インセクター3雨が降ったのか、空気が湿っていた。
じっとりとした厭な空気が溜まった薄暗い路地裏で、三人程の大柄な男がたむろしている。
皆、何か同じ組織に属しているのか、同じ茶色のつなぎを着ていた。
男達の足元に、何かが転がっていた。
薄汚れているが、人間だった。
オレンジのラインが入ったスカート。肩につく程のセミロング。
歳は、十四ほどだろうか。
幼さなの残る、可愛らしい顔立ちをしている。笑った顔が見てみたくなる少女だった。
しかし、少女───リカエナはただ虚ろな目で地面に蹲っていた。
「久しぶりの収穫だ。保安局に嗅ぎ付けられる前にさっさと運んでしまうか」
顔に傷のある強面の男が、リカエナを土足の爪先で小突いて転がした。
リカエナは、そのような屈辱的な扱いを受けてもされるがままだった。
仰向けになって現れた彼女の両手と両足は、麻縄で縛り上げられている。
鷲鼻の男が、リカエナの近くに屈みこんだ。
男は、リカエナの頬が赤く腫れていることに気づいた。
「馬鹿、商品に傷をつけるなと言っただろうが」
「へへ、すいやせん。突然叫んだもんで、つい」
「まったく……使えねぇ」
男が、背後にいた男に向けて声を荒らげた。
男は、肩を竦めて卑屈に笑った。顔にできもののある、醜男であった。顔は浮腫んだようになっていて、盛り上がった肉と肉の切れ間から細い目が覗いている。
鷲鼻の男は、舌打ちをしてリカエナに向き直る。リカエナの頬を掴んで、じろじろと見回した。顔の腫れを確認しているようだった。
労りは、そこには無い。
ただ、調度品を鑑定するかのように、淡々とした目で少女の怪我を確認している。
リカエナは、黙って虚空を見つめていた。
叫びすぎて、涙も喉もすっかり枯れてしまった。
腫れた頬が痛い。助けを求めようと声を上げた時に、殴られたのだ。
口の中は鉄の味で満たされていた。
突然襲った恐怖と暴力に、精神は思考することを放棄していた。
植え付けられた痛みと、逃げられないという事実が、脳に諦観を植え付ける。
身体も、あちこちが痛んでいる。
服も、靴も地面に転がされた時に汚れて、土まみれになっていた。
お気に入りの靴だったのに、と胸が傷んだ。
帰路についていた時、にわか雨が降ったのだ。
傘を持っていなかった。それに、今日は大好きなツヤツヤ光るオレンジ色の靴を履いていた。その靴が濡れるのが嫌で、急いでいた。
近道となる路地裏を足早に駆け抜けようとした所で、建物の隙間から伸びた腕が自分を掴んで物陰へと引き摺り込んだ。
驚いて、たすけて、と叫んでいた。
そこで、殴られた。
頬を伝わる強烈な衝撃は自分の意識をも飛ばしてしまったようで、頭が真っ白になってしまった。
あれほど人攫いには気をつけろと言われていたのに、とリカエナは己の迂闊さを悔やんだ。
「まぁ、このくらいならすぐに治るだろう。若いしな」
「へへへへ、若い女ですからね。高く売れますぜ」
鷲鼻の男が、立ち上がって顎先でリカエナを示した。
この三人の中では、鷲鼻の男が立場が上であるようだった。
できもののある男が、厭らしく笑ってリカエナに近づいた。
リカエナの口元に、布で猿轡を嵌めた。これで喋ることも、舌を噛んで自害することも出来なくなった。
男は、手に大きなずた袋を持っていた。口を開けると、傷面の男がリカエナを抱え上げてずた袋の中に押し込んだ。
視界が、暗闇に変わる。ずた袋の網目から差し込む僅かな光を受けながら、リカエナは夢を見ているかのようにただぼうっとしている。
