ボクと彼の話 これは、ボクと彼の話。
小さな彼の隣にいた、ボクの話。
「トンガリ!来たで!」
ドアスコープの向こう側、真っ白なカッターシャツに健やかな小麦色の肌を連れた、見るからにやんちゃな少年が元気よく声を上げていた。
「はいはい、今開けますよ」
扉をゆるりと開く。彼の子猫のような笑顔が日に晒されて、眩しく輝いていた。
「邪魔するで!」
扉とボクとの隙間を器用に通り抜けた彼が意気揚々とリビングに駆けて行く。勝手知ったるなんとやら。後ろから覗き込めばてきぱきとテレビゲームの支度を始めていた。
「ウルフウッド?今日は勉強を見て欲しいって話じゃなかったっけ?」
「は?知らんし」
「もう……キミ今年受験生でしょ?」
わざとらしく肩を落として、呆れてみせる。けど、彼はまったく動じない。
「オドレ、今日仕事休みなんやろ?ほんならあと半日暇っちうことやん」
「いや……まぁそうなんだけど……」
何も言い返せず、落とした肩に加えて首まで力なく項垂れる。
そんなボクの姿を見て、彼はにかりと笑った。
「ええやないの。な?ヴァッシュ兄ちゃん?」
「……後でちゃんと勉強するんだからね。弟君?」
からかいの一言にお返しの文句。
いつの間にか癖になったお決まりのやり取りをしながら頭を撫でてあげれば、ウルフウッドはふにゃりと顔を綻ばせた。
彼はあと何度、この顔を見せてくれるだろうか。
ボクらのはじめましては留守番の暇を持て余した彼が、隣室のボクを遊び相手に選んだことに始まる。あの日は急に話しかけられてそれはそれは慌てふためいたし、なんとまあ不用心ではないかと思いつつも、結局無下にできずに一頻り遊び倒してしまったのだった。
その後、保護者である彼のお兄さんがにどめましての彼を連れて謝罪だと言って来てくれたけど、その節は仲良く遊んだだけなのに大変懇々とお説教を食らいましたと声高に異議申し立てを披露してくれたので、ボクはそんな可愛らしい彼のことを大層気に入ってしまったのだった。
それ以来、ボクは度々ウルフウッドの子守り兼遊び相手をするようになっていた。
ボクは彼と一緒に過ごすことを楽しみにしているけど、彼のお兄さんは言うことを聞かない弟に強請られて半ば諦めるかたちで了承してくれている。都合のいい保護者かつ遊び相手を手に入れて兄の帰りまで暇も潰せる、この関係はある意味ウルフウッドの作り上げた一人勝ち状態かもしれないということに気付いたのは、先日お兄さんと思い出話をしている時のことだった。
そんなやんちゃで賢しい彼も気付けば中学三年生。声変わりもして、丸っこくてぷにぷにだった顔もお兄さんによく似た精悍な顔つきに近付いてきた。まだボクより背は低いけれど、もしかしたらすぐに追い抜かれてしまうかもしれない。そうしたら、すぐに彼女さんなんて連れてきたりして。なんて。
なんて、よくわかんないことを近頃、ボクは考えたりするのだった。
「ウルフウッド、ここはこっちの方程式で……って、聞いてる?」
「……おん、きぃとる」
宿題を前に、ウルフウッドは船を漕いでいた。すっかり遊び疲れてしまったようで、今日はもう勉強どころではなさそうだ。
「だから少しだけって言ったのに」
「べんきょ、したなぃもん」
「そんなこと言ってると高校行けないよ?」
ボクの心配をよそに、彼の体はどんどんと床に流れていく。すっかり目を閉じて、おまけに頬まで赤くして、ウルフウッドは完全におやすみモードに入っていた。
「ほら、寝ていいからソファの上に……あ……」
ソファに寝かせようと抱き上げたウルフウッドの手がボクの首に回される。こうなってしまうと彼はテコでも動かない。またお兄さんに起こしてもらうのは申し訳ないけど、動けない以上仕方がないので、ボクは彼を抱いてお腹の上に乗せたままソファに寝ころんだ。
「まったく、甘えん坊なんだから」
「あまえんぼ、ちゃうし……おどれがワイのくっしょんなん……」
