ムーンライト・ボールルーム『再来週の土曜日は空けておけ』
ある日の夜、レオからそんなメッセージが届いた。理由もなくこちらの予定を決めてしまう身勝手な振る舞いにもとっくに慣れていたけど、一応『なんで』とだけ返した──が、そのメッセージに対する返信はなかった。
支店で顔を合わせた時に聞いてみても、その話題に対しては無視を決め込むばかりで一向に話が見えてこない。
レオがこちらの都合も聞かずに予定を入れるのは初めてではなかったが、理由を聞いても答えないという事は、今までなかった。
教えてくれねぇなら付き合わねぇぞと一蹴するのは簡単だけど……惚れた弱みというやつだろうか、俺はそうはしなかった。
公私問わずに飛んでくるこんな身勝手に付き合ってやれるのは、多分俺ぐらいだし。
という事で、俺のスケジュールアプリには、“レオ”とだけ書かれた詳細不明の予定が居座ることになった。
──そして、連絡のあった日から17日後、件の“再来週の土曜日”当日。
俺は、だだっ広いパーティー会場にいた。
◆ ◆ ◆
「はぁ……」
「溜息を吐くな。みっともない」
「だってさぁ……」
ちらりと声の主に視線をやる。普段とは違う、白を基調とした煌びやかなパーティースーツに身を包んだレオが、冷ややかな目つきで俺を睨みつけていた。
スーツに合わせてだろうか、いつもは重めに整えている前髪を、今日は真ん中あたりでゆるく分けている。そのせいで冷たい視線が遮蔽物なくこちらへ刺さってきて、居心地が悪いことこの上ない。
「なんで俺なワケ?他に適役いるだろ」
そう。今回、他の支店メンバーはこの場にいなかった。正直こういうシチュエーションは、ヴィジャイやクリスの方がソツなくこなせると思う──ウェンディはまぁ、俺とどっこいどっこいかもしれないけど。
ちょっとしたデートかと期待したのに、堅苦しいパーティーに連れて来られたんだ。そりゃ溜息だって吐きたくなる。
「お前、社交パーティーの経験はあるか?」
「ンなもんねぇよ。今日初めて来た」
「プロムは?」
「出なかった。自由参加だったし」
「だろうな」
だろうなって。分かってんならわざわざ聞くな。
「ピノクルで働く以上、今後参加しなければならない機会が出てくるだろう。その時に醜態を晒さないよう、この機会に練習しておけ」
「練習、って言ったってなぁ……」
そう呟きながら、辺りを見渡す。
サッカーコートよりも広いんじゃないかというほどの会場に、テーブルに所狭しと乗った豪勢な料理。そして何より、レオと同様華やかな衣装に身を包んだ、明らかに一般人ではない参加者たち。
──どこをどう見ても、練習に使うような催しではない。こんなの、俺にとってはぶっつけ本番みたいなものだ。
「衣装についてだけ言えば、お前だって同じだろう」
レオが顎をくい、と動かして、俺の服装を指す。
「そりゃまぁ、誰かさんのお陰で」
そう、かく言う俺も、レオに負けず劣らず煌びやかな、黒を基調としたパーティースーツを着用している──レオを迎えに行ったとき有無を言わさず屋敷の中に連行されて、あれよあれよとコーディネートされ、ヘアセットも普段と違ったものにされた。なんなら、ついでに化粧もされている。
ここにいる女性に比べたら何もしてないのと変わらないぐらいの薄化粧なんだろうけど、化粧なんてしたことのない俺にとってはとんでもない事だった。顔に異物がまとわりついている違和感がどうにも消えない。早く顔を洗ってしまいたくてむずむずする。
「……とにかく、そこまで長居する予定はない。暫く我慢しろ」
「へーへー……」
適当に返事をしながらレオの顔を観察する──分かりづらいけど、レオも軽く化粧をしているようだった。心なしか、普段より血色がよく見える。瞼に薄くついたラメが、シャンデリアの光を反射してきらりと光った。
「来たはいいけどさ。パーティーって何するんだよ。適当に飯食ってりゃいいの?」
「たわけ。ウェンディのような事を言うな」
さすがのウェンディもそんな事は──言うかもしれないけど。
「ここは交流と食事を目的とした会場だ。隣はボール・ルームになっているが……まぁ、行く必要はないだろう。今回は立食パーティーとでも思っておけばいい」
ボール・ルームと言うと……舞踏室か。俺が想像する“パーティー”は、そっちのイメージに近い気がする。あとで暇な時にでも覗きに行こうか。
「これだけ開けた場所だ、おかしな行動をすれば目立つ。……今回は社の人間として招待を受けたわけではないが、ピノクルの従業員として、最低限の自覚は忘れるな」
「はいはいわーったよ……って」
面倒なお小言を適当に受け流そうとして、ふと気がつく。
「ピノクルの人間としてじゃないって……どういうことだ?」
「今日の招待は、俺個人宛に来たものだ」
──言われてみれば確かに、レオの親父もオーウェンも見当たらない。ピノクルの上層部の人間とも何度か顔を合わせたことがあるけど、その誰もが会場にはいなかった。
そもそも、クリスもウェンディもヴィジャイもいないんだ。ピノクル社としてお呼ばれしてるなら、俺が来ていてほかの連中が来ていないというのはおかしい。
「個人宛って。なんで?」
「さぁな。おおかた“セオドール様の息子”から取り入ってやろうという寸法だろうが」
関わりのある組織からの招待だから断れなかった、と心底面倒くさそうに溜息を吐くレオ──俺には溜息を吐くなって文句をつけてきたくせに。
まぁでも、こいつにはこいつなりに色々苦労があるらしい。ここで突っ込むのも大人げないか。
「俺は主催に挨拶をしてくる。お前はその辺で待っていろ」
「ふーん。寂しくねぇ?ついて行ってやってもいいけど?」