これが、夢だったら良かったのに。
リカエナは目を閉じた。眠って、目を覚ましたら、いつも通りの日常が待っていると信じて。
それでも、疼痛を訴える頬は、紛れもなく現実であった。
「よし、帰るぞ。バイヤーの所に行かなきゃならねぇ」
「へい」
リカエナの入ったずた袋を持ち上げようとした所で、男がその手を止めた。
空気を確保するためか、僅かに空いた袋の口から、リカエナは外の状況を少しだけ伺うことができた。
男達が路地裏から自分を運びだそうとした瞬間、反対側からやってきた人影が、男達の前に立ち塞がったのだ。
異様な人影だった。
裾の長い、砂色のコートをまとっていた。
風を受けても、その裾ははためかない。生地が分厚く、重いのだ。
顔に、長い布をヒジャブのように巻き付けていた。そのせいで面差しは、判然としない。
露出しているのは、目元だけだ。
「この男を、知らないか」
男の声だった。
布で覆われているからか、その声はくぐもっていた。
リカエナは見ることが出来なかったが、覆面の男は何かが描かれた紙を男達に見せているらしかった。
ため息が聞こえた。鷲鼻の男のものだった。
「知らないやつはいねぇだろう。不愉快な顔だ……。だが、そいつはとっくに死んだ。そんなことは誰もが知ってる」
「ほら、答えてやったんだからさっさと消えろ。俺たちは荷物の運搬で忙しいんだ」
傷面の男が、覆面の男の肩を強く押した。
突き飛ばす勢いだったが、男は身動ぎもしなかった。傷面の男が、顔を顰める。
荷物の運搬、と聞いてずた袋に視線を落としていた。
袋の口に顔を押し付けて状況を伺っていたリカエナと、ずた袋を見つめる男の、目があった。
慌てて、男がずた袋の前に体を置いて隠した。
リカエナは、うつ伏せのまま猿轡をされた口を地面に擦り付け始めた。
賭けだった。
無視をされる可能性もあるし、逆上した男達に酷い目に遭わされる可能性もある。
それでも、目の前に現れた蜘蛛の糸を手放したくなかった。
顎が、頬が、ずた袋の毛羽立った繊維で傷つく。それでも、何度も擦り付けた甲斐あって、やっと猿轡が緩んで口を露出することができた。
「たすけて!この人達人攫いよ!助けて、お願い!」
「おい!」
声の限り叫んでいた。縛られた手足を滅茶苦茶に動かして、自分の存在を伝えるべく袋の中で暴れる。
腹に衝撃を感じて、痛みと共に動きが止まる。
外から、蹴り付けられたらしかった。
そのまま二度、三度と蹴り付けられる。爪先が腹の柔らかい部分にめり込んで、呼吸が詰まった。
「おい!さっさと行け!こいつは俺がどうにかする!」
傷面の男が叫んだ。それを受けて、リカエナを蹴りつけていた男がずた袋を抱え上げて走り出した。
駄目だった。
二人が足止めしているうちに、自分は連れて行かれてしまうだろう。
売られたらどうなるのだろう。酷い扱いを受け続けるなら、ここで死んでしまった方がましでは無いか。
猿轡が緩んだ今なら、舌を噛むことは可能だ。
死を覚悟した所で、リカエナは己の身体が一瞬宙に浮いたのを感じた。
落下するかと思ったが、直ぐに、受け止められた。
今までの乱暴な扱いではなく、優しい受け止め方だった。
ゆっくりと、身体が地面に下ろされる。
真っ白な光が目を灼く。
袋が、こじ開けられている。ほんの少しぶりの外の景色を見て、枯れたと思った涙がまた流れ出してきた。
覆面の男が、リカエナを見下ろしていた。
