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    DL_gomi

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    DL_gomi

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    インセクター4斑猫は森の中を宛もなく歩いていた。
    いつしか日はどっぷりと暮れ、電灯のひとつもないこの森は、真っ暗な闇の空間へと姿を変えていた。
    僅かな月明かりが差すだけでは、どうにも独りで歩くには心もとない。
    薄曇りの空に浮かんだ月は、度々分厚い雲に遮られ、道標たる光明を消してしまう。
    しかし、斑猫は足早に歩を進めていく。
    もう、1時間くらいはこうして歩いているだろうか。
    墨汁の中に沈んでいるような錯覚さえ覚える暗闇だが、斑猫には進む道が見えていた。
    道が見えている、というよりは、道が分かっている、と言った方が正しいか。
    頬を撫でる風が、耳に入り込む様々な音が、鼻孔に入り込む湿った木や土の臭いが、靴底越しに伝わる地面の感触が、斑猫の脳に不可視の道を感じさせている。
    その感覚を常人が持ち合わせてはいないだろうことを、斑猫は分かっていた。
    暗闇を何の明かりも無く歩める人間など、滅多にはいまい。
    一体、己は何者なのだろうか。
    幾度となく自問自答した疑念が、再び胸中に飛来する。
    何となく、この森を抜ければ答えがあるような気がしていた。
    徐々に木々が疎らになってきた。もう少し進めば、この森も終わりそうだ。
    さらに歩みを進めていくと、木々は途切れ、鉄筋コンクリート造りの建造物が建ち並ぶ街が見えてきた。
    いささか迷ったような気もするが、ともかく森を脱出することが出来た。
    しかし斑猫の予想に反して、辿り着いた市街地には明かりが無かった。
    ゴーストタウン、という言葉が頭を過ぎる。
    災害、伝染病、産業の衰退などによる住民の移住───
    ビルディングに、民家、飲食店など様々な建物が当時の面影を残したまま廃れているのをみると、ついそんな想像を巡らせてしまう。
    切れかけの街灯が明滅を繰り返している。幾匹かの蛾が、その橙色の明かりに群がっていた。
    ───パチッ
    橙色の明滅に、ひび割れたアスファルトが照らされている。
    ───パチッ
    暗転。再びの暗闇。
    変わらず、人の気配は感じられない。
    斑猫は街灯をしばらく眺めていたが、すぐに踵を返して歩き始めた。
    おそらく、道を間違えたのだろう。
    自分が滞在していたホテルらしき建築物も、ここも、何かしらの原因で人の去ったゴーストタウンの一部なのだ。
    目を凝らして見れば、暗闇の向こうに市街地らしき明かりがいくつか点っている。
    斑猫は足早に進んでいく。
    ───パチッ
    街灯の明滅。
    橙色の閃光が、ひび割れたアスファルトを、その上に立つ人影を照らしだした。
    分厚い雲がゆっくりと、風を受けて流れていく。
    月明かりが、無人の廃墟を、そこに現れた「二人」の人間へと降り注いだ。
    「君が『斑猫(Tiger Beatle)』か」
    己の名を呼んだ見知らぬ声に、思わず斑猫は振り返った。
    月光に照らされて立っていたのは、カーキ色の厚手のコートをまとった人影であった。
    顔にも、同色の布をぐるぐると巻き付けている。口元は、防塵目的であろう、呼吸器のような見た目をしたマスクで覆われている。そのため面差しは判然としないが、布の合間から榛色の双眸が覗いていた。
    「……知らないな。それに、人に聞くならお前から名乗るべきじゃないのか」
    嘘ではない。
    確かに斑猫と錦から呼ばれてはいるが、記憶を失った身で名乗るのは気が引けた。
    「僕は『首螽斯』と呼ばれている」
    相手は馬鹿正直に名乗り出した。
    よく通る、若い男の声だ。自分よりも若いのだろう。
    しかし問われてすぐに応じるとは、真面目な性格なのか、そういう癖なのか。
    錦がこのくらい素直ならば、自分の記憶ももう少し早く戻りそうなものだが。
    などと斑猫が考えているとは露知らず、首螽斯と名乗った男は腰にぶら下げていた細長い棒のようなものを左手で掴み、斑猫ににじり寄る。
