玖 ヨコハマの港に程近い坂道を登ったその先。
煉瓦造の赤茶けたビルがある。
年季の入った建物で、強い潮風にさらされているために雨樋にも電柱にもくまなく錆が回っている。
一階には喫茶処のうずまき、二階には法律事務所、三階は空階となっており、四階に探偵事務所、その上の最上階は雑多な物置となっていた。
その四階に入っている探偵事務所は犬猫の迷子捜査や、浮気調査をする一般的な探偵とは違い、斬った張ったの荒事が領分の武装探偵社である。
ビルのエレベーターを使い、武装探偵社の入っている四階に一人の男が降りた。背の高い美丈夫である。皺一つはいっていない夜の海のような色の背広を着た姿は銀幕のスターであるかのようであり、しかし、それとはまた違った闇を思わせるものを纏っている。
簡素な毛筆で『武装探偵社』と書かれた額が飾られている扉の前に立つと、その長い腕を持ち上げて軽く握った拳で扉を叩いた。
「失礼。太宰君は在席かな」
扉を開けて滑らかなテノールで、男はそう告げながら武装探偵社に足を踏み入れた。
太宰を名指しした男の姿に、誰もが作業の手を止めて扉を見た。
さても武装探偵社。日常的にとは言い難いがそれでも、対応になれるくらいには襲撃を受けることがある。一瞬、誰もがそれかと身構えるも、入ってきた男に敵意は見受けられない。
「一体何ごとですか?」
しかし、珍しくも名指しされた太宰本人が胡乱げな表情を浮かべ、警戒を顕にしていればそれは社内全体に広がった。だが、それを受けた男はそんな状態を一切気にする様子もなく、親しげに太宰に微笑みを向ける。
「弟のことで話があってね。申し訳ないが時間を貰えるかな」
穏やかに話しているが、その男の立ち振舞から一般人でなはいことは読み取れ、国木田や宮沢は静かに腰をあげようとするのを太宰が視線で止めた。静かに走る緊張感の中、停滞していた空気を破ったのは帰社した中島と泉の登場である。
「ただ今戻りました。あれ?お客さんですか?」
不穏な空気を感じながらも、男の方に害意がないと中島が首を傾げて問うのに、太宰が返答しようと口を開こうとした瞬間。
「腕は鈍っていないようで安心したな」
男が何の気負いもなしに告げた声に、改めて視線と意識を向けた誰もが口を開け、ついで固く結んだ。
静かに男の心臓に短刀を突きつけ、男は泉の腕を掴むことで止めている。
太宰と泉の様子から男がポートマフィアの、それもそうとうに厄介な、人物であることを把握した国木田が、一つ呼吸を置いて声をかけた。男に害意も敵意も見られないのであれば、下手に騒ぎ建てしてことを大きくしたくないのが、本音だ。一応、半ば同盟のような不可侵条約を保ってはいるものの、明記されているわけではなく、何時敵対してもおかしくない間柄であるのだがら。
「探偵社への依頼ですか」
眼鏡のブリッジを抑えながら問えば、男は首を振る。
「いや。個人的な話になる。なかなか時間を取れなくて、上部時間内になってしまったのは詫びよう」
それとも業務時間として相談案件として依頼の体をなしていたほうが良いか、等と続ける男に国木田は返答に詰まった。そうしている間にも、泉は男の心臓を狙い、その腕は抑えられたまま。まずは、泉の手を放させる必要があると思えば、太宰が声を掛けた。
「鏡花ちゃん。大丈夫だから手を放そうか」
いつの間に移動していたのか、泉の肩に手を置いて太宰は穏やかに告げる。そんな太宰を見上げた泉は、なにか言いたげにしながらも、やがて手から力を抜いた。それを見届けて男も泉の腕から手を放す。
「下の喫茶店で良いですか?」
このままここで話すのは悪手だと太宰が提案をした。何より探偵社の人間に聞かせていい話をこの男が持ってくる筈がないという判断の上である。
「ああ。だが、その前に」
事務所を出ようとする太宰を止めて、男は泉の前に片膝をつき視線を合わせた。警戒を解かない泉の肩に手を置くと、穏やかに語りかける。
「何故、俺を殺そうとした?」
「貴方は危険だから」
「俺の何が危険なんだ?」
「ポートマフィアでも貴方の強さは桁違いだから。それに貴方が外に出るのはよっぽどのこと。だからこの場所を守るために殺そうとした」
そんな問答を受けて、男は呆れを隠すことなくため息を吐いた。そしてやや声に厳しさを乗せて泉に告げる。
「鏡花、よく聞け。お前が俺に攻撃を仕掛けたということは、逆に俺に武装探偵社を攻撃する口実を与えたことになる。よしんば、一撃で俺を殺せたとして、今度は俺の背後に有るポートマフィアが動く。その位の分別は付けなさい」
男の言葉に対して泉が反論しようとするも、それを視線で黙らせて男は続ける。
「そもそもお前では、一撃で俺を殺すことは兎も角、行動不能に陥らせれることもできないだろう。言っておくがお前の攻撃に対して俺が反撃していたら、今この場には死体しか残って居ないぞ」
脅しでもなく告げる声色にそれが事実になりうることをその場に居た誰もが理解した。そして、その実力がまごうことなく有ることを知っている泉は固く口を結ぶより他がない。
「お前に戦い方を教えたのは、死体の山を築かせるためではない。全く。そうして直ぐに殺して終わらせようとするのは元の預け先の影響かな」
この元預け先というのが芥川で有ることに太宰は気付いてなんとも言い難い苦笑を浮かべ、後に気付いた中島はどうにかしてその影響を消すことは出来ないものかと、四苦八苦するのはその後の話だ。
「殺さなければ殺される」
小さく反論した泉に男はうなずきを返す。
「それも一つだ。だが、確実に殺されないだけの強さがあれば必ずしも殺す必要はない。実際に数年前までポートマフィアには殺さないことを信条としそれを貫いた構成員もいた。何より君の元預け先は今、殺さずに仕事をこなしているだろう」
泉は短刀を握る手に力を込めて男を見た。
「なんでも殺して排除するという手段を取るのは弱い証拠だ。俺はそれ以外の方法も教えた筈だ」
弱いと断言され、俯く泉の頭に男は手を乗せる。
「力を振るうときは、自分の実力と周りの状況をきちんと判断しなさい。無闇矢鱈に振り回すものではない」
良いね、と念を押されて泉は小さく頷いた。それを見届けると頭を撫でて男は立ち上がる。
「待たせて悪かったね」
男はなんとも言い難い苦笑を浮かべている太宰の顔を見て、どこか懐かしむような昔をからかうような表情を浮かべた。
「ああ。君もなかなかに苦心して居たね。話題になっていたよ。あの太宰治が子供一人相手に四苦八苦していると」
「昔の話ですよ」
「直ぐに力で捻り潰そうとするのはポートマフィアの悪癖かな?森殿もなかなかに心労が溜まっていそうだ」
朗らかにする会話ではないのだろうが、ポートマフィアあるあるのネタなのだろうか。短刀を握りしめている泉の隣に移動しながら、中島は長身の美丈夫二人を見上げて少しばかり首を傾げる。そして、そう言えばあの芝刈り機の師が太宰であったなと思い出す。同時に泉の上司が芥川であったことも。
なんとも言えない顔をしていれば、その視線に気付いたのか太宰は中島と泉の頭を一つ撫で、男と連れ立って探偵社の扉から出ていくのであった。