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    DL_gomi

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    DL_gomi

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    インセクター2斑猫が眠りについた頃、錦は食器を洗っていた。
    風呂場の洗面台で、手に持った円柱状の容器から水を出して、食器の汚れを流していく。
    水は、流石に引かれていないらしかった。
    錦が買ってきたと見られる袋が、洗面所の外に置いてある。その中には、ガスのボンベや、手持ち式の電灯があった。
    錦は、スーツのジャケットを脱いでいた。黒いジャケットの下は、赤いシャツを着ていた。
    腕を捲りあげて洗面台に立つ錦の、腰のあたりに何か下がっている。
    そこには、ホルスターに包まれた拳銃があった。
    ​───────ピピッ
    軽快な電子音が響いた。
    錦は、食器を洗う手を止め、タイルの壁にかけていたタオルで水気を拭う。
    ズボンのポケットに手を差し込んだ。
    ​───────ピピピッ
    電子音。
    錦が取り出したのは、小型の携帯端末だった。
    端末の画面には、電波が通っていることを示すアンテナのマークが表示されている。
    錦は、端末を耳元に当てた。
    通話が開始される。
    「ハァイ、錦。元気にしてる?」
    通話越しに響いてきたのは、若い女の声だった。
    「僕とお話しようよ、忽然と姿を消した賞金首【斑猫】を取り巻く今の状況を!君にとっても……有意義だと思うよ!」
    賞金首【斑猫】。
    聞こえてきた科白に、端末を握る錦の手が強ばった。
    声の主は、楽しそうに続ける。
    「悪名高い賞金首、斑猫(Tiger Beatle)は死んだと言われていた。しかし、死体は上がっていない。ここは何でもありの世界だ、彼はまだ生きていると……一部のバウンティ・ハンター共の間で話題になってるよ」
    「……まさか」
    錦は、低い声で笑い飛ばした。
    斑猫に向けていた穏やかな笑みは消え、冷徹な顔がそこにあった。
    「あれだけ派手に戦って、爆発騒ぎまで起こして撤退したんだ。そんな噂も、すぐに消えるさ」
    「それが違うんだなぁ。やっぱり、死体を確認しない限り賞金は無効にならないみたい」
    通話越しの女が、微かに笑った。
    人を小馬鹿にした笑いだった。錦は、眉を顰めた。
    「僕に頼んでくれれば、整形を加えた人間の死体とか用意できたのに」
    錦は眉間の皺をさらに深くする。
    「死体の工作くらいすぐにバレるさ。賞金首を確認する保安局の連中だって、馬鹿じゃない」
    錦は、シャツの胸ポケットに手を入れた。
    煙草の箱と、ライターを手に取っていた。鈍く銀色に光るそれには、炎を模したレリーフがデザインされている。
    錦は、端末を肩と首とで挟むようにして、慣れた手つきでくわえた煙草に火をつけた。
    煙草から薄い紫煙が立ちのぼると、ライターの蓋を閉じて仕舞いこんだ。
    「あ、錦。煙草吸ってる?」
    ライターの金属音を耳にしたのか、ヘレナが不満そうな声を上げた。
    「悪いかよ」
    「いやー。無いわー、無いよー錦。マナーが無いわ〜」
    「それより、どうなんだ。ハイエナ共は、この場所に勘づいているのか」
    「いいや、僕の見立てでは、まだ噂止まりかな」
    「【斑猫】の賞金に変わりは?」
    「無いよ。変わらずそのままさ」
    「……もうしばらくここで療養させようと思ったが、そろそろ拠点を移すことも考えた方が良さそうだな」
    錦は煙を吐いた。
    甘い香りが漂う。
    「よく持った方だよ。街にいくらでもいる保安局の犬共とハンターの目を掻い潜り2ヶ月。充分じゃない?」
    ヘレナはそう言うが、錦の顔は不機嫌そうな顔のままだ。
    「ねぇ、直接会おうよ。また良い仕事の話とかあるよ」
    「今、お前に用はない。そろそろ切るぞ、ヘレナ」
    「つれないなぁ」
    にべもなく言い放つ錦に、通話越しのヘレナ、と呼ばれた女は笑った。
    「そうだ、じゃあ……【斑猫】を追っているハンターの話とかなら、君も知りたいんじゃない?」
    「……場所の指定は?」
    「おっ、食いついた!そうだね、明日の昼間とかどう?2時くらいにア・ナンシーで待ってるよ、じゃあね」
    ヘレナは楽しそうに告げると、通話を終了した。
    無音になった端末を、錦は元の位置に仕舞う。
    錦は、寝ている斑猫の傍を通り抜けて、窓枠に肘を置いて外の景色を眺めた。
    濃い橙色の空は、まだらに浮かぶ紫色の雲に埋め尽くされつつある。
    後しばらくもしないで、この辺りは完全な暗闇になるだろう。
    窓枠の外側には、太い鉄格子が嵌められている。
    黒光りするそれは、汚れが少ない。