    「二ヶ月程度の失踪程度で誤魔化せると思ったか?生憎、君の首にかけられた50万ドルはそのままだ。無効になっていない」
    その科白が終わるか否か、首螽斯と名乗ったその男は地を蹴り、瞬く間に距離を詰めてきた。
    斑猫は、反応出来なかった。
    最近はほとんどを寝台の上で過ごしていたのだ。体はすっかり鈍ってしまっている。
    首螽斯が左手で掴んだ細長い棒状の何かの先端の方を、右手でも掴むのが見えた。
    何かがくる。
    その直感のままに、後方へと跳んだ。
    斑猫が先程まで立っていた場所を、首螽斯が引き抜きざまに放った斬撃が走る。
    剣のようだが、刃の部分は細く、それでいて弓のごとくうっすらと湾曲している。
    見慣れない武器だ。
    斑猫が細長い棒としか認識出来なかったそれは、刀、と呼ばれる東洋の古い武器であった。
    鋼を熱し、槌で叩いて伸ばす工程を何千と繰り返して出来上がったそれは、折れず、曲がらず、よく切れる。
    通常刀は白銀に輝くはずだが、切彦が引き抜いた刀身は月光を受けて真っ赤に輝いていた。
    「逃がすか!」
    斬撃を間一髪で避けた斑猫を見て、首螽斯は構えを直し、再び斬りつけんと間合いを詰めてくる。
    首筋の辺りから、全身が総毛立っていくのが分かる。
    記憶を無くし、己の記憶すら分かっていないというこの状況で、さらに殺されようとしているのだ。
    あの鋭く長い刃で腕を落とされれば、出血多量で死ぬ。
    胸を刺し貫かれるやも、足を落とされるやも、首を撥ねられるやもしれぬ。
    直面した、死への恐怖に、厭な汗が止まらない。
    首螽斯は初撃を外した程度では歩を止める気配は無い。
    再び、刀を振りかぶる。
    一連の動作は、速かった。目で追うことができない。
    次の斬撃が、来る。
    直感で、屈みこんでいた。
    間一髪、先程まで自分の胴があったあたりの空間を、首螽斯の刀が通り抜けていくのが分かった。
    相手に、隙が生まれた。
    躊躇いなく、斑猫は首螽斯とは反対の方向へ駆けていた。
    自分の首にかけられているという賞金。
    聞けば、この首螽斯と名乗る男は答えてくれるだろう。気になるところだが、相手は本気で殺しにかかっている。
    そして、強い。病み上がりの体では、逃げて身を潜めてやり過ごす選択が最良に思えた。
    ふ、と一瞬頭上に影が差す。
    厭な予感がした。
    刹那の本能で足を止め、慣性力に引き摺られる上体を無理やり引き戻す。
    目の前に、首螽斯が着地した。
    衝撃音と共に、砂埃が舞いあがる。
    馬鹿な。
    数メートルは駆けて、距離を稼いだはずだ。
    充分な助走と、鍛え抜かれた肉体があれば数メートルの跳躍自体は可能かもしれない。
    しかし、この男が走り込んだ形跡は無い。
    助走をつけて走り込み、踏み込んで跳んだのであれば、足音が聞こえるはずだ。
    助走も無しに、その場から跳びあがり、己を跳び越して着地したというのか。
    ​─────無茶苦茶だ。
    首螽斯と、目が合った。その風体にはそぐわないほど、澄んだ榛色の瞳が己をしっかりと見据えていた。
    この近距離では、次の斬撃は避けきれまい。
    死を覚悟したところで、首螽斯は何かに気づいて足を止めた。
    「何故驚く?インセクターを見るのは、初めてでもあるまい」
    訝しんだ声だった。その視線の先には、瞠目し、恐怖で足が地面に縫い付けられてしまった斑猫がいる。
    「……よく喋るやつだな。そんなにおしゃべりが好きか?」
    「違う。君と仲良くしたい訳ではない。君は、聞いていた斑猫という男とは、違う気がする」
    首螽斯は、そう言って刀を納めた。
    「ひとつ聞きたい。君は、本当に斑猫……Tiger Beetleなのか?顔を変えた偽物だというなら、正直に答えて欲しい。それならば、僕は君を見逃そう」
    言葉に、嘘や含みは感じられなかった。
    甘い男だ。
    ここで嘘をつけば、本当に見逃してくれるのかもしれない。
    だが、斑猫という名前は紛れもなく己の名前だという、確かな実感があった。
    記憶を失って、己を取り囲む全てが見知らぬものにしか見えぬ中、この名前だけが拠り所だったのだ。
    危険に身を晒すとしても、この名を否定したくはない。
