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    DasonHen

    @DasonHen

    画像化すると長くなる文はここ
    あとたまにえっちな絵を描くとここ(報告はサークル内)

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    DasonHen

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    ししさんに憧れや尊敬という殻に包んだ無邪気な好意をぶつけられたら、そりゃ先生も我慢なりませんよねという話

    失楽の園「少し違う。実際のところ、現場において我々が『完治』という言葉を使うことができる場面は殆どない」
     村雨の言葉を聞きながら、獅子神は村雨の手に目を向ける。差し出されたそれを自身の手で受け止め、まるで貴重な研究資材でも扱っているかのような雰囲気で、そろそろと村雨に触れている。
     しかし、飽きずにもう十分以上そうしていた。獅子神も、そして村雨も、お互いアルコールが入っている。二人でボトル一本と半分のワインを空けた。双方酒に呑まれるような飲み方こそしていないが、宴もたけなわ、というやつだ。
     獅子神の骨ばった固い指が好奇心のまま、村雨の指をなぞり、皺をつまみ、爪の大きさを比べ、手の甲の筋を撫でる。
     平素の彼の様子からはとても想像ができない幼い手遊びを、村雨はされるがままになりながら目を細めて眺める。
     
     忙しい医師である彼の目許にいつも鎮座している濃い隈は、今日も変わらずそこにあった。元々の目の形がそうなりやすいのか、ただ常に過労状態で生きているだけなのか、村雨自身ももう分からない。
     体は苦痛を伴わず動かせる。よって問題はない。そう判断して村雨は今日ここに来た。
     
    「指先に怪我とかした時って、仕事どうすんだ?」という問いに「まず怪我をしない」と答えて村雨は自身の手を差し出した。促されるままに、しかし何度か宙で躊躇い止まった指が、時間をかけてようやくささくれひとつない村雨の指を捕らえる。
    「おお、」と何に対してだというのか、本人にも分かっていないのであろう感嘆と共に、獅子神はその指を撫でた。
     
    「これが、何でも治せちまうんだもんなぁ……」
     すげぇよなぁ、と続く、何処かとろりと微睡んだ声。
     それに答えたのが、冒頭の村雨の言葉だった。
     
     少し違う。この手は、きっと獅子神が思うほど多くの人間を救ってなどいない。
     
    「そうなのか?」
     伏せられ、長い睫毛に阻まれて殆ど見えていなかったライトブルーが村雨を向く。
     それに肯定の意を込めて目礼し、村雨の手が今度は獅子神の手をゆるく捕まえた。そこには引き攣れた傷跡が今も残っている。
    「これもそうだ。治療していた時の傷も、治したところで痕が残っただろう。それに、刺激を受けると痛みがある筈だ。神経を傷つける位置を貫いている」
    「見て分かんのか」
    「全身の解剖学を学んでいるからな」
     傷跡を撫でる村雨の幾分か細い指を眺め、獅子神はやはり幼い子供のように「へぇ」と感嘆の言葉を上げた。
     
     医学は万能ではない。村雨はその中心にいるからこそ、それを痛いほどに知っている。腫瘍は小さければ取り除ける。抗がん剤で小さくすることもできる。
     ただ、起きた病を完全に治すというのは限りなく不可能である。風邪すら、ひいてしまえばそのウイルスの情報は体に永遠に刻まれる。腫瘍を切り落とした後、再び縫い直された臓器は周りの臓器と癒着し、元の機能を取り戻すことはない。目に見えない、取りきれなかった腫瘍細胞が再び増殖し始めることも少なくない。
     それでもその現状で限りなくベターな方法を選択し、実行する。それが医師の仕事である。
     
     
    「お世話になりました」
     気弱そうな老女は頭を下げた。村雨は苛立ちを完璧に心の裡に隠し、根元が数センチ白くなった薄いつむじに向かって穏やかな声をかける。
    「いいえ、最後に選ぶのは患者さんご自身ですから」
     
     ベストが存在しないことなどままある。再発し、広がりきった悪性腫瘍。効果のない薬。悪化する疼痛。どれを選んだとて、苦痛からは逃れられない。どの地獄へ進むかは、他人である村雨が決めてやることはできない。
    「息子が調べてくれたんです。温熱療法というものがあると、どんな癌も治していただけると聞きました」
     最初、村雨が今後の方針を提示した時、その老女は泣いていた。見捨てられたと嗚咽した。それをただ無表情で見つめる村雨のことを、同席していた看護師が悲痛そうな表情で睨んでいた。
     慣れないインターネットを駆使して、懸命に調べたのだろう。紙を取り出し、その治療——と呼ぶべきかは諸説あるが——に関して説明しようとした村雨の手を、老女は手で制した。
    「やめてください。あちらの先生に、前の病院の先生の話は一切聞かないようにと言われています。」
     