「ついて来たいなら好きにしろ。その代わり、少しでも粗相をしたら給与明細の桁がひとつ減ると思え」
「あー俺なんか腹減ってきたかも!あっちに美味そうな飯あったから食ってこようかな〜!」
背中にレオの刺すような視線を感じながら、そそくさと逃げるようにその場を離れる。挨拶回りも上手くこなせるは自信あるが、万に一つでも減給になるような事態は避けたい。適当なテーブルに寄って、取り皿を1枚手に取る。
「おっ」
よく見れば、中央の大皿には、カットされたローストビーフが几帳面に並べられていた。確か、レオはローストビーフが好きだったはずだ。直接聞いたわけじゃないけど、パブに行く度に注文をしているので、まず間違いないだろう。
あとで戻ってきたら教えてやろう。その前に俺が味見しておいてやるか。
そんなことを考えながら、鼻歌まじりにトングに手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
「おっせぇ……」
レオと別行動になってから30分以上が経過したが、一向に戻ってこない。
食いたいモンはあらかた食い尽くしてしまったので、完全にやることがなくなった。手に持ったグラスのグレープジュースも、そろそろ空になる。
──あいつ、1人で帰ったんじゃねぇだろうな。
しびれを切らして会場内をつぶさに観察すると、かなり離れたテーブルの傍にレオの姿を認めることが出来た──やたらと熱心なやり手社長といった風貌の男に、ひっきりなしに言葉を投げかけられている──笑顔を作ってはいるが、内心相当キてるに違いない。
あの様子ではまだ時間が掛かりそうだ。どうしたもんか……と考えて、はたと思い出す。
隣、ボール・ルームなんだっけ。
お行儀のいいダンスなんかできないし踊る気もないけど、中の様子は気になる。サンフィールズにはプリンセスに憧れる子供なんかもいるから、いい土産話ができるかもしれないし。
残りのジュースをぐいっと飲み干して、近くにいたスタッフにグラスを返却する。
レオの相手がまだ話し終わっていないのをちらりと確認してから、廊下に出た。
「隣、隣……っと」
部屋の配置的には隣なんだろうけど、何せひとつひとつの部屋が常識外れにデカい。ひとつの部屋に複数の扉がついているので、単純に隣の扉がボール・ルームのものという訳ではなかった。
扉を2つ素通りしたところで、少し意匠の違う扉が視界に入ってきた。ここが隣の部屋かもしれない。
近寄ってみると、ゆったりとした上品なクラシックが聞こえてくる──どうやら間違いなさそうだ。
そっと扉に手を掛けて押し開ける。別に悪いことをしている訳じゃないのに、変に緊張してしまう。いたずらがバレて、リンジーの部屋に呼び出された時を思い出しながら、少し開いた隙間から中を覗き込んだ。
「お、おぉ……」
扉の向こうには、言ってしまえば想像通りの光景が広がっていた──社交パーティーにも、プロムにすら参加したことのない俺の“想像”というのは絵本や映画なんかで描かれているようなレベルのものなので、その想像通りというのはつまり、フィクションでしか見ないような光景、ということだ。
部屋の構造自体はさほど変わらないけど、テーブルがないだけで余計に広く見える。あちこちで踊っている参加者の衣装は、なんとなくさっきの部屋にいた人達よりもより華やかな気がした。食事や会話を目的としているか舞踏会を目的としているかで、服装にも若干の違いが生まれるのかもしれない。
ひらひらとしたドレスの裾が曲に合わせて揺れる様子は、まるで色とりどりの熱帯魚が泳いでいるようで、見ていて飽きなかった。
「……あの」
「う……おっ、あっ、はい……!?」
中の様子に気を取られていると、不意に後ろから声を掛けられる。体勢を崩しそうになりながらも慌てて振り返ると、そこには1人の女性が立っていた。
ゆるやかに巻かれた長髪に、上品なピンクのドレスを身に纏っている──この人、確かさっきの部屋にいた気がするな。
「中にご用ですか?」
「あぁ……いえ、そういう訳じゃないんですが……同伴者が隣の部屋で取り込み中でして」
興味もあったので少しこちらを拝見しようかと、と続けると、女性は「まぁ」と目を丸くした。
「貴方みたいな素敵な方を放ったらかしにするだなんて、ひどい方ですのね」
「……そんなことは」
レオの人間性に問題があるのは確かだけど、今回の件にそれは関係ない──何ならあいつは自分の立場を考えて気の進まないことをしているわけだから、立派ですらある。
「ねぇ、貴方お名前は何て仰るの?お暇なら私と1曲踊ってくださらない?」
「いや、俺……違う、えーっと、私は……」
名前も素性も知らない女の人は、俺の返事を待たずにぐいぐいと迫ってくる。踊れって言われても、俺には社交ダンスの素養はない。それに、ほんの少しとは言えレオの行いに苦言を呈されたことに、俺は軽く苛立ちを覚えていた──俺が言うのはいいけど、レオのことを知りもせずに勝手を言われると、普通にムカつく。
けど、ここで怒るわけにもいかないし、どうしたものか……とりあえずこの場をやり過ごそうと、ぎゅっと拳を作って苛立ちを逃そうとしてみた。
「失礼」
ふと、女性の背後から聞き馴染みのある凛とした声が聞こえる。俺と女性が同時に声の聞こえた方向を見遣ると、案の定というかなんと言うか、そこには出来のいい作り笑いを浮かべたレオが立っていた。
「……あっ」
「彼は僕の連れです。何か御用でしたか?」
「えっ……レオ様の?」
女性はぎょっとしたように、レオの顔と俺の顔を交互に見遣る。……何かおかしいことでも言ったか?
