兄さん、俺は…」
「あ。もしかして浮気とか心配しとる?これからは誓って桐生ちゃんだけやで。不安やったら俺に首輪付けてええよ。スマホも全部見せるし、位置情報分かるアプリも入れたる。なんなら俺の行くとこ全部付いてきて?少しの時間も離れとぉない」
「ひぇ……」
怒涛のアピールにもう情けない声しか出ない。
気付けば肩を押していたはずの手もしっかりと指を絡められていて、ついでに視線も絡めとられた。
切れ長の瞳が、とろりととろける。
真島は誰もがビックリするくらい美しく微笑んで、映画のようなセクシーな声で囁いた。
「ずっと好きやったよ」
「はわ……」
桐生は致死量の愛と暴力的な美しさを浴びたせいで、完全に思考がフリーズした。
ばくばくと心臓が鳴っていて、真島の言葉以外のすべての音がぼんやり聞こえて、まるで催眠術にかかったような感覚だった。
真島は桐生の知る中でもカッコイイし、地位も権力もあるし、波長も合う。男として完璧で、…あれ?なんかもう抱かれてもい……
「、」
ガリッと舌を噛んで正気に戻った。
危なかった。
タールのような愛情に足を掬われるところだった。流されてはいけないと己を奮い立たせる。
今日はキッパリと「いい加減俺に構うな」と言いに来たのだ。
まんまと真島のペースに乗せられてしまったが、目的を思い出した桐生は冷静さを取り戻した。さきほどまでの愛の言葉を頭から追い出し、唇を引き結ぶ。キッと真島の顔を睨みつけ――
「兄さん、いい加減に…っ」
「桐生ちゃん、好き。ね、俺のモンになって」
「おれはべつに、」
「お前に一生尽くす権利がほしい」
「すきなんかじゃ……」
「毎晩顔を見ながら一緒に眠りたい。桐生ちゃんの隣で寝て、毎夜の夢でも会うてほしい。そんくらいお前に惚れとるんや」
「キュウ…」
――あっけなく撃沈した。
無理だった。
顔のいい男から痺れる声で真剣に愛を囁かれ、赤面しない方がおかしいのだ。真島の長い腕に囲われてぷしゅー…と顔を真っ赤にした桐生は、かつて夜の帝王と呼ばれた男の猛攻に耐えきれなかった。
完全K.O.負けである。
そんなやり取りを前に、念仏を聞く気持ちでジっとしていた秋山は、冷静な頭で「アチャー…」と思っていた。
これで5戦5敗。
初めこそ「ワ!そんな!目の前で…っ!」と顔を覆っていた秋山も、2回3回と繰り返されるうちに慣れてきて、今では真島の告白を気にすることなくメニューを注文できるまでになっていた。具体的には真島が「一緒に住もう」と言った辺りで店員を呼び、「DG01とAA04、あとDB03をひとつ」と注文し、「ミラノ風ドリアとポップコーンシュリンプ、単品のドリンクバーをおひとつですね」とすべて言い直されていた。
桐生を見ると横の大蛇が怒るので机に並んだDG01とAA04に視線を落として、ドリンクバーで自作したミックスジュースをズゴゴ…と吸い込む。自信作だったが、ヘドロのような味がした。
「はぁ……」
なんだかすべてが裏目に出ている気がする。
おかしいなぁ、これじゃあまた桐生さんに怒られちゃうな……でも満更でもなさそうだし、いいのかな…なんて思いながらチラリと視線を上げれば、真島と桐生の距離はキスしてるのかしてないのか測りかねる近さになっていた。
相変わらず桐生は顔を赤くしたり青くしたりしていて、真島は黒々とした瞳に桐生だけを映し、低く愛を囁きながら迫っている。
「この先の俺の人生、桐生ちゃんの手でメチャクチャにしてほしい。お前にならどんなことされても構わん、全部興奮する。だからずっと俺のことだけ考えててくれんか?」
「ひ…こ、こわい……」
本来なら助け舟を出すべきなのだろうが、秋山は桐生の貞操よりも自分の命の方が惜しかった。
もしここで「俺がいること覚えてます?」とか「ここ一応ファミレスなんで…」とか言おうものなら、明日の新聞の一面は自分の惨殺死体が飾ることになるだろう。秋山はまだ生きていたかった。
