そうだ、京都へ行こう 五月のものと呼ぶには些か強すぎる日差しが首元をチリチリと灼く。羽織っていたジャケットはとうに脱いでしまっていた。首元のネクタイを緩めると、少しだけ楽になった。近くに案内版があったので、持っていたパンフレットと見比べた。現在地、と表示されている赤い点と、パンフレットに表示されている目的地は、どう見ても違う場所だ。
煉獄杏寿郎は、京都の街で道に迷っていた。まさかほんの少し、通りを変えて人の少ない方に歩いただけで道がわからなくなるとは思わなかった。考えてみれば、京都は有数の観光地ではあるものの、勿論その街の中に居を構えている人々もいる。煉獄が迷い出た通りは、そういう、所謂地元の人間達が使う道だったのだ。
くらっと頭が揺れた。どこかで休憩しようと思ったが、ここはいかにも職人の店が並んでいて腰を落ちつけられそうな場所は見つからなかった。だが少し先にベンチを見つけた。助かった、とそのベンチに腰を下ろす。長く息を吐き、ハンカチで首元を拭った。座れたはいいものの、ベンチは丁度日向になっていてジリジリとした日差しからは逃れられなかった。
カラリ、とベンチの横にあった店の戸が開いた。随分と大きな身体をかがめながら、長い銀色の髪の毛が日の光に当たって、きらきらと美しかった。彼は紅い双眸を煉獄に向けた。
「お兄さん、大丈夫?」
***
彼に促されるように入った店の中は、呉服屋のようだった。着物や帯がディスプレイされていて、その手前に同じ生地で作られた鞄や財布等も並べられていた。彼は店の奥にある椅子に煉獄を座らせると、裏へと引っ込んでいってしまった。しばらくするとペットボトルの水と、キャンディーをいくつか持ってきた。
「この時期が一番熱中症になりやすいらしいよ。身体が汗かくのに慣れてないからだって」
「ありがとう」
「いーえ。お兄さん、観光に来たんでしょ?道に迷った?」
「…恥ずかしながら」
「だと思った。そうじゃなきゃこんなトコまで来ねぇもん」
どこ行きたいの、と彼が尋ねた。煉獄が地図を引っ張り出して彼に行き先を示す。煉獄は通りどころかバスの方面さえ間違っていたようだった。
「あと二十分くらいしたら、その先のバス停に来るだろうから、それまで店ん中で涼んでなよ」
「いや、そこまで迷惑をかける訳には」
「いいよ、別に。どうせ客なんか居ないんだし。ま、もしちょっとでも気がとがめんなら、店の売り上げに貢献してくれたら嬉しいけどね」
そう言われて、煉獄はぐるりとまた店の中を見渡した。極彩色の帯は、京都の伝統工芸である西陣織だ。何本か並ぶ帯の、一際目立つものの前で煉獄は足を止めた。
真白の帯。だがその中に模様が緻密に織り込まれていて、それが一際目立っていた。
「お、お目が高いね」
「西陣織、というと様々な色を組み合わせて模様を作るものだとばかり思っていたが、こういうものもあるんだな」
「そォね。勿論それがウリでもあるんだけど、白ってのはそれだけでも映えんだろ。だがこの模様だけは一本一本職人の手作業しゃあなきゃ出せない。ひっくり返してみりゃ、一番目を引く帯なんだからすげぇよな」
彼が、愛おしそうに帯に触れた。その仕草にどきりとして、急にまた背中に汗が吹き出した。
「ここはきみの店なのか?」
「いや、俺はバイト。芸大出てからちょっとだけ東京で働いて、でも西陣織の図案師になりたくてさ、こっち戻ってきた」
「そうか、だからきみはあまり関西弁を使わないんだな」
「ガチガチの京言葉なんて、今時芸者じゃなきゃ使わねぇよ。外国人相手には受けがいいからたまに使うこともあるけど」
彼が棚から分厚いファイルを引っ張り出してテーブルの上に広げた。極彩色の帯の図案が、数えきれない程描き込んである。
「すごい」
「すごかねーよ。まだまだ半人前で、自分の帯を仕立てて貰う日なんざいつ来るのやら」
でも、好きなんだろうな。彼の横顔を見て、そんなことを思った。
「興味があったら、堀川通にある西陣織会館に行ってみなよ。この帯、一本作んのにどんだけの工程があるか、職人技を見ると壮観だぜ。うちじゃ扱ってないけど、西陣織のネクタイもあってさ。帯よか値段も手頃だから」
「それだと、この店の売り上げには貢献できないが」
「あ、そっか。ま、だからと言って、別に俺の時給が上がる訳じゃないから」
「身も蓋もないな」
煉獄の言葉に、彼がふっと吹き出した。それから時計の方を見て、そろそろバスが来る、と煉獄に言った。煉獄は礼を言って、店の扉に手をかける。
「そういえば、きみの名を聞いてなかった」
「名乗る程の者じゃねェよ」
「はは、しかし、きみが一人前の図案師になったら是非作品を買わせてもらいたいからな。名前を教えてくれると嬉しいんだが」
「なるほど」
彼が、一歩だけ煉獄に近づいた。銀色のピアスが、いやに光って見える。
「宇髄天元」
「——うずい、てんげん」
「そ。世界に羽ばたきそうな、ド派手な名だろ」
「ああ、そうだな。俺の名前は煉獄杏寿郎という」
「そりゃまた、負けず劣らず大層な名で」
それからまた二人で笑って、では、と煉獄が頭を下げて店の扉を開いた。先刻よりも、心地の良い風が肌に触れる。その風に乗って、宇髄の声がした。
「ほな、またおいでやす」
宇髄がひらりと手を振った。その向こう側で、バスのエンジン音がいやに遠く聞こえていた。