【幾度の落陽を迎えても】
毎日が、地獄のようなものだった。
夢ノ咲にいた頃を振り返って、日和はそう懐古する。──実際は懐古するだなんてほど旧い話ではなく、足を止めて振り向いた目と鼻の先ほどに近しい記憶ではあるけれど。
夢ノ咲では日和が思い描いた、望んだ形の〝偶像〟にはついぞなれなかった。犠牲を掲げ、血で血を洗う抗争を繰り返し、いつかの未来のためと誰かの屍を踏みつぶし、伸ばされた手をへし折って来た。自らが納得の上で手を染めた行為だったけれど。それでも、決められた台本どおりに進められる日々は、地獄への行進に他ならなかった。
何度思っただろう。こんなことをするために、ぼくは歌いたかったんじゃない。こんなことをするために、踊っていたんじゃない。誰かの笑顔が見たかった。誰かの愛が欲しかった。愛されれば愛されただけ、ぼくも誰かを愛したかった。だって、そういうものが〝偶像〟というんでしょう。
凪砂がかつて日和に語り聞かせてくれた、そのときの凪砂の様子があまりにも嬉しそうだったから。興味のなかった日和もそれになら、なってみたかったのに。それなのに、願い望んだものとはほど遠いところまで日和は来てしまった。
夕陽に染まる、丹色をした校舎の廊下にたたずんで日和はそっと息を吐き落とした。
吐き気をもよおすほどに、ぞっとする血の色。本来ならあたたかでやわらかな夕陽に染められた世界を見ても、いまの日和にはそう見える。
きっと、日和は壊れてしまった。これ以上は壊れてしまうとあの地獄から逃げ出したのに。せめて、この手は汚れてしまっても魂は純潔なままでありたいと背を向けたのに。夢ノ咲にいた頃から地続きの現実は、ひどく凄惨で、残酷だ。
あたまのなかでわぁん、わぁんと反響している音がある。それは元を正せばなにかの言葉だったはずのものたちだ。けれど幾重にも幾重にも折り重なったそれはもはや言葉としてはなっておらず、音として日和のあたまのなかに常に鳴り響いている。サイレンのような。弾響のような。ぐちゃぐちゃに、日和の脳漿を掻き混ぜてはこだまする、ノイズが。あたまのなかで、わぁん、わぁんと、鳴り止まずにいる。
あたまのなかで、ことだまが跳弾しているみたい。
日和は茫洋と現状をそう捉えていた。識別できないほどに折り重なった音は、きっと誰かの怨嗟の声だ。誰かの嘆きの声だ。誰かの、怒りの声だ。日和が踏みにじってきた誰かの、もしくはその誰かを想う誰かの、言の葉。それらのすべてが日和を責めて、削っていく。常にそういうものが跳弾している日和の脳漿はいつしか穴だらけになって、正しく機能していない。
だから、きっと日和は壊れてしまった。歪んでしまった。ただしくきれいなものがなんだったのか、分からなくなってしまった。
それでもこうして立っていられるのは、ひとえに日和の矜持による。日和が〝巴日和〟であること。ただそれだけのために日和はこうして立っている。〝巴日和〟であれば、膝を折って屈する姿を晒すだなんて無様は見せられない。さいごの瞬間まで、〝巴日和〟としてあるのならば。それはきっと、笑顔でいなければ。そのためだけに、日和は立ち続けている。
なにより、幼い頃から日和は自分を装うことに長けていた。愛されるために。愛するもののために。日和は、自分の内面も外見も、どちらをも完璧に装って生きている。
自分の心に蓋をして、それが脳内で隠しきれずに爪を立てて日和が削れていく感覚。わぁん、わぁん。鳴り響く、止まない反響。
思い返せば脳内に反響する音はいつだって日和と共にあった気がする。いまが、度を超えてひどいものになっているだけで。
──けれど、傍から見たら日和は普段と変わらない姿でここにいるはずだ。だから、こうして日和はひとり、校舎のなかを歩き回っている。
ひとりで逃げ出そうとした夢ノ咲から、日和と共に手を繋いで寄り添ってきた凪砂と。そして、そんなふたりに声を掛けてきたあの、少しばかり信用のならない毒蛇のような目付きをした茨という青年と。日和は新しく通うことになる学び舎を下見に来たのだった。
正しくは学び舎を、というより新しく立ちあげるユニットでの日和の相方に据えるものを探すべく来たのだけれど、その候補となるかもしれなかった存在が立ち消えてしまったのだからどうしようもない。
特待生と非特待生。上に立つひと握りのものと、下で使いつぶされるばかりの大多数のもの。格差社会の縮図とばかりのシステムで成り立っている玲明学園にあって、かのものはそのシステムをひっくり返そうとしていたらしい。