男は黙って、リカエナの縄を解き始める。
が、分厚い手袋を嵌めているため、手間取っているようだった。
「あ、あの……」
男の背後に、自分を捕まえた男達が転がっているのが見えた。
皆、白目を剥いて地面に倒れている。
男の仕業だろうか。
それにしては、乱闘があったような気配は無かった。
リカエナは、おずおずと口を開いた。
「助けて、くれたんですか……」
「……」
男は、黙って頷いた。
手袋をつけたまま縄を外すことは諦めたのか、男は手袋を外して再度縄解きに挑み始めた。
その様子がおかしくて、リカエナは微かに笑ってしまっていた。
「……何か、おかしいことでも」
「ごめんなさい、始めから手袋を外せばいいのにと思って……」
「……そうなんだ。僕も、そう思った」
訝しそうに見つめてくる覆面の男に、リカエナは若干の罪悪感を覚えながら答えた。
男は、顔を顰めた。
「いつもこうなんだ……結果を考える前に身体が勝手に動いてしまう」
くぐもってはいるが、声に反省の色が滲んでいた。
男が、麻縄を解き終わった。締め付けられていた肌に、赤く縄の跡が残っている。
手脚に、開放感が戻ってきた。
「立てるかい?人が多い所まで、送っていこう。僕が間に合ったから良かったけど、こういう人気の無い道を通ってはいけないよ」
「は、はいっ。立てます……あっ」
立とうとして、尻餅をついてしまった。腰が抜けてしまっていたのだ。
覆面の男が、目を細めた。
「男に触られることが怖くなければ、おぶって行こう。僕の背に乗るといい」
男は屈みこんで、リカエナに背を向けた。
戸惑いつつその背に跨ると、男はゆっくりと立ち上がった。
異様な風体にそぐわない、優しい男だ。
彼は、何者なのだろう。
男三人を、あっという間に倒してしまった。
リカエナがぼんやりと思考していると、覆面の男が歩を止めた。
「困るんだよな、こういうことをされちゃ───」
低い声が響いた。
男が、覆面の男の前にぬっと立ち塞がった。男は、伸びてしまっている三人と同じ茶色のつなぎを着ていた。
もう一人いたのだ。
体格が、覆面の男の二倍はある。
服の上からでも分かる盛り上がった筋肉に、眉の無い額。
鋭い瞳に、リカエナの口から微かな悲鳴が漏れた。
薄れていた恐怖が、また戻ってくる。覆面の男に、強くしがみついた。
「保安官じゃねぇな、賞金稼ぎか」
巨体の男が、覆面の男を見て嘲るように言った。
「そうだ。人を探している。教えて欲しい」
「……ハイエナが一丁前にヒーロー気取りか?蛮勇は身を滅ぼすぜ」
覆面の男は物怖じするが、巨体の男はそれを無視して距離を詰めてきた。
「ごめんよ、君を降ろす時間が無い。ここからかなり揺れる!しっかり僕を掴んで、離れないように」
「は、はい!」
覆面の男が、早口でリカエナに叫ぶ。リカエナは、渾身の力で男にしがみついた。
巨体の男が、拳を振りかぶるのが分かった。
覆面の男は、地を蹴って退ることで躱す。
巨体の男の拳に、光るものがあった。
大振りの指輪を四つ繋げたような形の、メリケンサックが嵌っていた。
受ければ、ただでは済まない。
再びの追撃が、覆面の男の顎を掠めた。
男は首を仰け反らせて避けるが、巻き付けた布が男の反射についてこれなかった。
男の拳に巻き込まれて、布が緩む。
布の下にあった、短く切られた黒髪が露出した。
覆面の男が、低く腰を落とした。そのまま、地を蹴って跳躍する。
リカエナは、目を疑った。
たったひとっ飛びで、巨体の男を飛び越すほどに跳躍したのだ。