    斑猫には元々嵌められていた、と言っていたが、最近取り付けられたものであることは間違いなさそうだった。
    空の色が紫から藍へ、藍から黒へと変わりゆくにつれ、部屋が暗くなっていく。
    錦は、部屋の天井に吊るされている電灯のスイッチを入れた。
    これもまた、この部屋に元々備わっているものではなく後から取り付けられたもののようだ。天井の壁に、取り付けた跡がある。
    薄暗かった部屋が、鮮やかな人工の光で照らされる。
    規則正しい寝息を立てていた斑猫が、身じろいだ。
    「眩しかったかな」
    斑猫が眉根を寄せる姿を見て、錦は苦笑する。
    ヘレナと会話していた時とは違う、穏やかな笑みがまた浮かんでいた。

    賞金首(クリミナル)。
    文字通り、賞金のかけられた首のことである。
    数百年前の大国同士の核戦争により、世界は大きく変動した。
    舞い上がった大量の煤や煙は空を埋めつくし、放射能を含んだ黒い雨は大地を汚し、作物は実らなくなった。
    分厚い煙は空を遮り、気温は急激に下がりだした。
    一向に収まらない火災に、寒冷化。放射能の雨を逃れた土地の作物も、枯れていく。
    飢えて体力を奪われて死ぬ。放射能を浴びて、または怪我で、苦しみ抜いて死んでいく。
    いつしか地球は夥しい死体の中、煌々と戦争による炎だけが燃え続ける地獄となっていた。
    生き残った人類は長い時間をかけて、貴重な物資や食料を使い、汚染を逃れた土地を探して移り住んだ。
    生き残った人類によって、ようやく新たな国家が設立されたのが、数十年前だ。
    新たな生活様式が確立されつつあった中、いつからか武器を手にした無法者共の略奪が始まった。
    廃墟から見つけられた銃火器で殺し、集落を襲って食料や物資、時には人間を奪って去っていく。
    労働力として、娯楽として、人間までもが売買の対象となる異常な世界。
    自衛のために武器を取らざるを得ない状況の中、保安局が設立される。国家の期待を受けた保安局の元、取り締まりきれぬ犯罪者には、賞金がかけられ始めた。
    生死は問わない。または、死体でも可。生きている状態のみ。
    犯罪の程度によって金額は変動する。支払いは金でも、食料のこともある。
    しかし賞金稼ぎというのは、誰にでもできることでは無かった。
    賞金首がライオンなら、彼らを追いかける賞金稼ぎ(バウンティ・ハンター)はハイエナか野良犬だ。
    時には卑怯な手を使って賞金首を追い詰め、保安局に売り飛ばす。
    凶悪な賞金首を許せぬ正義の心を持った人間、そんなものは存在しない。
    一歩間違えれば己が賞金首になっていてもおかしくないような荒事が得意なならず者が、金稼ぎのためにやっている。
    正しくマカロニ・ウェスタンの世界だ。
    錦は、悩んでいた。
    記憶の無い斑猫に、どの程度世界情勢について伝えるべきか。
    気づけば、二本目の煙草が終わろうとしている。
    【斑猫】(Tiger Beetle)。
    街を荒らし、荒くれ者を倒し、時には利害の一致として下につき、破壊の限りを尽くした賞金首。
    それが『何かあったか』、一切の記憶を失ってしまった。
    錦は、煙草を灰皿に押し付けた。
    心に、漣が立っている。
    錦は、【斑猫】と共に行動していた。
    錦には賞金はかかってないが、【斑猫】と共に、随分非合法なことをやった。
    もっとも、この世界において法律などあってないようなものだが。
    怪我で記憶を失い、体にも支障をきたした【斑猫】を、錦はこの山奥の廃墟に運び込んだ。
    二ヶ月前のことだ。
    錦は、三本目の煙草に火をつけた。
    本当ならば酒が欲しかったが、この深夜に山を降りて買いに行く気はしない。
    腕の時計を見た。
    針は、日付が変わったことを示している。
    錦は、ヘレナの言ったことが気がかりだった。
    ヘレナは、【斑猫】の生存を嗅ぎ回っているハンターがいると言った。
    今の記憶も無ければ肉体も危うい斑猫では、ハンターに太刀打ちできないだろう。
    ずっしりとした物が体の奥に溜まっていく。それは煙か、それとも、不安か。
    やはり、何としても今のを外に出す訳にはいかない。
    だが、斑猫の意識がある程度回復した今、閉じ込めておくのも限度がある。
    【斑猫】の記憶が戻れば、金目的のチンピラもどきなど、怖くは無い。
    しかし、【斑猫】の記憶が戻ることも避けたい。
    錦は葛藤していた。
    拠点を移すとなれば、療養のためここにいると考えている斑猫は、警戒するだろう。
    せっかく信頼関係を構築しつつある今、台無しにしてしまうのは避けたかった。
    明日のヘレナの話自体では、自分が久しぶりに手を下すことも考えておかねばなるまい。
    錦は、窓枠を背にして、部屋に向き直った。
    腰のホルスターから、拳銃を抜き取る。
    自動式拳銃。
    マガジンを抜き取る。