    なにより、誠実に問うてくれた相手に、嘘をつきたくなかった。
    「……いや、俺は確かに斑猫だ」
    「そうか」
    返答を聞いた首螽斯の、目が変わった。
    先程までのやり取りは、単なる様子見だったらしい。
    双眸に、ぎらぎらとした光がある。
    今度こそ本気で、俺を殺しにかかってくるだろうという実感があった。
    首螽斯が、駆けていた。
    刀は、今度は持っていない。
    首螽斯の体が動いた。
    何が来る。蹴りか。
    その判断が終わるか終わらないかの瞬間に、首螽斯の体が高速で捻られる。
    首のあたりに繰り出された回し蹴りを、咄嗟に片腕で防ぐ。
    腕の骨が軋んだ。ただの強力な蹴りでは無い。
    靴先のあたりに、硬い感触があった。
    鉄板か何かが仕込まれている。顎か首に当たっていれば、そのまま骨を砕かれていた。
    間合いを取ろうにも、すぐさま距離を詰められてはどうしようも無い。
    首螽斯の手が、刀にかかった。
    刀の軌道ならば、だいたい想像がつく。
    振り抜く瞬間は、相変わらず目で追えない。しかし、瞬時に体を仰け反らせることで再び躱すことに成功した。
    その安堵はすぐさま別の衝撃で消え失せた。
    靴が、腹にめり込んでいた。
    避けられることを、予測していたのだろう。刀の初撃は誘導で、仰け反って無防備な斑猫に蹴りを叩き込んだのだ。
    腹筋が、衝撃を吸収しきれなかった。筋肉を通して柔らかな内臓が痛む。
    思わず体勢をくの字に崩したところで、さらに蹴り付けられて転ばされた。
    地面に、激突する。
    顔面が叩きつけられ、土の独特のカビ臭さが鼻をついた。
    「この程度か『斑猫Tiger Beetle』。君如きに50万ドルの賞金は不相応と言うもの」
    続いて、うつ伏せに転んだままの上体にかかる圧力。
    首螽斯が、己の体を片足で踏みつけていた。
    たったそれだけで、藻掻くことはできても、振り払って体を起こすことは出来ない。
    恐ろしい力だった。プレス機で挟まれ、潰されかけているような錯覚を覚える。
    「感謝する。君の首で、僕はまた名を上げることができる」
    そういって首螽斯は、手にした刀を斑猫の首目掛けて振り下ろした。
    斑猫は、もはや逃げられぬと悟り、固く目を閉じた。
    首を切り離されても、すぐに死ねるわけではない。それでも力を抜いておけば、眠るように死ねるような気がした。
    が、肉を断つ刃の感触はいつまで経っても襲ってこない。
    斑猫の首を、胴体から切り離すかと思われた首螽斯の刀は、斑猫の首すれすれで止まっていた。
    いや、首螽斯自身は斑猫の首を、斬ろうとしているのだ。
    だが、刃を首に当てたまま、それ以上押し込むことが出来ない。
    斑猫は、今の体勢では己の首を見ることが出来ない。
    故に、己の首の皮膚が黒く染まり、硬質なものに変化していることを、把握出来なかった。
    「やはり、そう簡単に首は切れないか」
    首螽斯が、苦々しく吐き捨てた。
    斑猫は目を開いた。
    どくどくと、身体を巡る血の奔流が勢いを増していく感覚があった。
    死の恐怖が間近に迫る異様な状況に、交感神経が活性化して身体が緊張状態にあるのだ。
    額に、汗が滲んでいく。
    刃は何故か自分の首で止まっているが、突きつけられていることには変わりない。
    どうにか首螽斯を振り払えやしないかと、身じろいだ。
    先程よりも、かかる力は弱くなっているような気がした。
    否、己の力が、高まっている。
    脈打つ心の臓から送り出される紅の血潮が、身体を熱くして指先まで巡る度、肉体に力が宿っていくようだった。
    身体を、刃が当てられている方向とは反対に捻った。
    己の身体を地に縫い止めていた忌まわしき右脚は、簡単に外れた。
    それどころか、首螽斯を軽く弾き飛ばしていた。
    首螽斯が弾かれた右脚も戻すのも忘れ、目を見張ってこちらを見つめている。
    身体は、熱を持っていた。
    心臓は、変わらず早鐘を打っている。
    それでも、絶望的なこの状況下に、斑猫は僅かな光明を見出していた。
    ​─────この男から、逃げられるのかもしれない。
    冷たい興奮が、背筋を震わせた。
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