12.照らしてよ、ペリドット体がガクガクと揺れる感覚に意識が覚醒した。休んでいる内に眠ってしまったようだ。そう認識したと同時に体がとても冷えているのを感じてぶるりと震える。
「煉󠄁獄…!」
(……?)
寒さに首を竦めたのとほぼ同じタイミングで聞こえた声にぴたりと固まった。長いこと一処に閉じ籠もっているせいでとうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったらしい。
(宇髄…)
最後に顔を見たのはいつだったか。感情の伴わない情交だけれどそれでも君に触れることのできるその時間は特別以外の何物でもなく、苦いと同時に、痺れをもたらすほどの甘い毒が全身に回るようなひと時だった。いい加減に忘れないといけないのに。だからここへ来たのに。心の中に君を居座らせたままでは今までと何も変わらない。俺はまだ裏切り続けるつもりなのか、自分の恋人を。彼に償うためにここに居ることを選んだのにーーでも、そうだ、彼はさっき、
『もう終わりにしてあげるよ』
「煉󠄁獄!」
幻聴にしてはやけにはっきりと聞こえる声に、ゆっくりと瞼を上げた。煌々と明かりが付いたまま眠っていたせいか目を開いた瞬間もあまり眩しさは感じなかった。宇髄が覆いかぶさるようにして自分を覗き込んでいるから、単に光が遮られているだけかもしれない。
「……ず…い…」
思考が不鮮明の中思わず零した自分の声は乾いていて、上手く音を伴わなかった。
「………煉󠄁…、……っ、……良かっ、た…」
何故宇髄がここにいるのかを疑問に思うよりも先に、こんな季節だというのに彼が汗だくで、そして自分の呼びかけ損なった声を聞いて安心したように脱力する様子を不思議に思った。ああ、でも段々と、目が醒め状況が飲み込めてくる。
「っ…なぜ…き、みがここに…」
自分が今どんな格好をしているのかということに漸く意識を向けることができ、本当に今更だが慌てて布団を首元まで引き上げようとした。が、宇髄がベッドに上がっているためそれは上手くいかなかった。
「……いや…、さっき弟がうちまで来て…」
「か、れが?」
喉が張り付いてこんなに短い言葉すら掠れて途切れ途切れになってしまう。
「…ああ。それでお前のペンダントを俺によこしたんだ。これはお前にはもう必要ないからって」
そう言いながらパンツのポケットの中に入れられた宇髄の手に、確かに俺のペリドットが乗せられて出てきた。
「…留め具、壊れちまってるし、あいつが変なこと言うから…………まさかとは思ったんだけど、もしもってことがあったら…」
一生後悔するし。
宇髄はペンダントを乗せた反対の手でがしがしと頭を掻いた。どうやらここまで無我夢中で来たらしい彼も、まだ混乱しているようだった。
「…変なことって…?」
いったい彼の弟は宇髄に何を言ったのだろう。自分の片恋も宇髄に暴露されてしまっている今、聞かれて不味いことなどこれ以上もうないはずだけれど。
シーツに落とされていた宇髄の視線が自分に向く。
「お前のこと、壊したって」
自分と彼の弟に巻き込まれたようなものなのに、何故だか宇髄の方がバツの悪そうな様子で告白した。
「壊した…?」
「壊しただの早く行った方がいいだのあいつが急かすから…マジで焦った……。来たら来たでお前声掛けても全然目ぇ覚まさねぇし、体冷たくなってるから…。それに、」
宇髄の視線が自分の喉元に当てられたのが解って、俺は思わずそこに指先を当てた。
「そんな痣ついてるし……あいつがヤケになってまさか首絞めちまったんじゃねぇかって…」
そう言う彼こそ傷つけられたような顔をして、まだ俺の喉から視線を外さないでいる。
「……けど良かった…。………俺の思い過ごしで…」