    込められている弾は、一発減っていた。


    「この辺りに交通機関は無いのか」
    「無いね。あるとしても、山を降りてしばらく歩くよ」
    「そうか……」
    「にしても、よく食べるね。消化に良くないから、ゆっくり食べた方がいいよ?」
    呆れた、と言った顔で錦が目を向けてくる。
    その視線の先で、斑猫は机に置かれた茶色く香ばしい塊​───パンをちぎっては詰め込めるだけ口に詰め込んでいた。
    丸く大きな、固めのパン。ライ麦が使われているのか、外側だけでなく中身もやや茶色がかっている。
    元の大きさは、斑猫の顔くらいはあったはずだが、今はその半分も無い。
    パンを口に詰め込めるだけ詰め込み、頬が膨れる程になれば、缶詰に入っているスープで流し込む。
    念入りに咀嚼して飲み込んで、また次の食材を詰め込みだす。
    「腹が減っているんだ」
    「全く……これじゃまた買い出しに行かなきゃ行けないな」
    乾燥させた肉の塊を歯で噛みきった。久しぶりに味わう塩気と、動物の脂が舌を鋭敏にさせる。
    目が冴えるほど、ひどい空腹だった。
    錦が買い込んでいた食糧の、2日分ほどは食い尽くしただろうか。
    それでも、まだ胃は満たされない。
    まるで眠っていた間、食べることができなかった分を、今埋め合わせようとしている気分だ。
    肉体機能は、かなり回復した、ように思う。
    よろめくことなく歩くことが出来、突然意識を失うことも無くなった。
    会話でも、分からない単語で困ることは無い。もう本を与えられても、問題なく読むことができる。
    ここには日付の概念が無いが、二週間ほど経ったのではないかと斑猫は感じていた。
    寝て、起きて、軽く食事をして、錦と話をして、また眠る。そのルーティンを、十数回は繰り返した。
    その甲斐あってか、靄がかかったようになっていた頭の中も、かなり冴えてきた。
    「買い出しに、俺も連れて行ってくれないか」
    「駄目だよ。市街地ならまだしも、ここは山だ。君には負担が大きい」
    この問答も、何回目になるだろうか。
    錦は、自分が外に出ることを、未だ許してはくれない。
    「何故だ?俺はもう充分回復したと思うが。もう読み書きにも会話にも、肉体にも支障は無い」
    「だからといって、いきなり山に連れ出せるわけが無いだろう。ここには獣もいる。俺は君を危険な目に遭わせたくない」
    「お前が獣がいる山を一人で降りるのは危険じゃないのか」
    「俺は慣れている。でも、君は慣れていない。俺一人なら獣の縄張りで無いルートを見つけられるが、君を連れて足早に移動できる自身は無い」
    脳がクリアになっていくにつれ、斑猫はこの状況の異様さをひしひしと感じていた。
    「寝てばかりだと体が鈍りそうなんだ」
    「うーん……この建物の中だけなら良いよ」
    地面を踏むことは、未だ叶わない。
    錦は譲歩するとしても、この廃れた元ホテルから出したいという希望に対して、首を縦に振ることは無かった。
    せいぜい日が出ている時に、このホテルのフロアを歩くことを許す程度である。
    二回ほど、建物の中を散策したことがある。
    鉄筋コンクリート造りの、五階建ての建造物。
    上の階や下の階へは、階段で移動する。一階
    はフロントで、二階から五階が宿泊部屋になっている。
    フロアごとの部屋数は、それぞれ6つずつ。
    ただし人が住めるほどに整えられているのは、今自分と錦がいるこの部屋だけだった。
    相当長い年月放置されたのか、酷く損傷していた。
    内装は今生活している部屋と全く同じだというのに、あまりの変わりように驚いたものだ。
    一階から外へ出られるかと思ったが、その時は錦と共に見て回っていたので、やんわりと止められてしまった。
    ところどころ壁材が崩れて内部が露出し、蜘蛛の巣や埃があちらこちらを白く覆っている。
    その中央を進んでいった先に、分厚い扉があった。
    出入口だろう。
    その扉に言及しようとしたところで、錦は部屋に戻ろう、と斑猫に告げたのだ。
    錦に連れられて部屋に戻る直前、その扉を見た。
    鎖がかけられていた。南京錠が、三つほど取り付けられている。
    一時は薄れていた錦への警戒心が、膨れ上がった。
    錦は、自分と恋人だったと言った。
    自分が解らぬと言ったものは根気強く、丁寧に教えてくれる。食事を用意して、清潔な着替えを用意してくれる。
    それでも、この男は今だに得体がしれない。
    優男の仮面の下に、何かを隠している。
    錦は、頻繁にこの部屋からいなくなる。
    川に使う水を汲みに行ったり、食料を買いに山を降りたり。
    ボストンバッグ程はあるポリタンクに水を入れ、両腕に持って川から帰還する。とんでもない重労働だが錦は、いつも、汗ひとつかいていないのだ。
    この男は何者なのだろう、という問いが再びよぎる。
    自分の記憶は戻らず、唯一の外界との繋がりたる錦の人間性すらも掴めていない。