     そう言って、最後は頭を下げて二ヶ月前に診察室を出た老女が、胸部の臓器全体まで浸潤した腫瘍により呼吸も嚥下も出来なくなったと、緊急入院してきたのが今日の話だ。
     家族からの強い延命希望があったため、気管切開を行い、腸瘻を開けた。もう食道は完全に閉塞し、栄養を入れるチューブの先端も通らなかった。
     最初にこの患者の腫瘍を切除したのは村雨だったが、今回の執刀は同チームの別の医師だった。だから、今日の村雨は定時を少し過ぎた程度の時間に退勤することができた。
     このようなやるせなさは、村雨にとっては日常でしかない。
     
     
    「それでも、オレはお前の薬で助けてもらったしなぁ」
     その節はどうも、等とおどけながら獅子神が笑う。その声で村雨は現実世界に戻される。
     からりと笑ってその手をようやく離し、獅子神は気難しそうな表情を浮かべている友人の顔を覗き込んだ。
     その視線の奥に多分に含まれている浮かれた熱を、村雨はいつもそのまま受け止める。それくらい、平素の彼は素知らぬ顔で飲み込むことができる。それに、実際のところいつもであれば、村雨自身がその視線を心地よく感じてすらいた。
     
     始めに獅子神に対し、他の友人へのそれを越える親愛を向けたのは紛れもなく村雨の方だ。庇護欲、とも言える。何も知らないくせに、大人のふりをしてこんな異常者の巣窟までノコノコ歩いてきてしまった子供が放っておけず、村雨はつい手を伸ばしてしまった。
     それくらいには村雨は情のある人間であったし、村雨にそうさせるくらいには、獅子神はあまりに素直な男だった。そして素直だから、一人の大人から向けられる情を吸い込んで糧にして、その結果こどもはひとつの気持ちを手に入れた。稚拙で、温かくて、抱いていると彼の胸を優しく温めてくれる、幼くかわいい熱だ。
     村雨がそれに気付いていることも、それでいてこの距離を保てていることも、獅子神は謙虚に——卑屈に——自覚している。その一線を越えるつもりがあるのなら、村雨がとっくにそうしているし、拒絶されないからには何もすべきではないのだと。それをまた素直に飲み込み、一人で生んだ温かさを抱きしめ、それだけで満たされてしまう、未熟すぎる心。
     そこまでを完全に把握し、理解した上で村雨は獅子神の隣で、この薄氷の上を歩いている。それは獅子神のためでもあったし、回り回って、このこどもに不要な傷などひとつたりともつけたくない、という村雨の我儘のためでもあった。
     
     だというのに、今の彼にはそれがどうにも引っかかるのである。指先の切り傷に消毒液をかけてしまったような痛みが、彼の裡をじくじくと荒らす。
    「感謝されることもあるが、同等……いや、それ以上にそうでないこともある。私など、相当な数の患者に恨まれている筈だ」
    「珍しく悲観的じゃねーか」
    「違う。事実を述べている」
     きっぱりとした否定。これは主観的な感想などではなく、村雨が見て、把握した現実である。診察室で、IC室で怒鳴られたことなど数知れない。告知後、予約の日に受診に来なかった患者も少なくない。命が潰えるその瞬間まで、後悔の顔でこちらを睨みつけてくる患者も。
     獅子神はぱちりと目を瞬かせ、それからふ、と全身の力を抜いた。
    「オメーが言うなら、そうなんだろうな」
     そういうことにしておいてやるよ、という声が、きっと村雨でなくとも聞こえてくるであろう表情で獅子神は微笑んでいる。
     
     どちらを真実と見るか、という事だが、長らえた命のことのみを肯定する愚かさも、終わった命のみを見る卑屈さも、この場合はどちらも不正解だ。医師として村雨は、そのどちらのことも無視してはならない。ただ今は、その救えなかった命のことを特に、この純粋な眼差しに知らしめてやりたい。そんな気持ちになっている。
     目の前に座るこの人——村雨礼二は、決して人を不誠実さと間違いで裏切ることはない。
     その獅子神の信心はある意味では確かに事実であったが、真実の全てがそうという訳では決してない。村雨は誠実さを愛しているが、自身がそうであるという訳ではないことを自覚している。
     
