乾いた草の擦れる音でゆっくりと瞼を上げる。ひっつき虫を服に付けたまま眠っていて、いつのまにかすっかり寒くなっていた。学校で支給された毎日着てとっくにクタクタのポロシャツと、厚めで平均的な紺色のセーターはまだ艶々している。
ヒュウと容赦のない風が、山々の隙間を縫って吹き上げてくる。最近怪我をして、やっと瘡蓋になった膝小僧が白っぽく乾燥してかゆかった。学校の保健師に処置をされながら、掻いては駄目よ、清潔にするように、とキツく言われていたのに寝ぼけた頭でボリっと掻いてしまった。
「わっ!」
赤黒い血と瘡蓋。あまり短くはない爪の間に、きまり悪そうに挟まっていた。
やってしまった、絆創膏なんて持っていない。ハンカチも、ポケットティッシュもマメに持ち歩くようなこまめさは無かった。手元には枕にしていた、合皮製の、とっくに潰れて痛んでいた横掛け鞄だけだった。
乱雑に片膝を立てると、怪我の様子を細かく観察する。もともと出来ていた瘡蓋は絆創膏二枚分に収まるくらいの大きさで、瘡蓋の半分は残っていたし、端なんてほとんど治りかけの…ピンク色をした皮膚になっている部分もあったから皮が早く剥がれたくらいなものだったから、ちょっと滲んだ部分は舐めて治した。
寒くてまだ少し眠い。そうこうしているうちに、気付けば起きたばかりの時よりも薄暗くなってきていた。辺りも草のさざめきばかりで生き物の鳴りも静まっていた。
川を挟んだ向こう側では既に電灯が明るい。
いくらかの間隔で、ポツポツと道に沿って置かれている。更にその向こう、道のずっとずっと奥から、どっすりと居座った山がこちらを見下ろしている。
――ああ、今日の太陽はとっくにあの山が食べてしまった。腹もいっぱいになったあの山が眠るために、夜が来るのだ。そして朝はあの山が朝飯を食うためにやってくる。毎日はこの繰り返しなのだ。
山が晩飯を済ませたなら、俺も晩ご飯だ。お腹が空いた。そういそいそと立ち上がると、鞄を引っ掴んで伸びっぱなしの草を掻き分け進んだ。
向かった先は橋の下だった。ますます寒くなるこの場所で、移動式の飯屋を営む親父がいた。親父と言っても随分な歳で、その曲がった背中を支えるように何人かの客が手助けを買って出ていた。子どもは、そのうちの一人だった。
「おじちゃん、来たよ。外のビニールさ、飛びそうだったからついでに直した」
「直樹ちゃん、いらっしゃい」
そう言って真っ先に声をかけたのは、山本さんだった。
狭い飯屋で助けに入るのは、自然と当番制にしている。出れない日は出なくても、その日ご飯を食べに行っている人が誰かしら手伝っていたから問題は無かった。
そして、今日の当番をしていたのはこの近郊からは少し離れた場所に住んでいる主婦の山本さんだ。二人の子供はとっくに親元を離れているらしく、自身の子を懐かしむように、自分のことも可愛がってくれる人だ。それから、わざわざ住んでいるところから離れたこの橋の下まで手伝いに来てくれるような、優しくてほんの少しだけ、変わった人だ。
「ああ、直樹か。頼むわぁ」
遅れて顔を向けた親父の声はしゃがれていた。聞き取るのはむずかしい。今の言葉も正確じゃない。いつも音が小さくこもっていて、唐突にわっと音量のネジが上がる。それはたまにテレビで流れている映画を観ている時と似ていて、その度にきっと、多分こう言ったんだろうと都合よく解釈をしていた。
僕とおじちゃんはお互い並んで立っていた。
自分の役目は食器の準備と、焦げ付かないよう煮崩れない程度に中を掻き回すことと、火の番だ。
お会計やお客さんの対応は山本さんがやってくれている。今はまだ営業前だ。
「°*○♪☆<×$¥|^〆?」
「?」
「……今日○♪☆<×$¥|^か?」
「……キョウ、カ? きょうか? キョカ? か?」
「いらんか?」おじちゃんはこちらに顔を向けると一際大きな声で訊ねてきた。
「……んーん? んー……」
「直樹ちゃん、直樹ちゃん。おじちゃん今ね、今日もご飯食べていくでしょって聞いてたのよ」
何度も聞き返す僕に、山本さんが見かねて教えてくれた。なんだそんなことか、あっさり解決した。
言っている事がわからない訳がない。もちろん、食べていくに決まっていた。おじちゃんのご飯はとても美味しいのだ。
「食べる! おじちゃん、今日のご飯、これ食べていいの?」そう言って指を指す。
目の前には湯気の立ち上る屋台に並ぶ味の濃いお酒のつまみや、茶色ばかりの温かい煮込み料理。
銀縁の大きな炊飯器を見ただけで食欲が掻き立てられていた。
ふと、おじちゃんは怒ってるのだろうか、笑っているのだろうか。
あんまり変わらない表情で、ただ無言でうんと頷いたのだった。