拾玖 山の中腹にある軍の療養施設。
一階建てのその建物は、療養所に相応しい広さを持っており、同時に軍の保有地であることを示すかのように、高い塀とその先にある有刺鉄線にて確りと囲まれている。そんな外壁の至る所には監視カメラも設置されており、療養所というには物々しい警備体制だ。
最も、山の中腹に建てられているのだから道が整備されているとはいえ、人が迷い込んでくることもなければその不自然さに気付かれることもないだろう。
暗緑色のライダースジャケットは、夜の闇、況してや木々に囲まれていれば視認は難しい。労せず近くまで来た中原は鬱蒼と茂る木々の合間から一通り眺めた後、ゆったりとした足取りで舗装された道を進み始めた。
正面門を前に足を止めると、センサーが感知したのか一斉にライトが中原を照らし、同時に守衛の軍人が銃を構えて中原に声を掛ける。ここを離れる様に告げる警告ではなく、捕獲しこちらの目的を尋問するためのこちらに静止と捕縛を了承させるための言葉を無視してさらに足を進めると、威圧を掛けるための射撃が中原の足元を狙う。
アスファルトを銃弾が焦がし、抉る様を見て中原は足を止めた。
軽く両手を上げて守衛の言う言葉の通りにゆっくりとそちらに向かいながら、一週間前。森へと辞表を出したことを思い出していた。
「辞表、ねえ」
いつもの執務机に腰を掛けた森は何とも言い難い苦笑で、中原に渡されたその一枚の紙を手にする。
「マフィアにこんなものが要るとは思ってはいませんが」
「うん。太宰君だろうね。こんな面白いことを思いつくのは」
「頭がいいだけの馬鹿の代名詞です」
「うん。それで状況はある程度把握しているよ。私としてはこれは受け取りたくはないんだけどねえ」
「済みません。けど、これは俺の中でのけじめでもあるんで」
「中也君」
森は穏やかな中に冷たい音を含ませて、中原の言葉を遮った。
「私は今のポートマフィアを大事に思っている。それは構成員も含めてだ」
執務机に置かれた辞表を白い手袋を付けた指先で軽く撫ぜ、森は穏やかに見える笑みを浮かべた。しかし、視線は怜悧であり中原は背を正す。
「こんな組織であれば多少の損失は受け入れざるを得ないことは分かって居るけど、同時にその損失は最小限に収める義務が私にはある」
指が辞表を叩いた。
三度。
その硬質な音が響いた後、沈黙が訪れる。
森は何も言わず、動いても居ない。
それでもその沈黙は重く固く、中原を押さえつけた。ただ、静かに微笑みを浮かべて森は中原を見ているだけ。だと言うのに首元をナイフで抑え込まれているような息苦しさを覚えた。
中原は森と初めて邂逅した時のことを思いだす。まだ組織がどんなものなのか、何一つ理解していなかった時分だ。
中原はそんな森を前に恐怖よりも感動を覚える。
ポートマフィア首領 森鴎外
七年前に膝をついた日から、中原が忠誠を掲げてきた存在。
このヨコハマの暗部を統べる人間だ。
「当然のことだけど。ポートマフィアとしてこれは受け入れることはできない」
決して荒げているわけではない、穏やかな語り口。
しかし、その声が耳に入った途端、中原は砂浜で足を波に浚われ、そのまま深い海底へと落とされた感覚に陥った。
「分かっていると思うけど、君はポートマフィアの幹部だ。それも重要なポジションに居る。個人的な都合で勝手な行動が許される立場ではない」
柔らかい口調でありながら、重たい音で森は中原を押さえつける。決して反論を許さぬ声に、中原が短く息を吸った音が反響した。
微笑を浮かべている森に、中原は吸った息を腹に飲み込み力を入れる。
尊敬し、忠誠を捧げた相手ではあるが、中原もここで折れるわけには行かない。腹は括って来た。
「解って居ます」
たった一言を放つだけでもかかるプレッシャーは重たいものである。それでも、中原は怯むことなく真っ直ぐに森を見据えた。
「解っている、ねえ」
頬杖をつき、指を組んだ上に顎を乗せて森は静かに笑みを消す。
ひたりとただひたすらに冷たい視線が、じつと中原を見据えた。
その瞳に浮かぶのは、まさにこの横浜の裏社会そのものの闇。蠢く無数の謀略と暴力がその瞳の中にはあった。
そして、その瞳の中には中原も居る。この森の抱える闇の中に中原も確かに存在していた。
「首領」
だからこそ。
中原は強い意志を込めて森を呼ぶ。
だがその先に続く言葉は持ち合わせてはいない。どんな言葉であったとしても、それはただの言い訳にしか過ぎなかった。
だからこそ、たった一言。
それだけで十分な筈だ。
「俺は、ポートマフィアを抜けます」
強い意思を、声と瞳に乗せる。
中原が森に示せるのはただ、それだけである。
暫しの沈黙の後に森は表情を緩めた。
「ポートマフィアとして大きな痛手になるねえ」
柔らかい声で苦笑を浮かべた森が答えた。
ハイバックチェアの背もたれに身を預けた森は、先程までとは違い苦笑の中に困ったような色を乗せ、眉を下げる。
「太宰君も絡んでるし、君も意思が固い。止めようと思ったらそれこそ大きな損害がでる」
大きなため息をこれみよがしに吐い森に、中原は居心地の悪さを覚えて頬にを引きつらせた。
「仕方ないねえ、こればっかりは」
柔らかい微笑をもって、森は中原を見つめる。
「申し訳ありません」
一つ頭を下げる中原に、森は辞表を指で軽く叩く。
「これは預かるだけにしておこう。君が戻って来たら破棄できるように」
やんわりと告げられた言葉に中原は一瞬固まり、ぎこちない笑みを返した。
「首領にお任せします」
そんな中原に森は優しく告げる。
「気を付けて行ってくるんだよ」
分かった上で送り出した森には感謝しかない。
軽く俯いて笑みを浮かべた中原は、守衛の眼の前に立つと向けられた銃口を握り、銃ごと宙を回せると地面に叩きつける。
「何をしている!」
もう一人の守衛が引き金を引く音を聞きながら、中原は足を上げた。銃口を空へと向けさせた足はそのまま更に高く上がり、次いで勢いよく落ちる。踵は守衛の被っていたヘルメットを砕きながらその頭へと落ちた。
閉じられた鉄の門を破壊すれば、侵入者に施設内の警報がけたたましく鳴り響く。赤の警告灯が派手に回転するさまを見て、中原は口端を凶悪に歪めて告げた。
「さて、派手になったことだし、ロックの一つでも流しておきてえな」