そのまま、覆面の男は体を捻る。鞭のような靭やかさで、腰の捻りと共に蹴りが巨体の男の顎に炸裂した。
何かが砕ける、嫌な音がした。巨体の男の、顎が砕けたのだ。
先程殴られた時とは比べ物にならない衝撃が、男の体を通じてリカエナを叩く。
リカエナは、目を瞑って男にしがみつく力を強めた。
巨体の男の身体が、ぐらりとかたむく。そのまま、重力に導かれて落下した。
男の身体が地面に転がるより先に、男とリカエナは地面に落下した。
「そのまま、目を閉じていなさい。酷い光景だ」
瞼を開こうとした所で、男が止めた。
血の混ざったピンク色の泡を吹いて、巨体の男が悶え苦しんでいる。
リカエナはその姿を見ることは無かったが、両耳に残る生々しい苦悶の声は色濃く染み付いた。
「……しまった、質問の答えを貰っていない」
黙って歩き出した男は、ぽつりと呟いた。
緩んだ布は垂れ落ちて、隠していた男の素顔と髪をすっかりさらけ出してしまっている。
リカエナが目を開けて真っ先に目に入ったのは、男の旋毛だった。
「誰か、探しているんでしたっけ?」
「ああ……この男さ。探しているんだ」
男はそう言って、片手でコートの懐に手を突っ込むと、折り畳まれた紙をとりだした。
広げて見れば、大きく印刷された、WANTEDの黒字。Dead or Aliveという一文の下に映る、男の顔写真。
賞金首の手配書だった。
「斑猫……」
「君のような娘でも知っているのか」
無意識に呟いた名前に、男が反応した。
「ええ、だって、この街は斑猫がいなくなる前、最後に目撃された場所ですよ。皆、怯えていたんです」
「そうか……大変だったな」
「でも、死んだって聞きました。大きな爆発騒ぎもあって、生きてはいないだろうって。それでも、お兄さんは、探しているんですか?」
「ああ。僕は、賞金稼ぎさ。それも、高額の賞金首専門のね。少しでも生きている可能性があれば探してみたいんだ」
人通りの多い路地が近づいてきた。リカエナは、男に尋ねる。
「……お兄さん、また会えますか?お礼がしたいです」
「それはできない。僕は、ハンターだ。結果的に君を助けることはできたが、本来はコソコソ犯罪者の首を狙うハイエナ紛いの存在だ。恨みも買っている。……二度と会わないに越したことはない」
男は、首を横に振ると、地面にしゃがみ込んだ。
「もう、大丈夫だろう。僕は、君の家には行けない。ここからは、気をつけて一人で帰るんだ、いいね?」
背から降りて、改めて見た男は、口にガスマスクのようなものを嵌めていた。
声がくぐもっていたのはこのためか、とリカエナは納得した。
「はい、本当に………ありがとう、ございました」
リカエナは、頭を下げた。
また、いつもの帰り道に戻れるとは思わなかった。
嬉しくて、安心して、また涙が零れる。
男が、笑う気配がした。
優しい笑いだった。咄嗟に顔を上げると、男の姿は影も形も無くなっていた。
跳んで移動したのだ、とリカエナは思った。
自分一人抱えて、二メートルは優に超す跳躍が可能なのだ。身軽になったなら、もっと高く跳べるのだろう。
リカエナは、人通りの方に進んだ。
路地裏から出てきたボロボロの少女を見て、何人かがぎょっとしたり、心配する声をかけてきた。
それを笑顔でありがとう、もう大丈夫、と躱して、リカエナは帰り道につく。
リカエナが賞金稼ぎの『首螽斯』の存在を人から聞くのは、もう少し先のことである。
◆
俺は何者だ?
