恥晒し「悟?」
は、とその声で意識が覚醒した。声の主を見て、悟は、包帯の下でつい目を瞬かせた。
「傑……」
目の前にいたのは、間違いなく傑だった。あぁ、夏油傑、たったひとりの親友、最悪の呪詛師。それがどうしてこんなところに? そもそもここはどこだ?
悟は妙にふかふかしたソファで眠っていたらしかったが、高専にこんな良いソファは無かったし、それなら傑が目の前にいるのはおかしかった。傑も同じような椅子に座って、悟とちょうど向かい合っていた。ここは、どこなんだ、と悟は部屋を瞬時に観察する。
「なにも無いね」
傑の言う通り、この部屋にはなにも無かった。白い壁、白い床、ふたりが座るソファ、以上。監禁部屋にしたって、あまりにひとの心が無いというものだ。
傑の溜息が聞こえる。
「その様子だと、悟にもこの部屋に心当たりは無い、か。すると」
傑がひらり、と一枚の紙を提示する。
「この紙の信憑性も増す」
悟はそれを指先で受け取り、並んだ文字列を読み上げた。
「『一八〇分以内に抱擁しなさい。さもなければ、一生この部屋からふたりとも出ることは叶わない。』」
「馬鹿馬鹿しい」
傑が首を振ると、その一房の後れ毛がゆらゆら揺れる。
「同感だ」
「しかしね、事実この部屋にはひとつ、ドアがあるんだけど」
ぴ、と傑の長い指が指し示した場所には、確かにドアがあるらしかった。傑がすっくと立ち上がってノブに手をかけるが、開く気配は微塵も無い。
「この通り、開かない」
「こじ開ければ良いだろ、ご自慢の馬鹿力で」
「悟、久しぶりに会った親友に対してその口ぶりはどうなんだい? まぁ良いけどね。そのことなら、勿論試したよ」
「なら僕がやろう」
「よろしく」
傑とすれ違うとほんのり香の匂いがした。傑は入れ替わるようにソファに座って、肩越しに悟に目を向ける。悟は些かの落ち着かなさを背中に感じながら、ノブをひねるが、確かに開かない。このノブには鍵穴は無く、もしや反対側からしか解錠が叶わないのかもしれないな、なんてことを思った。
「……傑」
「うん、そうだね」
「まだなにも言ってないだろ」
「わかるさ、悟の言いたいことなら。私と君のどちらによって張られたわけでも無い帳が下ろされている。違うかい?」
違わなかった。悟は溜息そこそこ、ソファに戻る。
「僕に教祖様とハグしろって? ごめんだね」
「つれないなぁ悟は。昔はあれだけじゃれついてきていたというのに」
「ひとを獣みたいに言うなよ」
「君はさしずめ大型犬と言ったところかな。はは、首輪も良く似合いそうだし」
「傑」
「ごめんごめん」
傑は降参と言ったように両手をほんのり上げて見せる。
「けれど、そう意地も張っていられないだろう。私にも君にも、帰るべき場所があるし果たすべきことがある。こんな部屋でうつつを抜かしている場合じゃ無いはずだ」
「だからハグしようって?」
「私としては満更でも無いのだけれどね。最強の呪術師として名高い君と抱擁を交わせるなんて」
「馬鹿にしてるのか」
「まさか」
傑はきゅっと目尻を上げるように笑う。その狐みたいな笑い方、変わらないな。
「……嫌だね」
悟は頬杖をついて傑から目を背ける。傑は「おやおや」と困った教師のような声を出した。
「そんなに嫌なのかい?」
「嫌だ」
「外に出られないことと天秤にかけても?」
「出る方法はある。そんな馬鹿げた条件に従わなくたって良い」
「現状詰んでるじゃないか」
「今から考える」
「……まぁ、時間内に済ませれば良いだけの話だからね」
傑は肩を竦めながらソファに座り直した。悟は考えるふりをしながら、傑を盗み見る。
五条袈裟に身を包んだ傑は正直胡散臭かった。あの頃となにも変わってないですよと言いたげに目を細めているが、お前はなにもかも変わってしまった、否、変わっていったことに気がつけなかっただけか?
親友、唯一無二の親友、青春を共にした親友。あの頃のお前は死んだのに、こうして再会すると生きていることをまざまざ思い知らされる。悔しい。悔しくて堪らない。お前の姿を久しぶりに見たとき、心が躍ったなんて言えない。
だから、ハグなんてしたく無い。
「考えはまとまったかな、五条先生」
傑がくっくと喉の奥で笑いながら尋ねてきた。悟は噛みつけかけて、無視する。
「そんなに嫌悪されるとは思っていなかったな」
傑の語尾に少しだけ滲んだ寂寞を悟は聞き逃さなかった、少しだけ心が痛んだ。傑のことを目一杯抱き締めて、帰ってこいよ、と囁きたい気持ちをぐっと抑えた。これからもずっと一緒にいたかったし、その思いは今でも沸々と心の中にあった。
「……傑」
悟の心にあるひとつの閃きが舞い降りる。
「なんだい」
「僕は、お前のことを大切な親友だと思ってる」
「うん」
「お前と過ごした時間は宝物だし、お前と過ごせなかった時間は空っぽみたいだった。言い過ぎかもしれないけど、そのくらい傑のいない時間は、寂しかった」
そう、と傑も少しだけトーンの落とした声で奏でる。
「傑、俺は」
包帯の隙間に指をかき入れて、紛れもなく瞳で、傑を見た。
「お前とずっと一緒にいたいと思ってる」
「それは……」
傑が少しだけ思考する。そして、はっと笑った。
「なるほどね。君は、私が思っているよりも私のことを、」
「言うな」
ぴしゃりと言い退けた悟に傑は、おぉ怖い、と目を伏せる。
そうだよ傑、俺は思ってるよりずっと、お前のこと。
言えない。
「……私と、ずっと一緒にいるかい?」
傑は挑戦的に悟を見つめた。その目は自信に満ち溢れていた。悟は応えるように傑を見つめ返した。組んだ脚がぶつからない程度の距離を、視線がずっと交錯していた。
傑が静かに立ち上がり、悟の前に立つ。こんなにも他人から見下ろされるのは新鮮だった。
「悟」
傑の静かな呼び声に、きゅう、と胸が押し潰される心地がした。その間に傑は悟の脚の間に膝を位置させ、のそり、なんて音と共に悟に近づいていた。
「それも、悪く無いね。でも、私、私はね……」
やっと傑がなにをしようとしていたかに気がつき、悟は反射的に傑の腹のあたりに手をやった。押しのけるにはもう傑は近づき過ぎていた。
「傑」
「うん、ごめんね。君が嫌いなわけじゃない。寧ろその反対さ。だけど、君の頼みとはいえ呑めないこともある」
妙に姿勢の良い悟の身体に手が這って、背中に回る。見上げた傑は、にこ、と小さく笑った。
「また、今度はちゃんと会えると良いね」
「傑、」
ふわ、と身体が近づいて、頬が掠めた。後れ毛が顔の前に垂れ下がった。香の中で確かに、傑の、匂いがした。
す、と傑が息を吸う音すら、聞こえる。
「……悟」
「あ、」
ど、と心臓が跳ねて。
お前に呼ばれることが世界で一番すきだなんて、看破されて、僕は、俺は。
……かしゃり、儚く鍵の解けた音がした。