キスしないと出られない部屋☆ここは、キスしないと出られない部屋です。
☆次の条件を満たした場合のみ、十二時間後に扉が開きます。
・唇へのキスであること。
・合意の有無は問わないが互いに三回ずつ行うこと。
・眠っている間のキスはカウントしない。
・人工呼吸はカウントしない。
・間接キスはカウントしない。
・舌を入れるかどうかは自由。
趣味のいい部屋に、それをぶち壊すデカデカとした貼り紙。それがこの内容だった。
「ホー。念の入ったことだな」
「感心してる場合ですか……」
確かにこの部屋には、扉がなく、窓もない。
僕はその日の組織の任務を終えて、自室のベッドで眠っていたはずだが、きちんと服を着ている。隣には、時々同じアパートで暮らすこともあるが、最近は別の任務についていて、顔を見ていなかった長髪の男。僕より少しばかり背が高く、少しばかり経験値が高く、大して年が変わらないだろうに大人の余裕みたいなものを醸し出している、いけすかない奴。
『あのな、お前がそれを言うって、相当気に入ってるってことだぞ。素直になれよ』
ヒロ――スコッチはこの前そう言ってたけど、組織の男に素直になってどうするんだ。くそ、相変わらずかっこいいな。久しぶりに見たから、余計そう感じる。どういうわけかこの男は、僕やスコッチの前ではふんわりと笑うことがあって、何やかやと世話を焼いてくれることもある。それが嫌なわけじゃないから、おとなしくその優しさに従いそうになり、ハッと気づいてぷりぷりする。それが僕とこいつの日常だ。
嫌、じゃない。それどころか、綺麗な緑の目は……好きだ、とさえ思う。す、好きって、そういうんじゃなくて、エレーナ先生の目と似てる気がするし、ああでもそんなこと言ったらジンもベルモットも緑の目だけどライとは全然違うし……。
「単刀直入に聞くが、君、経験は」
僕が誰に対する言いわけなのか分からないことをぐるぐると考えていると、奴はとんでもないことを聞いてきた。
「キスの……ですか」
「ああ」
「……」
「フム、分かった。大丈夫だ、優しくする」
そう言いながら距離を詰めてくる……いきなりするつもりかこいつっ。
「ま、」
「待たない」
「んっ……」
言葉どおり、優しく優しく、唇が重ねられた。顎に添えられた指に、ドキドキする。引き金を引く指が、今は僕に触れている。撃ち抜かれるのは僕の心臓だ。右手はそっと、僕の腰を抱いている。傍から見たら恋人同士だ。でも本当はそうじゃない。何を考えてるんだ僕は。やけに長いような気がするけど、一瞬なんだろうか。唇からとろけていきそうだ。頭の芯が痺れてくる。
「ん……ふ」
軽いキス(なんだろう)が、いくつも立て続けに降ってくる。これ、全部で一回のカウントなんだろうか。僕からもこれを三回しろって?無理無理無理。場数が違うっていうか性格が違うっていうかああもうどうすればいいんだっ。
「ふ……ぅ、んっ……」
チュッと音を立てて唇を吸われ、ようやく体が少し離れた。いつのまにか僕の手は、ライのシャツを強く握っていた。ほかにつかまるものがないかのように。
あ―――落ちた。転がり落ちていく。止められない……どうしよう、ヒロ。
気持ちを自覚して、顔が真っ赤になっていくのが分かる。ちら、と見上げると、緑の瞳に見たことのない色があった。何ていうんだろう、熱い?
「上手だよ、バーボン」
するっと僕のおでこからほっぺた、顎まで撫でて、深い声で褒めてくれた。何を褒められたのか、よく分からないけど。
「もう一度しても?」
「二回目……ってことですか」
「おそらく。少なくとも、君のノルマが達成されない限りは、俺が何度しても、状況は変わらんだろうが……それでもいいか?」
それって、さっきのでもう三回は達成しているかもしれないけど、それはライの分で、でも一回かもしれない。僕が三回するまではどっちなのか分からない。ライはノルマ(って何だよ)を達成しているかもしれないけど、もっと僕に……キスしていいか、ってこと?