ようやく安堵の声を溢しながら宇髄は項垂れるように顔を伏せた。
「すまなかった……余計な心配をかけてしまって…」
「いや…」
「記憶が曖昧だが…この首の痕は多分…そのペンダントを彼が引っ張って取ったせいだと思う…」
「…ああ…どうりで…指の痕にしては線が細いもんな…。………けど、…痛かったろう」
言葉同様痛そうな顔をした宇髄の指先が俺の喉にそっと触れた。掛布は胸元までかかっていたようだが裸で眠り込んでいたせいで体はすっかり冷えていて、彼の指の体温が熱いくらいに感じてつい肩が跳ねた。それを拒絶と取ったらしい宇髄が慌てて手を引っ込め謝ってくる。
「悪ィ…俺に触られんの嫌だよな、…もうしない」
完全に彼の勘違いだったが、触れて良いと言うのも違うような気がして、すぐに言葉を継げなかった。しばらく沈黙が続いたが、まだ彼に言うべきことを言っていなかったことに気がついて口を開いた。
「来てくれてありがとう、宇髄…。…もう大丈夫だから、その…」
帰って良いということをどうやったら角の立たない言い方で伝えられるのか思案している内に、またしても宇髄が自分の意図を汲み間違って言った。
「うん、……俺といたくないのは、解んだけど、お前がどうしても嫌じゃなかったら少し、話する時間くれねぇかな……?」
そんな風に尋ねられては、心配して真冬の夜中に駆けつけてくれた彼を拒否することなど出来なかった。話とはきっと、自分がずっと宇髄のことを好きだったことについてなのだろうが、
「…解った」
「!」
それならば自分もそのことを謝らなければならないだろう。
「…俺も君に話したいことがある」
もう切れてしまう縁ならば、最後に綺麗にしなければならないだろう。
ずっと親友の顔をして、嘘をついていてごめん。騙していてごめん。君の大事な弟を利用して――傷つけてごめん。
好きになって、ごめん。
話をする前に冷えた体を温めるためシャワーを浴びてくるよう宇髄が勧めてくれたのでその言葉に甘えた。バスルームから戻ると、冷蔵庫から見つけたのだろうミネラルウォーターのペットボトルを手渡された。喉に一口一口ゆっくりと流し込むと、そこからからだ全体に染み渡るような感覚にほっと息をついた。それから宇髄と二人でリビングのソファーに向かい合うようにして座った。ここに家主だけが不在というのもおかしな感じだ。
「……彼は…帰って来ないな…。どこに行ったのだろう」
「解んねぇ…。俺もここに来る前はもしかしたら帰って来てんのかもと思ったけど。…スマホに連絡しても多分スルーすんだろうな」
宇髄の意見に同感だった。すぐに帰宅するつもりだったのならば、わざわざ宇髄の家に行かずに宇髄をここへ呼び寄せれば良かったのだから。
「あの、さ」
そんな風に考えていると、宇髄が遠慮がちに口火を切った。
「……お前も全部あいつから聞かされたと思うけど、俺…お前とあいつが抱き合ってる時に、……お前が俺の名前呼んでんの聞いちまったんだ。それが、きっかけだった…」
詳しく語らなくとも二人の間でその"きっかけ"という言葉が何に結びつくのか解ってしまう。
『天元、て呼ばねぇの?』
一見破滅の始まりのようで、かえって二人を結びつけた出来事――宇髄の腕の囲いの下で聞いたあの瞬間を思い出すと、今でも全身に水を浴びせられたような衝撃に立ち返る。絶対に彼には知られてはいけないことだったのに、彼が知っていたこと。
「すげぇ混乱した…。何で?って……全然意味解んなかったけど、でも普通立ち入ることじゃねぇしこのまま聞かなかったつもりで忘れるべきだって思ったんだけど、」
宇髄は開いた脚の間でその時の葛藤を物語るように長い指を強く組ませた。
「…けどできなかった」
「……、……」