食欲を失くす程度には重い告白をBGMにチマチマとドリアをつつきながら、どうしてこんなことになっちゃったんだっけ……と思った。
話は数か月前に遡る。
◇
桐生は黙って、真島の顔を見上げていた。
その顔は、今まで見たことのない表情だった。
キュッと眉を寄せて、恋焦がれる者に向けるような、ジリジリと焼け付く温度の目。
「……、」
風が吹き、木々がざわめく。
男らしい薄い唇が短く何かを紡いだ。
通りを走る車のライトが真島の顔を不規則に照らし、その度にひとつしかない蛇の瞳がぬらりと輝く。
「…いま、なんて言ったんだ?」
小さな声だった。
置かれた手が桐生の両肩に食い込む。
真島はどこか痛い所でもあるように目を閉じて、「うなじ」とボソリと呟いた。
「…うなじ?」
「ん」
「それが…?」
「噛ませてほしいんやけど」
「誰の?」
「桐生ちゃんの」
「おれの……?」
桐生は酔い覚ましに公園のベンチに座っていたところだった。
酒で火照った身体を冷やしていたのだ。
誰もいなかったから、だらりと姿勢を崩して。
ビルに囲われたちっこい鉛色の空に何かを想う訳でもなく、薄っすら口を開けたままぼーっと空を見ていた。微かに聞こえる酔っぱらいの笑い声以外は、とても静かな夜だった。
頬を撫でるひんやりした風に目を閉じた一瞬。
太ももに乗るずっしりとした重さに目を開けたら、夜空ではなく、真島の顔があった。暗い所から音もなく現れた真島が、ジ…と桐生を見下ろしていたのだ。
ほんとうに、瞬きの間の出来事だった。
桐生は悪い夢かな…という顔でとりあえず「重い…」と呻いてみれば「そりゃ、そうやろな」と平べったい声が返ってきた。そしてしっかりとマウントポジションを取った真島は冒頭の台詞をボソボソと呟いたきり、こっくり黙ってしまったのだ。
「えっと…、……?」
桐生はアルコールの入った脳を必死に動かした。
目の奥をぐるぐるさせながらええと…と繰り返して、いっぱいの疑問符を頭の周りに並べる。
それほど意味が分からなかったので。
一方、真島は大人しく返事を待っていた。
断られるなんて少しも思ってない顔で、進みの遅いレジを待っているときのような、退屈な時間を引き延ばされた大人の目をして。切れ長の目をゆ…っくりとまばたかせながら、のんびりと桐生を見下ろしていた。
それは、支配することに慣れた者の顔だった。
そもそも、である。
この世には男/女の他に三つの性別が存在し、それは社会的地位の序列でもあった。優秀な人材にはα(アルファ)性が多く、大衆のほとんどはβ(ベータ)性。残りは少数のΩ(オメガ)性。
α性は見る者を圧倒するカリスマ性を持つ者が多く、秀でている故に数が少ないと言われているが、α性が裏社会にゴロゴロいる…というのはあまり知られていなかった。
裏社会に多い理由は簡単で、愚鈍に悪事は働けないからである。
ちなみにΩ性も裏社会には多くいる。
大抵は“商売道具”として、身体のどこかを繋がれて暗くて狭い部屋に並べられていた。Ωのヒート(発情期)を利用して客を取らせ、見目が良いΩは高値でαに売り飛ばす商売だ。
性に左右されるのはαもΩ同じで、αはΩのヒートに誘発される。
そのため早めに番を作り性をコントロールする、というのが世を牽引するαのスタンダードだった。
そして問題の彼らの第二次性別だが……
二人ともα性だった。
α性は目立つ。雑踏に紛れるようなαは一人もおらず、良くも悪くも一目で看破される。それだけの求心力があり、他者を圧倒する空気を纏い、足元に跪かせる力を持っているからだ。
支配し統べるのが本質であり、α性の本能でもあった。
男女の性別はさておいて。
そんなα性同士が番うということだけは、天地がひっくり返ってもあり得ない組み合わせなのだ。
だから、
「……ええと、…い、嫌だ…」
桐生は戸惑いながらもしっかりとお断りをした。
だって男だし、αだし。好きじゃないし。
