シークレットシークレットシークレット「――実は、海羽さんに僕の恋人になってもらいたいんです」
珍しくノアちゃんの方から「お話したいことがあるんです」と連絡があり、俺は仮面カフェに向かった。到着して早々にVIPルームへ通されたかと思えば、真剣な表情で唐突にそんなことを言われてしまって思わず面食らう。
「ちょ、ちょっと待てって。流石に色々聞きたいことがあるんだけど」
「すみません、単刀直入過ぎましたね。――恋人と言っても本当の恋人じゃありません。僕がお願いしたいのは恋人役、具体的に言えば婚約者の役です」
「う~ん、……ごめん。もっとよく分かんなくなっちゃった。時間ならあるからさ、ゆっくり話してよ」
俺がそう言うとノアちゃんはこくん、と頷き、水を一口飲んでから俺の方を向き直る。
「こちらの家の話なんですが。……実は近頃、お見合い話が舞い込んでくるようになってしまって。父が亡くなった頃からぽつぽつとはあったんですが、二十歳になってからその量が明らかに増えていて」
ノアちゃんの話を聞きながら、ああ、そういえばこの子って財閥の後継者だったな、なんてことを思う。会おうと思えばその日のうちに気安く会えてしまうし、ライダーとエージェントという特別な関係性も相まって、普通なら俺のような人間は滅多にお目にかかることすらできないタイプの人間であることを忘れていた。
「もちろん断ることもできるんですが、こういうのは家と家との話だったりもして。はっきり断ると角が立つし、うやむやにすると勝手に話を進められてしまったり、ということもあって正直頭を悩ませているんです」
「なるほどねぇ……。そこで婚約者をでっち上げて、向こう側から諦めてもらう形で一斉に話を取り下げたいってことか。まあ話は分かったよ。話は、ね。聞きたいことはいくつかあるけど」
「もちろん。きちんと納得した上で協力してもらいたいですから、答えられることならなんでも」
ノアちゃんの口ぶりから、この子の中では俺が協力するっていうのはもうほぼ確定っぽいな、と思いつつもそこをスルーして俺は質問をぶつける。
「じゃあまず一つ目。――お芝居してまでお見合いを受けたくない理由は何? うざったい話なのは分かるけど、全部が全部クソみたいな悪条件ってわけでもないだろ?」
あんまりつつかれたくない場所かもしれないけど、それこそ『婚約者のフリをしてくれ』なんて頼めるくらいには俺のことを信頼してくれているはずだし、この計画が短期的なものにしろ長期的なものにしろ、俺はこの子の婚約者として振る舞うよう求められるはずだ。ノアちゃんのことを知れるだけ知っておくに越したことはない。個人的に興味もあるし。
「僕がお見合いを受けたくない理由は単純で、『まだそんなことを考えるつもりがないから』です」
思い悩むというよりはただ手を焼いている、単純に困っている、というような表情を見るにどうやら嘘を言っているわけではなさそうだ。もちろん、理由がそれだけなのかはまだ分からないが。
俺が続きを促すように視線を送ればノアちゃんは話を続ける。
「海羽さんの言う通り、確かに全部が全部悪条件というわけではありません。むしろ普通か、好条件なくらいで。……でも僕はまだ家庭とか、そういうことを考えられないんです。お酒だってようやく飲めるようになったばかりだし、僕には将来のコスモス財閥総帥という顔の他に、ライダーのエージェントという顔もあります。――もっと色々なことを知って、こなせるようになってからでないと生涯の伴侶なんて決められない」
彼のその言葉はふわふわと酒に溺れて音楽をやる、世間一般的に見れば人でなしに近い俺にはあまりにも重く、眩しかった。覚えてもいない過去に停滞したまま囚われている俺には、未来を見据えている彼の姿はひどく輝かしい。出来た人間だ、と思う。
「……まっ、そりゃそうだよな! 俺ですら結婚なんてまだ考えもしないのに、ノアちゃんくらいの歳で結婚なんて、普通はまだ考えないよなぁ」
「それは人によると思いますけど」
「アハハ、まあね? よし、それじゃあ二つ目の質問だ。――どうして婚約者役に俺を選んだ? もしかして、もう他のやつに頼んではみたけど断られたりしての俺だったりする?」
二つ目の問いを投げかけるとノアちゃんは少し考えるような素振りを見せた。……へえ、俺を選んだ理由は考えるのか。俺のしょうもないところをどうにか良く言い表すために言葉を考えてるんじゃなきゃいいけど。
「……海羽さんが色々と適任だと思ったからです。どこかから噂が漏れていないのであれば、レオン以外に僕のところにお見合いの話が来てることを知る人はいないはずですよ」
「ふーん? ぶっちゃけ俺が適任とは一切思えないけど、そこの理由は?」
「えっと、その。……こう言うのもなんですが、海羽さんって性別関係なく人にモテるところがあるでしょう? だから慣れてるんじゃないかと思って」