こくん、と頷いたのは、無意識だった。そうじゃないだろっと自分で自分に突っこみを入れた時にはもう、唇が塞がれていた。さっきよりも、しっかりと。
「ん……んぅ」
抱き寄せる腕の力も、さっきより強くて、身動きができない。こんな風にされたら、僕はあなたが欲しくなる。自分のものにしたくなる。それは、駄目だろっ……。
「ん……らいっ」
高まる自分の気持ちについていけなくて、息継ぎのために離れた瞬間、名前を呼んだ。
「すまん。性急だったな。君があまりにもかわいいものだから」
「……かわいい、って。女の子じゃないんですから」
「関係ないさ。君は頑張り屋で、何をするにも手を抜かない。顔もかわいいが、俺が言ってるのはそれだけの意味じゃない」
いきなり褒め倒されて、ますます混乱する。そもそも僕が混乱するなんてあり得ない。一体どうなってる。
「少し、座ろうか。君はそのままだと倒れてしまいそうだ」
僕を支えて、ソファーに座らせ、落ち着くのを待ってくれる。その間にも、油断なく周囲に目を走らせている。誰かの悪意によるものだという可能性を疑っているらしい。
ようやく心臓がいつものスピードになった頃、ライがまた、とんでもないことを言い出した。
「なあ、一度、君からしてみないか」
「……そ、それは……しないといけないことは分かってますけど、心の準備が」
ファーストキスと二回目をこんな状況で奪われた男の気持ちになってみろっ。
そんなことを言えるはずもなく、こつん、と額をくっつけられた。
「俺からするのは、大丈夫だっただろう?」
「……うん」
大丈夫の意味が分からないけど、できたことはできた。
「俺の呼吸に合わせてみるといい」
まさか組織の男に、キスの指導を受けるとは思わなかった。これ、報告しないと怒られるんだろうか。ああ、もう、呼吸って何だよ。
かすかに動く空気。伝わってくる熱さ。トクン、トクン、とまたうるさくなった心臓の音。ほかには何も聞こえない。僕の頭の中に今あるのは、この人にキスしたいという想いだけ。キスしないといけない理由は、どこかへ吹っ飛んでいた。
ん?と、なだめるみたいに、ライが微笑む。それから、僕がしやすいように、と思ってなのか、目を閉じてくれた。吸い寄せられるように、唇を重ねた。頭も、足も、手も、体の何もかもがとろけて、この人に吸いこまれていきそうだ。離れたくない……。
腕を背中に回したくなったけど、そしたら本当に離れられなくなりそうで、ためらっているうちに、ライの目が開いた。
「上手だ」
また褒めてくれる。そのまま、しばらく腕の中に収まっていた。
何も言わなくても、時間は過ぎる。とりとめのない話をしたい気もするけど、何か言えば壊れてしまいそうな時間。ソファーで隣り合ったまま、ライに身を寄せて、壁の時計の針が進むのを見るともなしに見ていた。
ああ、もうあんなに時間が進んでいる。そう思った時、ライが口を開いた。
「そろそろいいかな?」
「……うん」
僕は言葉を忘れてしまったみたいに、小さく頷いた。待っててくれたんだ。分かってた。
「あなたのは、あれが二回目かもしれないんでしょう……だから、いいですよ」
三回目を受け入れるため、自分から目を閉じた。
そんなこんなで、一週間が過ぎた。時計があるから、時間の経過は分かる。お腹も空くし、眠くもなる。この部屋は何とも不思議で、そろそろひと風呂浴びたいなと思ったら浴室が現れ、食事の必要を感じれば、キッチンが現れた。冷蔵庫にはいい食材が詰まっていて、今のところ不自由はしていない。おまけに少なくなってきた食材は、次に冷蔵庫を開けた時には補充されている。魔法かよ。寝室は二つあるから、別々に使っている。毎日の着替えまで用意されていて、実に快適だ。