     また一口、村雨はグラスの赤い液体をあおった。自分が、酒が飲みたい気分になるなど、信じられない心地だった。
    「私は自身の判断が正しいことくらい分かっている。しかし、判断そのものをつけるべきでない事も多い。私は自身が無力なことを知っている」
     
     なにせ、医者は医者であり、世の全てを定める神などではないのだ。
     
     
     
    「真経津がいねーのに来るなんて珍しいな」
     何の用だ?と続けた男は胡乱げな表情に素直な心配を滲ませて、来訪者を迎えた。時刻は午後九時を回ったところだ。友人の家に尋ねる時間としては遅い。
    「勉強会があった。会場がここに近かったので、土産でも持って行こうかと」
    「……その弁当か?ありがたいけど参ったな、オレもう飯終わっちまったんだよ」
     獅子神の家は静かだ。従業員はもう帰宅している。そのことを知っていて、村雨はこんな非常識な時間にここに来た。それでも獅子神は自分のことを受け入れるであろうことなど想像がついていた。
     もう何度も、真経津の先約がなくとも、村雨はこの家を訪れている。そのことに気付かない獅子神ではないだろうに、彼はそのセーフティを決して手放すことができない。それも分かっていて、村雨はそれを許す。
    「なら私が二つ食べる。ステーキ弁当だが本当に良いのか?」
    「ますますこの時間には食えねーよ……」
     まぁ、せっかく来たなら上がっていくか?茶ぐらい出すよ、いや酒がいいか?でも弁当だしなぁ、と、ぺらぺら喋りながら獅子神は笑う。一日の終わりに憧れの人と会えたことを、ただ喜んで瞳を蕩けさせる。
     村雨はあの、二人で酒を酌み交わしたいつかの夜を思い出す。あの時と同じ、焦燥感に似た苛立ちが胸に立ち込めるのが分かった。
     
     洗面所を借り手を洗った村雨がダイニングに入ると獅子神がいない。奥まったキッチンから換気扇が動く音と、人の足音が聞こえる。
    「何をしている?」
    「弁当ってバランス悪いだろ?しかも同じの二個だし……嫌じゃなければ、軽く副菜作るから」
     てきぱきと動き回る獅子神は小さな鍋と、大きな鍋に湯を沸かしていた。シンクのかごには緑が入って、まな板には複数の野菜やきのこが置かれている。
    「嫌ではないが、そんなことしなくて良い」
    「しない方がいいか?ならやめる」
    「…………あるならいただくが」
     味が全く同じ二つの弁当を食べるというのは、確かに飽きがきてしまうことは容易に予測できた。たくさんの種類の野菜がそこにあるのは、幾つかのメニューを、小鉢か何かで添えようとしているのだろう。見ているこちらが溜息を吐きたくなるような、捧げるだけの気持ち。
     これをもし獅子神が気遣いのみで、面倒臭さを押して作ろうとしているのであれば、村雨はきっぱりと断っただろう。しかし、村雨のその目をもってしても、獅子神の心に澱みは見られない。彼の中には拒絶される不安があるくらいで、心からこの行動を望んでいることが知れた。
     であれば、どんなに歯痒くとも村雨にこれを拒否する理由がないのである。
     
    「何だこれ?糸?」
    「これを引くと弁当が温まるようになっている。下に水と反応して発熱する薬品が入れられているからな。」
    「えー、すっげぇ、いいなこれ、いつでもあったかいの食わせられるんだ」
     獅子神は村雨の目の前に腰を下ろし、頭を下げて横から弁当箱を眺めている。あくまで食べる側ではなく作り手としての評価ばかりが先立つのは、彼の生活リズムの問題か、自由すぎる友人達の存在が問題なのか。
     
