子供で恋人な主人、あるいは猫のような「レオン~」
執務室での机仕事中、開け放していた扉の陰からノア様――わたくしが仕える、この世で最も敬愛する主人であり、信じられないことにわたくしの恋人でもあるその人がひょこりと顔を出す。
長年この方のご尊父――先代エージェントである会長に仕えていたわたくしは、当然ノア様の幼少期から交流がある。ノア様自身が覚えているかは定かでないものの、幾分小さいときからその成長を見守ってきた。だから、先代が亡くなり、ノア様にお仕えすることになったそのときもこの方の“執事”として傍で支えていようと思っていたはずなのに――。
どうしようもない迷惑と心配をかけてしまった。挽回をしようにも、それをしようとするのはあまりにも厚かましいと思うほどの、大失態。もう傍で支えることすら許されないかもしれないとさえ思った。コスモス財閥を、ノア様の傍を離れようとも思った。
それでも、この方は、ノア様は。
「レオンは家族みたいなもの、っていうか、もう家族なんだよ。大事な家族。ここはあなたにとって第二の家。だから、だから、……出ていくなんて言わないで」
はらはらと泣きながら、そんな風に引き留められてしまっては出ていけるはずがなかった。ノア様の中でわたくしという存在がそれほど大きく、欠かせないものになっていたとは知らなかった。
――とまあ、普通であればここで終わるのでしょう。けじめをつけるべく、主人から離れることを選ぼうとした従者が主人からの愛を受け取り、それを思い直す。互いの信頼と愛情を再確認する。……わたくしもそうしようとしたはず、そうしたかったのですが。
ノア様からの大きな愛情を受け取った瞬間、わたくしの中のノア様への愛情、敬愛、親愛がまるでドミノ倒しのように別のもの――恋慕へと染まってしまったのです。元よりその形であったのに、凝り固まった固定観念に目を塞がれていただけなのかもしれません、見ないふりをしていただけなのかも。あるいは、ただの敬意を勘違いしてしまっただけなのかもしれません。けれど、取り繕えないほどの熱に襲われた。
それを、それすらもこの方は許すどころか、受け入れてくださった。「すぐに同じ形を返せはしないかもしれないけど」と、返そうとさえしてくださった。「本当に、本当によろしいのですか」と何度も何度も確認して、わたくしが理解して納得できるまで何度も何度も頷いて、話してくれた。
――という経緯で、全く未だに信じられませんが。ノア様とわたくしは紛れもない恋人同士で。
それらしいスキンシップも幾度となく重ね、あくまでノア様に求められたときに限り、粘膜接触というのも、少々。
そんな風に大事な大事な、わたくしのご主人様――ノア様が顔を見せてくれれば仕事の疲れなど吹き飛んでいってしまうと同時に、緊張もしてしまうわけで。
ノア様はわたくしの姿を確認すると「よかった、いたいた」などと嬉しそうに笑いながら、弾むような足取りで机に向かってくる。それからわたくしの隣まで来るとそのままべたりと床に座り込み、わたくしの座っている椅子に凭れ、勝手にわたくしの手を取って自身の肩に回してしまう。
初めて“これ”をされたのはわたくしとノア様が正式に恋人関係になってから数日のこと。最初の頃は思わず「ギャッ!」と悲鳴を上げていたものの、本人から「小さくなってる方が安心するだけだから、そんなに驚いたり騒いだりしなくていい」と言われてしまったのでなんとか悲鳴を飲み込むようにした。思えば、ノア様は幼少の頃からわたくしが机に向かっている最中の机の下で遊んだり、股を勝手にくぐったり……。何かと人(というよりも、わたくしの?)足元にいることを好んでいたから、何か特別な意味があるようなものではなく生来の癖なのだろう。
そんな主人兼恋人のあまりに無邪気な振る舞いにもいくらか慣れ、今ではかの方の望むとおりに平静を装うことが出来ている。……未だに喉はヒュッ、となってしまうが。
「ノア様。何か、その、ご用事で?」
「ん? う~ん、用事ってほどのことでもないけど……、用事と言えば用事かな? 疲れたからくっつきに来ただけかも。ふふ」
そう言ってノア様はくすくすと笑いながら、勝手に取っていったわたくしの手と戯れる。手や指を握ったり、手のひらに頬を寄せたりしたかと思えば、手袋を外して互いの指を絡めたり――手のひらにキスしたり。