桐生は髪が綺麗で、たおやかな女性が好みだった。
テクノカットで腹筋の割れたイカレ男は初めから恋愛対象に入っていないのだ。
……何かの罰ゲームなのだろうか。
真島が他人との勝負事で負ける姿はあまり想像できなかったが、どうせタチの悪い遊びでもしてるのだろう。
たまたま絡まれたのが自分なのはある意味良かったとも言える。
これがもしβやΩだったら、きっとこの悪い男にコロリと騙されていたに違いない。こんな甘い毒のような視線と低い声を断れる人間なんていないのだから。
「……ほぉ」
自分を見下ろす真島の表情は微動だにしなかったが、桐生の肩に置かれた両手がギリギリと骨に食い込む。
桐生も馬鹿力だが、真島も大概馬鹿力だ。
「、」
「ああ、すまん」
平坦な声で、手は置かれたまま。
膝の上にも乗ったまま。
「そろそろ退いてほしいんだが…」
聞こえなかったことにされた。
どうしたら解放してくれるのだろうかと思案していると、うなじに真島の手が触れる。
「っ、」
革手袋が皮膚を撫でる感覚にぞわりと身震いする。
獲物を見つけた蛇のような目をした真島は、心底楽しそうな声でははぁと嗤った。
「桐生ちゃん知らんのやぁ」
「……何がだ」
静かな夜の中で、その上擦った声は必要以上に大きく響いた。
隻眼がにっこりと嗤う。
そして悪夢の中のような低い声で、馬鹿な子供に話すようにゆっくりと言った。
「トクベツ料金で教えたるよ」
コロコロ変わる真島の声音は、聞く者を不安にさせるものだった。
高く、低く。大きく、小さく。
真島は昔からこれを、息をするように使いこなせた。
「α同士でもなぁ、番になれるんやで」
「なにを、」
いってるんだ、という桐生の言葉は中途半端に切れる。
真島の両手が首を絞めていた。
咄嗟に腕を掴んで引き剝がしにかかったが、体重を利用してギリギリと絞めてくる真島には叶わない。
「…が……」
耳の奥で音が鳴る。
ぐるん。と目が上を向く。
信じられない力で腕を捻り上げられ、ベンチに押し倒された。
うつ伏せにされ、腰の上に乗られる。
「ぐぅッ……」
体勢を変えさせる時についでとばかりに膝を入れられた脇腹が痛む。突き上げるような吐き気が、断続的に襲ってきた。
「ッま、じま…っ」
「――なぁ桐生ちゃん」
腕を固める手に力が籠る。
耳元に口を寄せられる。
ふ、と落とされた吐息に身が竦んだ。
「俺はな、お前を番にしたいんや」
どろりと砂糖を煮詰めたような声だった。
思わず漏れそうになった悲鳴を噛み殺す。
「~~ッ!」
さわさわと後頭部を撫でていた手に髪を掴まれ、ガン…ッ!とベンチに額を打ち付けられる。
くらりとする視界も一瞬で。
「無理矢理でもええ。番にさえなれば、お前は、俺から、逃げられんのや」
一言ごとに額を打ち付けさせられる。
真島の暴力には少しの容赦もなかった。
額から血の垂れる感覚がする。
ガンガンと主張する痛みのせいで意識を飛ばすことはなかったが、暴力が止んでも起き上がることが出来ない。
力が抜けてぐったりとした桐生のうなじを革手袋が何度も這う。
その感触に低く呻けば、真島が機嫌よく喉を鳴らした。
「俺のモンになってくれや、桐生ちゃん」
「っ…ッ」
手が離れたと思った瞬間、撫でられていた場所に鈍い痛みが走った。
――噛まれている。
じわじわと歯が食い込んでいく感覚に全身が強張る。
指先が冷え、頭の芯がジン…と痺れていく。
力で抑え付けられて「自分のモノだ」と主張するように噛まれるのはαとして不快感しかなく、目眩がするほど屈辱的だった。
視界が痛みと怒りでぐらぐら揺れる。
「っ、ッ~~、」
ぐぅぅ、と長く噛まれると視界が黒くぼやける。
まるで船酔いのような感覚だった。
噛み締めた歯の隙間から呻き声が出る。
噛み痕を舐められるとパチっと視界が弾け、歯を立てられるとぐるぐると落ちていく感覚に囚われる。
それが何度も、何度も繰り返された。