夢だな。二晩を過ごした後、僕はそう結論づけた。うん。夢だ。僕はいつもの自分のベッドの上で、長い夢を見ているんだ。それなら、素直になれるかもしれない。
そう思ったら早く試してみたくて、寝室を出てライを探した。いくつもの部屋が次々に現れて、今ではここはけっこうな広さだ。外への扉と窓がないことは、変わらないけど。
ザーッと水音がする。シャワーを浴びているんだ。何となく照れ臭くて、脱衣所を兼ねた洗面所で、ざぶざぶと顔を洗った。顔を拭き、妙に気になって前髪をいじり、歯も磨いて、あとはひたすらドキドキしながら待つ。
水音が止まった。で、出てくるっ。深呼吸だ、深呼吸。すーはー。すーはー。うん、少し落ち着いた。
「バーボン?」
「うわっ」
浴室の扉が開き、ライが出てきた。僕がいることは気配で察していたんだろう。タオルで前を隠していて助かった。文字どおり、水も滴るいい男だ。彼が脱衣所へ上がろうとするのを軽く静止し、「おはよう」と動いた唇に、震えながらキスを落とした。三秒ぐらい、重なっていたと思う。離れようとしたら、腕を引かれて頭を引き寄せられて、今度はライからキスされた。シャワーを浴びたばかりのせいか、あったかくて、柔らかい。僕はなぜか浮かんでくる涙を堪えることなく、その感触に夢中になった。息継ぎを繰り返しながら、たっぷりと一分はそうしていた。
いけない、ライの体が冷えてしまう。慌てて体を離すと、彼の表情は今までにない晴れやかなものだった。嬉しい……のか?
「いたずらっ子だな」
そう言って、ウインクまでして。ぽーっとしている僕の頭を撫で、体を拭き、服を手にとった。
「あ、あの、ライ」
「どうした?」
「髪……乾かすの、手伝ってあげてもいいですよ」
いや、いいよ、という答えでも仕方ないと思った。ところが彼は、フッと笑って「ああ、頼む」と言ってくれた。
広いリビングの、座り心地のいいソファー。ライは僕に背を向けて座り、髪を自由にさせている。水気をしっかりと取ってから、洗面所で見繕ってきたオイルをなじませ、ドライヤーで乾かしていく。ほんとにこの部屋、何でもあるな。
「熱かったら、言ってくださいね」
「ああ」
美容師さんみたいなことを言いながら、丁寧に乾かしていく。長い、綺麗な黒髪。昔、僕が欲しかった髪だ。エレーナ先生のおかげで、僕は自分の姿を何とも思わなくなったし、今は武器でさえあるけど。ライの髪は、特別に綺麗で、大切に思えた。
これは、カウントされないよな。あの貼り紙の文句を頭に浮かべて、艶のある髪にそっとキスをした。
♡♡♡
ライは、僕に毎日キスをする。もうとっくに彼のノルマは果たしているのに、僕のせいでここから出られない。その不満を口にすることもなく、僕を腕の中に閉じこめて、満足そうにしている。まるで、それが当たり前のように。
キスしない時も、僕が料理をしたり、本(この部屋には天井まで届く巨大な本棚があり、中身がぎっしりと詰まっている)を読んだりしていると、腕を回してくっついてくる。僕は、それを拒まない。
彼はミステリーが好きなようで、特にシャーロック・ホームズがお気に入りらしい。物語の舞台にも詳しく、当時のロンドンやホームズが出向いた地方のことを、いろいろと話してくれた。シャーロッキアンというのもあるだろうけど、イギリス出身なのかな、とも思った。
「スコッチは、君を心配しているだろうな」
ホームズとワトソンのことを話している時、彼がふいにそんなことを言った。ホームズの熱心なファンには、二人の関係性を愛する者も多いという話になった時だった。僕とヒロは、どうやっても仲のよさがにじみ出てしまうから、昔馴染みということにして潜入している。
「そりゃあ……でも、あなたのことだって」
「彼は優しいからな」
「うん……」