「もしかして、何か無礼でも?であれば申し訳ありません。彼はこういう場には不慣れなものでして……僕の方からきちんと謝罪をさせて頂きたいのですが」
「い、いえっ!そんなことは……私はこれで失礼いたしますね!」
あれだけぐいぐいと寄ってきていた女性は、レオの言葉を聞くや否やあっさりと離れていって、あっという間に姿が見えなくなった──ぎゅっと握りしめた拳が力の行き場を失ってしまったので、とりあえずレオの胸元を軽く小突いてみる。
「おせーよ。何してたんだ」
「挨拶だと言っただろうが。数分前の記憶もないのか貴様は」
そう言いながら、レオは俺の腕をぎりぎりと掴み上げた──30分以上前のことは、数分前とは言わないんじゃないか。
というかこいつ、見た目の割に握力が強い。まぁ、我慢できないほどじゃないけど。
「離せって」
「ふん」
振り払おうとすれば、あっさりと手を離す。いつもの小競り合いの一環だから、俺もレオも本気でやっちゃいない。
「さっきのは男癖の悪さで有名な令嬢だ。今では大体の人間が彼女の事を知っているし相手にしないが……お前は見慣れない顔だから、狙われたんだろうな」
「うげ、そうだったのか……」
そんな奴がいるなら予め言っておいてくれればいいのに──と思ったが、勝手に部屋を出たのは俺なので、強くは言えない。
取り込み中だったとはいえ、あの会場内で俺が絡まれていたらレオもすぐに気付けただろうし。
「それで、なんでこんな所にいるんだ」
「別に、大した理由じゃねーよ。ちょっと見てみたかっただけで」
そう言いながら、ボール・ルームの扉を指す。
「レオは踊んねぇの?」
「踊らん。さっきも言っただろう。この部屋に入る必要はない」
「せっかく来たんだから踊っていけばいいのに」
「お前にとっては『せっかくの機会』だろうが、俺にはそう珍しいものではない。それに……」
途中まで言いかけて、レオは口を噤んだ。
「……それに、何だよ」
「……何でもない。いいからさっさと戻るぞ」
「最後まで言えって。気になるじゃん」
俺の言葉を無視して、来た道を戻っていくレオ──その後を追おうとしたところで、ボール・ルームの扉を半端に開けていたことを思い出した。音も漏れるだろうし、閉めておこう。
扉に手をかけて、なんとなくもう一度中を覗き込む。
さっきは特に意識しなかったけど、よくよく見てみれば、踊っているのは男女ペアばかりだった──確かに、こういうダンスは男女ペアのイメージが強い。
とは言え、男同士のペアも女同士のペアも、少数ではあるが見受けられた。競技ダンスではないし、明確なルールが存在しているわけではないらしい。
「おい、何をちんたらしている。早くしろ」
いつの間にかかなり向こう側まで歩いていたレオが、俺がついてきていない事に気付いたのか声を上げた。その声ではっと我に返り、音を立てないように扉を閉める。
子供たちへの土産話は、「異性に絡まれたパートナーをスマートに助けた王子様みたいな奴がいた」という話にしようか──絡まれたのは俺で助けられたのも俺、なんなら“王子様みたいなやつ”は俺より年下の子供なんだけど、別にそこまで明かす必要はないだろう。夢を壊さないために、多少の脚色は必要だ。
レオに続くかたちで元の部屋に戻ると、さっきよりも人が減っているように思えた。顔だけ出してさっさと帰る、みたいな奴も多いらしい。そういう部分は、普通の飲み会と大差ないのかもしれなかった。
「そうだ。さっきあっちにローストビーフあったぞ。お前、ずっと話し込んでたなら何も食ってないだろ」
「ふん、俺は別に……っておい、離せ!」
レオの言うことを無視して、腕を掴んで歩き始める。こいつは決して少食な方ではない……むしろ体型の割にはかなり食べる方だから、多分かなり腹が減ってるはずだ。帰りに飯を強請られても困るので、ここで食わせておきたい。
件のテーブルの傍にレオを立たせて、手際よくローストビーフと適当な付け合せを取り皿によそう。それをフォークと一緒にずいと差し出せば、不満そうな顔をしながらも渋々受け取った。これでよし。
俺はもう食べたいものは食べたので、手近なテーブルからグラスをひとつ手に取る。中身を少し口に含んでみると、注がれていたのはアップルサイダーだった。上品な微炭酸に合わせて、華やかなりんごの香りが鼻を抜けていく。特に確かめずに手に取ったが、さっきのグレープジュースよりもこっちの方が好みだ。
「……」
「……」
無言の時間が流れる。まぁレオはものを食べてるから当然と言えば当然だけど、俺からも特に言うことがなかった。──いや、ひとつ気になることはあったけど、聞くべきなのかどうか悩んでいた、というほうが正しいか。
レオが意識的に言わずにいたならそれなりの理由があるんだろうし、そこに突っ込むのは野暮かもしれない。
──でも、気になるんだよなぁ。
俺が野暮なのは今に始まったことではないし、気にするだけ無駄かもなと思えてきた……それに、俺とレオの認識を確認するという意味で、必要なことでもあるはずだ。
「なぁレオ」
少し減ったグラスの中身をゆらゆら揺らしながら、なんでもない風に声を掛ける。と、言葉での返事はないものの、視線がこちらへ向いた。レオが話を聞く姿勢になったのを確認して、言葉を続ける。
「このパーティーって、その……参加するのに、決まりみたいなの、あったか?」
「……どういう意味だ」
「だからさぁ、なんというか……」
変に遠回りしようとしたせいで、聞きたいことが伝わらない。持って回った話し方は、どうにも苦手だ……いっそ、ストレートに聞くか。
「……このパーティー、カップルで参加するモンなんじゃねぇの、って」
「……」
そう、少し前からそう感じていた。
ボール・ルームの様子や、俺に声をかけてきた女性の態度、加えて彼女がレオの話を聞いた時の動揺っぷり。そうかもと思って今いる会場を見てみると、圧倒的に男女ペアが多かった。もちろん同性同士もいなくはないが……まぁ、そういうことだろう。少なくとも、3人以上で参加しているグループはいないように見えたし、殆どの2人組はなんというか……普通の友達同士だろうなという感じではない。距離感が近かったり、触れ合いが多かったり、そういう感じ。
「どうなんだよ」
「……お前には関係ないだろう」
「いや……俺、連れて来られてる当事者なんだけど」
露骨に視線をそらして誤魔化そうとするレオに、ずいと顔を寄せる。
「いいじゃん別に。『そう』だったとして、間違ってねぇんだし」
こいつが俺との関係を表に出したくないのは知っていたから、『それでも俺を連れて来たかったのか』という部分は、俺にとってかなり重要な事だった。