初めは足掻けていた身体も、噛まれるごとに自分の意志で動かせなくなっていく。
「は、…はっ、、」
呼吸が浅くなり、黒く塗り潰された視界はほとんど何も見えていなかった。
まるで毒を流し込まれる獲物だ。
……ようやく真島が満足して噛み痕に染まったうなじから身を引いた時には、桐生は痛みで息も絶え絶えだった。
真島は血の滲む傷に愛おし気に口付け、自分の付けた痕がしっかりと残っていることに満足げな笑みを浮かべる。いくつもの歯形を指先でなぞりながら、半ば気を飛ばしていたせいでゆらゆらと視線を彷徨わせる桐生の耳元にぴとりと唇をつけた。
真島のゆっくりとした心音が背中越しに伝わってきた。
「これなぁ、何遍もこうして、ようやく番になれるんやと」
返事をしない桐生に構わず続ける。
「なぁ…桐生ちゃん。簡単に番になれるより、よっぽど俺ららしいと思わんか?」
最後にリップ音を響かせ、ようやく上に乗っていた真島の体重が離れた。
ずっと圧迫されていた呼吸が解放され、大量に入り込んできた酸素に噎せる。
全身が痛い。
脳にモヤがかかり、思考が鈍っている。
視界の端に真島の靴が映る。
満足して帰って行くのだろう。
うつ伏せのままだらりと力を抜いて、目を閉じた。
どれだけ経っただろうか。
夜風で冷えた手足と鼻の先が痛い。
「……、…………」
薄っすら目を開ければ、とっくにどこかへ消えた思っていた真島がベンチの端にぺたりと頬をついてこちらを眺めていた。嫌な幻覚かな…と何度か瞬きをしたが、その姿が消えることはない。
ぐったりした桐生を、愛おしいものを見る目で見ている。
――気でも狂ってんのか
思考が追い付かずにぼんやりとその目を見返せば、真島が照れたようにへにゃりと相好を崩した。
「これからもよろしゅうな、桐生ちゃん」
幸せそうな声で穏やかに笑っている。
「………………しんでくれ……」
呻くように返した言葉は、真島の笑みを深くするだけだった。
◇
「え、怖……」
秋山は口元を引き攣らせた。
それに「だよなぁ」と頷きながら呑気にコーヒーを傾けているのは、一人掛けのソファに深く腰掛けた桐生だ。
桐生の首にぐるりと巻かれた包帯に、珍しいこともあるのだなと喫茶店へと引きずり込んだのが数十分前。スペシャルケーキセットを対価に事の顛末を聞き出した結果、うららかな午後の日差しを楽しむには差し支えがありすぎる出来事を語られた、という訳だった。
「……いや、いやいやいや、ちょっと他人事すぎませんか?大丈夫なんですか、今後」
「一晩考えたが、あの人を止める方法が何も思い付かねぇ」
「警察、警察呼びましょうよ」
「ヤクザが警察呼べるかよ」
拗ねたように口を尖らせた桐生は既に3つ目のムースケーキに取り掛かっており、秋山はそれを「よくそんな食えるな…」という顔で見守りながらコーヒーのお代わりを注文した。
「そりゃ、まぁそうですけど……じゃあどうするんですか。そんな包帯巻いただけじゃ意味ないですよ」
「次は倒せばいいだろ」
「一回二回で諦めるような人じゃないでしょう」
「……」
どうやら図星だったようだ。
しばらく無言のまま華奢なフォークでケーキを食べ進めていた桐生は、口の端についたクリームに「ン、」と不明瞭な声を上げた。
親指の腹で拭って、指を舐める。
チラリと赤い舌が覗いた。
片手に持ったままだったフォークを皿に置かずに口に咥え、唾液で濡れた指先を紙ナプキンで拭う。
伏せた睫毛の落とす影が濃い。
「……ん、見てたか」
秋山の視線に気付いた桐生が、ワルイコトを見咎められた大人の顔でゆったりと目を細めた。
「……、…いや、勘弁してくださいよ……」
何でもない仕草がカッコよくて、魅力的だった。
この男が時折する行儀の悪い仕草は、見てはいけないものを目にした時のような、自分だけが許された秘密を覗き見たような、ソワソワとする気持ちにさせるのだ。
