Lupin in love 事務所の金庫の鍵が無い!と、バタバタと部下達が事務所の廊下を走る音が響く。
またか、一体どうなってるんだと半ば悲鳴の様な声に一瞬、左馬刻の口に笑みが浮かんだ。
ここ約1週間の間、火貂組の事務所では奇妙な窃盗事件が起き続けている。
今見渡している部屋もソファやテーブルなどの大物は残っているが、大体の備品は持ち去られており殺風景な景色が広がっていた。犯人が持っていく物は事務所のものであれば何でも良い様で、どんなにセキュリティをかけていても事務所内に存在するものであれば跡形も無く消える。犯人の動向がまったく読めない謎の事件に、部下達はアレも無いコレも無いと毎日騒ぎ立てているのだった。
そんな緊急事態に特段動揺する素振りも無くどかりとソファに座ったままの左馬刻は、シャツのポケットから煙草を取り出す。そして愛用のライターではなくマッチで火を点けた。
実際、左馬刻自身も既に何百万とする貴重品を始め、花瓶などの骨董品、さらには日常的に使う灰皿や万年筆なども盗まれている。被害は事務所に留まらず、左馬刻の自宅のクローゼットはほとんど中身が消え去っており、ここ毎日新品のシャツやジーンズなどを部下に調達させていた。勿論ライターも、初日に予備を含め全て消えている。いつしか懐かしい香りのする代用品がポケットに常備されていた。
フゥン……と鼻を鳴らして肺を満たす。
機嫌良く煙草を楽しみながら、今度は金庫ごと持っていかれちまうかァ?などと他人事のように振る舞う若頭に、側にいた部下が困惑を隠しきれず問いかけた。
「……頭、何かお考えがあるのでしょうか?
もういい加減入間さんにも報告した方がよろしいのでは?このままだと被害総額でシマの2つや3つ軽く買収できます」
銃兎への報告はいいと、窃盗事件が発覚した時から言い聞かせてきた腹心の部下も、毎日のように現れる窃盗犯に流石に事態が重すぎると痺れを切らしたように喋り出す。何より犯人についての痕跡が一切出て来ず、冗談なのではないかと言うほどに完璧な犯行なのだ。
ま、無理もねェかと一瞥すると、左馬刻の眼を直に見つめてしまった部下が体を縮こませる。
「マア……何というか、ここまでされて全員無事なだけ良いんじゃねェの?」
それはどういう意味でしょうか……とさらに訳が分からなくなっている部下達をよそに、左馬刻はそれより今何時だ?と聞き返す。
そろそろ陽も傾いてきている。
随分見やすくなった視線の先の窓ガラスを見つめ、この後迎えに行く番の姿を思い浮かべた。
この世界の人間には、誰しも二つの性がある。ひとつは男女といった生物学上の性であり、もう一つはバース性というα、β、Ωの分類から成る性だ。左馬刻はヒエラルキーのトップである生粋のアルファで、恋人である神宮寺寂雷は、その希少な特性のために差別の歴史を持つオメガという性であった。あの荘厳な振る舞いからは感じられないが、寂雷はそのバース性を隠しながら直向きに、強かに生きてきた男だった。
そんな二人は左馬刻の長い片想いから遂に恋人となり、現在では番としての契約を交わしている。番となった事で寂雷の緊張も解けたのか、親しい者たちには自分のバース性を伝え始めており何かあれば頼る事を躊躇わない様になった。
何かと背負いすぎてしまうあの人にとって、いい傾向だと思っている。
そろそろ、寂雷の体調が大きく変化してヒートに入る頃だ。
今回はヨコハマの郊外にある左馬刻のセーフハウスにて、ヒート期間中は共に過ごす予定である。ヤクザの休みなど自分が休むと言えばいつでも取れるが、寂雷は勤務医なのでかなり前々から調整してついこの間日程が決まったところだった。