    不安は警戒に、警戒は焦燥へと変わる。
    斑猫は、乱暴にコップに入った水をあおった。
    喉をゆっくりと滑り降りていくそれは、不快な生温さを持っていた。
    「斑猫、顔色が悪いが……」
    錦が顔を覗きこんできた。その心配そうな顔を、苛立ちのままに、思い切り睨みつけた。
    錦の表情が強ばった。
    「お前は俺を閉じ込めて、何か企んでいるんじゃないか?」
    「それは違う。君の怪我を……」
    「怪我というが、俺の身体にはもうほとんど傷は無い。頭の包帯だって取れた。これ以上ここに監禁される必要は無いはずだ」
    「監禁だなんて、そんな!俺は君が心配なんだよ。不自由をかけてすまないとは思っている。でも、もう少し辛抱してくれないか」
    錦が笑みを浮かべる。自分を安心させようとしているのは理解しているのだが、今はただ疑わしくて仕方がなかった。
    「君は、まだ回復しきっていない」
    「俺は、そうは思わない」
    「外で倒れたら、どうするつもりだい?安静にしておくのが一番だよ」
    「倒れても、病院に運んで貰えるだろう。騒ぎが起きると不味いことでもあるのか」
    食い気味に返したところで、錦の表情に変化が生じた。
    変化といっても、瞬きひとつで見逃してしまうような、刹那の事だった。
    いつも浮かべていた、柔和な笑みが抜け落ちて、感情の失せた無機質な顔へと変わる瞬間を、確かに見た。
    そこで初めて、この錦という男の本質に触れたような気になった。
    「斑猫。……俺が、信用出来ないのか?」
    錦が、寂しそうに呟いた。
    一瞬だけ見た、彫刻のような無機質な顔は消え、憂いをおびた優男の顔がそこにはあった。
    肯定しようとして、思いとどまった。
    信用は、していない。疑念も晴れていない。
    それでも、ここまで自分に寄り添ってくれたこの男を、苛立ちのままに責め立てるのも気が引けた。
    「仕方が無いな。あんまり、やりたくなかったんだけど……今自分について覚えてることを、思い出して俺に伝えてくれないか」
    錦の指先が、自分の顔に伸ばされる。
    顔を掴まれるか、と警戒したが、その指先はゆっくりと頬の輪郭をなぞっていくだけだった。
    熱を持つ指先が、皮膚を掠めていくのがこそばゆい。
    「俺は……斑猫という名前で」
    錦の目的を測りかねるまま、言葉を絞りだしていく。
    錦の指が頬を滑り、首筋を辿る。鎖骨の窪みを掬うように擽られたところで、むず痒さに思わず口を噤んだ。
    「続けて」
    「俺は、滑落事故で怪我をして……長時間眠っていた。頭部を強く打ったため……きおく、が」
    首の当たりを擽っていた錦の右手が降り、器用にパジャマのボタンを外す。
    そのまま服の内側に潜り込むと、裸の胸を撫であげた。
    外気に触れていたため、やや冷たい皮膚の感触に、肌が粟立つ。
    心臓が、早鐘を打ち始めた。
    錦の、意図が分からない。
    元より得体のしれない男ではあったのだが、今の行動は特に理解が追いつかなかった。
    「記憶が?その次は」
    「記憶を、無くしていて……それで、お前……いや、錦に、たすけてもらった」
    「俺のことは、思い出せない?」
    「俺と、恋人だったと、お前から……」
    「俺の指も、声も、覚えていないの?」
    触れるか触れないかだった錦の手が、自分の肩を掴んだ。
    力が、強い。
    自分の腕よりひと回りほど細いのに、そのしなやかな腕は鋼鉄が中に仕込まれているのでは無いかと思うくらい、びくともしなかった。
    「ゆ、指?声?お前の……?」
    「今の君なら、一般的な恋人というものがどういう意味か、分かっているだろう?」
    困惑と緊張で、声が上擦る。
    肩に力が加わったかと思うと、視界が大きく変わる。気づけば背にシーツの感触を感じていた。
    恋人。
    互いに恋愛感情を持っていて、相思相愛である人間二人。
    理解できるようになった今、目を向けようともしなかった事実に思考回路がこんがらがっていく。
    ベッドに、上体を押し倒されている。
    鼓動も、呼吸も、緊張で速まっていく。背筋に、じわじわと汗が滲み出るのが分かる。
    顔が、熱を持っている。
    鏡を見ずとも、自分の顔が赤くなっているのが予想できた。
    錦の右の手が、剥き出しになった腹を撫でてズボンに入り込んだ時、情けなくも素っ頓狂な叫び声を上げていた。
    「に、錦!?」
    「続けて。どこまで思い出せているのか、答え合わせをしようよ」
    「だけど、これは……なんの意味が……」
    「俺が君を抱いていたのか、君が俺を抱いていたのか、覚えてないの?」
    「お、おれが!?お前を?何の話をしているんだ、錦!」
    「野暮な質問だな。分かってるくせに」
    「ひっ」
    太腿の辺りに手を這わされ、上擦った悲鳴が漏れる。
    薄く笑っている錦は、己の情けない様子を見て、楽しそうだった。
