離別 尾崎の執務室に通された中原は居心地の悪い空気をすぐに察して、やや緊張に引きつる頬をなんとか笑みの形にする。
艶やかに微笑みを浮かべている尾崎ではあるが、その背には般若を背負っているように見えた。
そういえば、般若とは女が鬼になった姿だったと余計な知識が頭をよぎる。
「挨拶に伺いました」
「私は認めておらん」
ですよね、とその姿からは思っていたが、真っ向から言われるだけまだマシなのかもしれない。
「ですから、挨拶に」
重ねて中原が告げた言葉に尾崎は微かに息を飲むと、深く吐く。
「挨拶か?」
「挨拶です」
それは中原が尾崎に納得してもらうように説明をするでもなく、決定された離別を告げに来たということ。
元より、中原は尾崎が納得するとも思っておらず、対して尾崎も中原が意思を変えることなど決してないと分かっている。互いに分かっているからこその挨拶であり、文句であるのだ。
「本当にマフィアの男は碌でもないものばかり」
心底告げる尾崎に中原はなんとも言えずに視線を彷徨わせる。
「それはまあ、マフィアですから」
ドアの前で佇んだままの中原のもとへ歩み寄ると、その手弱女な指で中原の顎をそれはもう力の限り込めて掴んだ。少々食い込む爪の痛みに声をあげず表情を保ったままで要られたのは、間違いなくこの眼の前の女の教育の賜物だろう。
「全く憎たらしい」
殺気にも似た覇気に中原の背に冷や汗が流れる。
ポートマフィアきっての武闘派で、どんな敵が来ても負けることなどないと言わしめる中原ではあるが、どう逆立ちしてもこの女には勝てようはずもない。同時に自分にとんと甘い事も知っているために、どれだけの事があっても最終的には負けてくれることも知っていた。
「私は決して許さんからな」
「重々承知してます」
「それでも行くのかえ」
「はい」
短く、それでも躊躇いを何一つ見せずに答えれば、一瞬だけ女の瞳が揺らぐ。
それでも、すぐにそれは消え険を抜いた尾崎は中原から手を離した。
「全く可愛げのない」
「俺も成人したんですしいつまでも可愛いはないでしょう」
「黙りや」
「はい」
ピシャリ、と言われれば反射で返事が口をつく。
尾崎は着物の裾を翻すと執務机へと向かった
「それで?挨拶に手ぶらで来るとは私も躾を間違えたかのう」
背を向けたまま告げる尾崎に中原は少しだけ視線を足元に向けて、口を歪める。しかし、すぐに持ち直すと伊達男を気取った笑いを浮かべた。
「まさか。姐さんには世話になりましたし。何もないはずはありません」
大股で進んだ中原は、尾崎の少し後ろから手にしていたものを机の上に乗せる。
「これは、姐さんに持ってて貰いたいので」
黒の紳士帽。
それは、中原がポートマフィアに加入した時に森に齎されたものであり、中原の出生に関わっていた蘭堂の持ち物だった物。
ある意味において、ポートマフィアの中原中也を象徴しているものであった。
なにも答えない尾崎に、中原は入口まで戻ると改めて尾崎に向き直る。
「お世話に、なりました」
深く。
深く頭を下げた中原はそれ以上は何も言わずにその部屋から出た。
それが尾崎との別れであった。