意識を取り戻して、その問いが頭を占めるようになってから、もう随分と時が流れた。
記憶のない己にあれこれと世話をしてくれる錦という男は、世間の情勢や、仕組みについては教えてくれる。しかし、己がどういう人間だったか?という疑問については、常にはぐらかされていた。
長いこと意識が無かったのは確かだ。
錦の話では、二週間ほど昏睡状態だったと言うのだから、酷い怪我でも負っていたのだろうか。
しかし、その割には己の体には、ほとんど外傷は見られない。
錦は、寝ている間に怪我は治ったと言っていた。
事実、目を覚まして直ぐは、額に包帯が巻かれていたが、過ごすうちに治癒していった。
矛盾は、無い。
知識は、ほぼ回復したといっていい。蛇口を捻れば水が出ることも、買い物の仕方も、交通機関の使い方も、知っている。
だからこそ、自分に関する記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているのが耐えがたかった。
自分の名前らしい『斑猫』、という呼び名でさえ馴染みが無い。
お前の名前は『斑猫』だと教えられたから『斑猫』と呼ばれる度に応じているだけで、事実、何も分かっていないに等しい。
『斑猫』という男は何を好み、何を嫌い、何をして過ごしていたのか。
蛇口を捻れば水が出ることは知っていても、その水で今まで何をしていたか、ということが分からない。
その水を飲んだのか、それとも顔を洗ったのか。全く思い出せないのだ。
まるでサイズの合わない靴や服で過ごすことを強いられているような気分だ。
ふと、頭に金槌で釘を打ち込まれたかのような、鋭い痛みが走った。
激しい頭痛に、斑猫は思わず額に手を当てた。
昔の自分を思い出そうとすると、こうやって頭痛や、目眩に見舞われる。
酷い時は、そのまま気絶してしまうこともあった。
何なら今も、気絶して目を覚ましたばかりだ。
気絶する前のことは、もっぱら覚えていない。
自分で眠気に任せて眠る分には覚えているのだが、失神した時はその前後数分の記憶が抜け落ちている。
そんな調子であるから、錦は自分に外に出ないよう何度も念を押していた。
外で倒れられれば騒ぎになるし、やれ病院だ、警察だ、ということになりかねない。
理屈では分かっているのだが、なぜか自分は、錦が自分を外に出したくないからそう言いつけているような、そんな気がしていた。
斑猫はベッドから身を起こした。
しばらく横たわっていたからか、体のあちこちが強ばってしまっていて、上手く動けない。
ベッドの縁から足を下ろして立ち上がろうとして、思わずよろめいた。
頬を冷たい風が撫でる。
風の吹いた方向へと目を向けると、窓が僅かに空いているのが分かった。
斑猫は窓枠の近くに歩み寄る。
風をはらんだ白いカーテンがまとわりついてくるのを乱雑に引き剥がし、窓枠に指をかけ、全開にする。
窓に嵌められていたはずの格子は、無くなっていた。
錦は外せなくて困っていると言っていたが、自分が眠っている間に外すことに成功したのだろうか。
陽はほとんど沈んでいて、空は藍色から薄暗い紫色のグラデーションを描いている。
鉄格子に阻まれていない外の景色を見るのは、新鮮だった。
風を受けて、ざわざわと木々の葉が漣を立てている。
錦は、この山には獣が出ると言っていた。
確かに、これだけ自然豊かな場所では、獣がいてもおかしくない。
川のせせらぎが聞こえるかと思ったが、聞こえなかった。
錦が普段汲んでいる水の水源は、もっと離れたところにあるのだろうか。
そんなことをつらつら考えながら眺めていると、森を超えたところに、いくつかの建造物が立ち並んでいるのが目に入った。
明かりがある。生活圏の存在を感じた。
遠く離れた街の景色を捉えた途端、胸がかき乱されるような焦燥が生まれる。
心臓の鼓動と、呼吸が早まっていく。
このまま窓を乗り越えれば、外に出られるのではないか。
見たところ、そこまで高さも無いようだ。
窓枠に足をかけて、地に降りて、そのまま外へと駆け出してしまいたい。
胸の内を渦巻き出した衝動のままに窓枠を掴んだところで、斑猫は、自分の着ている服が白い上下のパジャマであることに気づいた。