    尋ねれば、すぐに答えが返ってくる。または、自分でのんびりと思考する余裕がある。
    そんな安穏とした状況が長く続いていたせいか。目まぐるしく切り替わるこの僅か数分で、斑猫の頭はすっかり混乱してしまって、まともな思考が出来なくなってしまっていた。
    「覚えてないの?悲しいな。やっぱり未だ俺の事、忘れちゃってるんだ」
    錦はそう言って、大腿部を撫ぜていた手を引き抜いた。
    「それは……すまない……」
    「構わないよ。ゆっくり思い出していけばいいんだ。時間が埋めてくれるさ」
    柔らかく微笑んだ錦は、そう言って斑猫の髪を手で梳いた。
    鮮やかな赤毛は、錦の白い手の中でよく目立つ。
    幼い子供のように頭を撫でられるのが、何故か今は心地よかった。
    深いブルーの瞳と、目が合った。
    よく磨き上げた宝石だった。滑らかな白磁の中に、濡れ輝くサファイアが嵌め込まれている。
    美しい男だった。
    見慣れていたつもりだったが、こうして間近で見るとその美貌にははっとさせられるものがある。
    「俺とお前は……その、普段からこういうことを、していたのか?」
    「たまにね。気が向いたら、かな」
    柔らかいものが、唇に触れていた。
    錦の髪が垂れ落ちて、自分の顔の皮膚を擽っている。
    熱いものが、唇を割って侵入してきた。
    それは柔らかくも弾力があり、濡れていた。錦の舌が、自分の舌を絡めとっていた。
    体が強ばる。
    錦の舌はしばらく口の中を探索したかと思うと、あっさりと引き下がった。
    いきなり口を塞がれて、呼吸ができていなかった。新鮮な酸素を存分に吸っていると、錦がまた自分の髪を撫でた。
    「分からなくても、俺が教えてあげるよ。キスの呼吸の仕方も、ベッドマナーも、全部ね」
    「にし、き……」
    「俺は君の恋人だもの、当然だろう?」
    「こい、びと……錦と、俺が……?」
    「そう、恋人。君は斑猫、滑落事故で記憶を無くした、俺のパートナー。良いね?」
    頷くと、錦は満足そうに笑みを深くして己の乱れた衣服を元通りにして、ベッドに寝かせてくれた。
    やはりこの男は笑っている方が似合う、と思った。
    「ごめんね。日が暮れる前に買い物に行ってくるよ……ゆっくりおやすみ」
    錦はそう言って、額に唇を押し当てた。
    熱に浮かされてしまった脳は、ただぼんやりとその行為を享受している。
    うとうとと微睡む頭の中に、一筋の棘が刺す。
    体良く誤魔化されたのかもしれぬ、と嫌な想像がよぎった。

     ◆ ◆ ◆
    錦は、山道を歩いていた。
    名前も知らない草や木々が、好き放題生い茂っている。
    人が手入れをしなくなった山というのは、地震で崩れた食器棚の中身のように、荒れていく。
    歩いていくうちに、木々が少なくなっていく。
    さらに歩を進めると、疎らに建築物が見えてきた。
    人が往来している。
    死んだ鼠の死体を咥えていた野良猫が、足元を掠めて行った。
    辿り着いた街には、屋台が並んでいる。
    木の板やトタンで作られた、簡素な屋台だ。それでも、賑わいがある。
    通り抜けた背後で、小さな子供が、屋台で果物を買ってはしゃいでいた。
    いくつかの建物が並んでいる路地を通っていくと、しっかりとした造りのものを見つけた。
    汚れひとつ無い白い壁は、先程見かけた急拵えの屋台と雲泥の差である。
    看板が吊り下げられていた。
    木製の看板に、黒いペンキで「A・Nancy」と洒落たレタリングが描かれている。
    扉を開けて店内に入ると、等間隔で設置されたテーブルに数人の客が談笑していた。
    話に花を咲かせているのは、男女が多かった。年齢層は様々だが、皆、身なりが良い。
    裕福な人間にのみ許された場であることは、間違いがなかった。
    「コーヒーを頼む」
    近くで給仕を終えたウェイターに注文を告げ、テーブルの合間を通って待ち人を探す。
    時間をかけることなく、見つけることができた。
    ガラス張りの窓の傍で、退屈そうに景色を眺めている女がいる。
    「やぁ、錦。直接会うのは久しぶりだね」
    窓際のテーブルに座っていた女が、片手を上げてこちらを見た。
    小麦色の肌に、白い歯がよく似合う。短く切りそろえられた髪といい、快活そうな印象の女だ。
    丸く、つり上がった猫目がちの瞳は錦を真っ直ぐに捉えている。
    「お前が俺を呼び出すのも久しぶりだな、ヘレナ」
    錦は、ジャケットを椅子にかけて席についた。
    ヘレナは、もう注文を済ませたらしかった。
    ぱちぱち、と微かな音がする。
    グラスの中で揺れる鮮やかな緑。炭酸の泡が弾けるメロンソーダと、その上に乗ったバニラアイス。
    俗に言う、クリームソーダだ。
    冷気を放つアイスと氷は、この店に安定した電力供給があることを示している。