自分の意志の弱さのせいで彼をこんなにも苦しめていたのだと今更ながら思い知る。
「……宇髄」
ともすれば恐ろしくて震えてしまいそうになるのを堪えるため、膝の上でぎゅっと拳を作り、意を決して彼に呼びかけた。
「全て………俺のせいだ」
自分を見つめ返す宇髄の紅みがかった瞳が揺れる。
「俺が、君を好きになったせいだ」
きっとそのことが、まるで磁石のように全ての歪みを引き寄せてしまったんだ。
「………。俺はさ、お前たちが好き合って恋人になったんだとずっと思ってたんだけど、そうじゃなかったってことなんだよな…?」
宇髄は俺がたった今告げたことには触れずに尋ねてきた。
「………すまない」
肯定の意味を込め、重たい罪悪感を喉に下しながら謝罪する。宇髄自身だけでなく彼の肉親までをもこの十数年裏切ってきたのだ。彼の弟が自分に愛情を向けてくれていたのに対し、自分はそれを利用した…。今となっては全て言い訳に過ぎないが、あの日、寝込んで弱っているところへ見舞いに来てくれた宇髄の優しさに焦がされ、少しでも自分に振り向いてもらえたらという欲を堪えきれなかったせいで。
『君の弟と、付き合ってる』
簡単に許されることではないと解っていても、宇髄が全てを知った今、やはりまずは謝るべきなんだろう。しかし、
「違うんだよ………俺はお前に謝らせたいわけじゃない」
それは宇髄の求めていたものではなかったようだ。
「でも…「だってそこをはっきりさせなきゃ、お前が折角今話してくれた気持ちも正しく受け止められないだろ?」
「だけど君の弟の気持ちを踏みにじっていたのは事実なんだ…。それに出会った頃からずっと自分の気持ちを隠して、君の親友のふりをしてきたことも…」
「それは俺のことを思ってずっと隠し通してくれてたからだろ?」
そう言ってしまえば聞こえは良いが、打ち明けるのが怖かっただけとも言える。
「買いかぶりすぎだ……。知られてしまって、君に距離を置かれるのがずっと怖かっただけだ…保身のために、嘘を突き通していただけだ……」
「お前は優しいから、ことあるごとに"俺の親友だ"って自慢する俺を裏切れなかっただけだろ」
そう言う宇髄こそなんて心の広さだろうかと思う。結局上辺だけだった親友という存在の過去を、まだ正当化してくれようとするのだから。
「…どうしてそんな風に考えられるんだ…?」
「どうしてって、ほんとにそう思うからだよ」
何一つ拒絶の色を彼の声に窺えないのを不思議に思い、怖いもの見たさのような心持ちで宇髄を下から掬い見た。
「中学ん時からずっとお前のこと見てたからだよ」
そう言って笑う顔は久々に見たからというのもあるかもしれないが、出会ったばかりの大人と子供の狭間にいたあの頃のものと重なるようだった。そうするともう、本当に身勝手な考えだけれども、まだ無邪気に彼を密かに慕っていたあの頃に戻れたならという感情に襲われた。
「……って、そんなこと言うわりにお前の気持ちに全然気づけなかったわけなんだけど」
「いや、それは…」
同性である自分たちは普通ならば思い当たるよう事ではないはずで、逆を言えば宇髄が自分のことを友人であるとずっと信じて疑っていなかったからなのだ。だから宇髄が非を感じる必要は少しもないのに。
「…知らなかったとはいえ…お前が大事に取っていた想いを最悪な形で粉々にした。傷つけた…。お前の気持ちも、肉体的にだって、無理矢理に」
「……」
「すまなかった」
宇髄は覚悟を決めたような芯の通った声でそう言うと、深々と頭を下げた。
「っ…俺だって…、…君に謝らせたいわけじゃない……」
顔を上げろという意味で言っても、宇髄はまだ動かない。
「無理矢理とは言ったって、最初はそうでも……その後何度も君に言われるままに近づいたのは…俺の意志だ」