予想外の彼の言葉に思わず「は」と声が漏れる。なんだよ慣れてるって。こんな案件慣れてるやついるわけないだろ。いるとしたらそいつは詐欺師に違いない。
「ノアちゃんって俺のこと結婚詐欺師か何かだと思ってる? こう見えても恋人ごっこなんてそうそうしないよ?」
「え? ……ああいや、そういうことではなくて! ご、ごめんなさい、言い方が悪かったですね。なんというか、あなたなら友人と恋人の距離感の違いをよく知っているんじゃないかと思って。特に女性と一緒に飲むときとか、そういうところに気を付けてはいるでしょう? まあ、その、実際どう思われるかは別として……」
「急に痛いところ突いてくるじゃん。まあね、殴られたり叩かれたり引っ掻かれたりして、色々慣れてはいますよ。男女どっちとも飲むし、どっちとも友達だったり……色々するし、ね?」
俺が半分からかうように言うと彼は少し気まずそうに視線を逸らした。……ノアちゃんにはちょっと刺激が強かったかな?
「と、とにかく。僕が婚約者役に海羽さんを選んだのは、あなたなら本物の恋人らしい演技ができるんじゃないかと思ったからです。僕は、そういうことに疎いから」
「ああ、そういうこと。――っていうか、演技ってことはやっぱり一緒にいる必要があるんだ? 俺の名前貸して終わりじゃないってことね」
「あ、はい。その通りです。すみません、具体的な話をしてませんでした」
そう言ってぺこりと頭を下げる彼にいいよいいよと声をかけ、顔を上げさせる。
「まず理由を聞いたのは俺の方だし。理由の方はこれで大体分かったから、今度は俺に実際何をしてほしいか聞かせてくれる?」
「はい。――基本的には今まで通りにしていただいて大丈夫なんですが、僕と一緒にいるときは、その。……恋人っぽい距離感でいてほしくて。あと、もし一人で飲んでるときとかに恋人の有無を聞かれることがあったら『婚約者がいる』みたいな風に言っておいてほしいんです」
「へえ。結構しっかり吹聴するんだねぇ……。となると一日二日の話じゃないわけね、オッケーオッケー」
俺が呟くように発した言葉にノアちゃんは一瞬はっとしたような表情を見せたかと思うと、眉を下げて申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめんなさい、海羽さんの都合をあまり考慮していませんでした……。可能性は低いんですが、万が一相手方に探偵など雇われて身辺調査をされると、名前だけではボロが出てしまうと思って、その……」
「ああ~、そっか。財閥の後継者のお見合い相手なんてそりゃ金持ってて当たり前だし、本気で調べようと思ったらそれくらい普通にやるのか……」
「ええ、まあ……。正直、なんとか先送りにしている見合い話もありますし、何か探りを入れられていてもおかしくはない。実際、僕と結婚すれば財閥からの融資や金銭的支援はよりスムーズに、扱える金額も大きくなるでしょう。ゆえに、人によっては僕の弱みを握ってでも就きたい座ではあるんです。僕の婚約者、配偶者という立場は。――そこまでする理由はあります」
ノアちゃんの話を聞いて、本当に俺と彼は普通ならばまず出会うことのない人間であることを再認識する。
彼が危惧しているのはいわゆる政略結婚とか、そういう話だ。自由恋愛が一般的な現代でも確かにお堅い職業かつ、ある程度の地位がある人間なら聞かない話でもないんだろうが、それでも彼の話はそれらとはスケールが違う気がした。
――良くも悪くも家や伝統に縛られる人。歴とした過去があり、過去から現在まで敷かれた確かな道筋がある人間でも、それはそれで息苦しさがある。特に“自由”を掲げるクラスの所属である俺にとっては、彼がよりいっそう窮屈そうに見えた。だから俺は――、
「――いいよ、ノアちゃんの婚約者役。俺でいいならよろこんでお受けしますとも」
「えっ、ほ、本当ですかっ」
俺が了承した途端、ノアちゃんの表情がパッと明るく、年相応に幼くなる。――ああなんだ、結構不安がってたのか。毅然とした態度だったから全然気付かなかった。
「こんな嘘つかないって。ノアちゃんだって頭のどっかでは俺が引き受けるって思ってたでしょ?」
「それは、まあ、その。……断られたらお金で釣るつもりではありました」
「えっ。……それはそれで聞きたかったな?」
「大丈夫ですよ、ちゃんと報酬の方に加算しますから。引き受けてくれるというので言ってしまいますが、実は一度断ってもストレートに承諾しても、トータルで受け取るものは同じなんです」
俺が用意周到だと笑えば、彼はどこか誇らしげにいたずらっぽく笑う。……うん、やっぱ子供っぽい顔のが似合うよな。かわいい。
「――んで? とりあえず引き受けるってことになったわけだけど、どうする? 手始めにデートでも行っとく?」