そういう制約つきの催しなのであれば、そもそもパートナー不在という理由で断ることは簡単だっただろう。参加するにしても、適当にウェンディあたりを飯で釣ってやり過ごせたはずだ。
それでも、詳細を告げずにわざわざ俺を連れてきたのであれば、そこには何か考えがあるんじゃないのか。その“考え”まで聞き出せるかは怪しいけど、とりあえずこの催しの主旨だけははっきりさせておきたかった。
「で、どうなんだよ。さっさと言えって」
「……」
「なぁ、おい」
こいつ、ずっと言わない気だ。──否定しないその態度が、イコールで肯定しているようなものだと思うんだけど。
まぁいい。そっちがその気なら、俺にだって考えがある。
「……出るか」
「……は?」
こいつは、他人がいる場所よりも、完全に2人きりの場所の方がほんの少しだけ素直になる──本当に、ほんの少しだけ。だから、そういう場所に連れて行って聞き出せばいい。お行儀のいいパーティーにも、ちょうど飽きてきたところだ。
いつの間にか綺麗に空になっていた皿をレオの手から取り上げて、俺のグラスと一緒にその辺のスタッフに預ける。そのまま流れるような動きでレオの手首を掴むと、慌てたような抗議の声が上がった。
「おいっ……!何の真似だ!」
「いーから。もう挨拶だって済ませたんだろ」
レオを引きずるようにして、扉へ向かう。レオに本気で抵抗されれば、こんな簡単にはいかないはずだ──何だかんだで、ポーズだけの抵抗だろう。
「帰るなら帰るでその挨拶が必要に決まっているだろう!何も言わずに会場を後にするなど……」
「……いや、その辺は大丈夫じゃねーの」
部屋から出て、誰もいない静かな廊下に出る。この建物の間取りは全く分かっていないが、運良く人通りの少ない方へ出られたらしい。
扉が閉まったことを音で確認して、後ろを振り返る。困惑を隠しきれないレオと、目が合った。
「“そういう”会ならさ、パートナー同士がパーティー中にふらっといなくなるなんて、珍しいことじゃないだろ」
わざとらしく少し屈んでレオの顔を覗き込む──表情こそ変わらないが、少し肩がびくりと跳ねた気がした。俺の言いたいことは伝わったらしい。
「そういうことで。さっさと出ようぜ」
掴んだままだったレオの細い手首をまた引いて歩き始めようとすると、「離せ」とか細い声が上がった。
まぁ、会場から連れ出すという目的は果たせたし、このまま掴んでおく必要もないのか。そう思って、言われた通りに離してやる。
「……なんだよ」
「……」
言う通りに手首は離してやったのに、レオは腕をこちらに差し出したまま動かない──こいつ、余計なおしゃべりは多いくせに、必要なことは本当に言わないな。
意図を掴みかねてしばらく考えて、やっとひとつの答えが浮かんだ。
「……こうしろって?」
確証の持てないまま、さっきまでレオの手首を掴んでいた手で、今度は手のひらに触れる。すると、俺のより一回り小さい手が、遠慮がちに手を握ってきた。どうやら、正解だったらしい。
「お前さぁ……それぐらい口で言えよな」
「喧しい。さっさと歩け」
「はいはい」
さっきまでの賑やかな雰囲気とは一転、この建物には俺たちしかいないんじゃないかと錯覚してしまうほどに、廊下は静まり返っていた。2人分の足音だけが、広い空間にやたらと大きく響く。
──とはいえ、たまに隣から「その角を右」とか「向こうの階段を降りろ」とか、そのぐらいの指示は飛んできたけど。どうやらレオは、ここに来るのは初めてではないらしい。
レオの案内に沿って歩くこと5分ちょっと、俺たちはひとつの大きな扉の前に着いていた。取っ手にはうっすらと埃が積もっていて、それなりの期間この先に立ち入った人間がいないことが伺える。
「開けろ」
「えっ。でもここ出口じゃねぇよな?」
そう、ここは俺たちが最初に入ってきた扉とは違うものだった。そもそも俺たちが入ってきたのは1階で、ここはまだ3階だ。出入口が複数あるとしても、少し違和感がある。
「いいからさっさとしろ」
有無を言わさない態度に気圧されて、わけも分からずに重厚な扉を押す──左手はレオの右手と繋がっているので、もう片方の手のみで押し開けた──すると。
「お、おぉ……」
そこには、広々とした庭のようなスペースがあった。でもここ、3階なんだよな……デカいバルコニーってことか。
「こんなトコあったのか……全然気付かなかった」
「昔はここでもパーティーが開かれていたらしいが、今ではあまり使われていない。この場所の存在を知ってる人間も、そう多くはないだろうな」
言われてみれば、芝生は不揃いだし、端に置かれた木製のベンチはビニールテープでぐるぐると巻かれて封鎖されている。バランスよく配置された低木も手入れはされていないようで、完全に枯れていないのが不思議なぐらいだった──有り体に言えばこのバルコニーは、どこもひどく寂れていた。
洒落たパーティーの裏で人が立ち入ってこない場所なんて、逆に穴場として逢瀬に使われまくってるんじゃ……と一度は思ったが、見れば見るほどその可能性はなさそうだった。豪華なパーティーに招待を受けるようなお上品な連中が、こんなロマンチックさの欠片もないような場所で過ごすのは、想像しづらい。よく分からないけど。
「こっちだ」
ぼーっと辺りを観察していると、繋いだ手はそのままに、レオが石畳の上を歩き始める。急に引っ張られて、少し転けそうになった。
「っ……おい、何すんだよ」
聞いてみても、案の定というかなんというか、返答は返ってこない。
諦めてしばらく大人しく引っ張られていると、バルコニーのちょうど中央部分──石畳が広く敷かれたところで、レオは歩みを止めた。
「ここならいいだろう」
しばらく繋いでいた手を、あっさりと離される──繋いでいた時間は10分もなかったと思うけど、なんだかえらく久しぶりに外気に触れた気がした。なんとなく名残惜しく感じられたのは、たぶん夜風が冷たかったからだろう。そういうことにしておく。
「さっさと済ませるぞ」
「いや……何を?」
いまいち話が見えてこない。わけも分からず口をついて出た俺の問いかけに、レオは呆れるわけでもなく返してくる。
「踊りたいんだろう」
──あぁ、なるほど。俺が連れ出した理由を、こいつはそう解釈したのか。俺は、ただ話がしたかっただけなんだけど。
確かに俺はレオに対して「踊らないのか」と聞いたけど、その時はまだあの催しがカップルで参加する場だとは知らなかった。純粋に社交の場だと思っていたからこその問いかけであって、別に俺が踊るつもりなんて、これっぽっちもなかった。
なんだか色んな部分で考えがすれ違っていて、おかしさが込み上げてくる。俺もこいつも、言葉足らずだ──性格も考え方も育ってきた環境も全然違うのに、こういうところだけ変に似ている。