この格好では、どこかの病院に入院している患者が脱走してきたと思われるかもしれない。また、そうと思われずとも、人目を引くことは間違いない。
何か、着るものは無いだろうか。
部屋の隅にある木製のクローゼットを開けても、ハンガーにかけられているのは細身のジャケットやスーツばかりで、自分の体格に合いそうなものは見当たらなかった。
これらはどれも錦の服だろう。
気が引けるが、破けるのを覚悟で袖を通すしかないだろうか。しかしスーツはどれも質が良い生地のものばかりで、勝手に拝借するのははばかられる。
もう少しサイズが大きく、簡素な衣服が入ってはいないか。
引き出しを開けて漁っていた斑猫は、引き出しの底板に、僅かな隙間があるのを見つけた。
どうやら、収納スペースらしい。指先を差し込んで上へと底板を押しやると、中の空間と、入っているものが見えてきた。
入っていたのは、衣服だった。黒のタートルネックと、白いズボンが入っている。
大きさからして、男性物だろう。
試しに着ていたパジャマを脱ぎ捨てて着替えてみると、ぴったりだった。
袖は手首まであり、首まで覆われている。が、夕暮れにこれ一枚ではやや肌寒い。
などと考えながら引き出しに手を突っ込むと、畳まれた赤いコートと、黒いブーツが入っていた。
これ幸いと身に付けたところ、どちらもサイズはぴったりだった。
何故自分の体格に見合った服が、クローゼットに隠されていたのだろう。
斑猫は首を捻る。
いや、そもそもこれは自分がかつて着ていた服なのではないか。
やはり錦という男が、自分を外に出したく無い、という直感は間違っていない気がしてならない。
コートについていたフードを被って出ようとしたが、フードについているファーが邪魔で、やめた。
服は少し焦げ臭いような気もするが、この際贅沢は言ってられない。
斑猫は窓枠に足をかけて、そのまま外へと飛び出した。
記憶失って目覚めて以来錦に阻まれ続け、来る日も来る日も恋焦がれた外だ。飛び降りた際の地面の感触と、膝を伝わる衝撃すらも愛おしい。
好機だ。
何時もは錦に止められていたが、今その錦はいない。
勝手に部屋を後にすることに罪悪感が無いわけでは無いが、今は外に出られる喜びで胸が踊って仕方がない。
冷たい夜風が、無人になった部屋の中で、ただカーテンを揺らしていた。
きらりと、光るものがあった。
床に、何かが散らばっている。
それは、割れた鏡の破片だった。床に散乱するそれは、何者かによって破壊された痕跡がある。
バスルームも、デスクに備え付けられた鏡も、クローゼットの鏡も、割れて無惨な姿を晒している。
斑猫は、気にもとめていなかった。
いや、見えていなかった。今目の前に広がる光景を、認識出来ていなかったのだ……
◆ ◆ ◆
「斑猫、遅くなった。今帰っ──」
ドアを開けながら帰宅を告げた錦は、室内の惨状を見て、そのまま言葉を失った。
鏡は割られ、クローゼットに入っていたはずの衣服は散乱し、何より窓の格子が何本か捻じ切られている。
閉めていたはずの窓は開いており、カーテンをはためかせながら風が吹き込んでいた。
錦の背筋を冷たいものが滑り落ちた。
「斑猫!?おい、斑猫!」
呼びかけても、返事は無い。
錦は慌ててベッドの下や、クローゼット、バスルームなどを確かめるが、いつもならばベッドで眠っているはずの男の姿はどこにもなかった。
一足遅く、ここが突き止められて連れ去られたか。
錦は歯噛みした。
腰につけたホルスターに入っている拳銃に指をかけようとして、足元に白いものが転がっていることに気づいた。
拾い上げてみればそれは、錦が斑猫に着せたパジャマだった。
まさか。
錦の胸中に厭な予感が飛来する。
散乱した衣服。開け放たれたクローゼット。引き出しの中の隠しスペースの底板が外され、空になっている。
そのスペースの中には、かつての斑猫の服一式を入れていたはずだ。
硝煙の臭いが染み付いたそれらを、どうしても捨てる気になれず。かといって今の記憶を失った斑猫に着せるのも気が引けた。
その結果、クローゼットの奥底の隠しスペースに入れていたのだ。
斑猫の衣服が消え、変わりに斑猫の着ていたパジャマがこの無人の部屋に残されている。
そこから導き出される答えは───
