現世の夜花――ヒュウ……!
ドォン!と背後の空に大輪の花火が打ち上がった。
ちゃぷりと波打つバケツを片手に持った左馬刻は、カラカラと下駄を鳴らしながら迷いなく夜の参道を進んで行く。先程まであった提灯の煌めきも、楽しげな祭りの喧騒も、生い茂る木々に吸い込まれて徐々に遠のいていった。
だんだんと見えてくる灯籠の朧げな灯りに、ニ匹の狛犬が浮き上がってくる。一旦立ち止まり、左馬刻を見定めるように見下ろすニ匹にちろりと視線をやって、間を抜ける。そのままゆっくりと頭上に構える鳥居の門を仰いだ。
夜空に花火の上がる音だけが、この境内に響いている。次々と打ち上がる華やかな花火たちに心を奪われて、人々は通りの隅にあるこの神社のことなど忘れ去っているのだ。
――今だけはここには誰も来ない。秘密の場所。
左右に玉砂利の敷かれた参道を進んでいくと、眼前に広がる人気の無い境内の建物から低く穏やかな声がした。
「やあ、左馬刻くん。浴衣、着て来てくれたんだね。とても似合っているよ」
いらっしゃい。と背の高い痩せた男が顔を覗かせる。
嬉しそうに目を細めた男は、頭頂部で結った長髪を揺らめかせて、ゆるりと笑った。
「この前は、アンタだけ浴衣だったからな。久しぶりだな、先生」
元気だったか?と左馬刻は聞く。
「特に変わりはないよ。左馬刻くんはどうかな?」
「こっちもそう変わらねェよ」
よいしょと、水がたっぷり入ったバケツを傍に置いて一息つく。社殿をぐるりと囲んでいる、濡れ縁の赤い手すりに持たれた男に近づくために、内部へ続く階段を登った。
「さっき花火が上がったばっかりだ。時間どおりだね。ふふ……君が遅れたことはないけれど」
薄く口に弧を描いて楽しそうに体を揺らした男は、寂雷という。
左馬刻は年に一度のこの夏祭りの日、この場所で寂雷と毎年会う約束をしていた。小さな逢瀬は祭りの最後を彩る、沢山の花火が終わるまで。
この広い境内の敷地には、いくつか小さな神社が点在しており、道脇にひっそりと建っているこのお社もその一つである。寂雷がいる社は古く歴史を感じさせる造りで、管理もされ整えられた佇まいであったが、鳥居へ続く道の入り口を木々が覆い被さるように目隠しをしており、特に祭りの花火の間は、誰も寄り付かない場所であった。
そのため、今はこの場所にふたりきり。左馬刻は低い段差を登り終えると、浴衣の合わせに手を差し込み、一つの簪を取り出した。
「先生、男だけど、髪長いから似合うと思って」
藤の花の造花が揺れる、青紫色の硝子玉が美しく散りばめられたもの。手の上の花簪に、寂雷は顔を綻ばせてきらきらと目を輝かせた。
「これは……ありがとう。とても繊細で、綺麗だ。嬉しいよ」
しげしげと左馬刻の手の中の髪飾りを眺める寂雷に、喜んでいる様で何よりだと笑みを返す。暫く嬉しそうにする寂雷を眺めた後、小さく簪にキスを落として、堂内へと続く段差の上にそっと置いた。
ドォン…と遠くの花火が打ち上がる。
目の前に佇む人を照らし出した一瞬、その朧げな姿が闇夜に透き通るように見えた。
寂雷は人間ではない。
左馬刻が寂雷に初めて出会ったのは幼少の頃。その時はまだ光の様なものが朧げに浮かび上がって見えるだけで、現在のようにはっきりとした人間の形すら象られてはいなかった。幽霊なのかと問われればまたそれも違うようで、この社に住まう守り神として、鳥居を守る狛犬ニ匹とともに長らく時を過ごして来たと言う。
寂雷はこの世の殆どのものに干渉することが出来ないようで、左馬刻に触れることも、物を掴むことも出来なかった。人間の姿で左馬刻の目には映れど、それは濃い霧が集まった陽炎のようなもの。したがって二人の逢瀬というものは、この刻だけ人間の姿で現れる寂雷との少しばかりの会話と、打ち上がる花火を見ながら穏やかな時間を共に過ごすというものであった。
「先生、悪い、何も食ってなくてよ。ここで食べてもいいか?」
寂雷は食べることができない。登ってきた階段の一番上に腰掛けそれを心苦しく思いながら聞くと、寂雷は気にせずに食べてと、頷く。
「それに私が頼んだことだしね。食べ物を持って来て欲しいと。
今日は『焼きそば』かな?」
美味しそうだと興味深げに左馬刻の手元を覗き込んでくる。寂雷は左馬刻の食べる姿が好きだった。特に祭りで出される屋台の食べ物は、暗がりでも色鮮やかで、暖かく、見るだけでも心躍る品々であったのだ。参道の側を通る子供達の声を聞いていただけの頃の、その記憶に残ったものを、いつからか左馬刻に買って来てもらっている。焼きそば、たこ焼き、ピンク色のわたあめ。紫に赤や黄色の水玉を散らした水風船。りんご飴を持って来た時には、見た目のわりに小さな左馬刻の口が、その大ぶりのりんごに齧り付くのにずいぶん苦戦していたのを思い出す。それがとても可笑しくて、微笑ましかったと、寂雷は幾つか前の夏を数えた。
宵闇に打ち上がる花火を眺めながら寂雷が懐かしく思い出に耽っている間に、左馬刻は焼きそばを食べ終えたようだった。ペットボトルの水をゴクゴクと呷って、はたと、これが今回の本命ではないことを思い出す。腰を上げて再び浴衣の合わせに手を差し込むと、細長の布を取り出した。
