ある夜帰ってくると部屋の前に人が倒れていた。
あまりにも唐突な光景で一瞬固まった。部屋の前に人が倒れていたことは、長いこと住んできたこの町でもさすがにない。廊下に他の人影はなく、部屋の前ゆえ近付かねばならなかった。
110番案件かとしゃがんで覗き込んでみれば、倒れていたのは彫りの深いモジャ頭の吸血鬼だった。かなり顔色が悪い。
「おおう……どうすっかなこれ、VRC?」
軽く揺すってみるが反応がない。肩を叩いても同じだった。
「もしもーし、大丈夫ですかー?もしもーし?」
声をかけてみる。今度は反応があった。眉間に皺を寄せ、何事か呟いている。聞き取ろうとして耳を寄せると、どうやら日本語ではない。そして英語でもなさそうだ。詰んだ。何とかするのは早々に諦めた。しかしこのままでは部屋に入れない。
「あの、ここ俺の部屋の前なんで、ちょっとどいて貰えます?」
相手が人間なら救急車でも呼ぶところだが、吸血鬼であるなら血をぶっかければ治るだろうと、念の為日陰になる位置に転がしてみると、下敷きになっていたらしいビニール袋が出てきた。
「なんだこれ」
ちらりと見てみると中に入っているのは人工血液のようだ。しかも質が良くない白いままの人工血液。よほど困窮している訳でもない限りこれを飲む吸血鬼はそう居ないはずだが。しかし目の前の男はまあまあ新しいと思しき服や靴を身に付けている。
状況がよく分からない。そもそもこの男はここの住人なのだろうか。今まで見たことがない。
そうこうしている間に隣の部屋の扉が開いた。
「……あ、やっぱり三木さんだ。どうしたんです?」
「吉田さん、すみません廊下で」
隣の部屋に住んでいる吉田さんが顔を出した。吉田さんは、よく「作りすぎたので良ければ貰ってください」と、おかずを分けてくれるめちゃんこお人好しのお隣さんだ。猫が外に出ないよう足で道を塞いでいる。そして俺の足元に転がる何者かの姿を見て困り顔になった。
「エエ……」
「なんか帰ってきたらこの吸血鬼が扉の前に倒れてて」
吉田さんが眉を下げたまま、ぱたりと扉を閉めて近くまで来てくれた。同じようにしゃがんで覗き込むと「あ」と小さく声を漏らす。
「三木さんこの人、こないだお隣に越してきた人だ」
「お隣?」
「三木さんからするとお隣のお隣」
「お隣のお隣」
並ぶ部屋の扉を指差し確認すると、コクリと頷かれた。ここ数日忙しかったから全く知らなかった。吉田さんが続ける。
「ドラルクさんがこの人連れて挨拶に来たんだよ。なんでもシンヨコに来たばっかりで、吸血鬼としても目覚めたてだから、良くしてやってくれって」
「ドラルクさんが?」
「そう。ビックリしちゃった。ええと、それで、なんで倒れてんの……?」
それなのだ。何故倒れているんだ。あのドラルクが連れてきた吸血鬼なら、それなりに何かしらと関係がある吸血鬼だと思うが、それにしたって。
二人で首を捻っていたら、くきゅぅと腹の虫が鳴いた。
「あ〜、夜飯これからなんで……」
「ンフ、良かったらうちで食べていきます? その人もそこに転がしとくわけにいかないし、うちに運んでください」
「……ではお言葉に甘えて」
よいしょ、とモジャ頭の人を担ぎ上げ、半ば引きずるように運ぶ。
背丈があるのにいやに軽い。まさかの栄養失調とかじゃないだろうな。
吉田さんが部屋の扉をそっと開き、猫を抱えあげて手招きをした。このマンションにきて吉田さんとの交流もそれなりにあるが、部屋に入るのは初めてだ。
「あっ、招いてから言うのもなんだけど、猫大丈夫だよね……?」
「猫、好きなので大丈夫です」
玄関に足を踏み入れると味噌汁のいい匂いがする。
後ろで閉まった扉の音は、何だかとても柔らかい音だった。