「いえ、それもいいですが――その前に。お渡ししておくものがあります」
そう言って彼はどこからともなく何かを取り出して、それをテーブルの上に置いた。よく見てみるとそれは何やら黒っぽい手のひらサイズの小さな箱。……気品を感じるデザインにこのサイズ感、何よりも話の流れ的に、これはまさか。
「ノアちゃん待った。……まさかとは思うけど、これってもしかして――」
「はい。指輪ですよ。婚約指輪」
さも当然とでもいうような彼の態度に、俺は思わずハァーッと息を吐く。
いや、まあね? 今までの話からしても、ノアちゃんの性格からしても、彼がこれくらい用意してくる気がしなかったわけじゃない。
どこに潜んでるかも分からない、そもそもいるのかも分からない探偵やら何やらへの対策として、無差別に吹聴してそれを真実だと思い込ませるのなら、確かにあった方がいいアイテムではある。――あるけどさ。
「ちょっと待ってよ……。いくら作戦のためとはいえ、こんな、こんなの借りられないって。偽物ってわけでもないんだろ?」
「本物ですよ。それにこれも報酬の一部なので財閥から海羽さんに貸す、というよりは僕から海羽さんに贈る、が正しいです」
「なおさら受け取れないってば! 俺に魔が差す前に早くしまえ!!」
「そう言わないでください。ちゃんと海羽さんに似合うデザインを選んだんですよ。今回の件が終わっても普段使いしやすいようにって」
見るだけでも、とノアちゃんが箱を開けて中身を俺に見せてくる。おそるおそる覗けば中には当然指輪が鎮座していた。
ただ、そこにあったのは俺が“婚約指輪”と聞いて想像していたものよりもいくらか線の太いものだった。俺が普段着けているものよりかは細いが、想像以上にカジュアルなデザイン。……確かにこれなら普段使いもしやすいけど。
「よければ手に取って見てみてください。実際に嵌めてみても構いませんよ」
「……じゃ、じゃあまあ、ちょっとだけな……?」
――普段ノアちゃんと調査をしたり、ただ二人で遊びに行ったりするときもちょくちょく彼の財閥の後継者としての金銭感覚に驚かされることがある。奢ってもらう俺の方がビビるような桁の金が動くこともしばしば。そんな彼が用意した婚約指輪なんて一体いくらだろうと思うと指輪に触れる手が震えてしまうが……。
手の震えを抑えて、彼が俺のために用意したという指輪を手に取る。一見するととてもシンプルなプラチナリング。だがよく見れば内側に何やら青っぽい石が埋め込まれている。
「裏に石が入ってるんだ。シークレットストーンとか言うんだっけ?」
「ええ。元のデザインがシンプルですから、指輪を複数持ってるとどれがどれだか分からなくなっちゃうんじゃないかと思って。判別できるように入れてもらったんです」
「へぇ~……。ちなみにこの石って?」
「ブルーダイヤモンド、だそうです。どうやら希少な石らしいんですが、海羽さんにこの青がよく似合うと思ってあまり気にせずに選んじゃいました」
思わず「気にしないって何を?」と恐ろしい質問を投げかけそうになって、俺はその言葉をぐっと飲み込む。『意味』ならそういうお店で入れられるものなんだから良い意味じゃないわけないし、『金額』だとしたら彼が気にしなかった時点でそれは多分“上振れ”だ。聞いたら余計に震えが止まらなくなってしまう。
「海羽さん、よかったらそのまま嵌めてみてくれませんか?」
「……ノアちゃんって結構押しが強いっていうか、頑固っていうか……。まあ、ここまできたら俺も腹決めるかぁ」
そう言って俺は覚悟を決めたようにフーッと息を吐き、ノアちゃんが用意した婚約指輪を嵌めてみる。普段は指輪を嵌めない指だから少し違和感はあるものの、最初見た印象通り、このデザインは俺の手によく馴染むと思った。
「――どうですか?」
「あ、ああ、うん。……いいんじゃない? いい、と思う」
ふわりと微笑みながらそう尋ねてくるノアちゃんに、まるで本当にプロポーズされたような気分になって、俺は思わず顔を見られないように彼から顔を背けた。
確かにこれは俺宛てに贈られた指輪ではあるものの、あくまで彼の偽の婚約者として演じるためのただの小道具のはずだし。何を照れる必要があるのか、何を勘違いしてんだ、なんて思うけど――それと同時に。
彼は冗談でこんなことする人じゃないから、あれもこれも全部嘘ですらないんじゃないかと思ってしまう自分もいる。……少なくとも、俺の趣味を考えて俺のためにこの指輪を選んでくれた、というのだけは紛れもない事実であることが分かって妙な気分になる。
「……と、とりあえず、さ。これを報酬として貰うのは先の話だろうけど、ありがとう、ってのは言っとくよ」
俺の言葉にノアちゃんは「はい!」ととびっきりの笑顔で答えた。……ああもう、これほんとにドッキリとかじゃないんだよな?