     弁当箱の周りには四つの小皿が並び、さらに温かいスープまでもが添えられていた。時間にしてほんの二十分程度待っただけである。
     獅子神はもともと料理教室で習うような、完璧で美しく完成する料理を作る方が多かったのに、最近ではこういった時短調理の腕をどんどん上げていっていた。それは確実に、賭場で出来た友人の存在が原因だろう。
    「うお、煙。触っていい?」
    「湯気だ。火傷する程の温度ではないが、吹き出し口に気を付けろ」
     箱の側面から伸びている糸を引くと、ぶしゅう、とけたたましい音を立てて白い霧が溢れ出した。それを、化学を初めて見る子どものように興味津々といった表情で眺め、手を伸ばすのが面白くて思わず村雨は笑う。
    「……なんだよ、ガキくせーかよ」
    「いや、そんなに喜んでもらえるのなら糸も引かせてやればよかったなと思っただけだ」
     もう一つはあなたが引くか?と村雨が目で問いかけるのを憮然とした表情で睨み、それでも獅子神はむっつりと頷いた。好奇心が優っていたし、村雨に何かをゆるされるという事実そのものが、獅子神の心を浮かせてもいた。
    「次からは自分がやりたいと最初から言うように」
    「そこまでではねーよ!」
     許され、促され、それからようやく獅子神はいつも何かに手を伸ばす。それ以外は全て強奪だとでも思っているかのように、彼は大きな声を上げるときことさら露悪的に振る舞う。まだその虚勢を張る癖は抜けていない。
     
     村雨が返事をせずに自身の両手を合わせると、すぐさま獅子神は口を閉じた。スープを口に運び、前菜代わりのサラダに箸を伸ばす。
     村雨の食事はとても静かだ。
    「飲み物は緑茶でいいか?ノンカフェインのやつねーんだけど」
    「いただく。あなた、明日の予定は?」
    「……銀行でゲームだよ」
    「そうか、ならあまり長居しない方が良いな」
    「…………別に?」
     
     初めて一人で向かうハーフライフの舞台。
     それをあえて獅子神は問われるまで口にはしなかった。村雨も「気を付けろ」等、不毛な言葉をかけることもない。獅子神敬一がハーフライフ上位層と比較して安心できる実力を持っているかと言うとそうではないが、担当行員のことを考えれば無理な対戦が組まれることはないだろう。
     
     彼がこの先のくだらないゲームでみすみす命を落とすことがないよう、そしてあのゲーム内で面倒が残らないよう、村雨は獅子神を鍛え上げた。そのことに、彼自身、少しの躊躇いもなかった訳ではない。
     甘くて、愚かで、素直な獅子神は、この賭場そのものがまず、向いていないだろう。誰に紹介されて始めたのかは知らないが、虚栄心を満たす方法としては限りなく誤っていると言う他なかった。
     それでも獅子神は真経津と出会い、村雨達と出会い、そうして異常の世界を見てしまった。
     朱に交われば赤くなる。覆水は盆には返らない。
     彼が賭場にいなければ、村雨は獅子神と出会うことはなかった。そして、出会ってしまえば最後、進める道を示された彼の足が止まることはない。
     
     ならば、彼を愛したければ、せめてその道の小石を払ってやるより他ないではないか。
     
     目に見えて彼を転ばせてしまいそうな小石は払った。まだ全ての懸念が晴れた訳ではないが、それ以上は村雨が手を出すべき領分ではない。他の道を示すことも、彼への侮辱になってしまう。
     もしこれでも死んでしまうなら、獅子神はそこまでの人間であったというだけだ。村雨が地団駄を踏んで駄々を捏ねても、それはどうにもできない。
     賭場の、ゲームの中で以外は、村雨はやはり無力だ。
     そこまでをわざわざ言語化して脳内で再生させて、村雨は実際の口をただ食事のためだけに開く。
     
     獅子神の作る料理は美味い。きのこのマリネも、ほうれん草の白和えも、たまねぎと人参のグリルも、ブロッコリーのサラダも。
     村雨は野菜がそこまで好きな訳ではないが、肉を食べるにあたりこれらが主役を大きく引き立てる役目になることを知っている。今日のステーキは弁当であるから、ある程度和風の味付けになっていることを見越した和洋折衷の味付けは実に見事だと村雨は思う。
    「明日もこれが食べたい」
     一つ目の弁当箱をおおむね空にして、二つ目の弁当に目配せをしながら村雨は口を開いた。促されるままに弁当箱から伸びる糸を引き、再び蒸気の上がるけたたましい音を聞きながら、獅子神は首を傾げる。
    「このステーキ弁当?そんな気に入ったのか?」
    「違う。あなたの作った副菜だ」
    「……いや、そんな手の込んだもんじゃねーけど……」
     ぱちぱちと目を瞬かせ、意味をしっかりと飲み込んだ獅子神は一旦頬を染め上げた。それを村雨に見られていることを意識して、さらに紅潮は悪化する。ポーカーフェイスが苦手なのは、他でもない村雨を前にしているせいだと思いたい。
    「……そしたらまた明日作り直してやるよ」
     どうにかその衝撃を飲み込み、獅子神は続けて笑う。こんなに分かりやすい激励を、まさか村雨がかけてくれるとは思っていなかった。
    「何時からだ?」
    「十四時から。終わったら連絡すれば良いか?」
    「あなたがすぐ連絡できる状況とは限らない。終業後ここに来よう。
     ……普通に勝てば、私の方がずっと遅くなるはずだ」
    「はは!じゃああと二品くらい増えてるかもな!」
    「楽しみにしている」
     