弱り切った声を出す秋山に怪訝な顔をした桐生は、「お前たまにおかしくなるよな」と言って何事もなかったかのようにケーキの続きに取り掛かっている。
計算でないというのだから、タチが悪い。
肺の底から空気を押し出してだらりと頬杖をつく。
自分ばかり座りが悪くなるのにもいい加減慣れた。慣れたくはなかったが。
「お待たせいたしました」
運ばれてきたお代わりのコーヒーと共に、注文していないプチガトーが並んだ皿が置かれた。クラシカルな給仕服を着た女性がキュ、と纏めた髪を揺らして小さな声で言う。
「あの…い、いつもご来店いただいておりますので、その…」
秋山はぱち、と桐生を見た。
いつも、なんて言われるほど通った覚えはなく、それは桐生も同じようだった。
すぐに察した秋山はニコ、と人好きのする笑顔を浮かべて「ありがとう」と優しい声で言いながら机の下で桐生の足を軽く蹴る。
「ん、ああ……ここのケーキはどれも美味いな」
「い、いえ!そんな、あ、ありがとうございます…!」
桐生の唇が緩く弧を描く。
咄嗟に作った外行きの顔だったが、耳まで赤くした女性は丸盆で顔を隠しながらぺこっ!と礼をして足早に立ち去って行った。
気の強そうな、綺麗な女性だった。そんな女性の可愛らしい一面を見た直後だというのに、桐生の意識はキラキラ並ぶプチガトーにだけ向けられているのだから嫌になる。
「俺にも一個くださいよ」
「どれがいい?」
「ショートケーキがいいです」
「ん」
スクエア型のケーキを食べさせてもらう。真島に見られたら街から追い出されそうだな…とは思いながらも、秋山は桐生に甘やかされることに慣れてしまっていた。
口いっぱいに広がった甘さをコーヒーで流し込む。
このままお茶して解散したいなぁという秋山の願いは桐生の、
「それで、なんか思いついたか」
という無情な一言で砕け散った。
気前よく分け与えられたケーキはただの前払報酬だったらしい。
真島は気分屋だが、一度執着した際の諦めの悪さは相当なものなのだ。それは普段あまり関わりのない秋山にも分かるほど。
なぜ分かるかというと、その光景を目の当たりにしたから……いや、完全に巻き込まれたからだった。
・
・・
・・・
ちょうど二週間前。桐生と飲みに行く途中。
知り合いに声を掛けられた桐生に「いいですよ、ごゆっくり」と笑い、少し離れた場所でぼんやりと待っていたときだった。
気付いたら、すぐ横に真島がいた。
『……こ、こんばんは…』
『……』
気配しなかったなぁ…と思いながら挨拶をする。
秋山はもちろん真島のことは知っていたが、こんなに近くで見るのも、話すのも初めてだった。
『……』
『……ええと…』
初対面と話すのは得意なのに、何を話せばいいのかまったく分からない。重い沈黙に耐え切れず、曖昧な笑みを浮かべながら言葉を探す。
沈黙のままジっと桐生だけを見続けていた切れ長の瞳が、ゆ…っくりと秋山を映した。
『桐生ちゃんと、どこ行くん』
一瞬、どこから声がしたのか分からなかった。
地獄の底から響いたのかと思った。
声音こそ何気ない様子を装ってたが、黒いマグマのような本質が滲み出ていた。
秋山は気付けばじっとりと嫌な汗をかいていて、ポケットの中のスマホで110番の用意をしながら、どうにかいつも通りの笑顔を作った。
『あ、ええと、近くの飲み屋に…』
『へぇ』
『真島さんもどうです?もし、よければ……』
言いながら、もし真島が頷いたら今すぐ帰ろうと心に決めた。
万が一乾杯することにでもなったらストレスで医者か警察を呼んでしまいそうだったからだ。
『ンー……』
真島は低い声で、少し睫毛を伏せた。
奇行のせいで霞みがちだが顔の造形は整っている。
黙っていれば男から見ても格好いいのだ。
周囲にはいつも派手な美人がいて、同じ顔をみるのは長くて半年ほど。とっかえひっかえしても刺されていないということはよほど扱いが上手いのだろう。秋山には到底真似できない器用さだった。
