蛇足 少年は研究室の扉を開ける。
「先生、今日のデータ持ってきました」
「ありがとう」
入って直ぐにミーティングができるように並べられた長テーブルと椅子。ちょっとしたおやつ菓子と、ブリザードフラワーのミニポッドが質素な部屋を少しばかり柔らかくしてくれていた。
「ついでに珈琲を頼んでもいい?」
「はーい」
「返事は?」
「はい」
パテーションで区切られた奥からの声に小さく肩を竦めて返事をし直せば、小さく笑った声が聞こえる。少年はその声に少しばかり不貞腐れた顔を作りつつ、壁際の棚に置かれた珈琲メーカーの準備を始めた。棚の横にある小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、珈琲メーカーに注ぐ。ついで、引き出しからフィルターを取り、底と脇を畳んで濾し器にセットした後、珈琲の缶を開けて擦り切り一杯。
準備をしてスイッチを入れれば独特の機械音がなり、珈琲を作り始めた。
「もう少し待ってて」
「うん」
頷きを返して少年は椅子を珈琲メーカーの前に持ってくると、頬杖を突いてじっとその珈琲が落ちる様を眺める。
この研究所の研究員ではない自分には見せられないものが多くある、とは幼少より聞かされていた。だから許可がないうちはパテーションの向こう側に行くことはないし、恐らく許可が降りることはないだろうと言うのもわかっている。
それでも卑屈にならずに済んでいるのは、この研究所内でもそれぞれの場所に入る許可にはランクがあることを知っているからだ。自分に体術の基礎を教えてくれている警備の人間達などはそもそも、有事の際でもなければ研究所内に足を踏み入れることはないと笑いながら言う。以前に興味は無いのかと聞けば
「知るっていうのには責任が伴う。私達が知るべきはここが軍の護るべき施設であると言うことだけであり、そして私達にとっての責任もそれだけ。施設の中に足を踏み入れ、私達の預かり知らぬことを知ってしまえば、職務以外の責任を背負うことになる。それは、とても面倒なことだ」
と返ってきた。
正直、その意味は正確にはわからないけど、言わんとすることはわかる。だから少年は自分が許されている範囲でしか行動しないし、それに関してできる限り首を突っ込まないようにしていた。それに、こうして待っている時間は嫌いではない。
青く暗い闇、硝子の向こう側に行き来する人の影。何も聞こえない静謐なあの空間はそれはそれで安心できる物だったが、今はこうした湯が沸く音、珈琲が落ちる音、パテーションでの向こうでキーボードを叩く音が、淹れたての珈琲の香りが漂ってくることが、少年にとってその全てが当たり前でいて新鮮なままだ。
少年が一度、ポッドの中の安心感を説明した時、先生は
「あれは人口子宮だから、それはそうじゃない?」
と少し言葉を選ぶのに悩む素振りで苦笑しながら答えたのに妙に納得したのは何時だったか。
人ではない。
けれども人である。
そんな矛盾を抱えながらも、その矛盾を否定されることなくそれがそのままの自分なんだとそう育てられたのは、幸運だっただろう。二人の先達を見てからだ。
人か否か。
自分たちに取っては永遠の命題。それでもそれを負として背負わずに済んだのは、この環境のおかけだ。
だからこそ。
少年はテーブルに置かれたファイルを横目で見る。
自分に与えられた責任は確りと果たす。
それだけだった。