耐えきれずにくつくつと笑うと、レオが整った顔を不快そうに歪めた。
「──なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「ふはっ、お前がそれ言うかよ」
笑いを噛み殺せないまま、レオの両手に自分の両手を軽く添える。一気に距離が縮まって、レオの整髪料の香りが鼻腔をくすぐった。
可愛い勘違いに免じて、ここは付き合ってやろう。
「言っとくけど、俺社交ダンスなんかやったことねーぞ。お前がリードしろよ」
「構わん。俺に合わせておけばいい」
俺より一回り小さいレオにリードされるのは不服ではあったけど、俺は出来ないんだからまぁ仕方がない。
レオがゆっくりとステップを踏み始めたので、ワンテンポ遅れて、同じように石畳を踏んだ。
上品なクラシックのBGMもなければ、頭上から降り注ぐシャンデリアの派手な光もない。あるのは柔らかい風が芝生を撫でる音と2人分の革靴が石畳を叩く音、それに薄らとした月明かりだけで、それでも俺は不思議と高揚していた。煌びやかなボール・ルームを覗き込んだときよりも、ずっと。
言葉を交わすこともなく、しばらくゆったりと踊り続ける。きっと難易度の低い、初歩の動きをしているんだろう。特に指示はなくとも、レオの動きを真似るだけでなんだかそれっぽくなっている気がした。
「レオさ」
踊る動きは止めずに、口を開く。返答はなかったけど、聞こえているはずだ。これだけ静かなところで、これだけ接近しているんだ。聞き逃すなんて、万に一つも有り得ないだろう。
「俺との事、いつまで秘密にすんの?」
そう言葉を続ける。俺の手を握るレオのそれに、少し力が入った気がした。
「……どういう意味だ」
「お前、言わなきゃ分かんねぇほど頭悪くねぇだろ」
だんだん動きが分かるようになってきた──自分で言うのもなんだが、俺は割と飲み込みが早い方だ──次は多分左腕をゆっくり伸ばして半歩右に出るだろう。ほら、当たった。
「何度も言っているだろう。俺には、お前と違って立場がある」
「ンなこと分かってるけど。でもさ」
──これ、リード権奪えるかも。試しにレオの作った流れを無視して、ぐいっと一歩、踏み込んでみる。すると、一瞬面食らったように体がこわばったものの、すぐに俺の動きに合わせて、華奢な体が後ろへ下がった。
「だったらこんなとこ、連れてこなきゃ良かっただろ」
「……」
「社交界の練習だかなんだか知らねぇけど、他にいくらでもタイミングあったんじゃねーの」
しばらく、お互い無言になる。
その間も動きは止めず、地面を滑るように移動する。完全に見様見真似の適当なリードなのに、レオは全てについてきた。
ただでさえ周囲は暗いうえに、少し俯いたレオの顔には陰がさしてしまって、表情が読めない。まぁ、急いでいるわけでもないから、気長に待ってやることにしよう。
ふと思い立って、流れのままに、試しに腕を高く上げてみる。すると、それに呼応するように、レオは俺の手を支えにして、つま先でくるりと綺麗なターンを決めた。
「っ……ふ、ははっ……」
「くっ……何がしたいんだ、お前は……」
何も言わなくても意図が伝わったことが嬉しくて、つい笑い声が漏れる。呆れたような物言いをするレオも、つられて笑い始めた。
なんだかおかしくて仕方なくなって、しばらく2人でくすくすと笑い続ける──もちろん、その間もステップを踏むのはやめない──けど、さっきまでのようなしっとりとした雰囲気はすっかりなくなっていた。
笑っているせいでステップのテンポはめちゃくちゃだし、握った手は少し震えていて、それがまたおかしくてたまらなくて、余計に動きが乱れる。
社交ダンスの先生なんかが見たら怒号のひとつでも飛ばされそうな有様だったけど、幸いなことに、今この場にいるのは俺とレオだけだった。
「……お前は」
ひとしきり笑いながらめちゃめちゃなステップを踏んだあと、ひと呼吸おいたレオが、遠慮がちに口を開いた。
視線を落とすと、笑ったためか少し潤んだブルーがこちらをまっすぐに見つめている。いつだったか、レオの瞳を見て「空みたいだ」なんて思ったっけ……それは夜闇の中でも変わらないらしい。透き通るような、それでいて鋭さを持った双眸から、目が離せない。
「お前は、どうしたい」
「……俺?」
想像していなかった問いかけでの返答に、つい間抜けな声が出た。質問を質問で返すなと言ってやっても良かったけど、普段はそんなことをしないレオの事だ──きっと何か思うところがあるんだろう。無粋な物言いはぐっと飲み下して、聞かれたことについて考える。
さっきまでめちゃめちゃだったステップはいつの間にか元の調子を取り戻していて、2人分の行儀のいいリズムを刻んでいる。揃ったと思ったら乱れて、また揃う。まるで俺たちみたいだなんて、柄にもないことを考えた。
「俺……俺は、何と言うか……別にバラしたいわけじゃないけど、隠したくもないというか」
「……」
「“普通”でいられりゃ、それでいいんだけど」
左足をぐっと後ろに引けば、レオがそれに合わせて右足をこちらに踏み込んでくる。それを確認してから、その両方の足を軸にして、レオを覆うような軌道を描いてぐるりと180度回転した。実際の社交ダンスにこんな大仰な振りが存在するのかは知らないけど、誰に披露するわけでもないし、楽しければオッケーだと思う。
「別に、外でイチャつきたいとかそういうんじゃねぇけど。俺たちが普通に過ごして、それが普通に受け入れられればいいのに、みたいなこと」
「……普通、に……」
俺たちの関係を他人に知らしめたいとか、そんな気持ちは──全く無いと言えば嘘になるけど──そんな自分本位で身勝手極まりない感情は、今は関係なかった。
声高に「俺たちは恋人同士です」と言う必要がないように、恋人であることを隠す必要もなくなってほしい。
だから、今回の催しの主旨に気付いたとき、実は結構嬉しかったりした──俺が求めてるものに、すごく近い気がしたから。レオも俺と同じように思っていたら。例え『フリ』であっても、俺以外の人間をパートナーとして連れて来たくはなかったんだとしたら。そうだったらいいのにと、そう思った。
「俺はレオを選んだんだって隠さずにいたいし、レオも俺を選んだって堂々としてられるようになんねぇかな、みたいな、そういう……」
──今、とんでもなく恥ずかしいことを言ってる気がする。
段々と声が小さくなってしまって、最後の方はレオの耳に届いたか分からない。俺は考えるのが苦手だし、気の利いたことを言うのはそれ以上に苦手だ。レオに何度揶揄われても、これだけは一向に得意になる気がしない。