動揺と高揚、それから緊張。触れられていない方の手にまで汗が滲むのが自分でも分かるのに、ご主人様は何一つ気にしていないようで頭がのぼせそうになる。
「ご、ご主人様。もう少し、もう少しで終わりますので、手を放していただけると大変、大変嬉しいのですが……」
「え。触られるよりも放してくれた方が嬉しいの?」
「ぐうっ! ち、違います、いえ、あのですね、その、両手が使える方がもっと早く終わらせられますし、そうすればもっと早くノア様の用事を聞くことができますし、あの、ええと。……正直言えば、触れられていた方が嬉しいのですが、しっ、心臓が。わたくしの心臓が持ちそうにないので……。放していただけると、助かります。文字通り、わたくしの命が」
そう矢継ぎ早に言葉を紡げば、ご主人様はきょとんとした表情の後、ふはっと笑って手を放してくれた。手汗でじっとりとした手のひらを誤魔化すために手袋を返してほしかったが、ご主人様に返却する意向はないらしい。
まるで自分のもの、とでも言うようにノア様のポケットにしまわれてしまった手袋の片割れを「返してくれ」とも言えず、わたくしは片手だけ手袋をしたまま仕事を再開した。
「――大変お待たせいたしました。藍上レオン、本日の業務終了です!」
ノア様の愛おしくお茶目なちょっかいにより、執事モードと恋人モードとの切り替えスイッチが中途半端になったままではあったものの、なんとかやりかけの事務作業を終わらせた。
そのことを宣言もとい報告すれば、ノア様からのわ~っという声とささやかな拍手が贈られる。……自分が普段ご主人様にやっている振る舞いをお返しされていると思うと、嬉しさよりも気恥ずかしさが勝る。
「……そして、その、ノア様? わたくしに何の用事だったのでしょうか」
「ああ、うん。レオンって明日お休みでしょ? だから今日の夜、まあその……。部屋で色々、どうかなって」
「――ピャッ!?!?」
わたくしはノア様の言葉を瞬時に理解できず、しかし理解した瞬間におよそ成人して十数年経つ男性どころか、人間から発せられた声かも怪しい奇怪な音を出してしまった。慌てて口を押さえるも時すでに遅し。奇怪な音はノア様の耳にしっかり届いており、ふふふと口を押さえて笑っている。
「別にこうやってお誘いするの、初めてじゃないのに」
「そっ! それは、そう、ですが……。でもっ、用事と言うほどのものでもないと聞いていましたからっ! くっつきたいとも言っていたので本当に少し、い、いちゃいちゃしたいだけなのかと……! それがまさか、そんな……」
「それはほら、レオンにも都合とか予定とか色々あるだろうし。ただでさえいつも一緒にいるからお休みの日くらいはひとりでゆっくりしたり、お出かけしたりしたいかな~って思って。はっきり用事だって言ったらお仕事モード入っちゃうかと思ったんだよ」
そう言ってわたくしに微笑むノア様の瞳はとてもやさしいもので。使用人や従者に向けるものでも、かと言って恋人に向けるものでもなく、どちらかといえば対等な友人や家族に向けるような視線に胸がじわりとあたたかくなる。それと同時に実際に請われている内容を思い、その決定的な乖離に心がかき乱されてしまう。
ああどうしてこの方は、この人は――この子は。幼少の頃と重なる表情に、それとはどうしようもなくズレたおねだり。背徳的なことに悦を覚える趣味はないものの、少し、くらくらとするものがある。
「そっ、その配慮はとても嬉しいものですが、わたくしにとってそれは一大事、一大イベントですよ!? 心の準備、ええ、心の準備というものがあります……! もっと仰々しく、いかにもといった雰囲気を醸し出しながら来ていただかないと!」
「えぇ~っ。……今日は結構頑張ってみたんだけどな」
う~ん、と少し唇を尖らせながら、ノア様が『手を出して』というジェスチャーをする。おずおずと求められた方の、手袋をしていない手を差し出せば再び手を取られ、ちゅ、と手のひらに二度目のキスをされる。
「――誰が言い出したか知らないけど、手のひらへのキスって“懇願”って意味があるんだって。だから“おねだり”のつもりでしてみたんだけど……」
顔を上げたノア様の、ほんのり上気した頬と明らかな熱を帯びた視線に見上げられ、ぶわっと全身が熱くなる。ついさっきまではそんな表情ではなかったのに……!!