完全に君が離れてゆく未来がただ怖くて。
「……君と…他人になってしまうのが怖かった………だから、君の望みを叶えさえしなければ、あんな形でも、君を繋ぎ留めておけるんじゃないかと、」
そんな、狡い打算を。
シャワーで温めたはずの体はいつの間にかまた冷えていた。握り締めた指が手のひらにその冷たさを伝える。
「そう、だったのか…」
『煉󠄁獄、呼んで、』
『っ、…いや、だ』
何度乞われようと決して彼の下の名前を呼ばなかった俺の魂胆を知り、ようやく顔を上げた宇髄はしばし沈黙した。
(さぞ幻滅しただろう)
昔から君はよく俺を希少なほど純粋な人間だと称したが、自分はそんな大層なものなんかじゃない。自分の願望のために意地は張るが、想いを告げる勇気もなければ、君の温かい隣を手放す勇気もなかったただの臆病者。
「あんなことを続けていたって望む形になんてなれないのは分かっていたのに……あの時はそれでもただ、必死だった…」
まるでそれしか生きる術が無い人のように。
君を失わないように必死だった。
きつく握り過ぎて白くなった自分の膝の上の拳を見つめていると、宇髄が言った。
「煉󠄁獄。…お前の望む形って、なに?」
「そ、れは…」
自分の中に昔からたったひとつしかない答えでも、それでも即座に答えるのは勇気が要った。今更戻れるはずもないことは解っていたし、言ってしまったら最後、もう二度と彼の親友という立ち位置には戻れないのだとずっと自分に言い聞かせてきたから。そんな葛藤を知ってか知らずか、宇髄は俺の答えをただ静かに待っていた。
「それは…………」
手を乗せたネル素材のパンツの生地をぎゅっと握る。言ってしまうのは怖くても、もうこれ以上隠し立てはしていたくないのも本音だった。もう友人としてすら会えなくなるのなら、好きなひとに、最後くらい正直でいたい。
「君の、特別なひとに、なることだ」
それが、ずっとずっと心の底で望んでいた、けれど自分には掴むことのできない形だった。
***
特別なひとになりたい。
それを本人に伝えるというのはいったいどれほどの勇気が要ることなのだろう。考えてみれば、焦がれてどうしようもなく好きになった相手なんて、今まで付き合ってきた恋人たちを頭に浮かべても、自分には誰ひとりとしていなかった。目の前で、緊張からか寒さからか、僅かに震える彼を除いては。
「煉󠄁獄」
ただ名前を呼ぶだけで肩を揺らすのが痛々しい。そんな風にしてしまっているのは自分なのだと思うとやるせなかった。本来ならば豪快で快活で、素直な気質のこの男が、人に怯えるなんて絶対にないはずなのに。それを自分はさせてしまっている。彼に。他でもない、"特別なひと"に。
「俺…お前の気持ちにずっと気づけなかったようなバカだからさ、都合良く考えちまうよ…」
ずっと下を見ていた琥珀色が戸惑いを纏って自分の方を向いた。
「…特別なひとって、恋人って意味だって思っていいの?」
「……っ、」
煉󠄁獄の太い眉が泣きたいような困ったような形にくしゃりと歪む。
「そっち行っていいか…?」
答えを待てずに、でも怖がらせないよう慎重に、煉󠄁獄が座る方のソファーに回った。ゆっくりと俺が隣に腰を下ろしても煉󠄁獄は逃げないでいてくれた。真っ直ぐに彼の顔を見つめる。
「俺もお前の特別なひとになりたいって言ったら信じてくれるか?」
「な、…………何を言うんだ、…」
「ははっ、…そうだよな。お前が信じらんねぇのも解るよ。俺だってほんの数ヶ月前までそんなこと考えもしなかった」
「じゃあ……何で…」
きっと適当なことを言うなとか同情は要らないとか、そういう思いが煉󠄁獄の胸中では吹き荒れているんだろう。十数年想い続けてきてくれた煉󠄁獄に比べて、自分は自覚してからまだたった数十日なのだ。疑われたって仕方ない。