僕はこれを夢だと思うことにしたけど、ライは現実の出来事だと考えている。もし現実なら、僕らは一週間も行方不明だ。組織は大騒ぎになっているかもしれない。僕が三回目を先延ばしにしているせいで、この人をこの部屋に縛りつけている。
「だって……したら、出ないといけないでしょう」
「君……」
「わ、あの、えっとっ」
何を言ってるんだ僕は。この人には、彼女がいるのに。優しくしてくれるのは、この部屋を出るため、なのに。それならずっと出たくないなんて、思ってしまうのは間違ってる。でも夢だとしたら、少しくらいわがままをいってもいいんじゃないか、って思ったんだ。
ギュッと、クッションを抱き潰す。恥ずかしくて、目を閉じる。ライが、隣に座った気配がした。
「どう説明したものかな」
「……え?」
目を開くと、思案顔のライ。かっこいい……。
「率直に言おう。君ができるだけ長く、俺とこうしてここにいたいと思ってくれているなら、俺はそれを嬉しいと思う。いつどんな形で扉が開くか分からんから、これ以上手を出せないのは辛いがな」
「そんな……それじゃあ、明美、さんが」
とっさに「さん」を付けた。
「説明が難しいのはそこなんだが、俺には彼女と付き合えない理由がある。それなのに俺は、組織の仕事を得るために彼女に近づき、恋人として振る舞っている。最低だろう?」
いかにもありそうな話だ。組織でのし上がるために、幹部の姉と親しい振りをする。確かに最低だけど、付き合えない理由というのが気になる。何だろう。ほかに恋人がいる?それとも……もしかして、近親者?ライはどこか、エレーナ先生に似ている。明美と並ぶと、兄妹のように見えるかもしれない。
「こんな男でも、君は三回目のキスをしてくれるかな?」
うつむいている僕の顔を、優しく覗きこむ。……こんな話、それこそ都合のいい夢に決まってる。
「……僕の方です」
「うん?」
「最低なのは、僕の方なんです。あなたの話を聞いて、ホッとしてしまった。それなら僕の気持ちは許されるのかな、って」
ライに背を向けて、クッションに顔を埋める。肩に手が置かれ、後ろから、たくましい体に包みこまれた。
「こっちを向いてくれないか」
「無理です……今の顔、見られたくない」
「君はどんな顔をしていてもかわいいよ。なあ、頼む」
駄目だ、力が抜けていく。体の向きを変えさせようとするライの腕に、抵抗できない。うぅ、やめろよ……今そっちを向いたら、キスしちゃうだろっ。
むくれてにらみつけると、クスッと笑われた。
「大丈夫だよ、バーボン」
「……何がですか」
「四回目はここを出てからすればいい。五回目も、六回目も。百回だってできるさ」
「……六の次は、七ですけど」
「ははっ。君はおもしろいな」
何がおもしろいのか分からないけど、ライは笑って、僕も笑った。夢かもしれないけど、先のことを話してくれたのが嬉しかった。ああ、もういいか。これが現実なら、僕もこの先を見てみたい。
ぴたっと二人の笑い声が止まった瞬間。僕はチュッとキスをし、ライに抱き着いた。頭を撫でて、抱きしめてくれた。これで、三回目。ここにいられるのは、あと十二時間。夜明けまでだ。
その夜は、同じ寝室で眠った。つまり、その、同じベッドで。眠れるわけないと思ったら、ここ数年経験したことがないくらい、よく眠れた。長い髪に甘えてみたくてひと房握っていたけど、朝になったら、いつもの自分のベッドだった。もちろん、一人だ。
テレビ、ラジオ、新聞、スマホ。どれを見ても、あの部屋に入る前から一日も経過していない。部屋の様子も、何も変わったところはない。
やっぱり、夢だったんだろうか。唇には、何の温もりも残っていない。
その後、ヒロが自殺して……ライは、裏切者として組織から追われる身となった。それから二年。僕はいまだに、あの男以外には唇を許していない。