表情豊かなポーカーフェイスとはなんと恐ろしいものかと思いつつ、そういえば手のひらに口付けをされるのは初めてだったことを思い出す。いや、でも、そんな、そんなこと……。
「そんなこと、しりませんよぉ…………」
花や石、酒やカクテルの類ならば仕事柄扱うことも多く、何か無礼があってはいけないとそれらが持つとされる意味に気を配ることもある。
けれどもキスは、これは、知らない。知る必要がないものだったから、知るはずがない。求められても額や頬、手の甲、精々が唇。意味など知らずとも何となく察せられるものしか求められてこなかったのだから知るはずがない。
あまりにも心を乱され、翻弄されすぎて、気が付けば目に涙が浮かんでいた。ダメだと思ったときにはもう雫が零れ落ちていて、頬や顎、燕尾服を濡らしていく。
「えっ。わあ、ごめんごめん! からかったわけじゃないんだよ。そういう話を最近知ったから、レオンにやってみたくなっただけで……。だから泣かないで……?」
申し訳なさそうにティッシュで涙を拭ってくれるノア様のおかげで余計に涙が止まらなくなってしまう。自分こそ申し訳が立たない、悔しい。何か、どうにか挽回を――。
「――ノア、さま。少し、よろしいですか」
「ん、もうだいじょう――、っ、ん!?」
もう大丈夫なのかと安心してくれたノア様の隙を突くように、わたくしはその人の唇を奪った。求められていない、真の意味で自分からのキスをするのはこれが初めてのことで。
“恋人”のわたくしを落ち着かせるとき、ノア様はよく口付けを落としてくれる。そのおかげか少し気持ちが落ち着く。それと同時に、その唇に初めて触れたときのような高揚を覚えた。
このままもっと深く口付けてしまいたくなって、存外自分にも邪な欲があるのだと気付く。けれどもそれはまだ、正気のわたくしにはできないことだからと強く押し付けただけの唇を離した。
「――申し訳ありません。断りなく、あろうことか唇などに口付けてしまって。し、しかし、これを――これを、あなたの恋人としての藍上レオンから、あなたのお誘いに対しての返答として、お、押し付けさせていただきます!!」
呆気に取られたように目を見開いて固まっているノア様に構わず、わたくしは次の言葉を畳みかける。
「お誘いのとおり、今夜あなたの部屋にお伺いいたします。その気がなくなったならここでお断りしていただいて構いません。時間は食事や入浴を済ませ、あとはもう寝るだけ……といった時間帯で構いませんね?」
「あ、う、うん。それで、平気……」
「ではそういうことですので、わ、わたくしは、これから自室で乱れた精神を整えてきます! 何か緊急の用事があれば、直接ではなくライダーフォンのメッセージにお願いいたします! 直接では……精神が乱れてしまうので! ではまた夜にお会いいたしましょう! ――お誘い、ありがとうございます、……の、ノア、さま」
恋人として、対等に。『ノア』という名前だけを呼ぼうとして呼びきれず、最後の格好はつかなかったものの。突然泣き出してしまったところから、それなりの挽回は出来ただろうかと思いながらわたくしは執務室を後にした。
起こったことだけを見れば、突然泣き出して宥められていたところ、今度は突然キスをして一方的に色々言って逃げたわけで、どこを切り取ってもまるで格好なんてついていないわけだけれども。
ノア様の“おねだり”を受けてから顔も体もずっと熱くて、一秒でも早くあの方から離れて頭を冷やしたかった。無理やりにでもそうしなければ、もっと情けないところを晒した挙句にあの場で、どちらからともなく何か事を起こしてしまいそうだったから。
自室までの廊下を早足で歩きながら、体を冷やすために手袋や上着を脱いでしまおうと思ったところで、片方の手袋がないことにはたと気付く。そういえば、ノア様から返してもらっていなかった。
「……、……」
“おねだり”の意味を込めて、二度も口付けられてしまった自身の手のひらを見る。意識的だったか、無意識だったか定かでないまま、あの人の唇が触れた部分に自分の唇を寄せ、そっと触れさせた。
「……ノア、さま……」
どこかくらくらとする頭で、夜までにこの熱やざわついて落ち着かない心が少しでも治まってくれたらと思いながら自室の扉を開けた。