「さっき話した、"きっかけ"があったからだよ」
「…!」
「お前のあんな声聞かなけれは、俺、きっと一生気づけなかった」
『天…げ…ん…っ』
目の前の大きな瞳が更に大きく開かれ揺れる。
「もう恥も捨てて全部話すと、俺、お前が俺の名前呼んでんの聞いた時、その、…勃って」
流石にこれは顔を見てなんてとても告白できずに、煉󠄁獄の腿の上に置かれた手を見つめながら続ける。
「その日からお前の声頭から離れなくて、もうずっとそのことばかり考えちまって…、……わけを知りたいっていうのも勿論あったけど、どうにかして自分に向けられた呼びかけを聞きたいって」
それで、あんな最低なことを。
「普通さ、男にあんなふうに呼ばれて…どんな理由があっても、いくら親友だっつっても、気持ち悪ィとかちょっと距離置くとか、ひどけりゃ縁切るとか…そういうマイナスな考え浮かんできそうなもんだろ?」
「っ、…ああ」
俺に聞かれたことを知った時、煉󠄁獄は真っ先にそんなことを考えたに違いない。
「けど違ったんだよ。俺はそんな風には一度も思わなかった」
「…!」
どうか信じて欲しくて、もう一度煉󠄁獄の顔を見る。
「どうにかして、弟にじゃなくて、俺自身に向かって言って欲しいって…お前に拒まれるたび――お前の、"特別なひと"として呼ばれたいって思ったんだよ」
煉󠄁獄の言葉を借りて、真っ直ぐに伝える。何であんなにも、あの時自分は執着していたのか。その理由が今なら解る。
「…俺が言ったこと、信じられそう?」
尋ねると、俺が今話したことを煉󠄁獄はまだ噛み砕けない様子のまま、困惑した表情で言った。
「解らない………あのことで君が俺に嫌気が差さなかったとして……、それがなぜ、特別になりたいという理由になる…?例えば今まで通り親友でいたいのを、そういう風に勘違いしているだけなんじゃないのか?」
「違う、そんなんじゃねぇよ」
「……」
きっぱりと否定した俺に煉󠄁獄はそれ以上反論はしなかったものの、納得していないのは明らかだった。そんな簡単に信じてもらえないのは端から解っている。それを何とかして信じてもらえるよう言葉を尽くすことが、自分の償いだとも思っている。力に訴えて彼に酷い仕打ちをした自分の。
「…これは別に感情だけで言ってるんじゃねぇんだ。この数ヶ月でお前のことで色々思い出したことがあってさ…思い出したっていうか、俺の中でようやく紐づいたっていう感じなんだけど」
オレンジ色の視線が、その先を促す。
「何で俺、お前と同じ高校に行ったと思う?」
「…?それは…たまたま志望校が同じだったからだろう?」
「いや、最終的にはそうだけど、そうじゃねぇんだ」
自分にとって当たり前すぎて、もうすっかり忘れていた理由。
「お前が行く高校だったから俺もあの高校にしたんだ」
「…え?」
「初めは特にここに行きたいって思う所が無くてどこでも良かったっていうのもあったんだけど…お前の志望校知った時、当たり前のようにじゃあ俺もそこだなって考えたんだよな。なんか煉󠄁獄がいない学校生活っていうのが想像できなくて」
「……そんなこと…初めて知った…。てっきり……偶然同じところへ行けたのかと…」
「うん…俺もつい最近まで忘れてたんだけど…。それでさ、高校入ってから急に俺彼女作るようになっただろ。中学ん時はこれでもかってくらい告られても一度も付き合って来なかったのに」
「そう、だったな」
きっと、いったい何の話だと思いながらも煉󠄁獄は相槌を打ってくれている。
「あれさ、俺なりの…自分のブレーキだったんだよ、今思えば」
「ブレーキ?」