    「前に会った時は大変だったね。君から斑猫Tiger Beetleを匿うのを手伝ってくれ、と言われた時はびっくりしたよ」
    「お前と昔話をする気は無い」
    「つれないな。それとも、一人残してきた眠り姫が心配かい?」
    悪戯っぽく目を細めるヘレナを無視して、錦はコーヒーを口に含んだ。
    苦味と、僅かな酸味が広がり、香ばしい香りが鼻を抜けていく。
    「でも、眠っていてくれるなら嬉しいかな。彼、すごい乱暴者だったからね。高い賞金の分、恨みも買ってる」
    「……ああ。酷い男だったよ、本当に」
    「君も随分骨を折ったんじゃない?暴君の右腕とか、僕には出来ないや」
    「俺もそう思うよ。それでも、仕えたいと思うものが、奴にはあったのさ」
    「ふぅん?」
    ヘレナが、不思議そうに首を傾げる。
    「やっぱり彼とデキてたの?」
    「まさか。仕事のパートナー、それだけだ。それに俺と奴がママゴトみたいな恋愛模様を繰り広げられると思うか?」
    「それもそうだね、彼と君が三流メロドラマみたいな問答をしてたら笑っちゃうかも」
    ヘレナの下世話な質問を、錦は薄く笑って切り捨てた。
    笑ってはいるのだが、酷薄な笑みだった。触れればひやりと冷たさを感じさせ、指先をそのまま凍てつかせてしまうのではないかと思うほどに。
    「それより、本題に入れ」
    「ああ、そうだね」
    クリーム・ソーダに乗った真っ赤なチェリーをつまみあげようとしていたヘレナは、錦に急かされてあきらめた。
    斑猫Tiger Beetleの生存が、バレたかもしれないんだ」
     告げられた言葉に、錦は口に含んでいたコーヒーを噴き出しかけた。
    「斑猫が生きていることが、バレた?」
    「おそらくね。一部の鼻のきく連中は、もう嗅ぎつけてきてると思うよ」
    そう言ってヘレナは手にしたグラスのストローをくるくると回す。ヘレナのストローを掻き回す動きに合わせて炭酸がぱちぱちと弾け、ほぼ溶けて面影を残していないバニラアイスが緑のソーダと混じり、白く濁らせる。
    「で、襲ってくる奴の目星でもついているって言ってたよな。そいつの名前は?」
    「うーん………そうだねぇ……」
    錦の問いかけを受けてもなお、ヘレナはグラスのストローを回し続けるのをやめない。
    最早グラスのソーダとバニラアイスは完全に混ざり合い、淡いパステルグリーンの液体と成り果てている。
    ヘレナのその不躾な行動の意味を、付き合いの長い錦はよく知っていた。
    これは教えられない」のサインだ。これ以上聞き出すには、より多くの対価を支払わねばならない。
    対価はストレートに金の時もあれば、物品のときも、何かしらの仕事の手伝いのときもある。
    なるべく面倒な要求で無いことを祈りながら、錦は苦虫を噛み潰していた口を開いた。
    「何が欲しい?」
    その声に、ヘレナが顔を上げた。丸く大きな瞳が、錦の顔をはっきりと捉える。
    「そうだなぁ、ボク、仕事から帰ってきたばかりでろくなもの食べれてないんだよね。美味しいご飯が食べたいかなぁ」
    ヘレナの肩の上辺りで切りそろえられた髪が揺れる。上目遣いであどけない微笑みを浮かべる姿は天使のように愛らしく、女に慣れていない男なら、ころりと落ちてしまいそうだ。
    しかし錦は思う。このあどけなく可愛らしい顔立ちをした少女は、天使などではなく悪魔だ。
    「ここの会計を持てと?」
    「違うよ、これはデートだろ?なら男の君が負担するのは当たり前じゃないか」
    面倒くさい、といった表情を隠さない錦に対し、ヘレナはいけしゃあしゃあと言い分を口にする。
    「ボクは誰かに美味しいものをご馳走してもらいたい気分なんだよね。まぁ、今日は忙しいだろうから後でいいよ。とびっきりいい店に連れてって」
    語尾に♡マークのつくような甘えた声と、笑顔。錦は顔を顰めつつ、首を縦に振って了承の意を示した。
    「やったぁ。人のお金で美味しいご飯なんて久しぶりだなぁ」
    間延びした声と、手を合わせて喜ぶわざとらしい姿に錦は露骨に顔を顰める。
    そんな錦の様子に、ヘレナは眉を下げて小さく舌を出す。
    「ごめんごめん、話だっけ?君の言う通り、だいたいの目星はついているよ。おそらく斑猫について嗅ぎ回っているのは『首螽斯』だ」
    「首螽斯………」
    ヘレナの出した名前を錦は反復しつつ、聞いたことがないか思考する。
    噂だけは耳にしたことがある。
    ここいらで活動しているバウンティハンターで、つい先週も逃亡していた賞金首クリミナルの『竈馬』を捕えたとかどうとか。
    「最近名前を上げ始めたバウンティハンターさ。標的の生け捕りが条件なら生きたまま連れてくるが、生死を問わない、となっていたが運の尽き。どこまでも追い詰めて首を切り落とす。前には、地下の倉庫に隠れていた標的を見つけ出したとかあったかな。とにかく執念深く……」
    「前置きはいい。そいつの特徴を教えてくれ」
    楽しそうに語り出したヘレナを、錦の淡々とした科白が遮った。