     
     
    「仕事が終わった」という村雨のメッセージには、その場ですぐ既読がついた。そのことに、隠し立てもできずにただ安堵する自分がいることを、村雨は無視できない。
    「少なくとも一品は増える」
     あなたとの約束は守りましたよ、と言外に伝えるその様は褒めて褒めてと懐いてくる犬か何かのようだ。存分に褒めてやりたかった。それが許されるならば。
     
     村雨は今日、自家用車で出勤した。明日はオンコールだが休日だ。家のワインセラーから何本かの酒を見繕い、助手席に乗せてきている。元々、車には当直の際に使う着替えなどがいつも乗せられていた。
     その気になれば、今日は帰宅しなくても良い。
     そういう選択肢を取りたい訳ではない。そうすべきだと思っている訳でもない。ただその道をどうにも捨てられずに村雨は今、車を運転している。
     
     ガレージを開けてもらい車を停め、村雨は一応の礼儀としてインターホンを鳴らした。
     がちゃり。遠隔操作で玄関の鍵が開く。
     勝手知ったる何とやら、と一切の躊躇いなく村雨がドアを開くと、そこにいたのは家主本人ではなく、雇われた元奴隷のうちの一人だった。
    「ようこそいらっしゃいました、獅子神さんはキッチンにいます」
     もう何度もここへ訪れている村雨が相手だからなのか微妙な敬語を使い、しかし怯えを隠すこともできずに使用人は目を逸らしている。難儀な弱者である。
     いや、今はそんなことより。
    「何故あなた、いつもより怯えている?」
    「ッ!」
     びくんと大きくその肩が跳ねた。彼の心臓が一気に素早く大きな脈を打ち、上半身の体温が上昇する。ぐるりと逡巡する目。彼の視線はキッチンのあるダイニング室で少しの間止まった。それだけで、村雨には十分な情報だった。
     どうやら、この家に入った瞬間から漂っているつんとしたメントールの匂いとは無関係ではなさそうだ。
    「…………」
     上着や土産を受け取ろうとする手を無視し、村雨は自身の脱いだ靴を揃えることもなく足早にダイニングへと急ぐ。後ろからほっと息を吐く音が聞こえたが、そんなこともどうでも良かった。
     
    「お?お、どうしたそんな慌てて……」
     ばたん!と品なく音を立てて開いたドアの音に驚いた声がかけられる。声そのものに異常はない。ただ、何かを隠そうとしている。メントールの匂いがきつい。痛みか、それとも。
    「……えっと、いらっしゃい」
     獅子神はしっかり、キッチンの中にいた。ただ、その頭はいつもより少々低い位置にあり、スツールか何かに腰掛けているのが分かる。村雨は床の適当な場所に手荷物を置き、キッチンの中まで足を運んだ。
     コンロの前で、獅子神は背の高い椅子に腰掛けている。普段と比較してゆったりとしたパンツを履いており、片方の腿に不自然な凸凹が見えた。
    「脚の怪我か」
    「ただ軽く痛めただけだぜ、しかも片方」
    「読み負けたのか」
    「読みは合ってたけど、一回受けといた方が上手くやれるなと思って」
    「…………真経津もあなたも、ペナルティなど一度も受けないように立ち回ることを考えられんのか」
    「お前じゃねーんだ、そりゃ難しいって」
     でもそれ目指して頑張るぜ、と獅子神は片手を振る。湿布の匂いに混じって温かい食事の匂いがしている。
    「これ匂い気になるよな、お前が食い始める前に剥がしてくるから待ってろ」
    「いい、炎症を抑える方が先だ」
     村雨の抑えない苛立ちに、勿論獅子神は気付いている。それを未熟な自分を目の当たりにするもどかしさか何かだと思い込んでいる獅子神は、ばつが悪そうに彼から目を逸らし、頬を掻いた。不安ばかりが膨れているのがありありと分かる身体的な反応。村雨の胸に、苛立ち——というより、恐怖心が募る。
     あの、村雨礼二の心にである。
     こんなにも簡単に感情を読まれているようでは、次はこんな怪我では済まないかも知れない。
     ずっと、最初から分かりきっていた彼の事実に対する、恐怖だ。
     