「……タンマ、今のなし。考え直すからちょっと待っ……」
動揺して、つい取り乱す。と、さっきまで上手くいっていたはずのステップで、足がもつれた。
「うおっ、ヤバ……っ!」
しっかり手を握っていたせいで、つられてレオも体勢を崩す。足元は石畳だ。ここに受け身もとらずに倒れ込めば、かなりのダメージを受けるであろうことは想像にかたくない。
繋いでいた手を離して、咄嗟にレオを強く抱き寄せる。
「な、っ……おい!」
どさり、と大きい音が鳴って、背中に衝撃が走る。広い範囲が地面に叩きつけられたうえにレオを抱えていたので、瞬間的に肺が強く圧迫されて、押し出された空気が呻き声として空気中に散っていった。
一瞬とも数十分とも思える無言の時間が流れる。もうパーティーも終わる頃なんだろう、遠くの方で数人の男女が談笑している声が風に乗って耳に入ってきて、今は何時ぐらいなんだろうとぼんやり考えた。
「いっ……てぇ……」
気まずい時間に耐えかねて、先に口を開いたのは俺だった。
やっとの思いで捻り出した言葉は、なんとも情けないものだった──ダンスパートナーを助けて最初に出るのがこれなんだから、とことん格好がつかない。
「……おい、大丈夫か?」
「離せ」
「えっ、あっ……おう」
しばらく大人しく抱えられていたレオに声をかけると、冷ややかな声が返ってきた──助けてやったんだから、ありがとうぐらい言ってくれてもいいのに──そういえば、俺たちが初めて会った日にも、そんなことを思った。でも、あの時とは違って、今回は完全に俺に非がある。
言われた通りに腕を解いてやると、レオはゆっくりと上体を起こして、俺を見下ろしてくる──俺の下腹部に馬乗りになっている構図に、心がざわついた。そんなこと言えるような空気じゃないんだけど。
ただならない雰囲気を感じて、思わず額に冷や汗が滲む。俺が勝手に動いて勝手に転けたんだ。舌打ちでもされるか、怒鳴られるか、最悪平手打ちでもされるかもしれない……と身構えていたが、レオが発した声は、予想に反して柔らかいものだった。
「……いつか」
ぽつりと、独り言のように呟く。
「いつか、挨拶に行く」
「……挨拶?」
意味がわからずオウム返しをする俺に構わず、レオは続けた。
「今日のパーティーに俺が招待された理由は……言ってしまえば、主催の御子息と御息女のパートナー探しだ」
「……ふーん」
「招待を蹴れば候補に残り続け、パートナー同伴のうえ参加すれば今後は候補からは外れる──と、まぁそういったところだろう」
そんな下心ありありの会だったのか……周りくどいことをする金持ちもいたもんだ。まぁ、いい相手を捕まえられればそこから得られる効果は絶大だから、賢いといえば賢いのかもしれないけど。
それなら、ピノクル社の中でレオだけが招待された理由も説明がつく。若い身空にも関わらず既に成績を残していて、ルックスも申し分なく、将来の絶対的な立場が約束されている人間──それにレオぐらいの年齢なら、将来を誓ったパートナーがいる可能性も低いというわけだ。許嫁がいるなら、ある程度は広く知られているだろうし。あまり意識したことはなかったけど、レオのパートナーの座というのは、椅子取りゲームの標的にされているようだった。
「仕方なく参加はしたが、挨拶には1人で行ったからな……あの調子では、誤魔化すために適当な同伴者を連れてきたんだと思われているだろう」
そう言いながら、レオは苦虫を噛み潰したような顔で虚空を見つめる。この様子だと、相当熱烈なプレゼンを受けたらしい……少し哀れに思えてきたな。
「だから」
俺に向き直ったレオが、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。いつになく真剣な眼差しに、思わずごくりと唾を飲んだ。
「いつかお前を連れて、改めて挨拶に行く」
静かに、でも強い意志を確かに感じさせるように、レオはそう告げた。
2人の関係を公にすることについてずっと後ろ向きだったレオが、ここまで言っている。しかも、こいつが渋っていた理由は「恥ずかしいから」とかそんな感情的な話じゃない──レオの肩には俺じゃ想像もできないぐらいの重圧が掛かっていて、レオの振る舞いひとつで、ピノクル社の人間はもちろん、フォーランド国内の大多数の人間に影響が及ぶことだってあるんだ。慎重に行動するのは、当然と言える。
だから、普段の生活でぐらいは自然にいられたらと、それぐらいに思っていたんだけど……レオの発言の裏にある意図は、それを数段すっ飛ばしているように思えた。
「……それってさ」
真剣な顔でこちらを見つめてくるレオに応えるように、なるべく表情を崩さないように言葉を紡ぐ──本当はめちゃくちゃ嬉しくて、少しでも気を抜いたら頬が緩んでしまいそうだけど。
「……プロポーズ?」
「そうだ」
即答だった。
「……マジで?」
「マジだ」
しかもマジのやつらしい──いや、レオがこんな時に冗談を言うようなやつじゃない事ぐらい、分かっていたけど。
「お前のような世間知らずでも多少は知っているだろうが……この国はまだ、同性パートナーが完全に受け入れられるような環境ではない。そんな中で俺たちのことを公にすれば、少なからずバッシングを受けることもあるだろう。俺も、お前も」
フォーランドのそのあたりの状況については、レオと付き合い始めてすぐの頃に軽く調べたことがあった。数年前にやっと同性婚が公的に認められはしたものの、長い間に蓄積された偏見は、そう簡単には拭えないらしい。
俺たちよりもずっと上の年代──それこそ、ピノクル社内のお偉さん方ぐらいの連中にとっては、はいそうですかと簡単に受け入れられるものでもないだろう。
「それに、世継ぎの問題もある。子を成すことができない以上、社が代々続けてきた世襲制を、俺以降の代で打ち切る事になるかもしれない──これがどれだけ重大な事か、お前に想像がつくか?」
まぁ正直、想像つかない。なんとなくはイメージできるけど、いまいち実感は湧かない……とりあえず、とんでもないことらしい。
「そもそも婚姻という形が本当に正しいのかという懸念もあるが……お前みたいな庶民がピノクルの姓を名乗ることになれば」
「ちょ……っと待ってくれ……!」
「……」
思わずレオの言葉を遮って声を上げる。矢継ぎ早に色々言われて、頭がパンクしそうだった。さっきまであんな甘酸っぱい雰囲気だったのに、会社がどうとか家がどうとか言われて、一気に現実に引き戻された気分だった──でもレオは、いつもそんなことばっかりを考えなきゃいけない立場の人間だって事だ。
俺より歳下なのに、俺よりもずっと現実を見ている。こいつが今まで何を見て何を考えてどうやって生きてきたのか、俺には見当もつかなかった。