すべてを平等に。働くものも、怠けているものも。力のあるものも、無力なものも。すべてが等しく、すべてが同じだけのものを得られる。そんな理想を掲げ、実現しようと身を粉にしたものがいた。──いた、ということは、先々から繰り返しているとおりいまはいないということでもある。すべてを等しく押し並べて、すべてに等しく想いをかけたその青年はいま、この学園にはいない。
茨いわく、暴動があったのだという。玲明学園のシステムの枠を超えて手を取り合って、理想の姿に変えていきたかった青年は。その、友となるはずだった青年は。積んだ火薬に飛び散ったひとひらの火花のように。特待生からも、非特待生からも溜めこまれた不平不満の発破点となって、消し飛んでしまったのだと。
そして残ったのは地獄の焦土であり、淀んだ空気であり、変えられない格差だった。
革命、なんてものはどこでも大差ないらしい。上手くいったところで、下手を打ったところで、誰かが犠牲になり血が流れる。理想論をいえば無血で行われることが最上の結果だろう。けれど、腐敗した土壌にあってはやはり血を流すしか術はないのだ。
分かっている。そんなことははじめから分かっていた。日和だって上流階級の人間だから、平穏無事な暮らしばかりしてきたわけではない。騙り、出し抜き、弱みを見せればそこから蝕んで、ぺちゃんこにつぶしておしまい。上辺ばかりきれいに取り繕ったところで、中身はどろどろに醜いものばかり。そういう世界に生まれた。そういう世界で、生きてきた。だからきっとこれからも、日和の行く先にはそういう世界しかない。
日和はべたつく丹色に染まった廊下をどこに行くともなく、幽鬼のようにふらふら歩いていく。
ああ、空気が重い。血のように焼け付く、どろどろとした空気。どこにいたって、なんにも変わらない。地獄から逃げ出した先も、やはり地獄でしかないのなら。もう、なんだっていいかなあ。
日和が思い描いた〝偶像〟になれなくても。日和の望んだ〝偶像〟になれなくても。ただ、凪砂と歌えるのなら。もう、なんだって。
ゆらめくろうそくの灯火のように、力ない足取りをとうとう止めてしまって。日和は再度、息を吐き落とした。
別に、玲明学園に通わなくても構わないのだ。茨だって無理強いはしなかった。それどころか、茨の通う秀越学園に凪砂と共に転入した方が都合がいいとさえ言った。
そうであるのならば、それがいいのだろう。日和は別に、相方がどんな人間であっても構わない。どうせ、どんなひとが横に立ったところで。日和はもう、この世界を愛せはしないだろう。うつくしいと思えないこの醜い世界で、溺れるように息をするばかりだ。
それならばせめて、この腕に抱えられるだけのものにすべてを注ぎ込もう。日和が元より愛していた家族にだけ、日和の愛を捧げよう。からっぽになってしまった、胸に虚を抱えた日和の愛がどこまで残っているのか日和自身にももう分からないけれど。
夕空を引き裂いてまるくえぐり抜き、どろりと滴る血の色をした夕陽にさえ嫌気が差す。目のなかにまで染み渡ってきそうな色を忌避するように、日和は目を細めた。
特になにか意味があったわけじゃない。意図があったわけでもない。なんの気はなしに視線を校舎のなかから外に投げ出して、不意に、その端をなにかが掠めた気がして。自然にそちらに視線を向ける。
日和が見付けたものは、丹の色に焼け付く地面に浮かぶ、影法師がひとつ。なんのことはない。玲明学園に通う生徒のひとりだろう。そう思って視線を外そうとして、けれど影法師がその場を離れずにうごめいているものだから。ほんの少しだけ気になって、一歩窓ガラスへと歩み寄った。
──なにを、やっているんだろう。
浮かんだのは、そんなささやかな疑問。次いで浮かんだのは、消え入りそうにかすかな好奇心。次の瞬間には興味をなくして立ち去ってしまうかもしれないと思いながらも、日和はたったひとつきりでなにかをしている影を見下ろした。
それは、青年の形をしていた。ただひとりで、くるくると踊っている男の子。少しばかり体幹が弱いのか、一定のところでつまづいてしまう。
特待生であるならばそれ相応の練習室が与えられるはずだから、きっとあれは非特待生なのだろう。屋根もない、雨風のしのげない路地裏みたいなところで練習しなければならない、かわいそうな。
日和は窓ガラスにそっと手を当てて、よりまっすぐ階下に視線を落とす。基本はできているのに、もったいない。もう少し重心を低くすればきれいに回りきって次の動きに繋げられるのにね。誰かアドバイスしてあげるひとはいないのかな。──いないから、ああしてひとりで練習しているのか。
