沈黙沈黙
ふたりよがりで、支離滅裂なこの感情を、ひとは愛と呼ぶのだろう。
とうに歪んだこの世界、わたしの見た幻影。
だからわたしは、何度でも伝える。
――愛している、と。
それは、ある日突然この世界に降りてきた。歪に塗れた廃墟に、たったひとりで。彼女は虚構と深淵を司り、種々の世界を渡り歩いた。彼女はこの世界で、律と名乗った。
腐敗した世界。確かにこの世界はとうに腐り果てていた。嘗ての故郷を滅ぼした神への復讐を誓う最高司祭は、生涯を捧げ歪を創り出した。歪は現人神として祀り上げられ、鎖に繋がれながらも主の望みに応え続けた。歪でできた少女の心は終ぞ満たされることなく、救いを求め伸ばした手は尽く振り払われた。少女はいつしか虚ろに堕ち、ただ享楽のためだけに生きた。
そんな少女を、人々は畏怖と侮蔑を込めて歪様と呼んだ。
最高司祭が永遠の眠りにつくと嘗ての惨状を知る者も少なくなり、この世界に安寧が訪れたかのように思えた。
不可抗力。そう、創られた少女の運命ははじめから決まっていた。現人神が歪を餐い、邪神を呼び出す。歪様は邪神の器となり、「命を賭して臣民を護った」名誉の死を遂げる。そのはずだったのだ。
想定外の事態。最高司祭によって計画された完璧な物語の、唯一の変数。虚構と深淵を律する者は、腐敗した世界の運命に抗った。歪様と呼ばれた少女は、己とその世界を導く変数の姿に――律の名に相応しい姿に、光を重ねた。それは変わってしまった世界で心を持ったまま生きる方法だった。
虚構に包まれた少女と歪から創られた少女は、その心に決して埋まることのない虚ろを抱えていた。故にそれは必然で、どちらからともなく、互いのぬくもりを頼りにその存在を確かめ合った。
少女は思う。必然の運命の中で、わたしたちはどこまで己の路を歩めたのか、と。律の名を持つ少女がこの世界を訪れたことでさえ、すべて脚本通りだったのではないか、と。
わたしたちは創られた存在。創造主は人であり、或いは天上の者であり、とうに届かぬ存在。身体を重ねるたび、わたしたちはふたりぼっちだね、と笑いあった。
抗えない結末。それもきっと、はじめから決まっていたのかもしれない。腐敗した世界の変数は、愚かな人間に殺された。
覚えていない。あのとき、律の死を聞いたときから、その後のことを何も覚えていないのだ。だが、目前の惨状――随所に広がる人々の躯とそれを取り巻く歪を見れば、何が起きたのかなど容易に想像できた。空が歪み、夕日が不自然に欠けている。餐渺の力―― 他人事のように思った。ああ、これでは律に小言を言われてしまう。ふと、律にはもう二度と会えぬことを思い出した。ああ、人は愚かだ。他人の大切なものを、光を、易易と奪う。
宵闇が迫る。月の光が届かぬ世界は、こんなにも儚かったのか。常闇の中で、人は心を忘れるらしい――そう説いたのは、果たして誰だったか。
星が瞬く。微かな光が瞳を揺らす。思いついてしまったこと。禁忌を冒す――過去を餐い、律の生きる未来を創り出すこと。あの頃に戻ることができるなら、きっと変わる。変えられるのだと。
ただ一心に祈る。これが例え脚本の一行だとしても、それでもいいと信じて。
ただ一心に祈る。光を見捨てた神への呪いと一抹の望みを込めて。
月と星が闇に混ざり、焦土と化した大地が虚空に溶けゆく。人は虚無から生まれ、虚無に還るのだ――と、創造主は云っていた。けれどわたしはまだ、虚無に呑まれるべきじゃない。あの光を、ぬくもりを、もう一度取り戻すまでは。
世界が歪む。瞳を閉じる。
「は……っ」
ぎりぎりと刺すような痛みに襲われる。視界が霞み、頬を嫌な汗が伝う。じっとりと濡れた寝具がぎしり、と音を立てる。
夢を見ていた。長い、長い夢を。わたしと、その最愛のひとの夢を。
あの日、餐渺の力――遥か彼方を餐う能力によって律の死が無かったことにされてから、わたしは嘗ての世界に戻ってきた。身体は嘗てのわたしのまま、その魂だけが喪失の悲しみを知っている。禁忌を冒した代償は大きくて、わたしの精神は少しずつ蝕まれていた。だが、それでも後悔の念は微塵もない。律が生きて、この世界に存在しているという事実。それだけが大切で、どうしようもなく愛おしくてたまらないのだから。
「泡。」
聞き慣れた声が、わたしの名を呼ぶ。律の名を持つ少女は、歪様だったわたしに泡という名を、泡のように美しいその姿にぴったりでしょう――と云って与えてくれた。ぬくもりを孕んだ声は音の波となって、仄かに白んでゆく部屋の中をゆらゆらと揺蕩う。
「ねえ、律。」
――とうに歪んだ世界。あなたの死を、わたしが餐った世界。これがわたしだけに見える幻影だとしても、わたしは、あなたを、あなたのことを。
「愛してる。」
「……知ってる。私も泡を愛しているから。」
揺れた瞳に確かな光が灯る。頬をくすぐった風の行き先に目を向ければ、窓から差し込んだ朝日がその顔を照らしていた。