金があり、一時の夢を与えられるほどスマートで、誰もが手を伸ばしたくなる存在。そんな男が、桐生だけを見つめながら『や、ええわ』と言った。
『ほな、桐生ちゃんによろしゅう』
『え、なにか用があったんじゃ――』
『すまない、待たせちまった』
秋山は桐生の声に安堵して、『よかった。桐生さん、いまちょうど…』と真島が立っていた場所を見た。
『?どうした』
『…、……や、何でもないです…』
後味の悪い夢のような初対面。
真島の姿は、煙のように消えた後だった。
・・・
・・
・
嫌なことを思い出した秋山は軽く肩をすくめ、コーヒーカップを置いた。
「きっと真島さんは、獲物を追うのを楽しむタイプでしょう」
顎を撫でながらゆっくりと口を開く。
これは秋山が思考する時の癖だった。無精ひげをザリ…と摩りながら、宙に漂う言葉を選んで繋ぎ合わせるように話すのだ。
東城会の大幹部がまるで猟犬のような扱いだったが、何ひとつ間違っていないので桐生は黙って頷いた。
「ならこのまま桐生さんが逃げても、それこそ地の果てでも追ってくると思います」
「ああ」
「必要なのは、発想の逆転です」
「と、いうと?」
「桐生さんが追う側になればいいんです」
「俺が?兄さんを?」
「なにも真島さんと同じことをしろと言ってるんじゃないですよ」
怪訝な顔をする桐生に、秋山は安心させるような笑みを向けた。
両手を組みテーブルの上に乗せ、身を乗り出す。
「要は、彼を飽きさせればいいんです」
「そんなのどうやって…」
「真島さんって、色んな美人連れてるじゃないですか」
「ん?ああ、」
「彼女たちは真島さんが好きだから傍にいますよね?」
「そうだな」
「でも俺の知る限り誰も長続きはしていません」
「ああ」
「それは全員、真島さんに尽くしてるからです」
「おう」
「そして真島さんはそれが性に合わない」
「…うん?」
真島の女たちは、真島のために様々なことをしただろう。その献身をもってしても関係が続かないのは、真島の性分に問題があるからだ。
秋山は未だ理解していない桐生のために、分かりやすく言葉を選んで言った。
「だから、桐生さんが真島さんに惚れていると思わせればいいんですよ」
「――は?」
目も口もぽかんと開けた桐生がぱちぱちと瞬きをする。
そしてくしゃりと鼻に皺を寄せ、
「本当にそれしかねぇのか……?」
と苦々しい声を出した。
αの桐生からすれば無理矢理うなじを噛んできた真島は今まで以上に天敵で、間違ってもそんな真似はしたくないのだろう。
秋山はしかし、これが最善だろうと考えた。
北風と太陽なのだ。
いくらやめろと言ってもやめない相手にはこうするしかない。
犬に手を噛まれた時、無理に引き抜かずに奥に押し込めば案外アッサリ離すものだ。
「成功率は一番高いと思いますよ」
「ううん…」
桐生は、たとえば真島の横に座り、甲斐甲斐しく酒を注ぎ、あの男の太腿にでも手を置きながら微笑む自分の姿を想像して……
「、」
脳の奥がズキ…ッ!と痛んだ。
拒絶反応が酷すぎて、本当に頭が割れたかと思うほどの痛みだった。
自ら思い浮かべた桐生がこうなるのだ。きっと真島は泡を吹いて三日は目を覚まさなくなるだろう。
「……そう、だな…」
桐生は頭痛を堪えながら長考した末、秋山の策に頷いた。
「本当に嫌だな…」としみじみ呟きながら。
しかしマァ確かに効果はありそうだし、背に腹は代えられない。
渋々、本当に渋々だ。
長い長い溜息を吐いてから、低い声で言った。
「…………やるか」
「ええ」
顔を見合わせて頷く。
打倒真島。
逃げずに追い込む。
飽きさせるまで構い倒し、平穏を手に入れるのだ。
「やってやりましょう、『クラッシュ・アクション作戦』です」
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Webオンリーという締切があるでしょ!
息抜きしてる場合じゃあないよ!
と正気に戻ったのでここまで。