なので、この数週間はまったく会えていない。
元々頻繁に会えるような関係ではなかったが、番としての契約を結んだことで彼を自分の側に置いておきたいという欲求が増しており、なかなか抑えるのに苦労をしている。
しかし、今回先に限界を迎えたのはあちらのようだ。
流石に車のキーだけは盗られないようにと肌身離さず持っていたが、あの人の前では無意味なものかと、片眉を上げる。ソファから立ち上がり最早隠すことなくニンマリと笑みを浮かべた男は、じゃ、あと頼むワと一方的に告げスルスルと部下たちの間を抜けると、いつになく軽い足取りで一旦自宅へと戻るために駐車場へと足を向けた。
*
ふと目に入った文字盤に、終業の時刻だと気がついた寂雷はカルテから顔を上げる。手を止めたカルテを書き終えてようやく筆を置くと、先生、と呼ぶ声がした。
「先生、お時間ですよ。患者さんたちも落ち着いてらっしゃいますから、
今のうちに上がられてください」
忙しい中、1人の看護師が優しく寂雷に微笑みかける。
職場は医療機関ともあってバース性に理解が深く、病院の要である寂雷のまとまった休暇にもシフトの調整を始め、みな快く協力してくれた。
先生お疲れ様です、お身体は大丈夫ですか?と、気遣ってくれる温かい同僚達にお礼を言って、荷物をまとめる。自身のバース性がΩだと周囲に伝えることは、差別意識は無くとも最初はひどく躊躇していた。
しかし麻天狼の2人や、隠し通そうとしていた私の不調を見抜いた職場の人々に支えられて、今はバース性による体調の変化をちゃんと伝える事が出来ている。何より彼への安心感が自分の中で大きくなったことが1番かもしれない。
少し考えているうちに時間が経ってしまっていた。遅れるわけにはいかないと手首の時計を確認する。再度スタッフ達に挨拶をすると、寂雷は左馬刻との待ち合わせ場所へと夕陽に染まるシンジュクの街を急いだ。
*
シンジュク駅西口の人通りを避け、待ち合わせ場所の歩道橋の上で寂雷を待つ。スマホを片手にぼんやりとシンジュクのビルを眺めていると、少し走ったのか息を乱した寂雷が笑顔で手を振って歩いてきた。
「よお、先生。別に俺様は逃げねェからゆっくり来いよ」
「やあ、左馬刻くん。待たせたかな?ごめんね」
いいや、時間通りだと笑いかけると、釣られて寂雷も柔らかく微笑む。
西日に手を翳す美しい人を左馬刻は流れるように抱き寄せた。
ふふ、人目があるよ?と囁くが、構わず抱きしめる。
長い髪を纏めたまま来た様で、寂雷が髪を解くと零れ落ちる様に揺れ、番の左馬刻にしか嗅ぎ分けられない芳醇な香りが満ちる。
「迎えに来てくれてありがとう。
病院の皆も気を遣ってくれて、無事時間通り上がれたんだ」
「そうか、そりゃ何よりだ、身体の方はまだ大丈夫なのか?」
「ああ、まだ大きな変化はないよ。ちゃんと管理しているし……早めにお休みももらえたからね」
周囲の優しさに目を細める目の前の男は、気づいていない。
今日の寂雷の服装はロングのジャケットに、仕事着の黒いスラックス。
そして中には普段彼が着るのには珍しいヴィンテージ物の、シャツ。
頸を見せたまま無防備に歩いてくるなんてαの恋人として許容範囲外だが、どうやら牽制は出来ているらしい。
問題は無さそうだ。
さて、と体を離し、ニコニコとしている男と向かい合う。
「何かあればすぐ言ってくれや。
……話は変わるが、センセ、いい時計してんな」
いつも以上に優しい表情を向ける左馬刻にふわふわとした気持ちになっていた寂雷は、急に話題が変わった事にえっと戸惑った。確かに今日は腕時計をしているが、特に目新しい物ではない。
しかし自分の物でも、無い?