「記憶が戻った………?いや………違うな。奴の仕業なら、この隠れ家ごと灰にされてる」
錦は窓に近づいた。
外部から荒らされた形跡は無い。やはり、内側から出ていったのだ。
鉄製の格子は、よくよく見てみれば、強い熱を加えて捻じきったのか、断面が溶けて葡萄のようになっていた。
「……これは『あの』斑猫の仕業だな。しかし、何故だ?奴に記憶が戻っているなら、脱出よりも先に怒りのままにここを焼き尽くしそうなものだが………それとも、今の斑猫が気を失っている時、一時的に顕現したと考えた方が良いか……」
鉄格子の断面を撫でながら独り言ちると、錦は『三階から』、窓の外を見下ろした。
森の中にある、元々はホテルだった廃屋を改造して一時的な隠れ家として使っていた。そのため、景色といってもほとんど木々が並ぶだけだ。
地面は名も知らぬ雑草に覆われているが、土が露出した部分に大きめの足跡が疎らについているのが見て取れる。
つい少し前に、にわか雨が降ったのだ。地面の土は湿り、しっかりと靴跡の窪みを残している。
山中で迷うことなく進んでいけば、いつかは市街地の方へ出ることが可能だ。
市街地に辿り着いたところで、この付近を散策しているであろう賞金稼ぎ『首螽斯』と鉢合わせたらどうなるか。
鉢合わせずとも、今の斑猫は本調子ではない。森か市街地で体調が悪化し、昏倒してしまうやもしれぬ。
「ああくそ、最近安定しているからって放置したのがまずかったか……」
足首に鎖でもつけておけば良かっただろうか。
が、それでは脱出は防げるかもしれないが、信用はされないだろう。
何も覚えておらず、不安に満ちた目で、自分を縋るように見つめてくる斑猫。
その姿に、自分が薄暗いよろこびを覚えているのは薄々自覚していた。
あれだけ自分が諌めても聞く耳を持たなかった『斑猫』が、自分の言う事に大人しく従い、記憶に関することを教えてくれと頼み込んでくる。
記憶を失う前の『斑猫』の記憶が強く残っているからこそ、今の斑猫の世話に満たされている自分がいる。
飼い殺しにして牙を取り戻さないように。ぬるま湯に沈めるように。柔らかい綿で包み込んで窒息させるように。
そんな日々を捨てきれない。
───我ながら、どうかしている。
ぬるま湯に沈んで抜け出せないのはどちらだと言うのだ。
記憶を失っている斑猫は、ああ見えて聡い。
己を己たらしめる記憶が無いからこそ、人の感情の機微に敏感なのか。
己の邪な感情も、薄々見抜かれているのかもしれない。
ヘレナの誘いを受けたのは、情報の把握もあったが、頭を冷やす目的もあった。だが今回は、それが仇となってしまった。
錦は、部屋を出て階段を降りていく。
長い年月ですっかり朽ち果ててしまったロビーを抜け、南京錠のかかった扉に鍵を差し込んで解錠する。
外に出れば、広がる空はすっかり暮れてしまっていた。
薄暗い黄昏の闇の中で、錦は地面についた足跡を見る。
窪みに指を差し込んだ。靴の跡は、綺麗に残っている。時間が経って薄れた様子が無い。
足跡の状態から見るに、ここを通ったのはそう何時間も前のことでは無いはずだ。
森の中で彷徨う斑猫の光景が脳裏をよぎった。
今からすぐ追いかければ、見つけることもできるだろう。
斑猫が市街地に辿り着いて、さらに斑猫の生存が広まってしまうことは避けたい。
賞金首である『斑猫』は死んだのだ。別人だ。
記憶を無くしたまっさらな斑猫は、自分の手元にだけいればいい。
錦はズボンのポケットから細身の電灯を取り出した。
側面にあるスイッチを押すと、白々しい人工の明かりが夜の森を照らす。
錦は懐中電灯を手に歩みながら、今度はベストのポケットに入れている、小型の携帯端末を取り出した。
借りを作るのは癪だが、事態は一刻を争う。
錦は端末を操作して、或る連絡先へと電話をかけ始めた。
錦はふと、カフェでヘレナに言われた「束縛が激しそう」という科白を思い出す。
全く持ってその通りだ、と錦は自嘲気味に笑った。
日は、益々暮れていた。明かりのない森は、暗闇に飲み込まれていく。
夜の森は、人間の領域では無い。いくら夜目がきくと言っても、嗅覚や聴覚で襲いかかってくる獣共に適うものか。
錦は、拳銃をいつでも引き抜けるよう気を張りながら、夜の森へと足を進めた。
◆