    中断されたヘレナは不満そうに口を尖らせる。
    「特徴………特徴かぁ。あまり分かっていないんだよね」
    「おい」
    錦が咎めた。
    ヘレナはそれを受け、頬をややふくらませる。
    「標的が気絶させられてたり、死亡していることが多くて目撃情報が少ないんだ。君も聞いたことが無いだろう?どちらかと言うと、首螽斯という名前だけが独り歩きしているような印象があるね」
    ヘレナは言葉を切り、グラスに半分ほど溜まっていたソーダをストローで飲み干す。
    「おそらくどこかのバウンティハンターのギルドに属しているだろうとは思うんだけど……それにしたって情報が少ない。僕が聞いたことがあるのだって、2m以上ある大男だ。とか、脱獄した死刑囚で血に飢えてる。とか、胸に七つの傷がある。とか。信憑性に欠けるものばかりだからね」
    「誤った情報が意図的に流されている可能性があるとでも?」
    「うん。ここからは僕の予想だから、話半分で聞いておくれ」
    錦はぬるくなったコーヒーを啜りながら、壁にかけられている時計を見やる。
    針は、4時を回ったところだった。
    そろそろ日も暮れる。帰りたいところだが、ヘレナの憶測とやらを聞いてからでも良いだろう。
    ヘレナの推測は、当たることが多かった。
    「僕は本来の首螽斯は、小柄な男だったり、女性だったりするんじゃないかと思うんだ。首螽斯という名前の恐ろしい男だという噂を先行させることで、誤ったイメージと異なる首螽斯本人を行動させやすくする。だって、目撃したという確かな情報が無いのに、まるで見てきたかのような噂ばかり流れているのは、異常じゃない?」
    「ふーん………なるほど。まぁ、一応頭に入れておく。じゃあ、俺は帰るから」
    「あ、ちょっと待って」
    椅子から立ち上がり、脱いでいた黒いジャケットを羽織って帰ろうとする錦を、ヘレナが呼び止める。
    「何だ?目星はついて、予想も聞いた。これ以上お前に用は無いだろ?」
    「あるよぉ。ボク、ケーキ食べてから帰りたいなぁって。だから、ね?お会計はまとめてボクが払っておくからさ」
    はい、とヘレナは両手を錦に向けて差し出した。
    俺の金だけどな、と錦は胸中で毒づきながらも、黙って財布から紙幣を数枚抜き取ってヘレナに手渡す。
    「あれ?こんなにくれるの?」
    紙幣を受け取ったヘレナは、きょとんとした顔で受け取った紙幣を数え出した。
    「お前のことだから交通費も寄越せとか言うんだろ」
    「そこまで貰うつもりは無かったけど……」
    「なら返せ」
    「有難く頂戴致しま〜す。スマートな彼氏を持ってヘレナちゃん感激〜」
    いそいそと紙幣を懐にしまうヘレナを見て、錦はため息をつく。
    「何度も言ってるが、俺はお前の彼氏じゃない」
    「やだなぁ、僕も錦が彼氏とか嫌だよ。顔と金払いは良いけど束縛激しそうだもん」
    「お前っ……」
    掴みかかりたくなる衝動をどうにか抑え、長めに息をゆっくり吐くことでしまい込む。
    ヘレナの喋りのほとんどは冗談だ。真に受けるだけ無駄で、その度に反論や訂正をしていけばこちらが疲弊する。
    「交通費までくれたからサービスして上乗せしちゃおうかな。『首螽斯』なんだけどね、実は今この街に来ているらしいんだ」
    「はぁ!?お前、そういうことは早く言えよ!」
    さらりと口にされたとんでもない事実に、錦はここがカフェだということも忘れ、素っ頓狂な声を上げてしまう。
    気づいたときには既に遅し。突き刺さる周りの視線に、居心地の悪さを感じながら、咳払いをして誤魔化した。
    対するヘレナは、にこにこと満面の笑みを浮かべている。
    「いや〜確証が無かったし?それに、聞かれてなかったからね。けど、先週『首螽斯』に捕らえられた『竈馬』の引き渡し地点がこの近くだったから、その足でここに立ち寄っていてもおかしくないかなと……」
    両手の甲に顎を乗せて錦を見やるヘレナは、とても楽しそうだ。
    いつもそうだ。この女は、人が困っていたり、慌てていたりするのを上から見るのが好きなのだ。
    「それじゃ錦、頑張ってね!」
    「くたばれ」
    「ひっどーい!」
    本当なら一発くらい引っぱたいてやりたかったが、いくら性悪女だといっても、流石に大の男が華奢な少女に暴力をふるうのは絵面が悪い。
    それに、一人残してきた斑猫も気がかりだ。
    錦は呻くようにヘレナに暴言を吐き捨てた後、足早にカフェを後にした。

    ◆ ◆ ◆

    無人の部屋を、好ましくないように思えてきたのはいつからだろうか。
    外から差す太陽の光は、眩しいほど明るいのに、がらんとしたこの部屋は物寂しい。
    錦は、買い物に行くと言った。
    本当ならば自分もついて行きたかったのだが、狼狽えているうちに有耶無耶にされてベッドへと押し込まれてしまった。
    肌で感じた錦の感触は、鮮明に思い起こされる。
    己に触れた指も、声も、唇も、舌も、今ならば覚えている。