考えれば仕事柄急な手術も入るため、時刻を確認するものとして腕時計を身に付ける習慣はあまり無かった。そういえば、何故ーー
「そのシャツも似合ってる。良いセンスだ、その持ち主は」
更に畳み掛ける左馬刻に、パッと自分の服装に目を向ける。
ジャケットは自分の物だ。しかし中に着ている濃い青色のシャツは買った覚えが無かった。
左馬刻の会話の意図が掴めない。
何処かぼんやりとした記憶に、曖昧な表情を浮かべる。
左馬刻くん?と伺うように伸ばした寂雷の手をスゥッと目の前の掌が取った。
ーー夕陽に反射する手首のものは。
「これ、俺の」
赤い瞳がチロリと射抜いた。
ハッと我に返り、どういう事だと見つめ返す。
目の前の彼は穏やかに笑いながら、そのシャツも、と続ける。
「先生、ウチに来てたろ?何時かは分からねえが、この1週間ずっとだ。
俺の家と、事務所に」
そんで色々持ってったな?
事務所の野郎どもが煩くて片っ端から沈めてやろうかとも思ったなんてー悪戯っぽく告げる。
そんな記憶はなかった。
そんなはずは無いが、そういえば最近、自宅の物が増えていた気がする。
この休暇の為に休み無く働いていたから、掃除が疎かになっているだけだと思っていた。ベッドの周りも片付けていなくて、寝る前に読む本と、着ていた服とーーいや、一度着た洋服はちゃんと洗濯をしてクローゼットに仕舞ってあるはずだ。ではベッドの上に散らばっていた服たちは?
考えれば考えるほど訳が分からなくなっている寂雷を左馬刻は優しく見つめる。
目を白黒させて考え込んでいる、本当に分からないのだ。
ハハッ!と笑い出しそうになるのを何とか抑える。
動揺を隠せず狼狽える様子が初々しくて、耐えきれず笑みが浮かんでしまう。
こんな風に時折見せる正直なところが好きだった。
時に、この人は恋など知らないのかと思うほどに、鈍感だ。恋人という関係にもなった上で、いや今だって恋をしている事に無頓着で、無自覚で。
取り敢えず、これは君の物だから……!と腕につけた時計を返そうとする寂雷に、返したところでまた取りに来てしまうのだから気が済むまで持っていればいいと、渡されたそれを彼の手首に付け直す。
額に片手を当てながら、真っ赤に慌てふためく恋人の姿は、なかなかお目にかかれるものでは無い。
実は事務所で騒ぎになる前から少しずつ左馬刻の身の回りで物が無くなっていて、その犯人と真意に気づいた時から口元は緩み、嬉しくて単純に浮かれていたのだ。
Ω性の者はヒートと呼ばれる周期に入る際に巣作りをする習性があり、番の匂いや存在を強く求めるが故に、相手の衣服や持ち物を身の回りにまるで巣を作るかの様に寄せ集める。
淡白に見える寂雷からはあまり想像出来ない状態だ。
だが、そんなこの人でも例には漏れなかったようだ。持ち前のスキルにより、自分でも気付かない内に番相手の自宅や仕事場に忍び込み、何もかも取ってきてしまう。そんな事をしでかす位には。
正直可愛すぎる。
10も年上の、身長も190cmを優に超える男に対して思う事ではないが、どうにもこうにも可愛いとしか言えない。
すまない、違うんだと耳まで真っ赤に染まった寂雷に、まあ詳しくは後でゆっくり説明してやるからと優しく手を取って歩き出す。
そろそろ通行人も煩くなってきた。
これ以上愛しい恋人の素顔を周囲に見せる必要は、無い。
先生、と声をかけてもあまり聞こえていない寂雷の手を引いて、車を停めてある地下駐車場へと急ぐ。フラフラと足元も覚束なくなっている男を引き寄せ車のキーを作動した。中々入ろうとしない彼にまだ時間はあるけれど、そろそろこちらも限界が近い。
寂雷?と宥めるように腕を取ると、左馬刻はスモークで隠された車内にその長身を優しく引きずり込んだ。