「……つまり?」
そう聞くと、レオは一瞬呆気に取られたように目を丸くしたあと、すぐにいつもの調子で深い深い溜息を吐いた。
「……つまり、問題が山積みだということだ」
なるほど、分かりやすい。
「公私共に、大きな変化は避けられないだろう。社内の人間からも世間の大衆からも、様々な反応があるし──それらが落ち着いてお前が言う“普通”を得るまでには、相当な時間が掛かる」
「まぁ……だろうな」
「俺たちの関係を表に出すとは、そういう事だ──それでも」
レオが俺の顔の横に手をついて、覆い被さるような姿勢になる。空に輝いていた月はレオの頭で隠れてしまって、視界が一気に陰った。
「それでもお前は」
──俺の、“パートナー”になるのか。
吐息混じりに発されたその言葉には、らしくもなく、不安の色が滲んでいた。
なんて返すのが正解か、なんて返せば笑って今日を終えることができるのか、考えて考えて考えて、でもやっぱり──答えは出なかった。
「……ちょっと、考えさせてくれ」
「……そうか」
俺の答えを聞いてレオは、寂しそうな、それでいてすっきりしたような──諦めたような顔で、俺の眼前から離れようとした。
──違う。そんな顔をさせたかったんじゃないのに。
上体を起こそうとしたレオを咄嗟に引き留めるように、背中に思い切り腕を回して、そのままきつく抱き寄せる。予想していなかったらしい俺の動きに、レオは抵抗もできずに倒れ込んできた。
「だーっ……!違う、違くて……っと、その……」
──俺がしどろもどろになりながら探す次の言葉を、レオは黙って待っている。耳のすぐそばにレオの吐息が感じられて、心臓がばくばくと大きく鳴る。これだけ密着しているんだ。どれだけ質のいい生地で誂えた衣装でも、俺の鼓動を誤魔化してはくれないだろう。
なんだか異様に恥ずかしく思えてきて、レオを抱き寄せたままがばっと体を起こした。
「考えせてほしいっていうのは、その、答えに悩んでるとかじゃなくて……」
答えなんか、聞かれるまでもなくとっくに決まっている。どれだけの問題があったって、俺の気持ちは変わらない。だから、俺が伝えたいのはそこじゃなかった。
緊張で手汗がじわりと滲むのを感じる──17日前にレオからメッセージを受け取った時には、まさかこの日が俺の人生においてこんなにも重要な日になるなんて、夢にも思わなかった。
いつもみたいに、ただ話して、ただ飯を食って、ただ触れ合って、それぐらいだと思ってたのに。こいつには、本当に振り回されてばかりだ──誘拐犯から助けてやった、あの日から。
何回か深呼吸を繰り返して、なんとか呼吸を落ち着ける。レオの背中に回した両腕を解いて、今度は両肩を掴んだ。ふたりの間に空いた隙間を、夜風が吹き抜ける。
「今日……は、まだちょっと、無理だけど、明日、いや、明後日……もっと、待たせるかもしんないけど……」
必死に言葉を吐き出す俺とは対照的に、レオは静かにこちらを見据えている。普段であれば嫌味のひとつくらい言ってきそうなものなのに、そんなことをする様子はなかった。
いつもみたいに面白がるような素振りでも見せてくれれば、こんなに緊張することもないだろうに。
「……俺から、させてほしいんだけど」
「何をだ」
「はぁ!?なっ……何を、って……」
──前言撤回。こいつ、普通に面白がってやがる。絶対分かってて聞いてるだろ。
緊張の糸が切れて、身体中から一気に力が抜ける──レオのこういう態度、普段はムカついて仕方ないけど、今回ばかりは救われたかもしれない。
ひと呼吸おいて、改めてレオに向き直る。俺の挙動がよほど面白かったのだろう、さっきまで真剣そのものだった表情はかすかに崩れていて、目を細めて笑いを噛み殺していた──好きなだけ笑えばいい。シリアスな顔よりも、笑った顔の方が、俺は好きだ。
「……だから、プロポーズを」
レオは何も言わず、俺の次の言葉を待っている。
「ちゃんと、考える時間が欲しい──正式なパートナーになるかならないかを考える時間じゃなくて、どうすれば2人で“普通”でいられるか、考える時間が」
──答えが出せるのがいつになるか、分かんねーけど。
最後に、そう付け加えた。
「……」
レオからの返事はない。
何か伝え方を間違えたか、それとも納得のいく答えではなかったか、やっぱりレオからの一世一代のプロポーズを反故にするかたちになったのが良くなかったか……とあれこれ考えていると。
「そんなに待っていられるか」
──と、ひどく落ち着いた声が聞こえた。
「……は?」
「立て」
あっけなく俺の上から退いてすっと立ち上がったレオは、ついでみたいに俺の手を掴んで引っ張り上げようとする。されるがまま立ち上がると、挑発的にこちらを見上げるレオと、視線がかち合った。
「お前が考え事が苦手だという事ぐらい、よく知っている。嫌というほど思い知らされてきた」
「……そりゃどーも」
「そんなお前が、それでも考えると言うなら──真剣に、考えると言うなら」
俺の腕を掴んだ手が、微かに震えている。気丈に振舞ってはいるものの、こいつもこいつなりに緊張しているようだった。
「──俺も、考える」
「……お、おぉ……?」
俺が意図を掴みかねていることを察したのか、レオは面倒くさそうに言葉を続ける。
「お前がない知恵を絞ったところで、無駄に時間を浪費した挙句、的外れな結論を出すに決まっている」
……こいつ、めちゃくちゃ言うな。
「そもそも、これはピノクルの──俺の問題だ。お前1人でどうこうなる事でもない」
まぁ、それはそうかもしれない。さっきだって、世襲制がどうのとか家名がどうのとか、正直全く実感が湧かなかった。結局今の俺は、当事者意識に欠けているんだろう。
「だから、俺も考える。答えが出たらそのときに、行動し始めればいい」
「ふぅん。ま、いいんじゃねーの」
意味もなくぶっきらぼうな返しをしてしまったが、レオの言うことは、反論を挟む余地のない至極真っ当な言い分だった。
「じゃあ……色々考えたりはするにしても、とりあえずは現状維持ってことになるのか」
「まぁ、そうなるな」
2人の間に流れていた空気は、いつの間にかすっかり普段通りになっている。乾ききっていない俺の冷や汗だけが、さっきまでの張り詰めた雰囲気を物語っていた。
「は〜ぁ……なんかメチャメチャ緊張した……」
手の甲で額の汗を拭う。そういえば今、化粧してるんだった……目的は果たせているわけだから、別に崩れたっていいんだけど。
「フィン」
不意に名前を呼ばれる。返事をしようと口を僅かに開いたが、俺が声を発することはなかった。