日和が思わず目を細めてしまうほど、不器用で拙いダンスだった。けれど、顔を背けて離れてしまうほどではない。それどころか、なぜか声援を掛けたくなるような。ひたむきで、一生懸命な想いが伝わってくるような粗削りなその立ち居振る舞いが、日和は嫌いではなかった。
血をぶち撒けたように赤くべとつく色をまとって、淀んだ空気のなかでもがくようにして。それでもなお、名も知らない誰かは踊り続けている。誰の目にも止まらない。誰のためにもならない。彼はただ、自分のためだけに踊っている。自分がもっと、輝けるものになるために。踊っている。
このなにもかもが焼け尽くした地獄の焦土で。泥土に足を取られながら、あちこちが擦り切れて汚れても。それでも足を止めない。失敗しても、何度でも同じ動きを繰り返して。次はできるのだといわんばかりに。
ああ、違う。同じ動き、ではない。少しずつだけれど改善されている。きっと、もう少しで。彼は、つまづいていたところを乗り越える。
窓ガラスで遮られていることを忘れて、額がガラスに触れてしまうほどに近付いて。日和は息を飲んでその瞬間を見守っていた。
ほどなくして、そのときは訪れる。
どうしてもつまづいていたところで、彼はとうとうその身体を回しきった。伸びやかにしなる腕が軽やかだった。身体を支える脚が、ふらつきもなく次の動作に踏み出していた。動きを止めずに空を仰ぐ、彼のその、表情を。日和は、はじめて見た。
息が止まる。思考も止まる。ただ、飾り気のない純粋な言葉だけが浮かんでくる。
ああ。ああ、なんて。なんて──きれいなんだろう。
遠目でもわかる、彼のきらめいてとろけるきんいろのひとみが、視界に入ったその瞬間に。日和は、そう思っていた。
日和を苛む、鳴り止まない反響。わぁん、わぁんと響く呵責の音。それらのすべてが、ぴたりと止まる。なにも聞こえない。日和のぜんぶが、あのきれいなものを見つめることに使われているから。
日和は壊れてしまった。いびつにひずんで、ただしくうつくしいものがわからなくなってしまった。きれいなものがすきだったのに、きれいなものがなんだったのかがわからなくなってしまった。
それなのに、日和は思ったのだ。あのまっすぐに伸びた背中が。汗に濡れる肌が。動きに合わせて揺れる紺青の髪が。どこまでも強く空を睨みあげる、きんいろのひとみが。あの子の、ぜんぶが。
とっても、きれいだ、と。
日和はくちびるを噛み締めて、顔を顰める。そうすることでしか耐えられなかった。そうでもしなければ。泣いてしまいそうだった。
きっと、ずっと欲しかった。本当は、ずっと。この世は醜く汚くて、見限るしかないと思っていたこころのどこかで。日和はずっと、揺るぎなくうつくしい、ささやかでもいいから、日和がきれいだとまっすぐに思えるそんなものが、欲しかった。
見捨てたくなかった。愛したかった。この世界はうつくしいのだと、微笑みたかった。どんなに打ち据えられても、それでもなおも、日和がうつくしいのだと信じられるものがひとつでもあれば。日和は立ち続けることができる。足を踏み出すことができる。歌うことだって、踊ることだって。
あの、とってもきれいな子が日和の傍にいてくれるのならば。きっと日和は、なんにだってなれるし、なんだってできる。日和がなりたかった、〝アイドル〟になれる。
日和は詰めていた息を細くこまかく噛みくだいて吐き出した。吐き出した呼気は、頼りなく震えている。
……本当は。なにもかもが嫌だった。すべてをなげうってしまいたいとすら思った。けれど、ただひとつの矜持のためだけに、立ち続けることを己に義務付けた。そういう生き方を選んだのは自分だから、日和が〝日和〟を拒めば自らその矜持を傷付けることになる。日和が抱き続けるこの矜持が折れてしまえば。日和はきっと、もう立ち上がることはできない。
押し込めて隠した本心がぼろぼろに傷付いて弱っているのに、そういう姿を見せることはしたくなくて。たすけて、なんて。誰にも言えないし言いたくなくて。いつしか手を伸ばすことを諦めた日和が、いま、心の底から──欲しい、と願った。
ああ、どうしようもなく胸が掻き立てられる。久しく感じていなかった渇望が、こころを衝きあげる。
あのきれいな子が欲しい。あの、つよくてまっすぐな純粋なまなざしが日和を見つめてくれるのなら。純粋なまなざしに相応しいもので在れるように、日和だって背をまっすぐに伸ばして立っていられる。
あちこち傷だらけで泥にまみれたその身体を、日和が手ずから磨きあげてうつくしく輝かせてあげられたらどんなにいいだろう。そのためなら自身が同じく泥まみれになっても構わなかった。むしろ、そうあるべきだとすらと思った。高みから手を差し伸べるだけではダメだ。同じ目線に立って、同じ速さで。この先をあの子と共に歩むことが叶うのなら。日和は、地獄だって歩いていける。