    「……食事は後だ、怪我を見せろ」
    「え?えぇ、でも太腿なんだよ、」
     別にそんなに痛くないんだって、大事をとってってことで湿布も貼られたくらいで、と必死に言い募る獅子神が何を恐れているかなど、中身を見なくとも分かる。
     未熟な自分をどうか見ないでほしい。
     それを知ったとしても、どうか見捨てないでほしい。
     頑張らなければ、従順でなければ捨てられてしまう。そんな恐怖心がいつも獅子神の心に巣食っていることぐらい村雨はおろか、友人の全員が認知している。それでいて、そこを掘り返すことなく、触れることもなく自然に、自由に彼らは友人として関係を続けていた。
     村雨とて、その一人であったはずだ。
     
    「あなたは……」
     村雨は口を開き、しかしその先の言葉を告げることができなかった。整理しないまま、感情ばかりが先立ち、それを言語に落とし込むことができない。
     そのような状態で口を開くなど、あまりに愚かすぎる行動だ。どこかで理性が彼自身を嘲笑っている。やめろ、これ以上は、踏み出すべき領域を超えている。だが止められないのだろう、愚かな。
     しかし、愚かなのは獅子神も同じであった。真実を見る目を開いたくせ、それを認識する思考が歪んでいるのでは話にならない。
     全てを正しく認識し、理解して、事実としてそれを飲み下し、その上で初めて思考というものを始めなければ。
     そうでなければ、あなたは。
     
     村雨は、いつもと比べ、自分のそれよりも低い位置にある顔をじっと見つめた。その視線に、常には決して見せない色があることに聡い男は気付く。それが、何の色であるかは分からないようであったが。
    「あ、あぁ、あれ、なんか、あれか、何か、オレおかしかったか……?診断?処方箋ってやつか?オレ、ダメだった?」
    「違う」
     自身の頬に手を当て、髪を触り、拳を握り、忙しなく動き回って動揺を表す手を、村雨が自身の手で掴んだ。そんなに力を込めた訳ではない。それでも獅子神はぎくりと全身を戦慄かせて、決してその手に逆らわないようにぴたりと全ての動きを止める。
     なんと愚かな。
    「あなたは知らないようだが……医者にもプライベートタイムというものがある。それが今だ」
     獅子神の手を握るそれはそのままに、村雨の片手が、獅子神の怪我をしたという腿に優しく触れた。貼られた湿布は冷感をもたらすが、それ自体にあまり意味はない。熱感があるが、ひどく腫れているという訳ではない。軽く痛めたというのは本当のことなのだろう。
    「私はしたくてこうしている、あなたはそれを拒む権利がある。」
     これが、ほとんど意味のない言葉の羅列であることは分かっている。そんなことを口にしたとて、獅子神が村雨の意思に逆らうことなど決してないことも分かっている。にも関わらず場の支配者である自分がこの無垢に手を出す。
     あまりにグロテスクな悪夢に、理性が警笛を鳴らしている。ここを踏み越えれば、もう戻れない。本当に戻れない。そのブレーキを握っているのは獅子神ではなく、今まさに手を伸ばしている自分である。
     これを、暴力以外の何と呼ぶのだろうか。
     
     臆病だからこそ恐怖の対象から目を逸らすことをやめた獅子神は、自身を見つめるその熱情に見当すらつかないくせに、近付いてくる賤しい男から決して逃げない。
     怖いもの見たさで事件現場に近付き、巻き込まれて死ぬ人間と同じだ。怖いものを自身の目で確認しようとするせいで逃げ遅れるのだ。
     だが、しかし。
     その愚かな姿すら、かわいく美しく見えるなどと。
     
     脳内に染み出す熱が満ちて、村雨の正気を失わせる。理性の声は黙殺した。村雨の心は、きっとこの欲望を耐え切るようには作られていない。いつかどこかで崩壊していたことは明白だ。だから。
     手を掴んでいたそれを離し、その肉のない精悍な頬に当てる。温かい。愛しい熱。ずっと触れたかった。触れて、口に含んで、自分の情で、自身の全身をもって、この新雪を踏み荒らして愛してやりたかった。
     誰が誰のことを嫌おうか。誰が誰を見捨てようか。その事実すら見えないなんて、許し難い。
     私はずっと、あなたを。
     
    「あなたが欲しい……意味を、どうか勘違いしないでくれ」

     医師は神ではない。ただの人である。
     そう、神などではないのだ。
     
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