ノアちゃんは実は俺のことが好きで、お見合いの話は嘘。この作戦は俺にプロポーズして振られたとき用の予防線だったりとか。逆に実は本気なんじゃないかと俺をやきもきさせて、最後の最後に全部嘘だってネタバラシして俺がショックを受けるのを見たいとか……? あるいは俺の日頃の行いに思うところがあって、“財閥後継者の婚約者”として生活させて更生させようとしてるとか……。
俺を選んでくれた理由が実質『恋人ごっこが上手そうだから』なんて割には、主に金銭面で随分と手の込んでいる計画に何か裏があるんじゃないかと思いつつ。その日から俺は期間限定でノアちゃんの婚約者を演じることになった。
「――そういえばさ、婚約指輪ってことはやっぱ俺だけ着ける感じ? あんまり婚約者同士の二人とも着けてるイメージないけど」
「ん、僕も着けますよ。というか、僕の方が着けてないと意味がないので……」
そう言ってノアちゃんは俺の指輪に付いていた箱よりも少し飾り気のない箱を取り出した。ためらうこともなく箱を開けて中の指輪を取り出すと、俺の指輪と並べて見せてくれる。
「俺のより細いね。そっちの方がザ・婚約指輪って感じがする」
「はい。僕の指にはあまり太いデザインは似合わないようなので……。でも、おそろいですよ。ほら」
ノアちゃんは嬉しそうに笑って指輪の内側、そこにあるシークレットストーンを見せてくれた。俺の指輪に埋まっているものと同じ輝きをした青い石。――でも、その石の輝きよりも。俺にはノアちゃんの笑顔の方が眩しく見えて、照れくさくなって。
あーっ、もう! ホントに恋人役、婚約者役でいいんだよな!? ……本当じゃ、ないんだよな? もしも、もしも本当だったら――いや、ないって。俺みたいなのなんか、間違っても婚約者にしちゃいけないし。
「――海羽さん?」
「……ん、え、ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしちゃった。なあに?」
「いえ、その。指輪も受け取ってもらった上で、引き受けていただけるということでいいのかな、と思って。一応、最終確認を。どれくらいの期間お願いすることになるか分かりませんし、今のうちなら断っていただいても問題ないので」
暗に『ここから先は簡単に投げ出せないぞ』と伝えられて少し怯むと同時に、最後のラインを教えてくれる彼に心地いい重たさの安心感を覚えた。それこそ金にものを言わせて、今まで俺にくれた厚意を取引に出して無理やり巻き込んだって構いやしないはずなのに、ノアちゃんはそれをしない。――そんな子の頼みを断れるほどの冷徹さが、俺にはなかった。
「……いいよ。ちゃんと引き受けるってことで。よっぽどな事情がなければ投げ出さないから安心しな。ちゃんと、俺がお前の婚約者してあげるからさ」
俺がそう言えばノアちゃんはその日一番の柔らかな笑顔を見せた。それは俺には勿体ないなんてもんじゃない、とびきりの信頼。
――どこか遠く、微かに聴こえるメロディーと、体と心の底から湧き上がる熱。俺にとっての信頼の形はそういうものだったかと懐かしさのようなものを覚えつつ、ほんの少しだけ。どうしようもなく、誤魔化しようもない寂しさと空しさを感じた。