この地獄のただなかでさえひたむきに空を見上げて、懸命に手を伸ばして這い上がろうとしている彼が羽撃き方を分からないというのなら。彼の手を握りしめて、天への羽撃き方を教えてあげたい。つよく、つよく願う。それは祈りに似ていたかもしれない。
ぼくの傍においで。ねえ、きみのお名前はなんていうの? きみの声は、どんな風にぼくを呼ぶの? きみに呼んでもらえたら、ぼくはきっと。それだけで、きっと。
引き攣れて震えるまつげの感覚に煩わしさを覚えて、日和は一度またたいた。校舎の立ち位置の関係で、踊り続ける彼からおそらく日和は見えていない。だから彼がこちらを見ることはない。それでも日和はただひたすらに、彼を見ていた。
ちいさな子どもが、はじめて見るうつくしいものにこころを奪われているように。無防備に、ただ彼を見るためだけに、視線を落としていた。
✦ ✦ ✦
「殿下、こんなところにおいででしたか。なにか興味をひかれるものでも?」
不意に響いた、自分を呼ぶ音。それが日和を呼んでいるものだと一瞬認識できなくて、遅れてじんわりと自覚する。
振り向いた先にはラズベリーを煮詰めてジャムにしたみたいな、紅みがかった髪をさらりと揺らして首を傾げる茨の姿があった。その後ろには夕陽を吸って朱に染まる銀糸の髪を肩から流して、緩慢にまたたく凪砂の姿も。いつまで経っても戻ってこない日和を探していたのだろう。気付けば、相応に時間が過ぎていたようだ。
あつい息を吐き出す。脳みそがまだうまく働いてくれない。感電したかのようにしびれた感覚を残して、ちかちかと視界がまばゆく明滅している。言葉を引っ張り出せずに黙ったままでいると、日和の返事は端から期待していなかったのだろう茨がなおも声を掛けてきた。いつの間に用意したのだろう。手には何束かの冊子を持っている。
「本日は玲明を見ていただきましたが、如何でしたか? 殿下の実力であれば玲明は役不足でしょう。ここはやはり、以前から話していた手筈どおり閣下と同じく、秀越への転入手続きを進めさせていただこうかと思っております」
こちらは秀越の資料です。よろしければ、どうぞ。
そう言葉を継いで冊子を手渡そうとしてくる茨の手元をちら、と見やって。もう一度、窓ガラスの外に視線を戻す。きれいなあの子は日和が見ていると分かりやしないだろうに、まるで息を合わせたみたいにして天を仰いでいた。なにがあっても、どんなに汚れても決して芯は折れないだろう、光を内包してまばゆくとろけるきんいろ。いつまでも眺めていられるその色彩からなんとか意識と視線を目の前の毒蛇じみて笑っている青年に戻して、日和はかぶりを振った。
「ううん。行かない。ぼく、秀越には行かないね」
次いで紡いだのは、茨の意見への否定。途端に取り澄ましたように同じ笑顔でいた茨が虚をつかれてぱちりとまたたくのが、なんだか無性に面白かった。
「……は? な、なぜです? 先ほどまで秀越へ転入する体で話を進めておられたはずでは?」
「さっきはさっき、いまはいまだね。とにかくぼくは玲明に通うから。その方向で話をつけておいてね」
表情と同じく狼狽しているのを隠しきれない声色で問い掛けられて、あやうく笑ってしまうところだった。かわいげもなければ信頼もないと思っていたこの毒蛇、案外かわいいところがあるのかもしれない。日和の好みではないけれど。
せっかく視線を室内に戻せたのに、気付けばまた外を見ている。窓ガラスに寄り添うようにして軽く小首を傾げて、目元をくつろげた。ああ、本当にまぶしい。なんてきれいなんだろう。うつくしいものを眺めていられる時間は何ものにも代えがたいね。
ずっと血にまみれていると認識していた世界が、少しずつ彩を取り戻していく。夕焼けの朱だってもう忌避するものではない。いびつになりただしいものが分からなくなった日和の世界が、純正なものに触れて再生されていく。この世界は凄惨で、残酷で。けれど、見限っていいものではないくらいには、うつくしい。
日和を見つめる凪砂の、感情の色が乏しい琥珀色のひとみがゆらりと一度揺れて、ゆっくり細まる。まばゆいものを見る仕草だった。そして、あまり知られてはいないけれど。嬉しいことがあったときに、ひそかにする仕草でもあった。
日和の薄いくちびるがほころぶ。それは〝巴日和〟としての笑顔ではなく。
「ぼくたちの物語はここからやり直しだね。──たのしみだね、凪砂くん!」
なんの憂いもない、こころの底から出てきた。久方ぶりの、純粋な日和の笑顔だった。
【太陽は、ふたたび生まれる】