「先生、線香花火って知ってっか?」
「線香花火か。この間、通りの子供たちが話していたものかな……。どういったものなんだい?」
これだと、取り出した布を広げていく。細くカラフルな色紙で撚られたニ本の花火が姿を現した。
「ほう、これは紙で作られているんだね。先端が膨らんでいるけれど、ここに火をつけるのかな?」
流石だ先生、と左馬刻は頷く。寂雷を見やるとバケツを置いてきた石畳へと誘った。そのまま屈んで、線香花火をひとつだけ持つ。
「派手なやつは、バレちまうかもしれねぇからな……小さいけど、これも花火だ」
ちゃんと見てろよ。顔を合わせるようにしゃがんだ寂雷にそう告げると、腰の帯から着火剤を取り出して、かちりと火を点けた。
揺れる火が、小さな火の玉に変わっていく。
静寂にじっと見つめる二人の間で、それは次第にささやかな閃光を放ち始めた。
――パチパチッ……パチッ……
小さくも鮮烈に光を放つ、線香花火。とても優しい眼差しで見つめていた寂雷が、生きているように見える、と呟いた。燃える炎は、儚くそして力強く、幾つもの火花を弾けさせて、寂雷の目にそれはひとつの生命に感じたのだった。
やがて散らす火花が少なくなり、最後にパチリと小さく弾けたあと、地上へと火種が落ちていく。バケツの水をかけて、燃え殻を残った水に浸す。夜の境内に少し寂しげな余韻が残って、ただ頭上を照らし続ける大きな花火が、二人の横顔を映していた。
「……左馬刻くん、次の約束はしないでおこうか」
ふっと寂雷がそう言って、左馬刻は目を見開いた。
不意に胸の奥に蓋をしていたざわめきが、左馬刻を襲った。
「ずっと考えていたんだ。私がここに人ならざるものとして存在する理由を。
私には何か役割があってこの場所に生まれたのだと。それはこの場所を守るためなのか、ここに訪れる人々の助けとなるためなのか、この土地の自然や、人々の信仰を守るためなのか?
……でも、そういった事ではないのかもしれないと、ふと思ったんだ。
そんな壮大な事ではなく、ほんとうに些細なことなのかもしれないと――
――たとえば、恋をするためだとか」
「な…ん、だって…?」
ゆっくりと開いた瞳が左馬刻を見上げた。
かたりと、左馬刻の胸の中の何かが動いた。
「何もおかしなことはない。私がここに存在する理由を、誰も知らないのだから。何処にも記録は無かったし、私自身の記憶にも無い」
それとも君は、これが毎年私に会いに来る理由ではないと言うのかな。
息が詰まった。
まっすぐこちらを見据える瞳に、冷やかしや誤魔化しなど一切通用しないと悟った。
「言うわけ、ねえだろ」
思いのまま目の前の寂雷を抱き寄せた。
それは儚く、通り抜けてしまうものだったが、左馬刻は構わず、じっと動かなかった。引き寄せたお互いの輪郭が、曖昧になって重なり合った。夜の風が、ただ二人の側を通り抜けていった。
傍の寂雷が私は、とささやいた。
「私は、この夏祭りの日でなくても君に会いたいと思う。会って色んな場所に行って、色んな体験をしたいと、思う。もっと、君を知りたいと思う。私は君と最初に出会ってから、随分とこの世界に触れられるようになった。風を感じることも、道ゆく人々の声を聞くことも、君の住む町をこの場所から眺めることも。今だって、君とこの花火の熱を、共に感じていたように。
もっと色々な事ができるようになる。君とこの日この場所以外で会うことも、君に深く触れることも、一緒に焼きそばを食べることだって、きっと」
だからもう約束はしなくていいんだ。きっと次の夏が来るその前に、左馬刻くんに会いにゆけるから。
左馬刻はこの場で寂雷の話した全てを理解することは出来なかった。しかし今まで出会った中で一番聡明で、強い意志を称えた瞳がそこにはあった。
だからそれまで、待っててくれるかい。
すうっと額に顔を寄せた寂雷が、左馬刻の鼻筋にそっと口付けた。
それは、不思議な感覚で、触れられはしないのに、ほのかにその場所だけ火が灯ったようだった。
寂雷が離れていく。その空気の流れが、左馬刻の体に伝わった気がした。
「……おれの家わかるの。せんせ」
「分かるよ、きっとね」
「…それだけじゃ、ちょっと不安なんだけど」
ふっと口の端を上げながら、聞き返す。
「本当に、もうすぐなんだ。分かるんだ……必ず迎えに行くから」
真剣に、ただ確信を持って見据える寂雷に、左馬刻は観念した。
分かったよ。そう言って、はあっと肩の力を抜いて見つめ返す。
少しの間笑いあって、二人は立ち上がる。
「……花火、終わるなァ」
長く咲き続いていた夜空の花火も、最後の時を迎えようとしていた。
「何時もあっという間だ。もう一度と、希うほどに」
そうだな、と返す。浴衣を軽く正して、左馬刻は寂雷に向き直った。
「じゃあ……またな先生」
「ああ、また」
水の少なくなったバケツを持ち上げ、鳥居の方へと足を向ける。左馬刻の後ろを歩いていた寂雷が、珍しく鳥居の所まで来ては左馬刻の姿が見えなくなるまで手を振っていた。それを片手で振り返して、最後の大きな歓声が聞こえる人並みへと、左馬刻は戻っていく。
また次の夏が来る。あの鮮やかな花火を見上げて。
沸き上がる群衆の中、ふたりは手を取り合っている。