「うん。彼女でも作らないと、俺お前のこと四六時中束縛しちまってたと思う。だってお前は剣道部で平日も休日も体が空いてない時間が多かったけど、それ以外はどうだよ?結構俺とつるんでた記憶しかなくねぇ?」
「…それは、そうかもしれない」
「だろ?彼女といる時間を無理矢理にでも作らなきゃあ俺はずっとお前といたと思う」
「……そんなこと……」
言いかけて、煉󠄁獄はそこで口を噤んでしまった。否定しようとしたものの、その通りだと思ったのだろう。だって高校を卒業するまでの自分たちは、どこへ行くのも何をするにも可能な限りはずっと一緒だったからだ。勿論、親友として、だが。
「誰かと付き合うのがそんな理由からだったから、きっと誰とも長続きしなかったんだ」
心から惚れて付き合ったひとなど、誰ひとりといなかったからだ。
「お前があの時から既に俺の"特別なひと"だったからだと思う」
そういう意識が無かったから、親友に依る"特別"だと思っていたから、とても回り道をしてしまった。それも、大事な人を傷つけるという茨の回り道を。
「でも君は……別に同性愛者じゃないだろう」
「それはお前だって同じなんじゃねぇの?」
尋ね返すと、煉󠄁獄は下を向いてしまった。
「………解らない…。君しか好きになったひとがいないから」
困ったように零した声に今すぐ抱きしめたい衝動に襲われ、それを抑えるのに苦労した。
「煉󠄁獄、俺がもうお前に何か望むことができるような存在じゃないのはよく解ってる…。でも異性愛者だからって理由で、お前のことを俺が好きになるはずはないって思わないで欲しい。……男だから好きになったんじゃない。男だけど好きになったわけじゃない。――お前だから好きになったんだ」
「っ…」
恋だって自覚出来なかっただけで、初めて踏み入れた転入先のあの教室の教壇から、お前を見つけた時からそれはきっと始まってたんだ。
「だって俺…お前が弟のものだってはっきりと思い知るあの出来事があってから………すげぇ自分勝手だけど…お前は俺のだったのにって、何度も思った」
子供じみた思考を打ち明けるのが気恥ずかしくてつい苦笑してみせる。
「ほんと情けねぇんだけど…人のものになったのを鮮烈に見せつけられて初めて自分にとっての重要さが解ることってあるんだって…」
震えているように見える腿の上の煉󠄁獄の手に恐る恐る自分のそれを重ねた。感じるか感じないかくらいのその細かな振動が、どうか拒絶のものではないようにと願いながら。
「上手く言えねぇけど…、この気持ちが勘違いじゃないってことだけは知ってて欲しかった」
「…………」
「だからこの数週間、会えない間ずっとお前と話したかったよ」
重ねた方の手を取り、伝わるように願いを込めて握る。
けれど、もう、これで終わりだ。自分ができるのはここまで。これ以上望むことは許されないようなことを俺は煉󠄁獄にしてきた。もうこんな風に近くで、それこそ手に触れて話をすることなんてきっとないんだろう。そう思うと胸を絞られる思いだったけれど、どんなに辛くたってもう取り返しのつかないことをしたのだから。
「……じゃあ……、そろそろ行「本当に……、」
これ以上傍にいて別れづらくなる前に立ち去ろうと、無理矢理感情を捻じ伏せ腰を上げようとしたところで煉󠄁獄が口を開いた。
「……本当にそんなことが……」
離れかけていた手が、僅かに力を込めて握られる。指先をほんの少しだけ、遠慮がちに。
「君が俺を好きだなんてことが、本当にあり得るのか………?」
ほとんど呟きのような声量で見上げてくる双眸は、自信なさげに揺れている。
「…あり得るよ。信じてよ、としかもう俺には言えねぇんだけど…」
「………」