    独りでぼんやりと天井を眺めていると、脳がひとりでに記憶を反芻し、それについての思考を始める。
    今は、窓から差し込む風を感じながら、錦が自分に触れた時のことを思い出していた。
    困惑と羞恥こそあれど、興奮はしなかった。
    確かに、錦は美しい。
    面差しだけでなく、あの黒いスーツを着こなしたしなやかな肉体の、細い指先までも美しい。
    野生に生きる雄の孔雀のような、何をしても嫌味なほどに繊細な美が彼にはあった。
    それでも、彼を抱けるかと言われたら自分はすぐに首を縦には振れないだろう。
    ​─────本当に、錦と俺は恋人だったのだろうか。
    疑念の芽が、成長を始めた。
    芽はみるみる成長して枝分かれし、葉を増やし、天に向かって伸びていく。
    花を咲かせ実をつけて、果実は熟れて腐り落ちて心に影を生む。
    錦は自分を監禁しているのではないか、との疑問がまた生まれ始めた。
    一人でいるのがいけないのだ。
    会話も刺激も無く、ただぼんやりと窓の外を眺めているだけでは、不安の樹に水をやり続けてしまう。
    斑猫は寝返りを打った。
    身体の向きが変わり、差し込む陽光が背を照らす。
    ふと、顔を洗おう、と思った。
    嫌な想像ばかり巡らせてしまう頭を切り替えたかった。
    部屋の隅にあるポリタンクに、使用出来る水が溜めてあるのは知っている。
    錦が、そこから水を取り出して火にかけ、煮沸して使っているのをよく見た。
    顔を洗うくらいならば、煮沸せずとも大丈夫だろう。
    そう考えてコップを持ってポリタンクに近づき、持ち手を手にした所で、違和感が棘を刺した。
    軽いのだ。
    ポリタンクは、小さな子供ならば詰め込んでしまえる程、充分な大きさがある。
    その、八割ほどが水で満たされている。だと言うのに、腕は支障なく片腕でポリタンクを持ち上げてしまう。
    そういえば、己の腕は、かなり筋肉質だ。
    気にもとめていなかったが、錦の腕よりひと回りは太く、強靭な筋肉がついている。
    しゃがみこんで、ポリタンクを傾けてコップに水を注いだ。
    不安定な体勢でも、ポリタンクを移動させるのは容易い。
    拭えぬ違和感を抱えたまま、水の入ったコップを持って洗面台に向かう。
    鏡があった。
    そこに、知らない男の顔が映し出されている。
    これは、斑猫という男なのだと自分に言い聞かせて、掌に出した水で顔を洗う。
    滑落事故で記憶を失った、斑猫という男だ。
    恋人は錦。二人で行動して、事故に遭った。
    錦はそんな自分を介抱し、体調が安定するまで待っている。
    肉体は回復しているが、意識を失ってしまうため、大事をとって安静にしている。
    ​─────本当に?
    胸を刺す棘が、じくじくと痛む。
    濡れた顔で、鏡を見た。
    燃えるような赤い色をした、髪と瞳。様々な血が混ざりあったことを予想させる、精悍な顔立ち。
    知らない顔だった。
    よく見てみれば、首も太かった。
    肉が詰まっている。僧帽筋の張りは、少し叩かれたくらいではびくともしないだろう。
    腕を見る。
    鏡の男も、反対の腕へ視線を落とす。
    拳を握って力を込めると、皮膚の下の筋肉が隆起するのが分かった。
    ​自分の体だ。それは、間違いない。
    ただ、何かが欠けている。
    視覚や聴覚と言った五感は問題なく機能し、肉体にも多少の不自由はあれど五体満足である。
    それでも、記憶の他にもこの体には何かが足りないという感覚は消えなかった。
    原因の分からぬ違和感に眉を潜めていると、鏡の男が、薄く笑ったような気がした。
    この男は自分とは違うのだから、そういうこともあるだろう、と思った。
    男が、さらに笑みを深くした。歯を見せて笑っている。
    言葉は聞こえないが、明らかにこちらを馬鹿にした笑みだった。
    厭な気分だ。
    ​─────錦は、俺を騙している。
    直感が閃いた。
    誰かにそう語りかけられたかのように、頭の中に突如として生じた思考。
    そんなはずは、ない。
    錦は、己のために尽くしてくれている。
    外出を許してくれないのも、全ては己のためなのだ。唐突に意識を失う人間を警戒するのは、当然のことだ。
    ​錦の腕と、唇の感触が反芻される。
    早く帰ってきてくれ、と喚きそうだった。
    膨れ上がる不安を、大丈夫だと言って取り払って欲しかった。
    鏡の男が、囁いた。
    ​───────『手を貸してやろうか』
    意識が、不可視の腕で掴まれて、引き摺り出されていく。
    もう何度目かも分からない失神の中、鏡の男の囁きは、自分の声だったと気づく。
    眠りにつく刹那、自分の口から、げらげらと厭な笑い声が響き渡る感覚があった。
    それが幻覚なのか、現実なのか、今の己では判別出来なかった。
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