Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    𝕤 / 𝕔

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 17

    𝕤 / 𝕔

    ☆quiet follow

    ⇢ ひよジュン

    人魚になんてならないで ✦ ✦ ✦

     乳白色のバスタブに沈むラファエルブルーの髪が、端からじわりと色を溶かして水が青に染まっていく幻覚を見る。実際は水は無色透明なままで、静かにたゆたっているだけだ。
     身に着けたままのシャツが水分に浸りきって肌に貼り付き、その白地から肌の色を透かしていた。健康的な肌の色。太陽の下が似合うその肌はいま水のなかで揺らめき、像をぼやけさせている。
     バスタブの横に運んできたイスに腰掛けて、バスタブに張られたちいさな海に浮かぶ青年を眺めている青年──日和の、シャルトルーズグリーンの髪がバスルーム特有の水気を多く含んだ空気に触れて、心なしかしんなりと萎れていた。肌にまとわり付くような感覚に煩わしさを感じて、指先で髪を払う。そのまま日和は、バスタブの海に浮かんだまま目を開けもしないでいる青年の肌に貼り付いている前髪を、たおやかな指先でそっとよけた。
     触れる肌のひやんとした冷たさに、なぜだか無性に悲しくなる。いつもは日和よりもずっと温かいぬくもりがつめたいことが、ただ悲しかった。
     日和の指先の感覚に触れた青年が、海のなかで目を覚ます。重たげなまぶたの下からゆっくりと覗いたのは、日和がこよなく愛してやまない光を多分に内包した、サンフラワー・イエローのひとみ。とろりととろける、花の蜜。緩慢な仕草でぱし、とまたたいて、のろりのろりと日和を見上げた。

    「……おひいさん、」
    「なぁにジュンくん」
    「まだいたんですか」
    「いるに決まってるね。ぼくがいたらなにか不都合なことでもあるの?」
    「いえ、そんなことはないんですけど」

     おひいさん、時間のムダじゃないですか。
     彼の名に負ったとおり、さざなみのようにやわらかでかすかな濤声とうせいにも似たこわいろでそう問われて。日和はきょとんと、ジュンが大輪の花束みたいだと呼称する花の色のひとみを瞠ってしまった。そんなことを思ったことは一度もないという驚きで。
     だから日和が思ったとおりに「ムダだと思っていたら、ぼくはここにいないね」と返してやる。今度はジュンが目を瞠る番で、そうすると普段の鋭い目付きが和らぐだけで彼は驚くほどに幼い表情になる。
     少ししてから「そうですか」と言葉を返して、ジュンは身体を反転させた。くるり。身にまとった衣服が、含んだ水の重さで円状の軌跡を描く。水面を叩いた両脚にまとわり付いたそれが、まるで尾ビレのようだと日和は思った。
     バスタブの縁に腕を乗せて、そこに顎を乗せて。こてんと首を傾げてジュンが日和を見つめてくるのに、日和は再度ジュンの髪を指先でかき混ぜて耳に掛けてやる。形のいい耳輪をそっと摘むようにかわいがるのも忘れずに。くすぐったがりのジュンはそうするとジトりと日和を睨み付けてくるが、日和が気にしたことは一度もない。ただ猫が毛を逆立てて威嚇してくるみたいで愛らしいなと思うばかりだ。
     日和はかすかに口元をくつろげて微笑むと、微笑みと同じくらいのかすかな声で訊ねる。

    「肌の痛みはマシになった?」
    「そっすね、乾いてなけりゃもう全然痛くないです」
    「それはよかったね。奏汰くんみたいなこと言うジュンくんにも慣れたと思ったものだけど、やっぱり痛がってるところを見るのは心苦しいからね」
    「あのひととオレは違うと思いますけどねぇ〜? まあ極論、ただの体質といえばそうなんでしょうけど」

     耳たぶをふにふにと揉み込む日和の手を咎めるように手首を握りしめて、ジュンの蜜の色のひとみが叱咤の色を混じえて細められる。仕方なしに手を離して、代わりに水面から離れている肩にバスタブのなかの水を掬って掛けてやった。
     しとり、しとりと濡れる肌。鍛えられた筋肉がやわらかな曲線を描くその肌が乾くのを、いまのジュンはひどく痛がる。ただ痛みを感じるのも常にそうというわけではなく、時折不意に、耐えられなくなるときがくるのだそうだ。
     母なる海から引き離された人魚のようだと、日和はその話をジュンから聞いたときに思ったことを覚えている。
     いつか還ってしまうのだろうか。日和を置いて。それじゃあお元気で、なんて言って。日和の手の届かない、息もできない世界に。
     日和はもう、ジュンがいなければこの世界で呼吸することすら苦しいというのに。
     どっちにしろ息ができない世界にしかならないのなら、手を引いて連れて行ってもらえばいいのだろうかと思って、瞬時にその考えを否定する。
     ジュンは人魚ではない。それに、もしそういう未来がきたとしても日和だって簡単にジュンを還してはやれないだろう。何度だってジュンに言ってきたのだ。「きみはぼくのもの」だと。そう易々と手を離してあげられるほど、日和の想いは軽くない。
     ぱしゃん。ジュンの脚がバスタブの海を叩く。尾ビレに似た衣服の下にはきちんと人間の脚がある。当たり前のことなのに、その〝当たり前〟にどうしようもなく安堵した。
     もう一度、今度は先ほどと逆の肩に水を掛けて、日和はこぼれる水滴に似た静かな声で請うた。あまりにも静かで、普段の日和からはかけ離れた声になってしまったがどうか許してほしい。誰とはなしに、もしかしたら神様なんかを相手に、日和は許しを請う。

    「泡になんてならないでね」

     ぼくから、ジュンくんをとらないでね。
     言葉に隠した日和の本当のこころに、誰も気付かなくていい。それでも日和は確かに願った。
     ジュンはその言葉を受けて、溶け落ちんばかりに相好を崩す。次いでそのちいさなくちびるからこぼれ落ちたのは、かすかなからかいを含んだ愛の言葉だった。

    「おひいさんがオレのこと、泡にさせないでくれます?」
    「ジュンくんのくせに生意気だね。そして強欲だね。ぼくのをねだるなんて。……でも、ぼくたちは一心同体のいきものだからね。ジュンくんがいないと困っちゃうし、いいよ。仕方がないから分けてあげる」

     人魚はひとの魂を、愛をもらい受けて、最後はひとと共に天国楽園へいけるようになるという。もしそれが真実なら、日和の魂も愛も、分け与える相手としてジュン以上に相応しい相手はいない。
     ぼくたちふたつに分け離たれた身体を持っているけれど、ひとつのいきものでしょう。なら、ぼくの魂も愛も、きみと同じ形がいい。きみにそれが不足しているというのなら、ぼくが分けてあげる。
     だから他の誰にも言わないでね。泡にさせないでください愛してくださいなんて。

     ぽたり。水に濡れたジュンのラファエルブルーの髪から水滴がバスタブの海に落ちる。水滴は確かに青く輝く海の色をしていて、透明なバスタブの水と混ざり合って溶けて消えた。
     ひやりと冷えきったジュンの指先に、日和の指先が絡む。縋るような仕草で。
     はにかむジュンは知らなくていい。この切り取られたバスタブのなかの海に、きみを閉じ込めて逃げられないようにしているのは。日和のエゴ恋心に他ならないのだと。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    💚💙👏👏👏👏😭😭🙏🙏♓♓🌊💘😭💚💚💙💙💚💙🙏😭😭💚💙💚💙👏👏❤😭😭🙏🙏😭👏💕♓💕👏💗
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works