背が伸びて体重も増えて、敷かれるボクの息苦しさは日に日に増していくというのに、ウルフウッドは相変わらずこうして甘えてくる。専用のクッションだなんて言われると少し悲しいけど、この可愛らしい寝顔を独り占めできる時間は嫌いではなかった。
「ほっぺはふにふにのまま、なのかな?」
意地っ張りでかっこつけで、でも実はちょっぴり泣き虫で。この年になっても寝顔がかわいい甘えん坊な彼は、どんな大人になるのだろうか。こうして寝顔を見る度に考える。
考える度に、兄弟愛とも友愛ともつかぬ小さな蟠りが、ひっそりとボクの胸を苦しめた。
もう少しこの寝顔を見ていたい。もう少し彼の成長を見ていたい。もう少し、せめて彼が嫌というまで、傍に、隣に。
溢れんばかりの苦しくて切ない気持ちがボクの心を占めていく。でも。
「……おやすみウルフウッド。ボクの……ボクの可愛い、おとうとくん」
この気持ちはボクだけが知っていればいい。この気持ちは、ボクが独り占めしておけばいい。
全てを閉じ込めるように、ボクは目を閉じた。
「トンガリ!おるか!」
ドアスコープの向こう側、真っ白なカッターシャツに健やかな小麦色の肌を連れた、鋭い目つきの青年が立っていた。
「は……はい?」
扉を恐る恐る開く。日に晒された彼の精悍な顔と薄らと生えそろわない髭に成長と面影を感じる。
「邪魔するで」
扉とボクを押しのけた彼が悠々とリビングに向かって行く。勝手知ったるなんとやら。慌てて後ろから追いかけると彼はソファに腰掛けていた。
「ウルフウッド?!な……急に……どうして?!」
「は?卒業式終わってん」
「いや、いやいやいや……そうじゃなくて!!」
状況が理解できず、ボクは慌てふためく。けど、彼はまったく動じない。まともに話すのも、ましてや部屋に来るなんて彼が高校に上がってすぐ以来だというのに。
「オドレ、今日仕事休みか?ほんなら暇っちうことやんな」
「いや……まぁそう、なんだけど……」
何も言い返せず、ボクは池の鯉よろしく口を開ける。
そんなボクの姿を見て、彼はにかりと笑った。
「なあ、ヴァッシュにい……いや、ヴァッシュ」
「なあに弟く……ん?ん?え?」
それはからかいの一言ではなくて、お返しの文句はあやふやになって。ボクはまたぽかんと口を開ける。
そんなボクをよそ目に、ウルフウッドは訥々と話し始めた。
「兄貴な、引っ越すねんて。同居する、言うて」
「え……っと、あの、金髪の……」
「おん。ほんでな、ワイ春から一人やねん」
「はい……」
「で、でな……」
ウルフウッドはどさりとソファに横たわると、真っ赤な顔でなんでか少しだけ涙目で口ごもる。その顔はあの頃と変わらなかった。
「く、クッション、欲しいねん。」
「く……クッション?え?お兄さんの引っ越し祝いに?」
「ドアホ!!」
「ぎゃぁっ!!」
体を跳ね起こした彼に手首を掴まれ、ソファに押し倒される。見上げる顔に幼さはもう無くて、でもほっぺはまだ少しふにふにしてそうで。敷かれてもないのにボクは息苦しくて。息苦しくて。
「お、オドレは!ワイのクッションやって!言うたやろ!」
覚えてないとは、言わせない。そんな顔でウルフウッドがジトリと見下ろしてくるものだから。胸の奥からふわりと、ひた隠していた気持ちが顔を覗かせる。
からかっていただけだと、甘えていただけだと思っていたのに。でも、忘れるはずも、忘れられるはずもなかった。
「……はい……言って、ました。」
恥ずかしくて泣きそうなボクの姿を見て、彼は涙目でにかりと笑う。
「なら、あん頃は兄貴に邪魔されとったけど、今度は起きるまで独り占めさせてな?ヴァッシュ兄ちゃん?」
「……まったく、大きくなっても甘えん坊のままだね。弟君?」
からかいの一言にお返しの文句。
手を伸ばして、顔を綻ばせたウルフウッドを抱きしめる。
「顔見せてウルフウッド」
「おん。何べんだって見せたるわ」
これは、ボクと彼の話。
隣を独り占めする、ボクらの話。