すっぽりと包み込める手を、こんなに大きさに差があったのかと初めて意識するその手を、煉󠄁獄がいつでも振りほどける強さで握り返した。そんな仕草を見届けた琥珀色が再び俺の目を見上げてくる。
「……信じたら…どうなるんだ?」
「それは…、お前が決めていいよ」
たとえもう顔も見たくないと言われても仕方のないぐらいのことを俺はしたのだから、あとはもう煉󠄁獄の望むような距離でいようと思っていた。もしかしたらその"距離"すら絶たれてしまうのかもしれないが。
自分たちが今夜から完全に他者となるか、今まで通りとはいかなくても友人でいるか、もしくは友人以上の何かに変化するか―――選択は煉󠄁獄の自由だ。
たっぷりと逡巡したのち、やがて煉󠄁獄は言った。
「……俺はあの時、君に会えなくなるくらいならどうなってもいいと思ったんだ…」
『嫌だ……呼ばない…』
あれは、お前の本心の裏返しだったんだな。
「…うん」
少しずつ氷がほどけていくように、煉󠄁獄が本当の音を曝け出していく。
「あんなことがあっても、君を少しも嫌いになることなんてできなかった…。だから、間違った方法だと解っていても、一回二回と、次々と間違いを重ねて……」
真面目な彼が恋人を持ちながらした選択を、誰にも見えない胸の内でどれほど後悔し、どれほど自分を責めたのだろう。それでもその綻びを糺すことができないほど――
「今更君との一切の関係を断つことなんてできない…、……っ」
煉󠄁獄の視線は水を含んで揺れていたが、それでも強い意志でもって俺を貫いた。
「それほど俺は、まだ君が好きだ……」
「――――」
「…好きなんだ…っ、…」
「煉󠄁獄、」
どうかもうそんな痛そうな、罪を負っているような顔をしないで欲しかった。泣きたくて、でもそれすら罪悪を感じて泣けないような苦しい顔を。
「俺ら"三人"ともさ、…もう自分を許してもいいんじゃねぇかな…。自分が間違ってたこと、それぞれがちゃんと気がついたんだから今度は…、自分の本音通りに、生きていいんじゃねぇかな…」
きっとあいつも。
そう考え直したから、だから『壊した』なんて言いながら、煉󠄁獄を手放したんだ。
「………」
「だってお前さ、俺ら兄弟二人のうち、どっちか憎んでる?」
煉󠄁獄は静かに首を横に振る。
「だったらもう誰も傷つかないんじゃねぇかな…。三人きっとそれぞれ充分悩んで苦しんだはずで…、もうそろそろ許されてもいいんじゃねぇかな」
「………そう、だろうか」
「だって人を好きになるのって、…本来悪いことじゃないだろう?」
大事なのはきっと、好きという想いを軸にどう行動するかなのだ。
「…うん」
善か悪か判断されるのはその行動であって、想い自体は良いも悪いも越えたところにあるはず。
「…そうだな」
深く沈んでいた煉󠄁獄の視線が、彼の想いと共にゆっくりと浮上してくるのを感じた。俺の一等好きな綺麗な瞳に自分が映り込む。
「………君を好きだというこの想いを……もう誇ってもいいのだな………」
「………うん」
「…そうか……それなら……」
感情に揺れていた声が、晴れやかな音に変わってゆく。
「…十数年ただ築き続けただけだったものを、存在していていいんだと……俺も、認めてやりたい」
煉󠄁獄はそう言って、くしゃりと笑った。ほとんど泣き笑いのようなものだったけれどそれはもう長いことずっと見ていなかった俺の好きな人の笑顔で、自然と胸が熱くなる。
「…俺も、お前を好きになったこと、誇りに思うよ」
最近気づいたばっかでお前の経歴に比べりゃ新米もいいとこだけど。
冗談めかして言えば、更に笑顔が返ってくる。今度こそ堪えきれずに俺は目の前の体を抱き寄せた。
「………、」
しばらくして背中に感じた手のひら温もりに、
「っ、煉󠄁獄」
目頭がジン…と痛くなるのを抑えられなかった。