いつの間にか眼前にはレオの顔があって、気付いた時には、俺の唇に柔らかいものが触れていた──この感触には、覚えがある。何度も経験しているんだから、間違えようがない。
少し遅れて、俺の首にレオの細い腕が絡んできた。ぎゅっと強く引き寄せられて、屈むような姿勢になる。突然の出来事に頭が追いつかず足元がふらついて、転ける寸前でぎりぎり持ち堪えた。
──どれぐらいの時間が経っただろうか。永遠にも思える時間のあと、俺の唇からレオのそれがゆっくりと離れていった。それでも俺の首に回された細腕は解かれないままで、俺にダイレクトに熱を伝えてくる。
「……したいなら先言えよ」
──お陰で、また無様にすっ転ぶところだった。そんなのは日に1回だけでいい。
そう言うと、心底おかしそうにくつくつと笑うものだから、なんだか全部がどうでも良くなってしまった。いつまで経っても、俺はこいつに勝てない気がする。
「もう遅い。さっさと出るぞ」
そんなことを言いながら、レオは俺の首に回していた腕をあっけなく解く。
慌てて腕時計を確認すると、もう日付が変わりそうだった……いつの間にこんな時間になってたんだ。
「……って、おい。扉こっちだぞ」
はじめに開けた扉とは全く違う方向につかつかと歩いていくレオ。慌てて声をかけるが、返事はない。
わけも分からずあとをついていくと、1箇所、バルコニーの手すりが開閉できるような仕様になっていた。周囲が暗いせいで、今まで全く気が付かなかった。
「ここから降りる」
「は?」
言われて覗き込んでみれば、そこにはまっすぐに1階の裏庭へ伸びる、長い梯子がある──非常用か何かだろうか。
「屋敷内を通って帰って、参加者と鉢合わせでもしたら据わりが悪い」
「ふーん、お前にもそういう感覚あるんだな」
軽口を叩くと、ぎろりと音が聞こえそうな勢いで睨まれる──冗談なのに。こいつが誰よりも世間の目を気にしていることぐらい、よく知っているつもりだ。
◆ ◆ ◆
ギシギシと危なっかしい音を立てる梯子を降りきって中庭に到着したあと、俺たちは逃げるようにして車に乗り込んだ。
駐車場にはまだ数台の車が残っていて、パーティーの参加者が何組か残っていることが分かる。面倒なことになる前に、さっさとここを離れてしまおう。
慣れた手つきでシートベルトを締めて、キーを回す。助手席のレオもシートベルトを締めていることを確認してから、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
少し車を走らせれば、すぐに街灯の多い大通りが見えてきた。ここまでくれば、とりあえずは安心かもしれない──別に、何か悪いことをしたわけではないのに、粗相をした子どものような心持ちになってしまう。
「なぁ、ちょっと気になってたんだけど」
「……なんだ」
もう急ぐ必要もなくなったので、車のスピードを少し落とす。すっかり遅くなってしまったので、あたりには俺たち以外の車はほとんどない。多少ちんたら走っていても、誰にも文句は言われないだろう。
ゆったりと流れる夜の街を横目に、レオに問いかける。
「ウチってさ、支店内恋愛禁止じゃねーの」
「……」
ひどく今更な話ではあったし、“支店内恋愛禁止”というのはレオが戯れに言ったことだろうから、厳密なものではないと思うけど。
でも、もし今後俺たちの関係をオープンにしていくつもりなら、支店での振る舞い方というのは、避けては通れない問題だった──なんなら、一番最初に直面する問題かもしれない。
色々と面倒なことになりそうだ……なんだか、もう既に気が重い。
「……まぁ、取り下げればいいだろう」
「ふはっ……ンだよそれ、勝手すぎねぇ?」
少しの無言のあと、俺の心配を知ってか知らずかあっけらかんとそんなことを言うものだから、つい噴き出してしまう。このことを聞いたあいつらがどんな反応をするのか想像してしまって、余計に面白く思えた。
まぁ、レオぐらいの押しの強さがあれば、そんなことは取るに足らないことか。その辺は、頼りになる店長様に任せてしまおう。
「そんなことより」
レオがフロントガラスに視線を向けたまま、俺に言葉を投げかけてくる。
「今からどこへ向かう気だ」
「は?どこ、って……お前ん家だけど」
時間も時間だし、食事できるような店はどこも営業が終わっているんだから、それ以外ないだろう。レオは何が言いたいんだ。
隣から、呆れたような軽い溜め息が聞こえてくる──少し間を空けて、慣れた手つきでカーナビを操作する音が聞こえてきた。
「──目的地を登録した。これに従って走れ」
「ふーん?別にいいけど……どこ向かうんだよ」
「ホテルだ」
「ほ……ッ、て、はぁ!?」
さらりと飛び出した発言に動揺して、ハンドル操作が乱れる。車体が大きく揺れて、一瞬反対車線にはみ出す──反対車線を走る車がいなかったのが、不幸中の幸いだった。
「ッ……おい!何をしているんだこの下手くそ!」
「いや、だって……!お前、ほ、ホテルって……!」
「何を勘違いしている……!ただの宿泊所だ!貴様が考えているようなホテルではない!」
「えっ……あ、あぁ……そっちか……」
──びっくりした。今日のレオはいやに積極的だから、もしかしたらもしかするかもと思ってしまった。
「それで……お前も明日はオフだったな」
「ん……あぁ、多分?」
ちゃんと確認はしていないが、店長様が言うならそうなんだろう。もし明日が出勤日だったとしても、レオからの指示だったと押し通せばいい。
「ならお前も泊まっていけ。宿泊費は俺が出す」
「へぇ、気が利くじゃん。タダで泊まれるなら何でもいいぜ」
パーティーは夜からだったものの、色んな事がありすぎて、活動していた時間の割にかなり疲れていた。高級なベッドで眠れるなら、願ったり叶ったりだ。レオが選ぶような場所であれば、グレードは折り紙付きだろうし。
レオが懐からスマホを取り出して、手早く操作をし始める。どうやらwebで予約をしているらしい。
しばらくすると、予約処理がひと通り終わったのか、スマホをまた懐へ仕舞い直した。
「予約できた?」
「まぁな」
「……参考までに聞きたいんだけど、どんな部屋?」
ふかふかのベッドがあるだけで御の字ではあるけど、ジャグジー付きの風呂とか、マッサージチェアとか、もしかしたら客室内にサウナがあったりもするかもしれない。高級ホテルに泊まれる機会なんてそう多くないから、自然と期待してしまう。
「ダブルの客室だ」
「だ……っ!」
──こいつ、やっぱりその気でいるだろ。
これは今夜はゆっくり眠れないかもしれないと、半ば諦めに近い感情で車を走らせる──まぁ、乗り気じゃないと言ったら嘘になるんだけど。
「しょうがねぇな」とだけ呟いて、カーナビの案内に耳を傾けた。